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一:その男、『蛍』と蔑まれ

 慶長けいちょう三年〈西暦一五九八年、以下西暦省略〉八月十八日。太閤たいこう・豊臣秀吉、逝去せいきょ享年きょうねん六十二。

 尾張中村の水呑み百姓の家に生まれた男は、日ノ本を一つにべる偉業を成し遂げ、関白に任じられるなど全ての人々の頂点に立つ天下人の地位に昇り詰めた。家柄や血筋が重視される当時の社会で何の後ろ盾も力も持たない徒手空拳としゅくうけんで自らの才覚と運だけで伸し上がった稀代きだいの英傑と呼んで過言はないだろう。

 しかし――秀吉には致命的な弱点が二つあった。跡継ぎと、譜代の家臣が居ない事だ。

 秀吉は子宝に恵まれなかった上に、親類も多くなかった。正室・寧々(ねね)北政所きたのまんどころ)との間に子はなく、側室との間に生まれた子も三人の内二人は夭逝ようせいしていた。唯一生存する秀頼も、まだ六歳の幼子。天下人・秀吉の跡を継ぐにはあまりにも幼かった。

 本来ならば幼君秀頼を臣下の者達が支えていくべきなのだが、家臣達の大半は元々自立していた大名か織田家に仕えていた旧臣で、“秀吉”に忠義を尽くす者は多かれど“豊臣家”に忠義を尽くす者は極少数に限られていた。それゆえ、豊臣家の政権基盤は脆弱だった。

 また、秀吉の死は現在も継続されている朝鮮出兵の戦況に与える影響が甚大である点が考慮されおおやけにされなかったが、箝口令かんこうれいかれても徐々に広まっていった。京・伏見城に出仕する者達も、仕える主の死を知りながらも何食わぬ顔で広間に詰めていた。

 広間で待機する大名達がもっぱら話題にするのは、今後の身の振り方についてだ。

内府だいふ様が……」

治部じぶは……」

 主に名前が挙がるのは五大老・徳川“内大臣(通称“内府”)”家康、五奉行・石田“治部大輔じぶのしょうゆう(略称“治部”)”三成。関東二百五十万石(結城秀康名義の十万石を含む)と豊臣家家臣で最も広い版図を持ち、かつて秀吉が十万の兵を率いて小牧の地で対峙しても負けなかった戦巧者いくさこうしゃである。現在、五十七歳。秀吉亡き後の天下人候補筆頭ともくされ、その一挙手一投足が注目されていた。

 その家康の有力な対抗馬と見られているのが、石田三成である。現在、三十九歳。秀吉が近江・長浜城主だった時に小姓として仕え始め、以降吏僚(りりょう)として豊臣家を支えてきた。近江・佐和山十九万四千石と石高ではそれ程まで大きくないが、豊臣家直轄領の代官を兼ねている事から石高以上の収入がある。豊臣家へ絶対の忠誠を誓い、秀頼の母・淀の方の信任も厚かった事から対家康の旗頭になると周囲は捉えていた。ちなみに、三成は秀吉の威光を背景にその言動や態度が尊大で冷徹だったが為に、槍働きで出世してきた者達を中心に“平懐者へいくわいもの”と毛嫌いされていた。家康には“様”と敬称が付いているのに三成は“治部”と呼び捨てにされている事からよく分かる。

 他にも五大老筆頭格の前田“権大納言ごんのだいなごん”利家や天下への野心を抱く“独眼竜”こと伊達“右近衛うこんえの権少将ごんのしょうしょう”政宗、義侠心ぎきょうしんに厚い上杉“さきの権中納言ごんのちゅうなごん”景勝の名が挙がる。政宗を除けば役のない大名が詰める広間に居る事はないので、皆好き勝手に言っている。

 と、そこへ一人の大名が広間へ入ってきた。

「お、“蛍”だ」

 誰かがふと漏らしたその声には、あざけりが込められていた。

 それを皮切りに、皆が口々に話し出す。

「羨ましいのぅ、妹と嫁のお蔭で御家安泰な“蛍”は」

「いやいや、次の天下人に自らの息女そくじょてがってさらなる大身たいしんを目指すのかも知れんぞ」

いずれにせよ、大した才も功もないのに出世出来るとは。わしも“蛍”にあやかりたいわ」

 誰かが放った一言に、座がドッと沸く。侮蔑と恥辱の嘲笑ちょうしょうを向けられた本人は、悔しそうに唇を噛む。言い返したくても喧嘩になっても構わないという度胸も腕っ節の強さも、本人は持ち合わせていなかった。

 京極高次。従三位じゅさんみ・参議で、通称“羽柴大津宰相(さいしょう)”。永禄六年〈一五六三年〉生まれで三十六歳。“羽柴”の姓が下賜され従三位・参議の高位に就くなど、豊臣家中でも厚遇されている。しかしながら、その格別な計らいこそ彼が他人から嘲られる理由であり彼が抱く後ろめたさの根幹でもあった。

