三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (4) 曖昧模糊はお手の物
七月十九日から始まった伏見城攻防戦は毛利秀元を大将に吉川広家・小西行長・長曾我部盛親・島津義弘、さらに二十三日に合流した小早川秀秋など寄せ手は数万を超える大軍勢だった。それに対し守り手は約二千と戦力差で見れば圧倒的に不利だった。しかし、広家は家康と敵対する事を好しと思っておらず、盛親は上杉征伐に加わるつもりが関で止められ、義弘と秀秋に至っては伏見城へ入ろうとするも鳥居元忠から拒まれたが為に不本意ながら参加するなど、一致結束とは程遠い状況だった。戦意の上がらない寄せ手とは対照的に死を決めている守り手は士気が頗る高く、城から打って出て寄せ手を押し返すなど緒戦は事前の予想を覆し守り手が圧倒した。
天下分け目の大戦が幕を開けた同じ日、大津城の高次を訪ねて来た人物が居た。
「殿、氏家“内膳正”様が面会を求めてこられましたが……」
取次から伝えられた名に、高次は「はて」と首を傾げる。
氏家“内膳正”行広。父は嘗て“西美濃三人衆”に名を連ねた氏家卜全、兄の直昌が天正十一年に病死したのに伴い家督を継いだ。北条征伐などで功を重ね、天正十八年に伊勢・桑名二万二千石へ転封・加増されている。桑名は堺や博多・伊勢の大湊と並ぶ日本屈指の港湾都市で、その地を任された行広は石高こそ少ないが秀吉の信頼が厚い事が窺えた。
高次と行広にこれまで接点はない。諸大名が揃って出席する場で顔を合わせたくらいで、面識は無いに等しい。そんな人物がどうして訪ねて来たのか、高次は解せなかった。
「……分かった。会おう」
相手の思惑は分からないが、何らかの意図があるからこそ現れたのだ。会って早々に斬り付けるような真似は流石にしないだろうから、取り敢えず応じてみる事にした。
広間へ向かうと、角張った顔をした行広が背筋を正して座していた。行広、天文十年生まれの五十五歳。高次とは親子くらい歳が離れている。
「此度は突然の来訪にも関わらず面会して頂き、忝い」
行広はまず非礼を軽く詫びて、本題に入る。
「本日こちらへお伺いしたのは、宰相殿に内府討伐へ加わるよう然る方より要請され、それをお伝えに参りました」
丁寧な口調で話す行広。心なしか、表情はやや硬いように見受けられる。
その行広も、西軍に属しているが最初からそうだった訳ではない。上杉征伐へ加わるべく東向していたが三成の設けた愛知川の関で止められ、同時期に家康弾劾の令が届いた為に家康へ断りの書状を出した上で已む無く西軍に加わった。公儀が発したのだから従っているものの、本音では“巻き込まれた”という思いが強かった。ただ、そうした事情は高次の知るところではない。
行広が西軍へ味方するよう勧誘に来たと理解し、高次は内心ホッとした。高次が東軍に属している事を西軍はまだ把握しておらず、“旗幟を明らかにしていないだけ”と受け止められているみたいだ。もし事実を掴んでいれば脅し半分で投降または翻意を迫ってくるだろうが、行広にそうした態度は見られない。
以上のことから、主導権はこちらが握っていると高次は判断。それなら、遣り様がある。
高次は人の好い笑顔を浮かべつつ「そうですか、ご苦労様です」と答えながら続ける。
「しかしながら……弱りましたな」
心底困ったような表情を見せる高次。想定していなかった展開に行広の顔が強張る。
「弱る、とは……」
「いやなに、私は双方に縁者が居ます故、どちらか片方に与すると角が立ちますので……」
殊更に妻の血縁を匂わせる高次の発言に、行広は唖然とした。
「この状況で、まだそんな世迷言を申されるか!!」
