三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (6) 波及する戦火
孤立無援の状況で無理に抗っても犬死は必至だった為に鞍替えを選択した高次は、東征中の家康へ『偽りの降伏であり、時機が訪れたら反転攻勢に出る』旨の密使を送った。家康も受諾した上で、大津を固く守るよう書状で要請した。
その家康は、七月二十一日に江戸を発ったものの行軍はゆっくりとしていた。二十四日、下野国小山に達した時に鳥居元忠の急使が到着し西軍挙兵を知った。二十一日には細川忠興が重臣の松井康之に送った書状の中で内府追討について触れられており、この頃には上杉征伐に加わっている面々にも西軍挙兵の報せは伝わっていたものと考えられる。これを受け、家康は二十四日夜に重臣の榊原康政・本多忠勝・井伊直政に謀臣の本多正信を呼んで極秘に今後の対応について協議。翌二十五日には小山に諸将を招いて軍議を開催した。
冒頭に家康から『大坂の妻子が人質にされているので対応は皆様にお任せ致す』と伝えると、福島正則が『内府様へ御味方致す!!』と亥の一番に宣言、他の者達も雪崩を打つように同調した。予め黒田長政から軍議の場で家康に味方する旨を宣言するよう働きかけがあったにせよ、豊臣家に近い正則が逸早く旗幟を鮮明にした効果はとても大きかった。一部の将は西軍へ鞍替えしたものの、上杉征伐に参加していた軍勢はほぼそのまま家康と共に戦う道を選んだ。
会津の上杉勢には結城秀康へ一万の兵を預けて押さえとし、徳川勢は秀忠と総大将に中山道を進む別動隊と家康を総大将に東海道を進む本隊に分かれ、上杉征伐に参加した諸将達も東海道を西に進んだ。秀吉は家康が挙兵した時に備えて東海道筋に子飼いの将を多く配置したが、そっくりそのまま家康に味方した事で抑止力にならなかった。
一方、伏見城を巡る攻防は事前の予想を覆し、七日を過ぎてもまだ持ち堪えていた。命を捨て死兵と化した城方の善戦に損失を出来るだけ抑えたい寄せ手の消極的な姿勢に変化は見られず、攻略の糸口すら掴めてなかった。
伏見城で落とせずにいた状況に危機感を募らせた寄せ手は、一計を案じた。長束正家が抱えている甲賀衆の家臣に、伏見城へ入っていた甲賀衆の者へ内応を促し、応じなければ里の家族を殺すと脅したのだ。身内の命を脅かされ、甲賀衆は正家の要求を受諾。彼等の持ち場・松ノ丸が放火されたのをキッカケに寄せ手は総攻撃に踏み切り、城内へ軍勢が雪崩れ込んだ。
慶長五年八月一日、伏見城は落城。守将・鳥居元忠を始めとする大半の将兵が討死した。実に十三日間にも及ぶ戦闘は終結したものの、足並みの乱れが露呈する結果となった。
「そうか……遂に落ちたか」
翁から伏見城落城を伝えられ、高次は肩を落とした。
圧倒的な戦力差がありながらも十三日も西軍を足止めさせたのは、本当に凄い事だと思う。城内の甲賀衆の裏切りが無ければさらに日数が延びていたかも知れず、元忠以下徳川方の奮闘が特に際立っていた。
伏見城の攻防が続いている間に、上杉征伐で会津に向かっていた家康から“引き返している”とする書状が届いている。時を置かずして家康と行動を共にしていた軍勢も東海道を進んでくるだろう。
「さて、翁。敵はどう動くかな」
高次が言う“敵”とは東軍ではなく西軍だ。その点を承知している翁は迷わず答える。
「畿内は制しましたので、次は近隣の脅威を取り除く事。それから、西上してくる軍勢を迎え撃つべく要衝を押さえにかかるでしょう」
伏見城を攻略した事で、畿内における徳川方の拠点は無くなった。また、旗幟が明らかでない(と西軍に捉えられていた)大津城の高次も説得により味方になっていた事から、畿内と近江は西軍一色に染まった。この地域に隣接する地域で東軍方なのは丹後の長岡家と伊勢国に幾つかの小勢力だけだ。しかし、長岡家の主力は上杉征伐に加わっている忠興が率いており、国許に残るのは留守を預かる僅かな兵のみ、伊勢も数万石程度の小規模な者ばかりで西軍に対抗するだけの力は無い。
「伊勢は分かるが、東から迫る大軍と正反対の丹後は別に放置してもいいのではないか?」
東海道を進む敵勢を海から奇襲したい西軍にとって、伊勢湾沿いの城々は確保しておきたい。一方で、長岡家の所領である丹後は逆方向、軍勢もそんなに多くないので討伐に動く必要性を高次は感じなかった。
しかし、翁は首を振る。
「見せしめもありますが、小なりとも憂慮は潰しておきたいですから。天正十二年に大坂を脅かされた例もありますので」
天正十一年四月に柴田勝家を倒して天下人の階段を昇り始めた秀吉だが、主家筋の織田信雄との関係は日を追う毎に冷え込んでいった。年を越して天正十二年三月六日には秀吉と近い関係にあった三人の家老を粛清した事で対立は決定的なものとなり、同盟相手の徳川家康に助力を求めた。これ以上秀吉の伸長は脅威になると感じていた家康は信雄の要請を受け、秀吉包囲網の構築を目指した。その中に含まれていたのが、紀伊の雑賀衆・根来衆だ。前年から大坂に居城を築き始めていた秀吉に揺さぶりをかける事が目的だ。家康が接触する以前から和泉国に侵攻してきた雑賀・根来衆はその活動を活発化させていく。