 そもそも京極家は宇多源氏の流れの一つを汲む名家で、足利将軍家から“侍所さむらいどころ”を任じられる“四職ししき”に名を連ねる程だった。だが、足利将軍家の衰退や京極家中の内紛等があり弱体化、高次の京極宗家も北近江で台頭した浅井あざい家の後塵こうじんを拝する程に零落してしまった。

 過去の栄華とは程遠い環境の下で京極高吉の嫡男に生まれた小法師(高次の幼名)は、元亀げんき元年〈一五七〇年〉に北近江で勢力を伸ばしつつあった織田信長の元へ人質に出された。この時、小法師八歳。この当時、国人勢力から織田家へ人質に出された嗣子しし達は将来の幹部候補として英才教育がほどこされており、同じく近江国人の家柄だった蒲生がもう家の賦秀やすひで(後の氏郷うじさと)はその才を買われて信長の次女(“冬姫”の名で知られるが、実名を示す史料は残されておらず不明)をめとっている。高次も元亀四年〈一五七三年〉の槇島城の戦いで功があったとして近江奥島五千石が与えられているが、その後は綺羅星の如く次々と現れる才知溢あふれる逸材の中で埋没する事となる。

 そんな高次に転機が訪れたのは、天正てんしょう十年〈一五八二年〉六月。備中の羽柴秀吉の救援要請に応じるべく京・本能寺に宿泊していた信長の元に、重臣・明智光秀の軍勢が急襲! 一万を超える明智勢に対し百に満たない手勢では如何いかんともしがたく、信長は非業の死を遂げた。さらに光秀は同じく京に滞在していた信長の嫡男・信忠も討ち、一夜にして天下屈指の勢力を誇る織田家は機能不全に陥った。

 この驚天動地の大事件に、高次も度肝を抜かれた。しかし、傍観していられる立場ではなかった。光秀の居城・坂本城は琵琶湖の対岸、領地の奥島は信長の居城・安土城に程近く、明智家の軍勢がこちらへ向かってくる事は明らかだ。織田家に何の恨みも無いけれど、忠義を尽くす程の恩も受けていない。今後の身の処し方についてどうすべきか考えている高次の元に、ある人物から誘いがあった。高次の妹・竜子たつこの夫である武田元明(もとあき)だ。

 武田元明、永禄五年〈一五六二年〉(天文てんもん(“てんぶん”とも)二十一年〈一五五二年〉とも)生まれで二十一歳。若狭守護の家柄に生まれた元明だが、戦国乱世の荒波に呑まれ弱体化。天正九年〈一五八一年〉に若狭国内で三千石を与えられたものの、長秀の与力である若狭衆の一人という立ち位置だった。

 織田家中で冷や飯を食わされていた元明は義兄の高次に対し『御家再興の好機ぞ!!』と持ち掛け、近江国内で暴れ回ろうと誘ったのだ。近江は志賀郡の明智領を除けば坂田郡(佐和山城)の丹羽領・北近江(長浜城)の羽柴領・南近江(安土城)の織田家直轄領とほぼ空白地帯も同然(本能寺の変発生時、長秀は四国攻めの為に大坂、秀吉は毛利攻めの真っ最中で備中高松にそれぞれ在陣しており、城には留守居と少数の兵しか居なかった)で、切り取り次第の状況にあった。実際、元明は武田家旧臣と結託して若狭国内で蜂起ほうきしており、旧領奪還に向けて始動していた。

 義弟の誘いに、高次も乗った。畿内の周辺で光秀に対抗する勢力はごく僅か、京を押さえ帝や朝廷を掌握していたのも決定に背中を押す要因となった。叛逆はんぎゃくという形ながら次期天下人候補となった光秀と敵対する理由もなく、今の内に恩を売っておいた方が得策と考えて不思議でない。元明と共闘する形で佐和山・長浜の両城を落とし、近江国内で版図はんとを拡げるなど高次は上々の滑り出しを見せた。

 しかし――事態はどう転ぶか分からない。本能寺の変から僅か十一日後の六月十三日、中国道を驚異的な速さで走破した羽柴秀吉は山城国山崎で光秀率いる明智勢に勝利、その光秀も近江坂本へ戻る途中に小栗栖おぐりすの地で自刃したのだ。この転落劇は俗に“光秀の三日天下”と称されるのだが、それに巻き込まれるように高次の未来も暗転する。高次にしてみれば権力者になった光秀への心象を良くする為の行動だったかも知れないが、光秀が滅び秀吉が次期天下人になった事で効果は真逆となった。母・なか、正室・寧々を大切にしてきた秀吉の怒りはすさまじく、愛する家族に怖い思いをさせた高次を処罰すべく捕らえようとした。高次は追手から逃れるべく越前の柴田勝家の元へ落ち延びたが、その勝家も賤ヶ岳の戦いに敗れ天正十一年〈一五八三年〉四月二十四日に自刃、高次の命運も尽きたか――に思われた。

