鬼婿さんと鬼嫁さんの話
忙しくなる前に有給休暇を使えとお達しがあった。自分は後で隙間に取ればいいだろうと思いつつ、ミーティング時に軽く話すと、
「まずは名護さんが取ってください。多めに。うちのリーダーがこれだけ取ったからって言い訳できるように」
と言われた。
「作りましょう。自分だけのゴールデンウィーク」
「平日・平日で飛んだら飛行機安いですよ」
「宿も安いですよ」
「みんなそれぞれ全国各地に行って、お土産大会しましょう」
「写真も撮って自慢して、見せられた方は羨ましがるまでセットで」
「そのついでにコウキくんも見せてください」
「それな」
そこで応酬は止まった。
「ほー、それが総意か?」
「そ、そういうわけじゃないですけど」
「杉浦さんが間近で見て、吉村さんが遠目に見ただけとか、ずるいじゃないですか!」
「何がどうずるいんだ」
“ずるい”は正しくない方法、悪賢いやり方で利を得ることだ。紅鬼を見たことがある二人は不正をしたわけではない。何があったのかといえば、運である。
ため息。ほんのたった一度でまだ引きずっているのか、と。このまま変な方向に煮詰まっても困るので、スマートフォンを取り出した。画像を表示して、ご隠居の印籠のようにかかげる。ミーティングルームでコの字に座っていた全員がどっと押し寄せてくる。
「はい、終わり」
数秒表示したのは、スマートフォンの中にいつの間にか増えている紅鬼の自撮り写真の一枚である。
「気がすんだか? すんでなくてもすませろ。これ以上話題にするな。俺は反応しない上で、心証をマイナスさせるからな」
各々席に戻っていった。『美しすぎ』『美少年』『はわぁ……』などとつぶやきながら。
もうこれ以上煮詰まってくれるな。千晃はでっかく息を吐いたのだった。
後日、また古本が集まった。煮詰まったかもしれない。
まとまった休みがあっても無為に過ごしがちで、たしかに旅行はいいかもしれないと思った。紅鬼を置いていくわけにも行かないので、軽く水を向けると、めちゃくちゃ食いつかれた。
というわけで、温泉旅行である。平日に宿を取り、平日中に帰り、週末はいつも通りという予定で計画を立てた。
千晃一人であれば、行き当たりばったりでも構わないのだが、何をするにしても筆頭懸念事項は紅鬼だ。計画は、何から何までそれを念頭に置かねばならなかった。
“美しすぎる”という表現はすっかり陳腐になってしまったが、紅鬼はまさにそれだ。本人はまったく気にしていないが、紅鬼の容姿は目を引きすぎた。同年代に見える、あるいは紅鬼の容姿と並べるほどならば、となりにいても怪しまれることはないのだが、千晃が並ぶと凸凹がすぎる。見た目は親子ほど離れているので、どこかしら似た所があれば父子に見えたかもしれないが、同じところはパーツの数くらいだ。おっさんと美少年に共通項はなかった。実際、ともにでかけた際に下衆な目を向けられることが、最近のストレス源の一つである。温泉旅行というリフレッシュが目的の休暇で、なぜストレスを溜めなければならないのか。
と、考えた結果、公共の交通機関は利用せず、ひっそりとした場所を選ぶことになった。
それが裏目に出た。最終的には、禍福はあざなえる縄の如しという方が正しいのだが。
******
千晃はある道の駅で身体を休めていた。主に腰のために。
移動はレンタカーを利用することにした。閑散期の鄙びた温泉旅館で“何もしない”を満喫した。卓球とセックスには付き合わされたが。
そこそこ英気を養い、帰路の運転中、つまり最後の最後で腰から危険信号を受け取った。最悪の事態にならないように、ちょうど案内板が出ていた道の駅に立ち寄ったのである。
ストレッチをして幾分マシになった。もう少し休んで──、
「千晃、これ買って!」
紅鬼が米袋を抱えてきた。
「かまわねえけど、なんでだ?」
「オレと同じようなのを感じるから、気になった」
「なんだって?」
「いるよ。あっちに、」
米袋を抱えたまま、地元の農作物が売られている売り場を横切っていく。
「こら、どこ行くんだ」
「レジしばらく空かないって」
見ると、いつの間にかずらりレジに人が並んでいた。売り物がぽっかりなくなっている台がある。人気商品が完売となったらしい。
紅鬼が近づいていったのは、二人の青年だった。中肉中背の朴訥とした青年と、サングラスを掛けた体格のいい青年。
「これ」
「人のことを“これ”なんて言うんじゃない。すみません」
「人じゃない」
「は?」
サングラスの青年が、(相対的に)小柄な青年をかばうように立った。
怪しいものではないです。それほど怪しい言葉もあるまい。ぐっと言葉をつまらせる。
紅鬼の言葉を信じて、目の前のサングラスの男が人でないとするならば、紅鬼が気づいたように向こうも気づいているのではないだろうか?
