三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (7) 邪とは無縁な男
それぞれの思惑や利害が複雑に交錯し戦が起こる中で、八月五日に大津城の高次を訪ねて来た人物が居た。
「石田治部、だと?」
取次から伝えられた名に、思わず聞き返す。
石田三成と言えば現在こそ無役だが五奉行に名を連ねた大物で、今回の家康討伐でも主導的な役割を担っている。美濃方面へ進出する任務がある実質的な大将だが、どうして高次に会いに来たのか。
「はい。『佐和山へ戻る途上、大津宰相様へ是非ともお目通り願いたい』と」
高次が秘かに進めている離反が漏れたかと一瞬警戒したが、取次の言葉からはそうした感じは含まれていない。
「……如何致しましょうか?」
困惑顔で訊ねてくる取次に、高次もわざわざ足を運んだのに追い返しては怪しまれると判断し、広間へ通すように伝えた。
支度を整えて広間に入った高次を、色白でやや小柄な男が頭を下げて待っていた。額と後頭部が突き出る特徴的な頭の形をしている。
「大津宰相様に於かれましては、突然の来訪にも関わらず対面して頂き、真にありがとうございます」
型通りの挨拶を述べ、所作に則り頭を上げる。戦時中というのもあり見慣れた裃姿ではなく鎧に陣羽織の恰好をしている。心なしか、以前より頬が痩せたように高次は感じた。
石田“治部少輔”三成、永禄三年生まれの四十一歳。近江国石田村を地盤とする土豪・石田正継の三男(長男は早世していた為実質的に次男)で、幼い頃に寺へ入った。
転機が訪れたのは、天正年間に入ってから。浅井家滅亡に大きく貢献したとして浅井家旧領を与えられた羽柴秀吉は、脆弱な家中運営を支える有望な人材を領内から探し出して積極的に採用していた(これは他所者の秀吉が領民の心象を良くする融和の一面も含まれていた)。その一環で、父の正継や兄の正澄と共に仕官し、三成は秀吉の小姓を務めるようになった。
三成と秀吉の出逢いは“三献茶”と呼ばれる逸話が有名だが、その寺が何処なのか分からなかったり、秀吉に仕え始めたのは姫路時代になってからとする説もある事から、後世の創作の可能性もある。
秀吉の中国攻めにも同行し、小姓として補佐したとされる。小姓は主君の身の回りの世話や秘書のような役割だが、次代を担う逸材を育成する側面もあった。織田信長に堀秀政や蒲生氏郷、徳川家康に井伊直政、上杉謙信に直江兼続、武田信玄に真田昌幸……といった具合に、御家を支える傑物を輩出した例も珍しくない。秀吉の下には虎ノ助(加藤清正)や市松(福島正則)など腕っ節の強い者も多かったが、頭の切れる佐吉(石田三成の幼名)や紀ノ介(大谷吉継の幼名)などは秀吉の側で政の手伝いをさせられる事が多かった。信長亡き後、権力を掌握していく秀吉と共に三成の存在感も高まっていくこととなる。
算勘に長け行政能力にも秀でていた三成は戦の際の兵站を滞りなく円滑に運ぶよう計画を立て実行に移し、豊臣家の天下統一事業に大きく貢献した。ただ、怜悧な性格や言葉数が足らないなど幾つかの要素から“人情味に欠ける”“主人の威を借る”と誤解され、“へいくわい(平懐者)”“才槌頭”と陰口を叩かれ家中に多くの敵を作っていた。
主君の秀吉がそうだったように、武功を挙げていない者はどれだけ優秀でも軽んじられる風潮が戦国の世の常識だった。自らに足りない点を自覚していた三成は天正十四年一月に二万石の大禄で筒井家旧臣・島“左近”清興を召し抱えた。清興は松倉“右近”重信と共に筒井家を大和国を代表する家に押し上げた実力者で、筒井家を辞した後は仕官の誘いが多数押し寄せた程の傑物だった。気苦労の絶えない宮仕えに飽き飽きし隠棲していた清興を口説き落とした三成は、当時水口四万石の身。禄の半分を捧げた事になる。ただ、この逸話はあまりにも出来すぎた話で後世の創作が極めて高い。しかしながら、清興が三成の家臣となったのは紛れもない事実で、秀吉の死後に暗躍することとなる。他にも舞(前野とも)“兵庫”忠康や蒲生頼郷(横山喜内とも)、渡辺勘兵衛(“新之丞”とも。同姓同名の渡辺了とは別人)など他家の勇士を多く召し抱え、有事に備えていた。また、三成の居城・佐和山城は五層の天守を設けるなど一見すれば立派だったが、板張りの床に粗壁・庭園に植えられていたのは竹(有事の際は矢や竹束の材料になる)と外観に反して簡素かつ実用性に重きを置いたものだったとされる。