天正十二年三月二十二日、前日に秀吉が信雄・家康と戦に臨むべく大軍を率いて出陣した間隙を突く形で、雑賀・根来衆が和泉へ侵攻。一手が岸和田を攻めている間に別動隊が堺を急襲・占拠した。余勢を駆って二十六日には大坂へ攻めたが、留守を預かっていた蜂須賀家政や黒田長政の奮闘もあり何とか撃退。しかし、大坂の市中は野盗が出るなど一時的に治安はかなり悪くなった。雑賀衆も根来衆も数はそれ程多くないが、情勢も重なり秀吉もヒヤリとさせられた出来事だった。
「そうか……因みに、決戦の地はどの辺りになると思うか?」
「両軍の進み具合にも拠りますが、美濃か尾張になる可能性が高いと考えます」
東海道・中山道がどちらも通る美濃、上杉征伐に参加している諸将の中で最前線の拠点となる清州城(福島正則)がある尾張が有力と翁は言う。東海道と中山道が合流する草津宿のある近江も想定されるが、西軍の防衛線としてやや西に寄り過ぎており可能性は低い。
翁の見立ては高次と同じで、少し安心する。そして、高次が温めている策も決戦が美濃か尾張ならばより効果が望め、好材料だ。
「……いつ何時戦端が開かれるか分からん。その時に備えて支度を進めようぞ」
「はっ」
第一目標の伏見城攻略を完了させた西軍は次の段階へ移行。丹後の長岡家討伐に秀吉の黄母衣衆出身の小野木重勝や五奉行の一人である前田玄以の三男・茂勝など豊臣家直臣を中心とした部隊一万五千を、伊勢掌握に毛利秀元や吉川広家・安国寺恵瓊・小早川秀秋等の毛利勢に長曾我部盛親など三万を、美濃掌握に石田三成や島津義弘など一万を、それぞれ派遣する方針を決めた。また、加賀の前田勢に南化の兆候が見られた事から敦賀城主の大谷吉継に対処を一任する方向で調整された。戦場予定地の美濃より伊勢に多くの戦力が投入されたのは、美濃の最重要拠点である岐阜城主・織田秀信(幼名三法師、信長の孫)や大垣城主・伊藤盛正が西軍方に属していた事や伊勢の諸将の多くが東軍方に属している事が影響していた。
片や、奥羽でも動きがあった。旧領奪還に燃える伊達政宗は刈田郡の白石城主・甘糟景継が若松に居て不在との情報を掴み、七月二十四日に急襲。元は伊達家のものだった白石城は城の造りも把握しており、翌日の昼までに本丸以外を押さえた。城方は勝ち目がないと降伏。直江兼続は後詰の兵を送るも野伏の集団に妨害され、目的を果たせなかった。この野伏も政宗が裏で糸を引いており、白石城を巡る攻防は伊達勢の思惑が嵌まった勝利に終わった。
また、丹後の方でも丹波や但馬の諸将による先遣隊が席巻していた。数で劣る長岡勢は領内の城砦を放棄し戦力を幽斎の隠居所である田辺城一箇所に集中し、丹後支配の居城だった宮津城は防衛に不向きと捉え焼き払った。七月十九日から始まった攻城戦は終始寄せ手が優位に進み、月末には落城寸前まで追い込まれた。
青色吐息の城方を一気に攻め落とす――通常ならばそうだが、思わぬ所から“待った”が掛かった。長岡幽斎は嫡男の忠興に家督を譲った隠居人だが、同時に当代随一の文化人で有名だった。塚原卜伝から剣術、若狭の武田信豊から馬術を学び、和歌・茶道・蹴鞠などにも精通していた。その中でも『古今和歌集』の解釈を後世に伝える“古今伝授”の有資格者で、二条派が断絶した後に継承していた三條西家から中継ぎで伝えられていた。幽斎は古今伝授を三條西家当主・実条へ継承している最中で、もし戦で亡くなる事になれば脈々と受け継がれてきた古今伝授が消滅してしまう。田辺城が危機に瀕していると知った朝廷・天皇家は直ちに勅使を送り、幽斎を殺さないよう要請した。同時に勅使は幽斎へ開城勧告を行うもこれを拒否、寄せ手は朝廷や天皇家を敵に回す訳にもいかないので交渉中は城攻めを中断せざるを得なかった。
そして、北陸方面でも動きが見られる。東軍に属す前田勢を警戒した大谷吉継は南加賀・越前の諸将を西軍方に引き込み南進を阻む態勢を整える事に成功。家康から越後経由で上杉征伐に加わるよう要請されていた利長は、遠征中に他勢力から侵攻される恐れを取り除くべく(美濃方面へ進出して欲しいと要請された説もある)七月二十六日に二万の軍勢を率いて南加賀へ侵攻。同日、丹羽長重の小松城を包囲した。丹羽勢は約三千と少なかったものの小松城は堅城で知られていたのもあり、押さえの兵を置いて南へ進軍。八月二日には山口宗永の大聖寺城を攻めた。山口勢は五百程度とかなり少なく、近隣の味方に救援を求めるも衆寡敵せず翌三日に落城。宗永は自害した。
他にも、九州・豊後の黒田長政の留守を狙い前領主・大友義統(出家して“宗厳”とも)が秘かに毛利家の支援を受ける形で送り込まれる準備が進められた。豊臣家内部の覇権争いは次第に地方へ波及し、局地戦が展開されていくこととなる。




