その後の話2
夏は暑いものである。都市部にいたころは、地形的な理由と、都市的な理由で、夏の暑さは地獄だった。貴純村の夏の暑さは、それに比べればれば天国である。八屋の姪である渚が避暑に来るくらいに。七月中に夏休みの課題を終わらせ、八月にはもどって受験対策の講座がみっちり、らしい。
「千晃おじさんの弟子になって、この村の経理引き継ぐっていうのは、どうですか?」
「何が“どうですか?”だ」
千晃も大学受験は経験しているが、二昔も前の話だ。もうすっかり記憶も薄れているし、受験のシステムも変わっている。何も言えることはない。
「逃げ道が心の支えになるなら、別にいいぞ。背水の陣と、どっちが効果的なのかは、人によるだろ」
「うー……その逃げ道、就職活動まで置いといてください!」
「この村に分け合えるほどのパイはないから、すぐに修行に出すことになるけどな」
「えーん、千晃おじさんのいじわるー!!」
さすがは同じ血を継いでいる。わめき方が八屋に似ていると思った。
渚と八屋は相互に監視しながらそれぞれ作業をしていた。渚は課題を、八屋は原稿を。慎もタブレットPCで何か描いている。そんな作業場に何故千晃がいるのかといえば。
「切ってきたよー、水ようかん!」
紅鬼がおやつの差し入れを持ってきたからだ。雑談は、つまり休憩中なのである。
村のお姉様に教わり、小豆から作ったという水ようかんは、さらりつるりとちょうどいいかたさである。みな、頭脳を酷使していた。渚は『甘さがしみるー』と、ぽいぽい口の中に放り込んでいった。
「そうだ。千晃さん、お手伝いお願いしたいんだけど、年末って実家に帰るとか旅行いくとか、予定ある? 去年はこの村で過ごしてたけど」
「年末って、随分気が早い話だな。顔を合わせたから、実家に紅鬼を連れて行ってもいいけど、恒例行事は何もねえよ。甥にやるお年玉は、どうにでもなる」
「頼んでも大丈夫ってことでいいのかな。当落まで確定できないけど、八屋と合同で冬コミ出ようかなって話になっているんだ。その手伝いをお願いしたい。こっちで全部持つから、紅鬼くんに柘榴のコスプレ売り子してほしい」
「えっ、なにそれめちゃくちゃ見たい!」
受験生が吠えた。
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受験生はまだ受験生のままのため、残念ながら不参加である。合格したらコスプレを生で見せてもらう約束だけは取り付けていた。それを心の支えに追込中らしい。
「聞いてたが、なんかすごいな……」
「人間、なりふりかまわずパッションに全振りしたらこうなるってもんで」
「ざっと見てきた感じ、八割九割女性か? どっちかわからないのも、けっこういたが」
「今日は女性向けの日だから。いつもオレは三日目で取ってるけど、今回はいろいろおだてられて、なぎちゃんにも渡せるようなものにしたからね」
「申し込みしたの八月だったろ。おだてられ続けてる」
「漫画家のオレにできるのは、描くことだけさ。あと、大晦日は家族と過ごしたいし」
千晃は今日いきなり東京ビッグサイトに連れてこられたわけではない。ある程度、コミックマーケットとは何かを教わっている。今回は“女性向け創作BL”で、前回までは“混沌とした三日目”で取っていたらしい。女性向けというだけあって、会場内は圧倒的に女性が多い。聞いてはいたが、おっさんは少々肩身が狭い。
「俺がさばくのは帳簿上の金で、現金の扱いはプロではないんだけどな」
「それでも、お金に強い人がいるのは心強い。あと、そんなに混雑は想定してないけど、人手はあればあるだけいい」
「収穫時期によく聞くセリフだ」
一年といくらかですっかり村に馴染んだ言葉が出てくるようになった。
準備は八屋と千晃で。紅鬼は着替えに行っている。慎の知り合いに協力をお願いしているため、慎もそちらである。
「今日、新しい試みをしてるから、新刊のハケ具合がホントに全然分からなくて心配で。シン先生と紅鬼くん効果でカバーしてもらえたら、いいな……」
「一緒に出るのはそれが狙いか?」