その三成、七将襲撃事件では世間を騒がせた責任を負い失脚させられたが、豊臣家を脅かす禍根と睨んでいた家康を排除する千載一遇の好機を逃さず復権。総大将に毛利輝元を据えているが、反家康の一大勢力を作り上げ動かしているのは実質的な大将である三成に他ならない。上杉征伐に向かった軍勢が西上するのに備えて美濃方面へ進出する任に就くべく、軍勢を用意する為に佐和山へ戻る途中での来訪だった。
齢は高次の三つ上と比較的近いが、ここまでの境遇や立ち位置は全く異なる。秀吉に見出され豊臣家の中枢に長く居た者と、名門の血筋と閨閥だけで身の丈を上回る扱いを受ける小大名。さて、三成はどう思っているのか。
「宰相様には難しい立場にありながら我が方に味方頂き、感謝しております」
言うなり深々と頭を下げる三成。その態度に高次は大いに驚いた。秀吉存命時は居丈高な態度で絶対に頭を下げない印象が強くあっただけに、劇的な変化である。以前までの三成なら『豊臣家の臣なら従って当然、寧ろ迷っている時点で忠義心を疑う』と思っていても不思議でないだけに、感謝を述べるとは。
「……やはり、頼みとなるのは一門の方々であると、この治部痛感しております」
頭を上げた三成はしみじみと溢す。その発言に高次は意外に感じた。
秀吉に待望の嫡子である鶴丸を授かってから、他の血縁者の排除に乗り出したのは他ならない三成だった。秀吉の弟・秀長が病死すると大和豊臣家の家督を継いだ秀吉の甥・秀保が文禄四年四月十六日に急死したのも三成が裏で糸を引いていたとする噂があり、同じく甥・秀次に奇行や悪評が聞こえてくるようになると粛清するよう強く進言したのも三成とされる。正統な後継以外は認めないとしてきた三成からこうした発言が出るのは俄かに信じ難かった。
「伏見城に在番しておられた若狭宰相(木下勝俊)様も戦が始まる前に城を出られましたし、木下宮内(利房)様も味方となられ越前へ発たれました。金吾(小早川秀秋)のようによく分からぬ者も居りますが、血縁の者は信に置けます」
勝俊・利房・秀秋の父である木下(旧姓杉原)家定は北政所の兄に当たり、身内の少ない秀吉にとって貴重な親類である。秀吉の姉・智の子(秀次・秀保)は粛清されたが家定の係累は無事だった。此度の戦では実質的に隠居していた家定は北政所の警護を大義に中立を保ち、勝俊は始め東軍に属し伏見城へ入るも戦いの前に城を出て(一説には鳥居元忠から追い出されたとも)西軍に転じ、弟・利房と共に前田勢南下へ備えて北ノ庄に向かっている。秀吉の養子となった後に小早川家へ養子に入った秀秋は東軍方として伏見城へ入ろうとするも元忠に拒まれると、伏見城攻防戦に参加したが病と称して近江や伊勢で静養するなど去就が定かでない。ただ、何れも西軍に属している事に間違いない。
三成は血縁こそ頼みと語るが、果たしてそうだろうか。北政所の義兄・浅野長政は江戸に留まり、家督を継いだ幸長は三成襲撃にも加担し上杉征伐にも従軍している。高次も今でこそ西軍に属しているが本当のところは東軍方だ。一門だから味方と安直に決めつけるのは如何なものかと思う。
高次の心中を知らない三成はさらに続ける。
「それに比べ……豊家に尽くす想いを持つ者がなんと少ないことか。備前中納言(宇喜多秀家)・大谷刑部・小西摂津(行長)に会津中納言(上杉景勝)くらいで、他は本気で家康の野望を食い止めようという気概が見えません。安芸中納言(毛利輝元)様も腰が引けておられますし、他の奉行方も疑わしい」
ポロリと愚痴を溢す三成。
毛利輝元を総大将に総勢十万を超す規模に膨れ上がった西軍だが、内幕は一致結束とは程遠いのが現状だ。増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行の要請で家康討伐の旗頭になった輝元は『家康が西上してきた際は出撃する』旨が取り決められていたものの『幼君秀頼を御守する』ことを主張し大坂城西ノ丸から出ようとしない。当時の毛利家は安国寺恵瓊と吉川広家が支える体制となっており、“家康と良好な関係を築くべき”と主張する広家ではなく“豊臣家内部で存在感を高めるべき”とする恵瓊の主張を輝元は採用したが、毛利家の地位や所領を擲ってまで家康と全面対決しようという熱量は持ち合わせていなかった。また、『内府ちかひの条々』起草にも携わった三奉行の内でも増田長盛は秘かに家康へ内情を密告したり前田玄以は中立を保つなど、万一に備えて保険をかけていた。西軍に参加している諸将の多くが上杉征伐に参加すべく東上していた途中で公儀が家康討伐に舵を切ったので従っているに過ぎず、豊臣家へ忠義を尽くそうとする者は少なかった。
西軍に属している者の大多数は“家康が豊臣家を滅ぼす存在”と捉えておらず、“担ぎ出されたから”“命じられたから”という消極的な理由で参加しているのが実情だった。