「もしかして、そっちも、その……オカルト的な方ですか?」
こっちもそうだと主張するように、紅鬼の肩に手を置く。
「んぶっ、ふふっ……オカルト……」
後ろの青年は笑いをこらえきれていなかった。
「大丈夫なんじゃないかな? 向こうもこっちと似たような感じなんでしょ?」
緊張感なく、のほほんとしていた。
挨拶は人間と人間で行われた。なお、米(五キロ)は買った。千晃は腰にきているので、紅鬼が持っていた。
「僕はウスイマコトと言います。漢字は、石へんにふるとり、井戸の井で碓井。まことはりっしんべんのついてる慎です。一応名刺……ペンネームのですけど」
渡されたのは、ずいぶん鮮やかな紙片だった。肩書はイラストレーター。それがペンネームらしく、“シン”と書かれている。
「自分は名護千晃と言います」
千晃も名刺を渡す。千晃の名刺は至って普通だ。そのつもりなのだが。
「わあ、会社のマークが箔押しだ。紙、真っ白じゃなくてちょっと生成りだな。このISOとかPマークのロゴって、評価する団体が配布しているんですか?」
何か早口でまくし立てられた。
「名刺のデザインには関わってないから、わかりかねます」
「あっ、すみません。オタク、紙と印刷技法と解像度には敏感なもので」
千晃にはよくわからないが、そういうことらしい。
「こっちはキラと言います。僕の旦那さんです。ご指摘の通り、人じゃないです」
「はぁ……だん「オレは名護紅鬼! 千晃の嫁!」
負けじ(?)と紅鬼は千晃の腕に抱きついてきた。『籍に入ってくんな』といつも通り引きはがす。紅鬼は不満顔だ。
キラの方はというと、慎の腰を引き寄せ、にいっと口元で笑った。慎は苦笑するだけで、拒んでいない。千晃たちとは対照的だった。紅鬼の不満が濃くなる。
「平日の日中で人は少ないですけど、人目があるところでシラフで話せることでもないから、うちに来ませんか? あんまり気軽に来てくださいって言えるような場所ではないんですけど。えーっと、このあとの予定を教えてください」
「お前、腰によくないものが溜まっているな。治せるぞ」
「行きます!」
そういうことになった。
千晃にはまだ週末というバッファがあったが、レンタカーには返却期限があった。返す予定だった店舗とは異なる、道の駅最寄りの店舗で返却し、そのまま慎の車に同乗させてもらうことになった。明日は駅まで送ってくれる、とのことだ。紅鬼を連れて公共の交通機関に乗りたくないが、そこは飲み込むことにした。腰の健康にはかえられない。紅鬼が人でないというオカルト的な何かなら、治せると言ったのだから、どうにかできるだろう。
「何から話そうかな。僕は運転手なので、あんまり集中できないけど」
「うーん……。なんというか、仲間? 似たような境遇の人間がいるなんて考えたこと、まったくなかったからな。さっきは話せなかった自己紹介か? イラストレーターなんて、ピンとこない業種だ」
「目に見える成果物があるから、まだわかりやすいと思うけどね。具体的な作品を言うと、今のメインは鉱物奇譚っていうゲームのキャラクターデザインをしてる。それに関するイラストもいろいろ。単発でも、ソーシャルゲームのイラスト。小説、特にライトノベルのイラストも描いてる。助っ人として漫画のアシスタントをすることもある」
「ゲームはしないから、ちょっと知らないな。悪い」
「いえいえ。乙女ゲームだから、余計に知らないだろうし」
「オレ、知ってる。ゲーム雑誌にあった」
紅鬼に貢がれる本の中には、少なからず雑誌もあった。その中の一冊だろう。
「キラ、いた」
「いたって何だ?」
