第1章:本の中の蟻
東京の下町、古びた木造建築が立ち並ぶ路地裏に、「夢想堂書店」はひっそりと佇んでいた。梅雨の晴れ間、じめじめとした空気が店内にも染み込む6月のある日、村上智子は普段通り棚の整理をしていた。
29歳になる智子は、この古書店で10年以上働いている。黒縁の眼鏡をかけ、髪を後ろでまとめた姿は、令和の世にあってどこか昭和の雰囲気を漂わせていた。彼女の手元には、古い革表紙の本が一冊。
「こんな本あったかしら……」
智子は首を傾げながら、その本を眺めた。タイトルも著者名もない、ただの古ぼけた本。しかし、なぜかそれを開かずにはいられない衝動に駆られた。
ページをめくると、そこには不思議な文章が並んでいた。
『蟻は本の中を歩く。蟻は言葉を食べ、文字の海を泳ぐ。そして、蟻はあなたの目の前に這い出る。』
智子は目を疑った。確かに、ページの上を小さな蟻が這っている。いや、這っているように見える。彼女は慌てて本を閉じた。
「なにこれ……」
智子は頭を振り、本を元の場所に戻そうとした。しかし、その瞬間、彼女の手から本が滑り落ち、床に広がった。
「あっ!」
慌てて拾い上げようとした時、智子は息を呑んだ。開いたページには、先ほどとは全く異なる文章が書かれていたのだ。
『女は本を拾う。女は言葉に触れ、文字の海に溺れる。そして、女は自分自身の物語の中に入り込む。』
智子は周囲を見回した。誰かのいたずらだろうか? しかし、店内には彼女以外誰もいない。
「どういうこと……?」
彼女の呟きに答えるように、古い柱時計が12時を告げた。その音は、いつもより少し長く、少し歪んで響いたような気がした。
そして、その瞬間から、智子の現実は少しずつ、しかし確実に歪み始めていった。