 ところが、高次が処罰される事は無かった。そればかりか、罪をゆるされて羽柴家の家臣になる事を秀吉が認めたのだ。高次と共謀した武田元明は秀吉に恭順すべく近江海津(かいづ)に出頭したところその存在を危険視した長秀の手で謀殺されており、高次も殺されるか厳罰に処されると思われていただけに、皆拍子抜けした。この裁定には、ある女性にょしょうの存在が大きく関係していた。高次の妹・竜子たつこ――元明の元正室にして、秀吉の愛妾あいしょうである。

 元明が始末されとらわれた竜子は処分を待つ身となったが、その美貌びぼうを秀吉に見初みそめられて側室に迎え入れた。秀吉は無類の女好きで知られたのもあるが、正室の寧々との間に子が授からず待望の跡継ぎを儲けるべく経産婦けいさんぷを探していた事情もある。竜子は元明との間に二男一女を産んでおり、子どもを産める体の条件は満たしていた。秀吉の側室は実の娘同然の扱いをした摩阿まあ(前田利家の三女)や出産年齢を過ぎたお福(宇喜多直家の後妻こうさい・秀家の母)など一部例外はあるものの次々と新顔が入ってくるので閨房けいぼう争いは激しかったが、竜子は秀吉と気が合った様子で茶々(淀の方)が入るまで側室筆頭の位置付けを保ち続ける程に寵愛を受けた。子どもこそ授からなかったが側室一番手の住まいとなる大坂城西の丸を与えられたり(後年、茶々に渡される)、秀吉の住まいが伏見城へ移った際には松の丸を与えられたり、秀吉最晩年に開催した醍醐の花見では寧々・茶々に次ぐ三番手の扱いを受ける等、一貫して丁重に扱われ続けた。

 妹が秀吉から特に寵愛を受けた事から、高次の扱いにも好影響を及ぼした。北ノ庄で囚われた高次の身を案じた竜子から助命の嘆願をされると秀吉はあっさり認め、天正十二年〈一五八四年〉に近江・高島郡に二千五百石が与えられ、二年後の天正十四年〈一五八六年〉には五千石へ加増、さらに翌年の天正十五年〈一五八七年〉の九州征伐で功があったとして大溝城主一万石へ加増されて大名に復帰している。

 良い流れはこれだけに留まらない。同年、秀吉の差配で浅井長政とお市の方の二女・初が高次の元に嫁いできたのだ。初、永禄十三年〈一五七〇年〉生まれで十八歳。当時二十五歳の高次とは七つ違い。近江の名門・京極家を丁重に遇する姿勢を強調する事で近江支配を固めたい秀吉の思惑も含まれていた。この婚姻により、高次にさらなる追い風が吹く。

 天正十六年〈一五八八年〉に初の姉・茶々が秀吉の側室になり、高次も初の夫として豊臣家の一門衆に準ずる厚遇を受ける事となる。

天正十八年〈一五九〇年〉に北条征伐で功があったとして近江・八幡山はちまんやま城二万五千石へ加増。この八幡山城、ただの城ではない。秀吉が安土城に代わる近江統治の基幹となる城として安土の城下町や安土城(信長が築いた建物は本能寺の変直後の混乱に巻き込まれ焼失しており、織田家の跡を継ぐ三法師の為に秀吉が後年建て直した建物)を移すなど大掛かりな造営が行われ、天正十三年〈一五八五年〉に秀吉の数少ない親類の羽柴秀次が初代城主に任じられた。その秀次が清州へ栄転となり、その後釜に高次が据えられた次第である。ただ……(前回の九州征伐も含めて)北条征伐で高次が特筆すべき手柄を挙げた記録や史料は、今現在まで発見されていない。近江を代表する家柄を近江の中心に据える象徴的役割を秀吉が期待した……にしても、石高が抑えられているとは言え明らかに実績と比べて身分が釣り合っていない。身も蓋も無い言い方をすれば、加増されるだけの働きを高次はしていなかった。

 茶々は天正十七年〈一五八九年〉に跡継ぎの鶴丸(天正十九年〈一五九一年〉に夭逝)、文禄ぶんろく二年〈一五九三年〉にひろい(現在の秀頼)を産み、秀吉の寵愛を確立した。その妹の旦那である高次もその恩恵を受け、文禄四年〈一五九五年〉には近江・大津六万石へ加増された。この時は朝鮮へ出兵していた“文禄のえき”の真っ只中だが、そもそも高次はこの戦いに参加すらしていない。同年には関白・豊臣(天正十四年十一月二十五日、豊臣姓を下賜)秀次が関白の座を剥奪された上で高野山へ追放、後に自害させられたのに伴う後処理で配置転換が発生していたが、それでも大した働きも貢献もしていない高次が近江の最重要拠点を与えられた上で倍以上の加増とされたのは、縁故以外に考えられなかった。翌文禄五年〈一五九六年〉には豊臣姓が下賜されると共に、従三位・参議に昇叙しょうじょされている。