「あぁ、それは……自己紹介になるのかな。卵が先か、鶏が先か、みたいな話。キラのビジュアルは、僕の想像の産物なんだ」
紅鬼のことは棚に上げておくが、たしかにキラは漫画やアニメのキャラクタのようであった。千晃よりも身長が高いということは、一九〇近くあるだろう。フィジークの大会に出ていると言われると納得するような、目に見えるまで鍛えられ引き締まった筋肉。野性味を覚える整った顔立ち。見せてもらったが、サングラスの下は金の目が、ニット帽の下にはツノがあった。紅鬼と類似性があると思ったが、同じ理由から発生したわけではないらしい。
「キラは村の守り神的な? 豊穣神的な? そういう存在で、たしかに名護さんのいうオカルト的な存在とも言えるかな。僕もオカルトって思ったし」
「ふわっとしてるな」
「始まりは別のところからだからね。直接人は知覚できないけど、その恩恵を受けることができるブラックボックスのろ過装置みたいなものだった。人はそれに名前をつけて、敬い、奉るようになり、神様みたいなものになっていった。期間限定で出てきて、嫁をつけて直接人と交流するようになった。それが、僕の住んでいる村の“キラサマ”」
「嫁?」
「嫁。今回は、たまたま僕だったってこと」
「たまたまではない。我は慎を選んだ。慎だから出てきたのだ。愛しておるぞ、慎」
「はいはい、僕も愛してるよ」
となりの紅鬼が千晃に腕にむぎゅっと抱きついてきた。
「それで、」
何事もなかったかのように話を戻してきた。
「嫁に選ばれたとき、想像した姿でキラサマは現れる。前の姿を見ていたら、それを引き継ぐことが多いみたい。でも、母が村の外から嫁いできて、父が早くに死んだから、僕がキラサマをよく知らなかったんだ。それと、ミネロマ……そのゲームのキャラデザに悩んでいるところだったから、悩んでたキャラのプロトタイプみたいなのが出てきた。それで、具体的に目の前に現れたから、それを案として出したら採用された」
「それでどっちが先とも言えないってことか。こっちとはぜんぜん違うんだな」
「紅鬼くんが美少年なの、気になるんだけど!」
「あぁ、こっちのそもそもは──」
さすがに精通や性癖の話は省いたが、紅鬼が何であるかを説明した。
「ほんと、ぜんぜん違うんだ。こっちは自然発生的に名前がついて、そこからスタートっていう感じだけど、紅鬼くんは名無しのまま発生してるんだね」
「オレが自我みたいなのを持ったのは、全部還してるけど、それでも残る澱が溜まっていったからだ」
「人はほとんど知覚できない役割を持つものという我らを、まとめてオカルト的な存在とするが、別の経緯を経てここにおる。我は土地神でもある。起点は“場所”、今向かっている村だ。紅鬼の起点は、お前だな、千晃」
「俺!?」
「紅鬼くん、見るからに名護さんに執着してるよね」
「うん!」
「元気に返事すりゃいいってもんじゃないだろ!」
「それくらい千晃少年かわいくておいしかったんだって」
「嬉しくないし、その話はやめろ」
「そっかー、おにショタって、この場合は鬼さんとショタでもあるのかー」
「何!? よくわかんないけどやめて!?」
「ところで紅鬼くん、キラほどあからさまにしないから、新キャラのモデルにしていい?」
「いいよー!」
「ドサクサに紛れて何言ってんだ!」
慎が運転していた車は、慎の実家の所有物で、慎宅まで少し歩くことになった。