「男性作家の描くBLとか、普段美少女系描いてる作家の描くイケメンとか、そこからしか得られないものもあるけど、狙って出せるものでもないから、マジ不安」
「損益分岐点まではがんばれ」
「ひぃん! 今から頑張れることなんてないよぉ……」
八屋は泣き言をぽろぽろこぼしている。
今回発行の漫画は、本になる前に千晃も読ませてもらった。さすがはプロの漫画家だ。十分に売れるものだと思った。一番最初の読者の渚も泣くほど喜んでいた。開けてみなければわからないが、悲観的になるほどでもないだろう。感性は人それぞれなので、千晃と渚の二件のサンプルでは少なすぎるかもしれないが。
箱で積まれた本の作成費は、作業時間も込みで考えれば、趣味の一言で出せる金額ではない。『でも楽しいからやめられない』らしい。
「ん? 戻ってきたな」
「うっわ、すご……」
サイズ確認で衣装を着たところは見せてもらったが、今はそれだけではなく髪型やアクセサリまで完璧に合わせている。
「どう? どう?」
よく見ればまぶたに色が乗っている。肌の質感もいつもと異なる。しっかり化粧も施されている。
「どうって。──あんまり人を惑わすなよ」
今のところまだ見飽きていない紅鬼の整った顔は、千晃の贔屓目だけではないのだ。
「慎! 魔性だって!」
「魔性、いいね魔性。新刊と写真撮りたいから、スペースのそこ立って」
楽しそうならまあいいか、と、千晃は達観気味である。
なお、キラは『そのまんますぎるし、もっていけるかわからないし、かさばるから置いていく』だそうだ。かさばるかさばらないでいえば、千晃もかさばる方だと思うのだが、単純な体積以外で基準があるようだ。
損益分岐点を超えるどころか、人は絶えず、想定外に早くに完売となっていた。
「うえーん、ありがとうサクサクさばいてくれたからめっちゃ時間あるし!」
「あの行列見たらさばくだろ」
「完売させるつもりなかったから、再販考えないといけないかも。千晃さん、相談させて」
「少し余るくらいが理想だが、今回は仕方ないことはわかる。俺は詳しくないから、あやふやでない実績とか数字もってくるなら、一緒に考えるぞ」
「はーい、数字持っていきます」
慎はミネロマを作っている企業へ挨拶へ行っている。紅鬼は、『ヒマになったらコスプレ広場にって言われたから行ってくる』とのこと。
売上の確認、ゴミの片づけ等は八屋と千晃で行っていた。プロの作家ということで、八屋に挨拶に来る者に時々対応しながら。
「お片付け完了! 千晃さん、もう自由行動でいいよ。ありがとう。紅鬼くんのお迎えに行ってあげなよ、旦那さん」
「そうだな。コスプレ広場ってどこだ?」
「開放されてるところいくつかあるから、どこにいるか確認したほうがいいよ」
少し迷ったが、どうにか紅鬼がいるスペースまでたどり着く。広場にはカラフルな人々でいっぱいだ。紅鬼は目を引くが、ここは目に雑音が入りすぎる。
と、思ったのだが。
声が聞こえた気がして目をやると、人混みをすり抜けて紅鬼が近づいてきた。
「千晃ー! さむーい!」
ずぼっと千晃の着るダウンジャケットの中に手を入れるように抱きつかれた。
「外ではやめろ。荷物は?」
「スマホしか持ってない」
コスプレ衣装に収納性は皆無だ。ネックストラップで首からかけているスマートフォンは見えないように衣装の中に落とし込んでいる。腹にそれらしい感触が当たっていた。
「寒さ感じねえだろ、お前。……中入ったら返せよ」
ダウンジャケットを着せてやる。寒いが、短時間なら耐えられなくもない。
「お迎えきたから、じゃあね」
紅鬼は振り返り、手をふる。昨今のスマートフォンでも十分な写真が撮れるだろうに、ゴツいカメラを持った数名が明らかに紅鬼に目を向けていた。
「イケオジ審神者的な位置づけで! あの、よかったら写真撮らせてもらっても!?」
「あ? 俺か?」
ミネロマのキャラクタのコスプレをした(キャラクタは男だが)女性は、カメラを構えつつジリジリ近づいてくる。
「俺はただのモブおじさんだ。そういうのはしない。悪いな」