 このように、側室第二位の妹・竜子と豊臣家の跡継ぎを産んだ茶々の妹・初のお蔭で高次は過分な出世を重ねてきた背景がある。一連の経緯から『女の尻(閨閥けいばつ)で出世した』として“蛍大名”と影で揶揄やゆされていた。

 今この場に居る者は戦国乱世の荒波を渡り抜いてきた海千山千の猛者か、豊臣家を内から支えてきた能吏のうりのどちらかだ。前者は腕力で、後者は頭脳で、いずれも勝てる気がしない。矜持きょうじ面子めんつこそ第一とする武家の者としてやり返してやりたい気持ちはあるが、一方で騒ぎを起こして妹や妻、それに気弱な主君に付き従ってくれている家臣達に迷惑が掛かると思うと、なかなか踏み切れなかった。いや、それは言い訳で、単に相手と喧嘩になっても構わないという度胸や気概きがいが無かった。

(畜生……好き勝手に言いおって……)

 はかまをギュッと握り、懸命に耐え忍ぶ高次。

 誰も好き好んでこんな所に来ているのではない。“出仕するように”とお達しがあったから来ているのだ。それに、羽柴家に仕え始めて幾度も加増を受けてきたが、全て秀吉の意思で決定されたもので、妹や妻を通じて領地や官位を要求した事は天地神明に誓って一度たりともない。高次も流石にそこまで落魄おちぶれていなかった。

 あらぬ汚名をいつかすすぎたい思いを片時も離さず胸に秘める高次。しかしながら、悲しい事にその強い思いを実行に移せる程の器量も兵力も持ち合わせていない。

 まず、勝負勘がない。天正十年の本能寺の変直後の動乱で妹婿である武田元明の誘いを安直に乗ったが為に、高次は一時追われる立場になってしまった。同じ近江国人の蒲生氏郷は苦しい立場に置かれながら明智勢と対峙した事により、秀吉の心象がかなり良くなって重用されたのとは正反対だ。秀吉に仕えるようになってからも戦場いくさばへ出る機会に恵まれなかったのも、武将・京極高次が評価されない要因の一つになっている。

 次に、兵力が足りない。高次の居城・大津城は八幡山城に代わる近江国の中心的位置付けの拠点として整備され、琵琶湖を水上輸送で運ばれてきた物資や近江国内の豊臣家蔵入地(くらいりち)から納められた年貢米の保管を主とし、有事の際は東から侵攻してきた敵を京へ入れない最終防衛線の役割を期待された。しかし、高次の所領は六万石。一万石当たり二百~二百五十名の兵力と仮定すれば、単純計算で千二百~千五百名程度。実際の兵数はもう少し上積みが見込めるが、それでも二千に届くかどうか。はっきり言ってしまえば、その程度の兵力では話にならない。大溝・八幡山と統治面で失点がないだけの高次に真っ当な規模だ。秀吉はその辺りの配慮は抜群に上手く、豊臣家中枢を支える奉行衆や家柄だけが取り柄の名家めいかには権力や官位を授ける代わりに石高は少なく、逆に槍働きで出世してきた者は石高を多くする代わりに畿内から離れた遠国おんごくに配置するなど、釣り合いを取っている。

 そして何より――高次には“胆力”に欠けている。全てをなげうつ覚悟で相対あいたいする気概きがいが無く、ボロ負けしてでもいいから相手に組み付く反骨心も持たず、ただじっと嵐が過ぎ去るのをじっと耐え忍ぶ。名門の家出身にありがちな“全てを受け容れる”負け犬根性に染まり切っていた。

 この日も針のむしろの上に座らされた高次は、刻限が来るまで他人から浴びせられる嘲笑と侮蔑を浴び続けた。


「ただ今、戻った……」

 伏見城から屋敷へ帰ってきた高次は、グッタリとした様子で奥に姿を現した。

「お帰りなさいませ」

 目鼻立ちが整った長身の容姿端麗ようしたんれいな美女が高次を出迎える。この女性こそ高次の正室・初である。現在、二十九歳。美男美女が多い家系の織田“弾正忠だんじょうのちゅう(“だんじょうのじょう”とも)”家でも群を抜いた美貌で『戦国一の美女』と称されたお市の方(小谷殿とも)と偉丈夫いじょうふの浅井“備前守”長政の血を継いでいるだけに、初が居るだけで場がパッと華やぐ。まさしく“立てば芍薬しゃくやく・座れば牡丹・歩く姿は百合の花”の通りで、高次には勿体無い妻である。結婚して十一年が経つが、その美貌は年々増しているように感じた。