「言ってた通り、この村の中で、キラは住人かつ守り神的なものとしているんだ。だけど、一人だけまだキラが何なのか教えてない人がいる。僕の友人で、最近移住してきて、今は様子見中。冬コミ……えっと、趣味にかまけすぎて、本業にあわてて取り掛かって、しばらくこもってるから出てこないと思うけど、その人にはバラさないようにね」
「友人って、同業か?」
「似たようなものかな。漫画家」
「へぇ。縁がないから、やっぱりどういう仕事なのか、わかんねえな」
何気なく話をしているが、慎とキラは自然に手をつないでいる。対抗して(?)、紅鬼まで千晃の手を捕まえる始末である。面倒なので振り払わずにおいた。
『ただいまー』と鍵を開ける動作なく慎は戸を開けた。村の女性のおやつ休憩の場として使われているため、留守ではないようだが、一瞬ぎょっとしてしまった。すっかり都市部の一人暮らしが身についている。
居間では、村の女性がほぼ毎日おやつ会を開いているそうだ。何故慎宅なのかというと、キラを祀っている社が近く、キラがいるから、とのこと。土地神の側面もあると聞いていたが、それにしても馴染みすぎている。似たようなものと一緒に暮らしている千晃は、人のことを言えたものではないのだが。
「おかえりなさい。いらっしゃい、どうぞここ空いてるわよ」
「おじゃまします。名護と言います」
「おじゃまします! 名護紅鬼です!」
「籍入ってくんじゃねえ」
キラの正体を知る村人はすでに紅鬼のことを知らせておいた。なにか生ぬるく微笑まれた気がした。
「ほんとに美人さんねえ」
「今回のキラサマもきれいな方だけど、まぁまぁ」
「旦那さんの方もスタイルいいし、かっこいいじゃない。お似合いだわ」
「うちの息子も年は同じくらいだけど、この十年でぽよぽよよ。旦那に似てかわいくなっちゃって」
「初対面の人まで外堀埋めないでいただきたい! 籍に入れようとすんな!」
「受け入れたほうが楽だよー、名護さーん」
「碓井さんも、やめろ!」
寄ってたかって外堀を埋められつつ、茶と漬物が出された。腰の悪いものを取り除くため、村の物を体内に取り込む必要があるのだとか。
「えっ、うま、なにこれ」
ただのお茶だ。香ばしいかおりのするほうじ茶。水に味という味はないのだが、おいしかった。味そのものといより、口にしたときに身体に染み渡るような心地よさが、“おいしい”と言うしかなかった。染みわたり、中から洗われるような感覚だ。
漬物も、まろやかなうまみと鷹の爪のピリッとした辛味と舌に馴染む塩味でできている。大根はシャキシャキとした歯ごたえを程よく残している。野菜の甘味は強すぎず、だがしっかり舌に感じられる。シンプルに野菜がうまい。
「道の駅で瞬殺してたのは、これか」
ぽっかり空いたスペース。米だけは確保できたタイミング。慎とキラ。推測するには十分な材料だ。
「千晃、あーっ」
紅鬼は千晃の方を向いて口をぱかりと開けた。漬物を放り込んでやる。紅鬼には“味変”のようなものらしい。
紅鬼の“おいしい”は、正確には“快”だ。紅鬼はその性質上、情報が混み合っている物を食べると“快”を得る。複雑さだけでなく、愛情と言った数字にできないものも情報として上乗せされるらしい。手ずから食べさせる行為も、情報が上乗せされるのだそうだ。
移動中にキラの特性も聞いていた。浄化の力を持っている。この村はその恩恵を受けている。口にしたそれらは、たしかに“澄んでいる”と思った。紅鬼には味の雑味が足りなかったのかもしれない。
「慎」
「ん? ……ふふっ」
見ると、キラが慎に“あーん”をしていた。
「ぐっ……」
己を省みる。穴を掘って潜りたくなった。
「ふむ、出てきたな。腰を触るぞ」
「お、おう?」
