三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (3) 話しておかなければならない相手
高次には、来るべき戦の前にどうしてもやっておきたい事が一つあった。
七月十七日、夜。城主やその家族が居住する奥御殿の寝所で、寝間着姿の高次はある人物が来るのを待っていた。
やがて、廊下から衣擦れと足音が近付いてきた。布団の上で胡坐をかいていた高次は反射的に背筋を伸ばす。
そして……襖が開かれた。
「おや。如何されましたか? 殿」
姿を現したのは、初。家康の差配で自らに近い一部の将の妻は国許へ帰る事を許され、初も大津城へ移っていた。尤も、初は豊臣秀頼の母・淀の方の妹で『豊臣家に弓引く恐れがない』と捉えられているのだが。
相も変わらず、美しい。同じ寝間着姿なのに初が居るだけで場がパッと華やぐ。本当に、自分には勿体無い妻だ。
「初、話がある」
緊張で声が震えそうになるのを必死に抑えつつ、厳かに告げる高次。その雰囲気を察し、初は付き従っていた侍女達に下がるよう促す。高次の方も小姓達を遠ざけ、人払いする。
二人きりになったのを確認してから、隣に敷かれた布団の上に座る初へ高次は告げる。
「此度の戦、内府様へ御味方する」
高次が硬い声で伝えると、初は「……そうですか」と静かに答えた。その反応に驚きや戸惑いは感じられない。
「……その決定は、御自身がなされたのですか?」
「あぁ。翁に意見を求めたが、最終的には私の判断で決めた」
初から尋ねられた高次はキッパリと言い切った。昨年一月に家康が公儀に無断で諸大名と婚姻を進めた事に端を発した伏見と大坂の間の緊張状態の時、弟の高知からも似たような質問をされた。そんなに信用がないのか? と思ってしまう。
それから、高次は続ける。
「知っているとは思うが、大坂で内府様を弾劾する令が出された。内府様に味方すると決めた以上、この大津にも敵が押し寄せてくるだろう」
「……それで、殿はどうお考えで?」
真意を訊ねてきた初に、高次は予め用意していた答えを口にする。
「女子どもを連れて江戸へ――」
「嫌でございます」
高次が言い終わるよりも先に、初ははっきりとした声で拒んだ。まさか断られるとは思ってもおらず、高次は目を点にする。
小谷・北ノ庄と二度の落城を経験し、実の父母と義理の父を喪っている初は京極家中で誰よりも辛く悲しい思いをしてきた。高次も本能寺の変直後に選択を誤ったばかりに御家を潰しそうになったが、一族郎党で犠牲になった者は居ない。心に深い傷を負っている初に過去の嫌な思いを重ねてほしくない高次は避難させようとしたのだが……。
何とか説得を試みようとする高次は初の顔を見て、言葉を呑み込んだ。自分を見つめる瞳に、強い決意が滾っていた。
「どうして……どうして、私も一緒に戦わせてくれないのですか?」
瞳を潤ませながら、初は問う。その姿に気圧されながらも懸命に言葉を絞り出す。
「それは……初が、戦で辛い思いをしてきたから……」
「私も京極家の一員です。皆が戦っている中、一人安全な所に居ては他の者達に示しがつきませぬ」
きっぱりと答える初。淀の方の妹という立場でも、特別扱いしては大津に留まり戦う者や民達から不満が上がるだろう。
初の気持ちは嬉しい。しかしながら……。
「この先の戦はとても厳しいものになる。正直に言えば、勝てるかどうかも分からない。それでも、残ってくれるのか?」
家康弾劾の令が出され、大坂では戦に向けた機運が刻一刻と高まっている。家康の独走を阻止したい勢力に上杉征伐へ参加すべく東上していた勢力も合流し、その規模は膨れ上がる一方だ。これ等の勢力が兵を挙げれば鳥居元忠が守る伏見城が第一目標となるが、守る将兵は約二千と少ない。伏見が落ちれば次は大津だが、大軍を迎え撃つには時間が足りなさ過ぎる。状況は極めて厳しかった。
覚悟を質した高次に初は真っ直ぐな目線で答える。
「はい。最期まで、殿の御側で戦いとうございます」
揺るぎない決意がひしひしと伝わり、高次も説得を諦めた。それから「殿」と初が呼ぶ。
「前々から、嫁いできた時から、ずっと思っていた事がございます。この機会だから言わせて頂きます」
全く予想していなかった展開に、高次はドキリとする。『共に戦いたい』と明言しているので離縁はないと分かっているもののドギマギしてしまう。