「……殿。また城で色々言われたのですね」

 高次の姿を目にするなり、訊ねる初。それに対し、心配をかけまいと高次も否定する。

「い、いや、そんな事は――」

「袴のももの皺。それに、目元」

 初の指摘で反射的に視線を落とす高次。一日中握っていた袴の腿の辺りシワシワだ。鏡が無いので確認は出来ないが、言及している事から目元も赤くなっているのだろう。

 ただ、反応するだけで“何かあった”と認めるようなものである。初はハァと明白あからさまに大きな溜め息をく。

「面と向かって言わない卑怯者と同じ土俵に立たない心意気は立派ですが、皮肉の一つを言い返しても罰は当たりませんよ?」

 旦那の面目めんぼくを保ちながら、初の顔には“情けない”とはっきり書かれている。只でさえ自分には釣り合わない美貌に高潔な性格の初に、高次はいつも引け目を感じていた。

 茶々・初・ごうの俗に“浅井三姉妹”は、母譲りの美形のみならず戦国乱世に生きる女性として持つべき誇りや価値観も継承していた。その反面で、“男共に引いてはならぬ、びてはならぬ”という良く言えば崇高な矜持、悪く言えば高慢・尊大な性格だった。秀頼の母にして秀吉の没後の豊臣家で実質的な主となった淀の方(茶々)しかり、家康の三男・秀忠に再嫁さいかし自らがうとんじていた長男の竹千代に代えて可愛がっていた次男の国松を世継ぎに据えんとするなど将軍を尻で敷いたとされる江然り。長女で母・お市の方に一番似た茶々や末っ子で奔放に育った江と比べれば真ん中の初は二人より幾分マシではあるものの、それでも劣等感の強い高次は“圧”を感じていた。本人はそう思っていないかも知れないが、初の目や表情は“失望”や“叱責”しているように捉えられる。

「……まぁ、この話はこの辺でめておきましょう。それよりも」

 初がゆったりと座る。直後、初は目で“座って”と促してきたので、高次もそれに従う。

 それから、侍女達に下がるよう目配せし、高次も近習達に退室を命じる。人払いが完了してから、初はおもむろに切り出した。

「殿。つかぬ事をお伺い致しますが、この先どちらに付くおつもりですか?」

「どちら、とは……」

「決まっております。徳川か石田か、です」

 曖昧あいまいに濁そうとする高次を逃すまいと、初は端的に斬り込む。

 戦国時代では女性がまつりごとに口を挟むのは御法度ごはっととされてきたが、一概にそうとも言えなかった。大名家同士の結婚した場合、妻は実家へ情報を流す間諜かんちょうの役割も担っていた。そして、嫁ぎ先が妻の実家と敵対する事になれば、妻の方から離婚を申し出る事も珍しくなかった。最終決定は当主たる旦那が行うものの、妻にも意見を述べるだけの権利はあったのだ。

「それは勿論、公儀(豊臣家)に……」

 原則論を主張する高次へ、さらに初はただす。

「それが許されると本気でお思いに?」

 核心を突かれ、グッと詰まる高次。逃げは認めないと初は迫ったのだ。流石の高次でも時勢じせいを読めない程の阿呆ではなかった。

 豊臣家の天下は頂点に座る秀吉が睨みを利かせる事で成り立ってきたが、その秀吉の死去で天下人の席が空いた。自らにお鉢が回って来たと捉え水面下で動き出している(と目される)家康か、幼君・秀頼を後釜に据え現状の体制を維持したいと考える三成。二人が同じ船に乗る未来は絶対に有り得ない。将来的に両者が激突するのは確実な情勢で、いずれはどちらかに与する事を迫られる。京極家と一族郎党・その家族の生活と未来をけて。日和見が許されるのは公儀の豊臣家くらい、中立を選んだ場合は勝者の心象しんしょうが著しく悪くなる。負けなくても改易の沙汰さたが下されてもおかしくない。大津は京の都に近く交通の要衝、天下分け目の大戦おおいくさで存分に働いてくれた者へ報いる為の恩賞で与えるには打って付けの土地だ。賭けにも踏み切れない閨閥だけで出世してきた(と世間で思われている)高次には勿体無さ過ぎる。

「……正直、まだ決めかねておる」

 逃げ道を塞がれた高次は観念したように自らの考えを率直に明かした。その答えに初も“致し方ない”という顔を浮かべる。

 家康は関東二百五十五万石の太守たいしゅだが、今の立場は“五大老”の一人に過ぎない。秀吉が世を去って日が浅い現時点で野心をあらわにすれば、他の四大老や五奉行から袋叩きに遭ってしまう。石高では家康が頭一つ抜けているものの、毛利輝元(百十二万石)・上杉景勝(百二十万石)・前田利家(八十三万石、嫡男・利長の分も含む)・宇喜多秀家(五十七万石)の四名が合力ごうりきすれば家康を上回れる。そして、秀頼の母・淀の方が家康の天下簒奪さんだつを警戒し敵視しているのが何より痛手だった。