細かいニュアンスは汲み取れていないが、慎や八屋の語彙から拝借する。
「モブ……っ!! えっ、コウキさん次のイベント何でますか?」
「オレはシン先生に頼まれただけだから、先生にまた頼まれたらね」
やっとじりじりにじり寄ってくるような彼女らから離れられた。
柘榴のコスプレを見たいということで、そのまま企業用のスペースまで連れ立ってやってきた。はぐれないようにと紅鬼に裾を掴まれたまま。
「えっ、わっ……語彙がちいかわになる……!」
ミネロマを作っている会社は、慎の得意先でもある。そのスタッフが慎のポストを見て、ぜひいらっしゃってくださいと誘われたのだ。
「衣装見せるんだろ。上着返せ」
企業用のスペースがある区画まで案内板が多く迷いはなかったが、いくらか歩く羽目になった。屋内ではあるのだが、上着なしはそろそろ凍える。紅鬼からダウンジャケットを受け取り、すぐに着込んだ。
紅鬼は、暑い寒いを感じたとして、それが不快となるわけでもない。あくまで気温や風や湿度の情報でしかないのだ。
ピタッとしたインナーで露出はそれほど多くないが、手首足首は十分に出ている。ファーは付ついているが飾りであって防寒性はない。ダウンジャケットを貸していたのは、見ているこっちが寒いと思えたからだ。そして、コスプレモードではないと周囲にしらしめるためであった。
紅鬼はくるりまわってスタッフに衣装を見せていた。作中のポーズまで取ったが、そのまま千晃の正面に背を預けるようにダウンジャケットに潜り込んできた。二人羽織れていない二人羽織である。
「コラ」
「やだ、寒い」
寒さを口実にしてくっつきたいだけであることはわかっていたが、引きはがすほどでもなかったのでそのままにしておいた。
「ちあ……名護さんは、今回スペースを手伝ってくれたうちの村の経理他お金の相談窓口、つまりメルコムです」
「どうも、悪魔じゃないです、名護と申します」
慎は今日も明日も使えない知識を口にする。それによると、メルコムは地獄の会計士だか財布番だかを務める悪魔らしい。お金に関する相談は受け付けているが、会計士はまた別だろう。
カラフルな名刺をもらった。佐々木という名前と肩書が書かれている。肩書のアートディレクターがどういうものなのかは、千晃にはよくわからなかった。
「申し分なくオジショタなんですけど、大丈夫ですか?」
「やめてください千晃さんはカタギ寄りの人なんです見た目だけで違法ではないです」
「おいこらやめろ、そっちのノリに巻き込むな」
時々、慎と八屋のやたら隠語めいた話を聞いているので、そういう方向のノリであることは知れた。
千晃と紅鬼は、紅鬼が人でないので適用される法がないため、違法ではないと言える。合法でもない気はするが、それは言わなくてもいいことだ。
「そういえば、最近はオタクじゃない人をカタギの人って言わなくなりましたね」
「いわゆるオタク趣味がマイナスの意味を持たず、良くも悪くも特別な趣味ではなくなってきたからですかね」
やはり慎(と八屋)が使う言葉のニュアンスは時々わからない千晃であった。
「コウキさんとおっしゃいましたね。よければミネロマのイベントで公式コスプレイヤーとして活動しませんか? クオリティが、本当にすばらしくて、今のところそういうアクターさんを呼ぶイベントは考えてないんですけど、考えます」
「そういうイベント企画は佐々木さんの仕事じゃないでしょ」
「言いたくもなりますよ! こんなの見せられたら」
「まあ、自慢しにきたことは否定しませんけど」
「俺の連れ合いを自慢に使うな。自分の方を使え」
「いやぁ、あれは事情が事情だから、そのまま過ぎて、かえってお出しできないよ。あ、スペースに一人留守番させてるので、そろそろもどりますね。留守番させているから呼べませんけど、蜂エイトもよろしくお願いします。来年もよろしくお願いします」
「あぁ、はい。ありがとうございます。よいお年を」
やっと戻れるようなので、懐から紅鬼を追い出す。
「ごめんね、お姉さん。今回はシン先生のお願いだから着ただけなんだ。全部人任せの素人だから、人前に立つのは無理かな。よいお年を!」