どんな内容が飛び出すか読めずヒヤヒヤする高次を尻目に、初は一呼吸置いて話し出す。
「殿は私に対して遠慮が過ぎます。夫婦なのですからどちらが上とかありません。同じ目線、対等に接して下さい」
日頃から抱いていた劣等感や引け目をズバリと指摘され、胸を衝かれる高次。明らかに怯んだ高次へ畳み掛けるように言葉を継ぐ。
「……殿は私を怖いとお思いなのですか?」
「いや! そんな事は、ない……」
問われた高次は反射的に否定する。美貌や血筋で釣り合いが取れていないと自分の中で感じているだけで、結婚してから初を“怖い”と思った事は一度たりともない。京極家も近江源氏の血を継いでいる高貴な家柄ではあるものの、下剋上の嵐が吹き荒れる戦国乱世で見る影もなく凋落してしまったので価値は無いに等しかった。影響力の大きさこそ正義だ。
「では、どうしてそんなに怯えておられるのですか?」
眉を顰めながら問い掛ける初。高次の抱える劣等感に気付いていない様子だ。
対する高次も、この負い目や引け目を素直に打ち明けたとしても、初に分かってもらえるか自信がなかった。『それは殿の主観であり、気の持ち様だ』とバッサリ斬り捨てられる可能性もある。ただ、織田家に仕えていた頃から陽の当たらない道を歩んできた成功体験の乏しさが高次の性格形成の根幹を成しており、一朝一夕に変えられるものではない。
言おうか言うまいか悩んだ高次だったが……言わないと分からないと観念し、訥々《とつとつ》と語り始めた。
「……八つの時に織田家へ仕え始めて以来、出世とは無縁な人生を過ごしてきた。そればかりか、時流を読み違えて故郷を捨てて逃げるハメになった。妹が太閤殿下の寵愛を受けていなければ、野垂れ死んでいたとしてもおかしくなかった。大した才も持たず、取り立てた功を挙げた訳でもなく、近江の名門の家柄というだけで過分な地位と嫁を貰った。身に余る扱いに、ずっと引け目を感じていた」
高次の独白を、黙って耳を傾ける初。さらに続ける。
「太閤殿下は私の器量を評価したのではなく、統治しやすくする為だけに“近江の名門の血筋”を利用した。その効果を最大化すべく近江で名の知れた見目麗しい姫を宛がった。夫が妻より格で劣っているのは紛れもない事実で、対等になんかなれる筈がない」
日頃から抱えていた思いをぶつける高次。勢いがついた高次は、さらに踏み込む。
「初も、こんな冴えない男の元に嫁ぐのは嫌だったのではないのか?」
口にして“しまった!”と思ったが、時既に遅し。流石に言い過ぎたと気付いたものの、一度発した言葉は撤回も忘れさせる事も出来ない。只でさえ夫婦関係は決して良いとは言えない仲に、さらなる罅が入ってしまうのではないか。それこそ、離縁を突き付ける決め手にもなり得る。
泣かれるか、怒るか。いや、一番恐ろしいのは無表情か。感情を表にされるよりも見切られる方が何より恐ろしい。高次は怖々と初の反応を窺うが……。
「正直に申し上げれば、あまり気乗り致しませんでした」
平たい声で答えた初に、ガックリと肩を落とす高次。分かっていた事ながら言及されるとやっぱり凹む。
やはり離縁か、それとも仮面夫婦になるか。最悪の事態は免れないと覚悟しながら、次の言葉を待つ。その気分は、処刑を待つ囚人のような心地だった。
「けれど――今は、殿で良かったと思っております」
予想していなかった発言に、思わず顔を上げる高次。目に入ってきたのは、穏やかな笑みを浮かべた初の姿だった。
「そは……真か?」
「はい。心の底から、そう思っております」
素っ頓狂な声で問うた高次に、はっきりと答える初。その声色に嘘や虚飾が含まれているように感じない。
呆気に取られ固まる高次へ、初はさらに言葉を重ねる。
「確かに、もっと大身の方に嫁いでいれば、良い思いや暮らしをしていたかも知れません。しかしながら、大きな家に嫁いだが故に仕来りやお付き合い、女子同士の争いなど、決して良くない思いもしていた事でしょう。高みを目指す方や矜持のある方、それこそ姉のように強い方なら今の生活は退屈に感じるでしょうが、手の届く範囲の幸せで充分な私にはとても満足しています」