 逆に、三成は淀の方から信任が厚い一方で、“武断派”と呼ばれる槍働きで出世してきた武将達から絶望的なくらいに忌み嫌われていた。加えて、三成の所領は佐和山十九万石と少なく、反家康の旗頭となるには些か力不足と言わざるを得ない。

 どちらも今の時点では与する決定打に欠ける状況で、高次が優柔不断な訳ではなかった。

「初は、どう思う?」

 自分より聡明そうめいな妻の意見を参考にせんと高次は話を振るも、その初の表情が瞬時に曇る。

「私は……どちらにも血の繋がった者がりますから」

 絞り出すように答えた初の言葉に、高次は自らの軽率さに気付かされた。

 初の姉・淀の方は三成方、妹の江は家康の嫡男・秀忠の妻だ。姉と妹が敵対するのは確実な情勢で、真ん中の初は板挟みの状況だった。どちらを選んでも心を痛める事に変わりはなく、それを迫るのはいささか酷である。

 場が重苦しい雰囲気になったのを察した初は、咳払いをしてから改まった口調で話す。

「……この難局を乗り切るには、殿にも懐刀ふところがたなが必要となることでしょう。出過ぎた真似かも知れませんが、私の方から頼みとする人物へ声を掛けさせて頂きました」

 予期せぬ発言に高次は目が点になった。固まる高次を差し措いて、初は「おきな」と呼ぶ。

 直後、ふすまけられると一人の男性が平伏していた

「久しいの、翁。幾つになった?」

「はっ。今年で五十九になりました」

 五十九歳となれば、天文九年〈一五四〇年〉の生まれか。……正直、六十代中盤くらいだと高次は思った。

「それにしても、“寿至斎すてつさい”とは素敵な雅号だのう」

「ははは、字面じづらだけ見ればそうかも知れません。実際は“世を捨てつ人”から体裁ていさいを整えただけに過ぎませぬ。今は山科やましなにて写本や近所の子ども達に読み書き算術を教えたりして小遣いを稼ぎつつ、書を読んだり歌をんだりし悠々自適な隠居生活を満喫しております」

 初が親し気に話を振ると、翁は謙遜しながら答える。

 一人だけ蚊帳かやの外にある高次も、会ってから僅かな時間で“翁”と呼ばれる御老体ごろうたいが知的な人物という印象を抱いた。“捨てつ”から“寿至”とてる感性や諧謔心かいぎゃくしん、温かみのある話し振りと、人柄がよく出ているように思う。しかしながら……初の人選とは言え、京極家が置かれた難しい立場を乗り切る為の知恵袋を任せるには少々頼りなく感じる。見た目は明らかな文人肌で、戦場いくさばに立つには線が細過ぎる。

 すると、懐疑かいぎ的な視線を送る高次に初が言い添えてくれた。

「翁は浅井家で内政を担う事務方の傍ら、父の軍師として策を提言しておりました。かの野良田のらだの勝利や姉川の善戦も、全て翁の策があったお蔭と聞いております」

 初の言葉に、高次は目を大きく見開いた。それが事実ならば途轍とてつもない逸材だ。

 元々は京極家の家臣だった浅井家は亮政すけまさの代に頭角を現し、御家騒動で弱体化した京極家に代わり北近江の支配権を確立した。しかし、天文十一年〈一五四二年〉一月六日に亮政が亡くなると、浅井家も跡目を巡って嫡男の久政と婿むこ養子の田屋明政(あきまさ)が対立。この争いは久政が勝利したものの、亮政と比べ才覚に乏しい久政は南近江の六角家の侵攻に押され、最終的には六角家の軍門に事実上(くだ)ってしまった。久政の嫡男・猿夜叉丸さるやしゃまると生母・小野殿は六角家の人質に取られ、猿夜叉丸が十五歳で元服した際には六角家当主・義賢よしかたから偏諱へんきを受けて“賢政かたまさ”と名乗らされた上で六角家家臣・平井定武さだたけの娘をめとらされた。

 こうした扱いに日頃から久政のやり方に不満を抱いていた家臣達の怒りが爆発。浅井家の神輿みこしを担ぐに不適格と断じた家臣達によって久政を琵琶湖の竹生島ちくぶじまへ追放・幽閉、強制的に隠居させて嫡男の賢政を当主に据えたのだ。簡潔に言えば政変だが、家臣達から仕えるに値しないと判断して当主をげ替える例はこの時代決して珍しくなかった。名将と名高い甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信がそうである。家臣達の強い期待に押されて担ぎ出された賢政は浅井家の家督を継ぐに当たり妻と離縁し実家へ送り返し、名も“長政”と改めて六角家との訣別を内外に示した。