なよなよとした口調で話す高次に行広は激昂した。
自分でさえ心ならずも西軍に与せざるを得なかったのに、この期に及んで『どちらかに付くと角が立つ』とは何事か。そういう気持ちだったに違いない。
誰だって日和見出来るならそうしたい。でも出来ないのが現実だ。高次の発言は明らかに現実から目を背けているとしか行広には思えなかった。
「そんな言い訳が通用すると本気でお思いなのですか!?」
どっちつかずの対応に苛立った行広は“はっきりさせろ!”と言わんばかりに迫る。しかし、高次の態度は相変わらずである。
「しかし……これは御家の未来を左右する事です故……」
煮え切らない姿勢の高次に、行広の方が先に我慢の限界を迎えた。鬼の形相で立ち上がると、オドオドする高次へ向かって叫ぶようにして言った。
「宰相殿のお気持ち、よく分かり申した! そのまま決められず後悔されるがいい!」
言い放つと高次に背を向けて歩き出す行広。これだから“蛍”は」と吐き捨て、ドタドタと荒々しい足音を立てながら退室していった。
程なくし、翁が現れた。行広との会談を即決した後、高次から乞うて来てもらったのだ。
「殿。首尾は?」
「上々だ」
翁の顔を見るなり、フゥと息を吐く高次。慣れない腹芸は精神的な負担が大きかった。
行広の退室していく様を入れ違い様に見ていた翁は、「大丈夫ですか?」と心配そうな顔で訊ねる翁。それに対し、高次は端的に一言。
「なぁに、馬鹿にされるのは慣れておる」
ちっとも気にしていない高次の様子に、安堵する翁。それから会見のあらましを伝えると、翁は満足そうに頷いてから答えた。
「一先ず、これで時を稼げましょう。我等の帰趨が定かでない以上、敵も進軍を躊躇うでしょうから」
「……だが、いつまでもとはいくまい」
否定的な見方を述べる高次に、翁も同意するように頷く。
「えぇ。此度は日頃付き合いのない氏家殿が使者で助かりました。太閤殿下が逝去されてからの殿の行動を存じておられる方でしたら、どちらに与するかは考えるまでもありませんから。殿には今暫く辛抱して下され」
今回は高次が“どちらに付くか決めかねている”想定で来訪したが、“東軍に傾いている”前提ならば話が変わってくる。高次が小身で武将としての評価が低いのもあり、『味方しろ、然もなくば叩き潰す!』と脅してくる可能性が極めて高い。そうなった場合の対処について、高次はまだ決めていなかった。
「……芝居を打つのも人が悪い気がして嫌だなぁ」
思わず本音を漏らす高次に、クスリと笑った翁はこう諭した。
「嘘を申している訳ではありませんので、閻魔大王に舌を抜かれる事はありません。方便にございます。これも京極家生き残りの為、殿の矜持の為、どうか堪えて下され」
翁の励ましに高次は「あぁ」と応じた。戦いはまだ始まったばかりだ。高次は自分を奮い立たせるように心の中でそう言い聞かせた。
余談ながら――高次を説得に来た氏家行広は主君・豊臣秀頼が幼少(自分の意思で決定出来ない、時の権力者が『秀頼の命令だ』と称して濫用する)である事を理由に西軍から離脱、桑名に戻りどちらにも与しない意向を示した。しかし、伊勢湾交通の要衝である東海道筋へ影響を与えられる桑名の地を西軍も重要視しており、伊勢方面へ西軍の大軍が進出してくると圧力に抗いきれず再加入。そのまま終戦を迎え、戦後改易されてしまった。
この後、行広は“荻野道喜”と名を変え、慶長十九年〈一六一四年〉の大坂の陣に豊臣方で参戦。翌慶長二十年〈一六一七年〉に大坂城が落城すると道喜も自刃したとされる。家康は大坂の陣の前に道喜の器量を買って仕官を持ち掛けたが、これを拒否した。最期まで豊臣家への忠義を感じさせる逸話だろう。