初の言葉に、意外そうな顔を浮かべる高次。義母・お市の方から美貌と共に気品の高さも受け継いだとばかり思っていただけに、慎ましい暮らしの現状を不満を抱いているとばかり考えていた。
さらに初は続ける。
「世の殿方の中には、見目麗しい女子を妻にした事を自慢の道具にされる人も居られます。太閤殿下など茶器を集めるが如く美女を側室にする始末。女子は物ではありません。そう考えれば、大事に扱って下さる殿の元に嫁いできて幸せです」
初の言う通り、美人を妻や側室に持つことを自らの格と捉える男は少なからず存在する。秀吉に関しては弁解すると単純に女好きな性格もあるが、正室である北政所との間に子を授からなかった事情から“跡継ぎを是が非でも欲しい”という側面もあった(経産婦で決して若いとは言えない宇喜多直家の妻・お福や武田元明の妻・竜子がこれに当て嵌まる)。
「だからこそ、もっと殿のことが知りたくて、それと共に殿へ私のことを知ってもらいたくて、心の距離を縮めたい……と」
寂し気に漏らす初。秘められていた想いに接して、高次は改めて初を誤解していたと気付かされた。
大した才もないのに分不相応な待遇の高次に“蛍だ”と嘲られても何も言い返さない事に、初は“頼りない”“惰弱だ”と思っているに違いないとずっと思っていた。伝え聞いた話で初の姉・淀の方や妹の江は自尊心がとても高いと聞いていたのもあり、初も似たような性格だと勝手に思い込んでいた。引け目を感じていた部分はあるにせよ、勘違いで初に淋しい思いをさせていた事に変わりはなく、自らの振る舞いは反省すべきだ。
「……済まなかった。壁を作っていたのは私の方だった」
高次が素直に謝ると、「いいえ」と首を振る初。
「殿が辛い思いをされていると知りながら、寄り添おうとしなかった私にも責任があります。……ですが、今からでも遅くはありません。これからお互いに歩み寄ろうではありませんか」
「……そうだな」
初の提案に高次も賛同する。この夜、二人は真の夫婦になれたような気がした。
危機は迫りながらも、夫婦の絆が深まったのは高次にとって何より好材料だった。これで後顧の憂いなく存分に戦える。守るものが出来て、高次は一歩成長したような気がした。
慶長五年七月十八日。昨晩は初と忌憚なく語らった高次だが、城内にもう一人報告すべき人が居た。朝、身支度を整えた高次はその人の元へ向かう。
同じ奥御殿の一室で暮らすその人は、開け放たされた窓から晴れた空を眺めていた。
「入るぞ、竜子」
廊下から一声掛けて部屋に入る高次。呼ばれた人は高次の方へ顔を向ける。
「まぁ、兄様。お珍しい」
ニコリと微笑みながら返すその人は、高次と顔立ちがよく似ていた。それもその筈、この人物は高次の実の妹なのだから。
京極竜子。生年不明。高次の妹・高知の姉だが、高次の姉とする説もある。
永禄四年頃、若狭の名門である武田義統(“よしむね”の説あり)の嫡男・孫犬丸(後の元明)に嫁いだ。但し、元明の生年は永禄五年の説もある為、正確な婚姻時期は分かっていない。義統は室町幕府第十二代将軍・足利義晴の娘(義輝・義昭の姉)を妻にするなど将軍家と近しい関係だったが、義統とその父・信豊の家督争いや有力国人の離反などで衰退の一途を辿っていた。永禄十年〈一五六七年〉四月に義統が死去し孫犬丸は当主となるも弱体化した家の立て直しは困難を極め、翌年には若狭へ侵攻してきた朝倉義景によって越前一乗谷へ連れ去られた。天正元年八月に朝倉家が織田家によって滅ぼされると孫犬丸は解放されたが、若狭は織田家次席家老の丹羽長秀に与えられ、孫犬丸はその寄騎格に転落した。翌天正二年頃、元服し“孫八郎”元明と改名している。
転機が訪れたのは天正十年六月。明智光秀の謀叛で織田信長・信忠父子が自害。若狭での復権を目指した元明は明智方に呼応する形で挙兵、長秀は信孝の補佐で四国に渡るべく摂津に居たのもあり、若狭は留守居の者ばかりで兵は少なく元明の巻き返しは順調に進んだ。しかし――六月十三日、山崎の地で明智勢は羽柴勢に敗北。光秀も坂本へ落ち延びる途中で落ち武者狩りに遭って討たれてしまい、元明は一転して窮地に陥った。降伏すべく秀吉の所へ向かったが、途中の近江国海津で元明を危険視していた長秀によって謀殺された。
