三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (8) 近付く決戦の時
東西の主力が伊勢・美濃・尾張に集結する中、地方でも動きが見られた。
前田利長率いる前田勢が南下した北陸方面では、八月三日に越前・敦賀へ戻った大谷吉継が対策に追われた。南加賀から越前の諸将は西軍方に染まっているものの、青木一矩(北ノ庄二十一万石)・丹羽長重(小松十二万五千石)を除けば五万石以下の小身ばかりで二万を超す大軍の前田勢に対抗するのは難しかった。このままでは各個撃破され、前田勢は近い将来近江に到達してしまう。強い危機感を抱いた吉継は『上杉景勝が越後を取り戻した』『畿内から家康方を排除した』『大谷吉継が越前に向かっている』『大谷勢の別動隊が船で金沢を目指し海から奇襲を企てようとしている』など虚実入り混じった情報を流した。越後では上杉家旧臣や上杉方の煽動で一揆が起き各地で戦闘はあれど一進一退の攻防が続いており、大谷勢の別動隊の話は真っ赤な嘘だったが、海から攻められる事を想定していなかった利長は大いに動揺した。八月五日には青木一矩の北ノ庄城や青木宗勝の丸岡城を包囲していたが、八日に金沢へ一旦引く事を決めた。
しかしながら、この撤退には一つ問題があった。攻略するのに時間を要するとして後回しにしていた丹羽長重の小松城だ。退却戦は逃げる方より追いかける方に勢いがあることから難しいとされ、前田勢は丹羽方に悟られないよう秘密裏かつ迅速に小松を抜けようとした。が、前田勢は二万を超す大軍、程なくして丹羽方に知られてしまった。
八月九日、小松城の東にある浅井畷を通過している前田勢に、待ち伏せしていた丹羽勢が攻撃。畷とは“縄のように細い道(手)=縄手”で、大損害を出しながらも何とか丹羽勢を撃退し、利長はどうにか金沢へ帰還した。
金沢へ戻った利長は海を進む大谷勢に備えて守りを固めたが、情報を集めたところ偽情報と判明。再度出兵しようとするも、今度は能登を預かる弟・利政が家康に味方する事を好しとせず非協力的な姿勢を見せ、その対応に追われた。
片や、奥羽方面。城主不在の間隙を突いて白石城を奪取した伊達政宗だが、上杉景勝に南進の兆しが見られない事から内心焦りを覚えていた。元々家康率いる征伐軍に対抗すべく大量の戦力を抱えていた上杉勢の矛先が伊達の方に向かれては到底太刀打ち出来ず、おまけに頼みの綱である家康と諸将達は来た道を引き返してしまい、押さえに残された結城秀康を大将とする一万の兵も宇都宮から動こうとしない。戦況不利を悟った政宗は上杉家へ和議を申し込み、景勝もこれを受け容れた。この時、『(この時関東侵攻は考えていないが)上杉家が関東へ攻める折は伊達家が先陣を務める』という屈辱的な条件を呑まされている。
目の上の瘤だった伊達政宗を(形式上)降した上杉家は、次の標的に向け準備を進めた。
他方、九州方面も動きがあった。豊後中津に居た黒田如水は西軍挙兵の報を受け、領内から兵を募集。如水は吝嗇家だったが、募集に際し今まで貯めた銭を城の一角に積み上げて志願してきた者に支度金として渡したのだ。中には列に並び直して二重に受け取ろうとする不届き者も居たが、如水は“大事の前の小事、それでしっかり働いてくれるなら構わない”として目を瞑った。こうして留守居の兵と合わせ九千の軍勢を掻き集めた如水は、一世一代の大勝負に打って出ようとしていた。
また、丹後では落城寸前に追い詰められた田辺城は依然決着がついていなかった。幽斎の弟子である八条宮智仁親王が七月・八月と二回講和を促すも、幽斎は謝絶。討死覚悟で籠城戦を続ける意思を示した。古今伝授の継承が途絶える事を何より恐れた公家や皇族、さらには後陽成天皇も説得に乗り出し、寄せ手も包囲こそ続けるも攻撃は停止せざるを得なかった。
それぞれがそれぞれの思惑を抱いて動き、終息した乱世の息吹が蘇ろうとしていた――。
家康と上杉征伐に参加している諸将達は『(共通の敵である)石田三成を討つ』という点で一致していたが、八月も半ばを過ぎた頃からギクシャクし始める。総大将の家康が江戸に留まったきり、東上しようとしないのだ。
ただ、家康の方にも動けない事情があった。一つは、会津の上杉景勝の動向。南進に備えて武将として名を馳せる次男・結城秀康に一万の兵を預けて対策するも、決戦に向けて江戸を離れた隙に関東へ雪崩れ込まれる不安を拭い切れなかった。
二つ目に、常陸の佐竹義宜の動向。上杉討伐にも加わる義宜は領国から会津へ攻め込む方針とされ、その準備を進めてきた。しかし、大坂で家康討伐の兵が挙がった為に上杉征伐は中止、家康は軍を反転させると共に義宜へ(上杉勢を牽制する目的で)会津に出兵するよう命じた。しかし、佐竹勢は家康の求めに応じず領内に留まっていた。義宜は豊臣家と誼を通じた際の窓口が三成だった事から懇意にしており、前年の七将襲撃事件の折も危険を顧みず匿い、今回の上杉征伐でも上杉方に与する密約を交わしていたとされる。上杉勢だけでなく佐竹勢も寝返る可能性がある以上、軽々に動く訳にはいかなかった背景がある。
