第2章:鏡の中の時計、逆回りの現実
夢想堂書店の古い木製カウンターに寄りかかり、智子は深い溜息をついた。鈍い茶色に塗られたカウンターの表面は、長年の使用で所々剥げ、木目が露出していた。その凹凸を無意識に指でなぞりながら、智子は過去一週間の出来事を振り返っていた。
あの奇妙な本との遭遇から一週間。その間、智子の日常は徐々に、しかし確実に歪んでいった。
まず、火曜日のこと。いつも通り棚卸しをしていると、突如として本の背表紙の文字が踊り出し、意味不明な文章を形成し始めた。それは一瞬の出来事で、目を疑った智子が再度見直すと、すでに元通りになっていた。
水曜日には、常連客の山田さんが来店。しかし、いつもは短髪の彼が、突如として長髪になっていた。智子が驚いて尋ねると、山田さんは「僕はずっとこの髪型ですよ?」と答え、むしろ智子の方を不思議そうに見つめ返した。
木曜日、店内の古時計が13時を指し示した。しかし、他の時計はすべて正午を示していた。その瞬間、店内の光が歪み、一瞬だけ見知らぬ風景が視界に飛び込んできた。目を疑った智子が再度見直すと、やはりそれもすでに元通りになっていた。
金曜日には、智子自身の影が動き出し、彼女とは別の動きをし始めた。鏡を見ると、そこに映る自分が微笑んでいた。しかし、智子自身は笑っていなかった。智子は恐怖にとらわれた。
土曜日、店に並べられた本から、かすかに囁き声が聞こえてきた。それは物語の登場人物たちの声のようで、智子に何かを伝えようとしているかのようだった。
そして日曜日。智子が目を覚ますと、自分の部屋が書店に変わっていた。パニックになって外に飛び出すと、そこは見知らぬ街並み。しかし、目を閉じてから開くと、元の風景に戻っていた。夢にしてはあまりにもリアルな光景だった。
これらの出来事は、もはや偶然や錯覚では説明がつかない。智子は、自分が何か大きなものに巻き込まれていることを感じていた。現実と非現実の境界が曖昧になり、彼女の認識そのものが揺らいでいるようだった。
カウンターに寄りかかったまま、智子は再び深い溜息をついた。そして、ふと目を上げると、書棚の隙間から、あの奇妙な本が彼女を見つめているように感じた。
「智子さん、今日も元気そうだね」
いつものように佐藤が店に入ってきた。40代半ばの彼は、この店の常連客だ。しかし今日の佐藤は、どこか様子が違っていた。
「あら、佐藤さん。今日は……髭を生やしたんですか?」
智子の問いかけに、佐藤は困惑した表情を浮かべた。
「えっ? 僕はずっと髭を生やしていますよ。智子さんこそ、髪型が変わりましたね」
「え?」
智子は自分の髪に触れた。確かに、いつもの短めのボブカットではなく、肩まで伸びた髪が指に絡みついた。
「あ、ああ……そうでしたね」
智子は動揺を隠すように微笑んだ。しかし、内心は混乱していた。昨日までの記憶では、確実に短髪だったはずだ。
佐藤は本棚を眺めながら歩き始めた。その姿を見つめる智子の視界が、突如として歪んだ。
佐藤の輪郭が揺らぎ、まるで古いテレビの映像のようにノイズまじりになる。そして次の瞬間、佐藤の姿は消え、別の人物が立っていた。
「お客様、何かお探しですか?」
智子は上品に声をかけた。しかし、その人物は振り返ることなく、本棚の間を通り抜けて消えてしまった。
「お客様……?」
智子は慌てて本棚の間を覗いたが、誰もいなかった。代わりに、床に一冊の本が落ちていた。
おそるおそる拾い上げると、それは先週見つけた例の本だった。開くと、そこにはこう書かれていた。
『時間は直線ではない。それは螺旋であり、時に交差し、時に分岐する。あなたは今、どの時間線にいるのだろうか』
智子は本を閉じ、深く目を瞑った。軽い頭痛がする。
「これは……夢なの? 現実なの?」
彼女の問いかけに答えるように、店内の古時計が鳴り響いた。しかし、その音は通常の12回ではなく、延々と鳴り続けた。
智子が目を開けると、店内の光景が一変していた。棚には見たこともない本が並び、窓の外には見知らぬ街並みが広がっていた。
「ここは……どこ?」
智子の呟きは、誰にも届かなかった。彼女は知らず知らずのうちに、時間と空間の裂け目に足を踏み入れていたのだ。