触れるというほども触れられた感覚はなかった。張り付いた糸を取られたくらいの、かすかなもの。だが、急に腰が楽になった。じんわり張り付いていた淀みのような鈍痛が消え失せたのだ。
「うわ、それ取れんの?」
何が取れたのか、何が見えているのか、紅鬼が声を上げた。
「清めるには少し強すぎる。我ができるのは、取り除くまでだ。あとは散らすしかない。薄まれば、そのうちきれいになる」
「ちょうだい! オレが食べる!」
キラは何かをつまんでいるように見えた。それを、紅鬼の手に。紅鬼はもらったお菓子を食べるように口の中に放り込んだ。
一連のやりとりで紅鬼に渡されたものは、千晃の目には見えなかった。千晃から引き剥がされた悪いものは、紅鬼によって還された、ということだろう。
「これもなにかの縁だ。二つ、伝えておこう」
「いいニュースと悪いニュースどちらから聞きたい、みたいなやつ?」
「軽い方と重い方、どちらから聞きたい? いい・悪いは、我が判断することではない」
「なんか怖いから、軽い方からで」
どちらも悪い話なのだろうな、と、なんとなく思った。
「腰のそれは、一時的に悪いものを取っただけに過ぎん。いずれまた凝る。なに、いつでもここにくれば取ってやる。しばらくここで過ごせば耐性もできるが、“ほぼ完治”止まりだ。完治とは言ってやれん」
「へぇ。毎日ちょっとずつ気をつけるしかなかったから、いいニュースだ。ここにくるまでが問題なんだろうけど」
自力でたどり着く手っ取り早い方法は、おそらく車だ。道中、鉄道の駅はもちろんバス停らしいものもなかった。
「我は土地神のようなものでもあるからな。ここでないと力は発揮できんのだ」
「特効薬があるってわかっただけで十分。ありがとうございます。……それで、重い方は?」
キラは『ふむ』とうなずき、千晃を上からざっと眺めた。
「癌の兆しがある。癌の家系と聞いたことはあるか?」
「え? ……は、え?」
「落ち着け。まだ芽吹いておらん。今すぐ発生するものでもない。あくまで“兆し”だ」
「見えるもんなのか?」
「“見える”というのは正確ではない。我は今、人の姿をしているゆえ、人の感覚に寄せているが、人が持っていない感覚もあるのだ。その五感ではない感覚で感じられる。その兆しはまだ、人の今の科学では知ることができないレベルのものだな」
「癌は、母方は多いって聞いたことがある」
「確実に芽吹くとも限らない。老いさらばえるまで何もないかもしれない。起爆の条件がわからない爆弾のようなものだ。癌に限らず、似たような爆弾は誰しも抱えておるものだが」
「たしかに、死因が老衰ってそんなに多くないか。えーっと、爆発せずに抑える方法は何か?」
「腰のそれとちがって血筋……遺伝子に乗っておるようなものだ。一生抱えておらねばならん。我であれば抑えておくことはできるが、その効果が見込めるのはこの村の中でだ。発現してしまうと、我でもおしとどめることは難しい」
「この村への移住が対症療法ってことか。移住は難しいなぁ。うん、警告ありがとうございます。俺にはそこまでではない。将来の展望もないし、食わせてやらないといけない責任もない独り身だ。最期はきれいに片付けてくれることになってるし、そんなに長く生きることに執着はないというか「やだ!」
衝撃。
「おごっ!」
ぶつかりのしかかられ、押し倒された。
「千晃、独り身じゃない! オレ、千晃の嫁!」
「勝手に籍に入ってくんな」
「オレ、千晃といっしょだと楽しい。人の営みの中にいられるだけでも。だから、移住してでも長生きしてほしい」
「俺が死んだあとの身体が目的なんだろ。矛盾してないか?」