三つ目に、敵方の切り崩しや味方の引き留め工作に家康が忙殺されていた。これは家康にしか出来ない事だが、状況が刻一刻と変化しており味方は一人でも多く・敵は一人でも少なくしたいので必死だった。実際、九月十四日までに八十二名の大名に対し百五十五通、家臣へ宛てて二十通の手紙を書いている。
四つ目、これこそ一番の決め手で……豊臣恩顧の武将達が本当に戦ってくれるか、家康は懐疑的だった。上杉征伐に参加していた諸将の大半をそのまま家康を大将とする三成打倒の軍に転換させるも、時間の経過した今でも心変わりしてないか確信を持てずにいた。徳川勢の主力は中山道を進む中、一番恐ろしいのは両軍激突の場で味方が働かなかったり寝返る事だ。裏切らないという確証が家康は欲しかった。
このように、幾つかの要素が重なり江戸から出発出来ずにいた家康だが、いつまで経っても動こうとしない事に諸将の中で不満を口にする者も出始めていた。その急先鋒こそ小山の軍議で打倒三成を逸早く表明した福島正則で、家康の態度如何によっては東軍に鞍替えする事も辞さないと口外して憚らなかった。別に正則が我儘を言っている訳ではなく、『豊臣家の家臣同士で戦わせた後に、遅れて到着した家康が美味しいところを攫うのではないか』とする疑念が根底にあった。それを家康に近しい立場の黒田長政や軍監として先行していた本多忠勝・井伊直政が何とか宥めていたものの、雰囲気は最悪だった。
東軍が最前線で空中分解しかねない状況で、江戸から家康の使者として村越直吉が送られてきたが……その直吉の口から諸将達に向けてとんでもない発言が飛び出した。
『各々方が出陣しないから殿(家康)は出陣されない。まず行動をされては如何か』
家康が来ない事に苛立ちを募らせていた諸将達へ火に油を注ぐ内容に、長政や忠勝・直政は息を呑んだ。返す刀で離反を叩きつけられてもおかしくない、凍り付いた空気を吹き飛ばすように豪快な笑い声が響いた。その声の主は――福島正則である。
『成る程、内府殿の申す通りだ。村越殿、いつまでこちらに居られる』
『役目は済んだので、今日中に発つ所存』
『そう急がれるな。我等の働きぶりをご覧になられてから戻られるがよかろう』
そう宣言した正則は席を立った。最悪の事態を覚悟していた三人は口をあんぐりと開けたまま固まっていた。
直ちに出撃準備を整えた諸将は清州城から出陣。目指すは美濃国の最重要拠点・岐阜城。
家康から先陣を託された福島正則・天正十三年から五年間岐阜城主を務めた池田輝政の両名が先鋒となり、尾張国内を北上。美濃国境に達した東軍勢は二手に分かれた。美濃城主・織田秀信も東軍の侵攻に備えて兵を置いていたが、多勢に無勢で突破。二手に分かれた福島・池田勢は途中で合流、後続の部隊と合わせて岐阜城を目指した。
八月二十三日朝、東軍が岐阜城攻めを開始。秀信は岐阜城へ続く登山道四箇所に部隊を配置したものの数的不利や勢いづいた寄せ手を止められず、本丸を残すのみに追い詰められてしまった。敗戦の責任を取り自害しようとする秀信は家臣や敵将・輝政の説得で降伏、城を明け渡し浄泉坊(現在の円徳寺)で剃髪・謹慎した。美濃の最重要拠点である岐阜城が僅か一日で落城する結果となった。
なお、岐阜城の後に西軍内で一悶着あった。東軍が長良川を渡り進軍する動きを見せると、三成は大垣城へ戻ろうとした。しかし、この時岐阜城の後詰に出ていた島津豊久の部隊が墨俣にまだ残っており、敵中で孤立する形となっていた。島津家の家臣達は三成の馬の轡を取って考え直すよう迫るも、三成はその制止を振り切って去って行った……と『新納忠元勲功記』に記されている。幸い豊久は無事に戻ったものの、島津勢の三成に対する心象は著しく悪化した。補足ながら、三成も流石にこの対応は拙いと思ったのか帰って来た豊久一行を単騎で出迎えるなど精一杯の埋め合わせをしているが、信頼回復には程遠かった。
堅城で知られる岐阜城が一日で落ちた事は三成も家康も大いに慌てた。岐阜城を軸に防衛線を張ろうとしていた三成の目論見は大きく崩れ、予想を大幅に上回る速さで諸将が西上してきた為に大垣城を始めとする美濃には兵数が少なかった。三成は直ちに伊勢・北陸方面の部隊に美濃へ向かうよう要請を出した。
片や、八月二十七日に岐阜城落城の報を受けた家康は、このままだと自分抜きで三成が討たれかねないと危機感を抱いた。“豊臣家内部の諍い”ではなく“徳川家主導の天下獲り”にしたい家康は諸将達に自分が到着するまで自重するよう指示を出すと共に、大急ぎで西上する支度を整えた。九月一日に江戸を出発した家康は東海道を急いで西に進んだ。
本当に戦ってくれるか分からず嗾けたが故に事態は急展開し、三成も家康も翻弄され神経を磨り減らすこととなる。