「失礼します。よいお年を」
千晃も会釈をして慎に促されるまま背を向ける。
「……ん? なんか今、事実はBLゲーより奇なりみたいなこと言ってませんでしたか!?」
『わははー』と笑う慎に背を押され、その場を後にしたのだった。
ささやかな打ち上げを行い、翌日、つまり大晦日には貴純村へ帰ってきた。予め準備はしておいたので、かえってのんびり年末を過ごすことになった。
「男は中年になると、そば打ちマラソン筋トレにハマりがちって聞くけど、千晃はそば打たない?」
そばは夕食として食べた。
「打たねえよ。そういうのは、趣味がなかったやつが急に趣味を見つけようとしてハマりがちなやつだ。っていっても、俺も趣味らしい趣味はねえから、そういうのを急に始めるかもしれねえな」
とは言いつつも、そばにはいかないだろう。料理は嫌いではない。そばにこだわらなくても、もっと突き詰められる料理はいくらでもあることを知っている程度に。
「人によるんだろうけど、特別な道具を使う、特別な材料を揃える、そういうところに特別な趣味っていう雰囲気を味わいたいんだろう。初期費用だけ掛けてってことになっても、経済が回るから否定はしねえよ。家事を担ってなかったやつが急に料理に凝りだしたらどうなるかって話だな」
「料理を趣味にして片付けしないやつだ。帰るまでが遠足。片付けるまでが料理。コンロもシンクもほったらかしで、奥さん激おこ」
「ピックアップされがちで、そういうおっさんばっかりでないと思いたい」
テレビで新年へのカウントダウンが始まった。一緒にカウントダウンするような年でもないので、ただ画面を見ているだけになっていた。
「オレ、今年も千晃といっしょで楽しかった、おいしかった。一年後もまた、そう言えたらいいな」
「鬼が笑って来年の話をするとかいう一人ことわざ体現」
ぺちぺち叩かれた。
テレビの中で、紙吹雪が舞った。来年が、今年になった。
「あけましておめでとう、千晃」
「おう、おめでとう。お前もすっかり人間の……日本の文化に染まってるなあ」
「楽しい方がいいから、これでいい」
「ここの初詣はキラ様詣でだけど、似たような紅鬼は詣でられないのか?」
「オレは千晃の専属。詣でていいよ。千晃、姫始め!」
「姫始めは、年が明けてから炊いたメシ食うことだ。年も明けたことだし、ねんねしろ。俺はもう寝るぞ」
「はーい」
マメな知り合いから届くメッセージでスマートフォンの通知ランプがチカチカ瞬いていた。
******
これは千晃も紅鬼も知らないことなのだが。
「んふふー」
にやにやしながら慎はスマートフォンの画面をタップした。
「楽しそうだな」
「紅鬼くんのことと思しき人物が描かれているコミケレポ探すの楽しい。今回は遠慮してもらったけど、やっぱり鬼羅も連れていきたいな。今はせいぜい県境またぐくらいしか遠出してないけど、東京までいけそう?」
「どうだろうな。わからん」
「雲英の畏怖をマシマシにしたらいいかな。今年の目標にしよう」
慎宅でそんなことがあったとか。
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ミネロマの話である。
柘榴が世話になっているちりめん問屋の旦那に声がついた。その絡みで、柘榴と旦那のカップリングが増えたとかどうとか。
「ねーーーー、千晃さん次の冬コミでちりめん問屋の旦那やってーーーー!!」
「いやだよなんでだよ、そもそもなんだ水戸黄門の自称みたいなそれは!?」
「元ネタはそれだけど、最近だとサムレムの巴比倫弐屋だよ?」
「もっと知らん!」
そんな攻防が繰り広げられたとか。
「千晃さん! BL誌から描きませんかっていう依頼きたし、今の出版社からBL色強めの読み切りとかどうですかってきた!」
「俺に持ち込む相談じゃねえだろ! お前の姪の方が詳しいだろうが!!」
「あと、碓井、サムレムそんなに最近じゃない」
「マジ!? ……それもそうだな」
「知らん!」
貴純村のイラストレーターと漫画家は、時々騒がしい。