「してない。長生きしてくれたほうがおいしくなるし、……千晃には簡単に死んでほしくない」
どっかりとのしかかられ、(動けなくはないが)動けない。あごの一点に痛みがある。またツノをぶつけられたらしい。
「あのな、社会を維持するために、人間生きてるだけでコストがかかるようになってんだよ。どうやってそのコストをここで稼げっていうんだ。あと、重い」
どうにか引き剥がして身を起こす。身を起こしてなお、胸にべったりはりつかれたままだが。仕方なく、なだめるように背をなでる。
「そのコストが稼げるなら、移住は“あり”だと」
慎が割り込んでくる。
「やってやれなくはないだろうけど、したいかどうかはまた別だろ」
「しませんか? 紅鬼くんのために、移住。名刺もらったけど、名護さんの勤め先、経理業務の請負・派遣・システム開発をしてる会社なんだね。システム部開発課ってことは、そのシステム開発を?」
「あぁ。うちで作ったソフトウェアの導入支援・カスタマイズ・保守運用をしてる」
「経理はわかる?」
「経理がわからないことには、要件は聞き出せない。俺は経理業務からシステムの方に移ったから、実務も経験してる。業務経験だけじゃなく簿記も持ってる」
「この村の経理、請け負いませんか?」
「は?」
「あらー、やってくれるのお金のこと」
「うちのお父さん、適当な所あるから助かるわぁ」
「えぇえぇ、お金払ってでもやってもらいたいわね」
慎宅から移動したわけではないので、一連の痴話喧嘩は人前で行われている。生ぬるく見守られていたが、金の話に、お姉様方が囲いにかかってきた。
「車運転できるってことは、小型特殊動かせるってことだよねー」
「若い運転手だけでも大歓迎よー」
「ちょ、何! 俺、この村に取り込まれようとしてる!? 若いって、俺もう不惑でそんなに若くないんだけど!?」
「四十なら、僕とそんなにかわらないし、この村では十分に若い方」
「……碓井さん、おいくつ?」
「三十七で、そこそこおっさん」
「えっ、もっと若いと思ってた」
村のお姉様おやつ会にのまれそうになったが、解散までどうにか耐えた。命拾いした。
そのまま慎宅に泊めてもらうことになっている。夕食もいただいが、特に米がうまかった。紅鬼の“あーん”の言い訳をしたせいか、紅鬼には天かすを混ぜ込んだおにぎりを作ってくれた。ふと、今日会ったばかりの人の田舎の家に泊めてもらうとはなんだろうかと思ってしまった。ホラー映画ならば、一緒にいた人間と分断され、怪しい気配や音に奥の方をのぞいてしまう場面である。紅鬼以上のホラーもそうそうないので、馬鹿馬鹿しい想像だと最終的に落ち着いたが。
経理請負は保留になったものの、村に若手が増えるのは大歓迎だと流されそうになった。相対的に若いと言っても、千晃はだいぶ白髪が増えてきた四十路である。やはり若くない。
口約束がどこまで信じられるのかはわからないが、本当に実現するならば惹かれるものはある。千晃は背が高いため、何かと腰をかがめがちで、腰に負担がかかりやすい。一度やらかした際に教えてもらった。日々恐れる腰痛から開放される。その苦しみに気を使わなくてもよくなるのだ。
癌に関しては、正直なところピンとこない。最近は特効薬の開発や治療法の確立が進んでいるとニュースでも聞く。そこまで悲観的な話でもないと思っている。
将来の展望も希望も誰かを養わなければならない責任もない千晃には、今の比較的安定した生活から乗り換えるほどだろうかと考えてしまうのだ。人生の舵を気軽にきり直せるほど、若くはなかった。
「迷っておるのか?」