 従属的な位置付けだった浅井家の造反に激怒した六角承禎(じょうてい)弘治こうじ三年〈一五六八年〉に出家・改名)は、自ら大軍を率いて浅井家討伐へ動く。その数、約二万五千。一方の浅井方は亮政の代に繋がりのあった越前・朝倉家へ援軍を求め、一万一千の兵を集めるも六角方の半分以下に留まった。宇曾川うそがわの両岸に布陣した両軍は永禄三年〈一五六〇年〉八月中旬に激突。開戦直後は数で上回る六角勢が圧倒したが、想定外の方向から浅井勢が奇襲したのを契機に潮目が変わり、負ければ後がない浅井勢の猛反撃もあり承禎は兵を退く決断を下さざるを得なかった。この“野良田の戦い”と呼ばれる戦いで二倍以上の相手に勝利を収めた長政は浅井家当主の座を確固たるものにし、北近江を治める戦国大名として自立していく事となる。

 その後に長政は南へ版図を拡げるのと共に、美濃を制した織田信長に接近。将来的な上洛を念頭に置いていた信長は長政の器量を買っていたのもあり、浅井家との結び付きを確かなものとすべく“絶世の美女”とうたわれた妹の市を後妻こうさいに差し出した。長政も流浪の身だった足利義昭をほうじて上洛するだけの実力を持つ義兄・信長を高く評価し、上洛戦に浅井家から兵を出すなど共同歩調を取る姿勢を打ち出した。上洛を果たした信長は将軍に就任した義昭の庇護者ひごしゃとして権力者の階段を着実に上がっていくが、長政も盟友として丁重に遇された。

 ただ……浅井家も上から下まで信長の伸張を歓迎している訳ではなかった。先代・久政やそれに近い者達は(自分達もそうである事を棚に上げて)出来星大名の信長を快く思っておらず、どうせ近付くなら名門の朝倉家にすべきだと考えていた。本来ならば“当主失格”の烙印らくいんを押された久政にまつりごとへ口を挟む資格などある筈が無いのだが、長政は父を完全に排除する事が出来なかった。そうした最中、元亀元年〈一五七〇年、四月二十三日改元〉四月下旬に信長が越前へ侵攻。織田か朝倉か、長政は決断を迫られた。悩みに悩んだ末――朝倉家に味方する事を決断。盟友の離反で北と南で挟まれる形となった信長は直ちに越前攻めを中止、琵琶湖西岸を南下し京へ戻った。

 浅井家が敵に転じた事で美濃と京を結ぶ南近江が圧迫される事態となり、これを取り除かんとする信長は盟友・徳川家康の加勢を含めて総勢三万(内、徳川勢五千)の軍勢で同年六月に北近江へ侵攻。これを受け長政は朝倉家へ援軍を要請し、朝倉義景(よしかげ)も一門衆の朝倉景鏡(かげあきら)を大将とする一万の軍勢を送った。浅井勢も八千の兵を率いて小谷城から出撃、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍は姉川を境に睨み合いとなった。

 元亀元年六月二十八日、開戦。三倍近い織田勢を相手に浅井勢は当主長政が先陣に立ち火の出る勢いで攻め立て、織田勢十三段の構えの内で十一段まで斬り込んだとされる。だが、味方の朝倉勢が半分程度の徳川勢に敗走し、織田勢も立て直しが見られた事から長政も退却を余儀なくされた。戦には敗れたが長政の武勇を世に知らしめる事になった。

「そは、真か……?」

「はい。私は戦場いくさばに立てる程に頑強な体ではありませんでしたので、帷幕いばくの内にて物見達から集められた情報を元に策を立て、殿にお伝えしておりました。ですが、味方の勝利は備前守びぜんのかみ(長政の官名)様や将兵達が命を懸けて戦ってくれた大前提があったからで、私は微力ながら後押ししたに過ぎません」

 謙虚に答える翁。

 高次が、チラリと翁の体を見る。体は小さく、小袖から出る腕も白く細い。体格が全てとは言わないが、戦に出ても命を落とす可能性が高い。参謀として影から支える道を選んだのは正しいと思う。

 しかし、そこまで考えた高次は疑問が湧く。

「……それ程の実績がありながら、どうして仕官しなかったのだ? そうした誘いが無かった訳でもなかろう」

 戦国乱世の時代、どの家も勝ち残る為に有能な者は常に欲していた。一騎当千の猛者のみならず、軍の頭脳である参謀・軍師の需要も高まっていた。武田信玄に山本“勘助”、今川義元に太原たいげん雪斎せっさい、尼子勝久に立原たちはら久綱ひさつなといった具合に、名将の側には常に名参謀が居た。

