第4章:忘却の箱庭、記憶の迷宮
智子が目を覚ますと、そこは夢想堂書店だった。しかし、何かが違う。棚には彼女の記憶にない本が並び、壁には見知らぬ絵画が掛かっている。
「ここは……私の記憶の中?」
智子は慎重に歩き出した。足音が木の床を軋ませ、それがまるで時間の波紋のように広がっていく。
突然、背後から声がした。
「智子、君か」
振り返ると、そこには大学時代の恩師、高橋教授が立っていた。しかし、その姿は若く、智子が学生だった頃のままだ。
「先生……? どうして……」
「君は自分の物語を書き直そうとしているんだね。でも、気をつけなさい。記憶は時に裏切るものだよ」
高橋教授はそう言うと、本棚の間に消えていった。智子は慌てて追いかけようとしたが、その先には別の光景が広がっていた。
そこは智子の子供時代の家。懐かしい匂いと温もりが彼女を包み込む。
「智子、おかえり」
母の声。しかし、姿は見えない。
「お母さん……私、何かを忘れているの?」
返事はない。代わりに、部屋の隅に置かれた古い箱が目に入った。智子はその箱を開けた。
中には、彼女が書いた数々の物語が詰まっていた。子供の頃から書き続けてきた、夢と想像力の結晶。しかし、なぜかそのことを忘れていた。
「そうか……私は、書くのをやめてしまったんだ……」
その瞬間、部屋全体が揺れ動き、景色が変わった。今度は大学の教室。そこには若き日の智子が座っている。
「村上さん、君の小説は素晴らしい」
高橋教授の声が響く。若き智子は喜びに満ちた表情を浮かべている。
「でも……私はなぜ書くのをやめたの?」
現在の智子が自分自身に問いかけると、若き智子が振り返った。
「怖かったのよ。自分の物語を世界に出すのが」
その言葉と共に、教室の風景が霞んでいく。代わりに現れたのは、就職活動に励む智子の姿。そして、古書店で働き始めた日の記憶。
「私は……逃げていたんだ」
智子はようやく理解した。彼女は自分の夢から逃げ、安全な場所に身を潜めていたのだ。
そして再び、書店の風景が戻ってきた。しかし今度は、現実の夢想堂書店だった。
佐藤が心配そうな顔で智子を見ている。
「智子さん、大丈夫ですか? 急に倒れたから……」
智子はゆっくりと立ち上がった。頭はまだ混乱しているが、心の中には確かな決意が芽生えていた。
「大丈夫です、佐藤さん……すみません。……私、本当の私を見てきたんです」
佐藤は首を傾げたが、智子の目には強い光が宿っていた。
彼女は棚から例の本を取り出した。今度こそ、自分の物語を書き直す時が来たのだと、智子は感じていた。