「うわびっくりした。あれ、慎さんは?」
「紅鬼をスケッチしておる」
「あぁ、新キャラがって言ってたやつ」
「そうだ。慎が言うには、美人はバリエーションが少ないらしい」
「整った顔立ちに個性を出すと崩れるってことか。紅鬼は平均顔で美人なんだけど、バリエーション増えるのか?」
「慎はやる気に満ちておる。削いでくれるな」
「ははっ、すみません」
外野が疑問を持っていようとも、当人が問題ないならば、とやかく言うことではなかった。
「迷っておるのか?」
キラは改めて問うてきた。
「何を天秤に乗せようとしても、どれも決め手にかけてる。やってやれないことはないけど、相応の覚悟も必要になるからな。独り身で気軽なつもりだけど、そうでもないらしい」
「嫁がおるではないか。あれも移住を推しておったな」
「籍に入れようとすんじゃねえ。紅鬼は成り行きだ」
「成り行きで住まわせんし、旅行もせんと思うが?」
「お互いに都合がいいんだよ。……キラさんが、慎さんを愛するのって、どんな感じなんだ?」
「どんな、とは? 夜の「それはいい」
他人の性事情など知りたくないし、知られたくない。からかわれたのか、キラは口元をニヤつかせている。千晃はキラと逆方向に口元が歪んだ。
「大雑把には変わらん。いくらか上から目線ではあるが、我は慎を愛しておる。人を愛しておる。愛しく思っておる。健やかであれと思っておる。それだけだ。我の願うように生きている姿は、我に幸福をもたらしてくれる。お前もその一人のうちだな。ふふっ、愛しておるぞ、千晃」
「わわーっ、そういうのはいいから」
カラカラ笑われつつ、わしゃわしゃ頭をなでられた。
「大雑把じゃなければ?」
「個人差であろう。そういう意味でも、人と変わらん」
「雑だな」
「慎にも言われたことがある」
なんとなくの印象だったが、本当に雑らしい。
「我は人に名付けられ、人の思いや願いで形作られておる。人が求めるならば、我が人を愛するのは道理であろう」
「その理屈は、ただの人間にはわかりかねる」
「我に聞けるのであれば、聞きたいことは当人に聞くがよい。人ではないがな」
「それは、まあ……ん?」
「くふふっ、感情というものは、お前が思っている以上に強いエネルギーだ。それを念頭に置いておくことだ」
「はあ……?」
何かよくわからない方向で話が締められてしまった。
「あー、ちなみに、俺がここで本当に経理請負できると思ってる? 口約束その場のノリであんなこと言ったんじゃないかって、半信半疑……いや、信じてるのは二割くらいだな」
「そんな適当なことを言う者たちではない。すぐに決めずともよいだろう。己が納得せねば、別のものに責任をなすりつけてしまう。誰かの“ため”は、転じて、誰かの“せい”になりやすい」
「あっはい、よく考えます」
決めるのは自分だ。それはわかっている。しかし、天秤にかける理由に、少なからず紅鬼が関わっている。
「名護さーん、そろそろシラフで話せないことはーなーそー」
「慎さんと出会ったの今日が初めてなんだが!?」
「僕も経理請負利用したい。税理士なら完璧だったのに」
「確定申告まで持ち込むな」
「さすが察しがいい。それはそれとして。この村は、特にお米とお酒がおいしいから、そこからも囲い込もうかと思って」
「魂胆見せてくるじゃねえか」
「ふふふー。魂胆見せても、おいしさはかわらないからね。酔わない人たちは散った散った」
酒とつまみが並べられる。ぐいのみは二つしか用意されていない。
「えぇ~??」
文句を言うのは、せっかくスケッチから開放された紅鬼である。