敗軍の将の妻として囚われた竜子は秀吉の元へ送られ処刑される運びとなっていたが……対面した秀吉は竜子の美しさに一目惚れし、助命したばかりか自らの側室にしてしまった。竜子を生かしただけでなく長浜へ侵攻した兄・高次も赦された事から、如何に秀吉の寵愛を受けていたかが窺い知れる。見た目も然ることながら気が合ったのもあり、茶々(淀の方)が側室になるまで側室一番手の座を保ち続けた。初めは側室筆頭格が暮らす大坂城西ノ丸に居たことから“西ノ丸殿”、次いで西ノ丸から松ノ丸へ転居したことから“松ノ丸殿”と呼ばれた。淀の方とは慶長三年四月二十日に行われた醍醐の花見で正室・北政所の次に盃を受ける順番を巡って激しく争うなど良好とは言えない関係で、秀吉が亡くなった後は高次の居る大津城へ移っている。
部屋に入った高次は竜子の側に座る。互いの膝が触れ合うくらいの距離はやや近過ぎるように思うが、竜子は気にする様子はない。
「兄様」
竜子から呼ばれた高次は自らの右手を差し出す。その手を両手で優しく包み込んだ竜子は、何か気付いたみたいだ。
「……いつもより、熱い。それに、少し汗も。何かありましたか?」
「分かるのか」
「えぇ。兄様の温もりはよく覚えておりますから」
答えながら、愛おしそうに兄の手を撫でる竜子。
竜子は秀吉に嫁いでから暫くし眼病を患い、目が見えにくくなった。秀吉の勧めで有馬へ湯治に赴いた際には、秀吉から『(目が見えない事から)誰かが覗かないか心配だ』とする内容の手紙が送られている。症状が進行した現在は近くしか見えない為、兄が訪ねて来たらこうして手を握るのが習慣になっていた。
「竜子には隠し立ては出来ないな」
僅かな変化も機敏に察知する竜子には敵わないという反応を見せる高次。それから、表情を引き締めてから言った。
「昨今の情勢は存じておるな」
「はい。大まかには」
目は見えにくいが、侍女から最近の政情について竜子は毎日聞いている。秀吉の愛妾だっただけに、豊臣家内部に知り合いも多く一定の影響力も堅持していた。一朝事あれば京極家の為に動く用意は常にあった。
「兄様が参られたということは、どちらへ付くか決められましたか?」
「あぁ。内府様に御味方する」
高次の決断を聞いた竜子だが、表情に特段の変化はない。前以て予想していたらしい。
「竜子にも迷惑をかけるかも知れない。……済まぬな」
詫びる高次に、竜子は優しく兄の手を摩りながら答える。
「謝らないで下さい。兄様が悩みに悩んだ末に出した決断ですから、竜もそれに従います。……もしもの時は北政所様に掛け合いますので、遠慮なく申し付けて下され」
側室一番手の座を争った淀の方とは険悪な仲だった竜子だが、正室の北政所とは良好な関係を築いていた。大津へ移ってからも手紙の遣り取りを交わしており、北政所の方も竜子のことを気に掛けていた。初が淀の方との伝手があるように、竜子も北政所との伝手を持っていたので、高次には万一の時の切り札を二つも有していた事になる。
「……うむ。そうならないよう最善は尽くすつもりだが、そうなった時は頼む」
最初から負けありきで考えていないが、最悪の事態にも備えなければならない。武運拙く敗れた時は全ての責めを負い腹を切るつもりだが、高次の決定に巻き込まれた将兵やその家族・大津の民の命を一人でも多く救う為に見苦しくとも使える手は何でも使う所存だ。
兄の声色から只ならぬ思いを感じ取った竜子は、「兄様」と呼び掛ける。
「くれぐれも、無理だけはなさいませんように。竜はいつでも兄様の味方です」
「……ありがとう」
妹の思いを受け取った高次は、感謝を口にする。
また一つ、負けられない理由が増えた。ただ、重荷とは感じていない。勝つと信じてくれる者達の為に、全力を尽くすと改めて胸に固く誓った。
慶長五年七月十九日。大坂に到着した毛利輝元は大坂城西ノ丸に入り、反家康の総大将に就いた。副将には宇喜多秀家、実務は三奉行や石田三成・大谷吉継が執り行う体制が整えられた。これと前後して石田三成の兄・正澄は愛知川に関を設けて上杉征伐へ向かう軍勢を止めて家康討伐の軍に加わるよう促し、多くの大名がそれに従った。
同日、伏見城の鳥居元忠へ降伏勧告を再三に渡り行ってきたが応じる気はないと判断、交渉を打ち切った上で城攻めを開始した。ここに、天下分け目の大戦が遂に開幕した――。
(以降、分かりやすくする為に家康方を“東軍”、反家康方を“西軍”と表記します)