「太閤殿下が薨去されて凡そ二年になりますが、殿下から受けた恩を皆忘れて己が為に動いている。この国の為に働くという大局観を持っておらぬ者が何と多いことか。これでは泉下の殿下も嘆いておられることでしょう」
まるで私利私欲に走っていると言わんばかりの三成に、高次は内心ムッとする。三成は秀吉に引き立てられて現在の地位にあるので大恩を感じているだろうが、それは小姓上がりの者や高禄を得た者に限られる。秀吉に降った地方の大名や重用されなかった大多数の者達にそこまでの恩は感じていない。そもそも、先祖伝来の土地や地位を保証してくれる見返りに主君への忠義を尽くすのが武家の習わしだが、幼君の秀頼が何を報いてくれるのか。自らの意思で政を執り行えない幼君は時の権力者の傀儡にされるのが一般的で、三成も家康を倒した暁には取って代わる魂胆なのではないか。
もう一つ付け加えるならば、三成は『太閤殿下から受けた恩に報いるべき、専横を尽くす家康を討つべき』と声高に叫ぶも、吹けば飛ぶような中小勢力には響かない。どんなに立派なお題目を唱えて賛同しても、家を潰してしまっては本末転倒だ。大勢力同士の争いで中小勢力が与する基準は“どちらが勝ちそうか”であり、大義など二の次である。長らく中枢に身を置いてきた三成には、中小勢力の思考が抜け落ちているとしか思えなかった。そういう考えの持ち主だからこそ、三成は多くの敵を作ってきたのだろう。
「ならば、貴殿は如何か。誠心から豊家に仕えていると言い切れるのか?」
少し棘を含んだ言葉で質す高次。
三成が秀吉の寵を受けて出世する中、父の正継や兄の正澄も恩恵を受けてきた。正継は三成の後に堺政所(堺奉行)を務め、大坂・伏見に留まる事が多かった三成に代わり佐和山領を治めていた。また、正澄も堺政所を経て慶長四年正月には四人しか居ない秀頼の奏者番に任じられている。その人事に三成が関与していないか、三成にその気が無くとも他の者が私腹を肥やしていないか。秀吉の最側近という地位を利用して一族郎党に便宜を図っていないか、高次はそう迫ったのだ。
「はい。豊家を想う気持ちに、一点の曇りも穢れもございません」
一切揺らがず、真っ直ぐな目ではっきりと答える三成。その姿に、疚しさを隠していたり嘘を言っているように高次は見えなかった。
武家では当主が清廉な人物だったとしても、末端の役人や代官が賄賂を貰っている事は珍しくない。しかし、石田家では法に則った統治が隅々に至るまで徹底され、不正を働いた者は厳しく罰せられた。また、『三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城』と俗謡に詠まれた佐和山城も先述したように見た目こそ立派なれど華美な点は無かった。それを示すように関ヶ原の合戦後に東軍が佐和山城を接収した際、城内に金銀の蓄えは殆ど無かったとされる。
「大津宰相様、一つだけ申し上げておきたい」
躙り寄った三成は目力を込めて訴えかける。
「此度の挙兵は、何れ害を為すであろう家康から豊家を守りたい一心から踏み切ったもの。この治部、“権力を得たい”とか“富を築きたい”とは微塵も思っておりません。偏に豊家・主君の為。どうか、信じて頂きたい」
真に迫る勢いで述べた三成は、ガバッと平伏する。その真っ直ぐな想いに、高次の心も揺さぶられた。
吏僚として事務的な態度や言動をしていた三成だが、豊臣家を想う気持ちは疑い様がなかった。加藤清正や福島正則が秀吉のことを“親父”と呼んでいたように、それに勝るとも劣らない熱い想いを三成が持っているのは皆が認める所だ。冷徹な仮面の下にこれ程までに熱く滾る一面を持っている事を、高次は改めて思い出した気分だ。
「……頭を上げて下され」
高次の言葉に、僅かながら頭を上げる三成。
「貴殿を試すような事を言って、済まなかった。豊家の為、共に力を尽くそうぞ」
自らの非礼を詫びた上で高次は協力を約束した。高次の言葉に誠意を表すように三成はもう一度深く頭を下げた。
三成に『力を尽くす』と述べた高次だが、本心から出た言葉ではない。豊臣家へ無二の忠心を持つ三成の純粋な想いに気持ちが揺さぶられたのは事実だが、それだけで心変わりする程に簡単な話ではない。汚い手を使ってでも、生き残らなければ意味がないのだ。
この後、三成は同日中に佐和山へ戻り、三日後の八月八日に美濃へ向けて出陣した。奇しくも東軍の総大将・徳川家康も三成が佐和山に戻った五日に江戸へ戻っている。
八月十日には福島正則が尾張・清州城へ戻り、十四日には他の諸将も清州に到着している。両軍の距離が接近するのと同時に、決戦の機運が高まっていた――。