 すると、翁は少し寂しそうな表情を浮かべて答えてくれた。

「こういう立場の者にはよくある事ですが……槍働きで功を挙げてきた者達は戦場いくさばに立たない者を軽んじたり快く思わなかったりする事が多いですから。それに、織田家やその家臣達にも、私が入る余地はありませんでした」

 古来より、現場に立つ武将と内政をつかさどる文官の相性あいしょうは良くない。武将達は『命を懸けて戦わない癖に生意気だ』と気に食わないし、文官も『何も考えない阿呆だ』と見下す傾向がある。特に軍師や参謀の役は主君の信が厚く側近くにはべる事が多いので余計にやっかみを買う要因となった。

 そして、翁にとって不幸だったのは、浅井家が滅んだ時点で織田家やその家臣達に軍師の座が埋まってた事だ。既存の枠組みにとらわれない発想の持ち主である信長には軍師や参謀は不要、柴田勝家や丹羽長秀など重臣には譜代の臣がり、一番の人材難で困っていた羽柴秀吉には竹中“半兵衛”重治しげはるや黒田“勘兵衛”孝高よしたかという稀代の軍師が揃っていた。羽柴家に文官で仕える選択肢も考えたものの、当時は子飼いの若者を積極的に採用しており、年嵩としかさの翁が重用されるとは思えず諦めた。

「ではまた、何故なにゆえ当家に仕えようと思ったのだ? 暮らし向きに困ってる訳でもあるまい」

 線こそ細い翁だが、血色けっしょくは良い。それに、着ている服も綺麗だ。金に困っている風に高次は見えなかった。

 この質問に、翁は事も無げに答える。

「初お嬢様……失礼、御方様から声を掛けて下さいましたから。人間呼ばれる内が華と考えております。隠遁いんとんして早二十五年、ここで呼ばれたのも何かの縁と捉え、最後のご奉公をしようと思い立った次第」

 さも当然と言い切る翁。片や、その言葉に思う所がある高次は、考え込む仕草を見せる。

(縁、か……)

 使い古されてきたりに聞こえる“縁”の一字に、高次の人生は浮き沈みを繰り返した。この縁が良縁りょうえん悪縁あくえんかは分からないが、託してみるのもまた一興いっきょうか。

「……もう一つだけ訊ねたい事がある。どうして、私に仕えようと思ったのだ?」

 居住まいを正した高次が改めて問う。先程の“当家”から“私”に変わっただけで大差が無いように捉えられるかも知れないが、本人の中では決定的な違いがあった。

 その機微きびを察した翁も、真剣な表情で返す。

「弱虫で凡愚ぼんぐだからです」

 仕官の決め手になった要素とは到底聞こえない単語を発した翁に、高次も思わず目が点になる。それは同席する初も同じで、翁の言葉を理解出来ていない様子だった。

 ただ、当の本人は確信を持って続ける。

「他者から何と言われようと決して手を出さない、詰まるところ忍耐がある裏返し。また、身の程をわきまえておられるからこそ、過信やおごりとは無縁。こういう御方こそ大将に相応ふさわしいと自信を持って言えます」

「なれど……弱腰なのは行動に移すだけの胆力たんりょくが無いだけでは? それと、自信の無い者は自らを過小評価してしまうと思うのだが」

 おずおずと反論する初。しかし、翁に微塵の揺るぎも感じられない。

「臆病な者にも心さえ折れていなければ反撃する能力も気概きがいもございます。小さく捉えるのも周囲が支えてあげれば問題ありません。ご自身が気付いていないだけで、宰相様は立派な大将になれるだけの器をお持ちです」

 何の心配も要らないとばかりに胸を張る翁。それに対し、高次も初も呆然としていた。

 ここまで褒められた事が、過去あっただろうか。織田家へ人質に出されてから、羽柴家へ仕え始めてから、高次は誰かから褒められた覚えは無かった。周りには有能な者が綺羅星の如く存在し、自分は肉眼に捉えられるかどうかの微かな輝きしか放てない。劣等感を常に抱いていたからこそ、『閨閥で出世した』と陰口を叩かれても言い返せなかった。そして、自分はこのまま嘲りの中で生きていくのだと思っていた。

 けれど――翁の言葉を聞いて、自分の中でくすぶっていた魂に火がいた。わらわれっぱなしで終わりたくないと、忘れかけていた武士の矜持を思い出した。

「翁」

「はい」

「頼りない主君かも知れない。だが……頼む。知恵を、貸して欲しい」

 言うなり、頭を深く下げる高次。自分に飛び抜けた才が無いのは重々承知している。余人を排しているこの場で、恥も外聞がいぶんも捨てて高次はこいねがった。

「こんな老いれで良ければ、喜んで」

 高次の誠意は翁にも届いたみたいで、丁重に受けた。

 くして、高次は“翁”という第三の刃を手にする事が出来た。表向きは文官として雇われたが、高次の側用人として侍る事となる。



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