「人間同士で話すこともある。客用の布団を出すぞ」
「ついでに布団乾燥機も使っておいて」
「わかった」
キラは紅鬼を引きずるように連れて行ってしまった。
「お酒はぬるめの燗で」
「あぶったイカはねえんだな」
「あははっ、わかってる」
慎は舟唄の冒頭を軽く口ずさんだ。
耐熱ガラスのマークがついているそれは、デキャンタというべきか、徳利と言うべきか。ミリリットルと合の表記が刻まれているので、両用だろう。目盛りによると、酒は二合以上入っている。
「あぶったイカはないけど、松前漬けはある」
「ここ、海遠くないか?」
「おすそ分けなんだけど、東北に親戚がいて野菜送ったら喜ばれてお礼にだって。下手したらアルハラになるんだけど、名護さん飲める? 飲む?」
「嗜む程度に」
「それ、飲める人が言うやつだ」
「そっちは?」
「嗜む程度に」
「そのままお返しする」
まだ酔っていないが、少し笑った。
「俺は弱くないけど、強いっていうほど強くもない」
「僕は強い方だと思うけど、よく飲む相手によって基準がちがってくるから、普通ってことで」
「飲めるやつだな」
「深酒しない程度にしようね」
言うまでもなく、酒もうまかった。
「本当に酒でも囲いこもうとしてくる」
「お金に強い人がいると安心なもので」
飲みすぎて下手なことを言って言質を取られては敵わない。ちびちびと唇を湿らせる。
「名護さんも言ったけど、同じ境遇の人がいるなんて思ってもみなかったことだから。どういう生活してる?」
「そもそも生活がちがうだろうな。小さいときは田舎に住んでたけど、そういう生活はもう想像できねえ」
「合う・合わないはあるけど、いいとこだよ、ここは。アミューズメントなことは、小一時間かかるイオンモールが近いかな。回線は強いから、都会なら音を気にすることができるよ。YoutuberとかVtuberとか」
「やらねえよ」
詳しくはないが、コンビニエンスストアやドラッグストアでコラボレーションの商品やノベルティプレゼントキャンペーンが行われているのを見ることがある。ノベルティ目当てで菓子類を買い込み、消費を手伝ってほしいと渡されたことがある。
「バ美肉! バ美肉! 名護さん、ツダケン系のいい声してる! 描く描く! どんなキャラにする?」
「わからんわからん。やる方向に持っていくんじゃねえ!」
「ちぇっ。ちょっとやる気になったのに」
「だいたい、本職も本職のイラストレーターに気軽に描いてとか言えるか。金取れる技能なんだろ?」
「やだ、名護さんそれ僕がときめく」
「ときめき要素が何もわからん」
「気軽に言ってくる人は気軽に言ってくるんだよ、ちょちょっと描いてって。ちょちょっと自分で描け」
イラストレーターにはイラストレーターの苦労があるのだろう。
「紅鬼くんとも色々話したけど、名護さんいい人、わかる~」
「俺は何もわかんねえよ」
「執着なんて言って悪かったかな。純愛だよ、オッコツくん……」
『誰だよ』とツッコミを入れたかったが、こらえた。聞いたが最後、長くなりそうな気がしたために。聞いてわかったところであまり意味もない。
見れば、耐熱ガラスの徳利の中はずいぶん減っていた。千晃はほとんど飲んでいない。
「そっちはずいぶんキラさんとなかよしだな。“旦那さん”、“我が嫁”って。愛玩動物とは思ってねえが、こっちはペット感覚なところがある」
「あー、紅鬼くんたしかにめっちゃ懐いてる感ある。うちのキラも犬になれるけど。かわいいなあ」
犬になる、とは。思ったが、そもそも人の姿も慎の想像の産物らしい。犬にもなれるのだろう。そういうことにしておいた。
「僕は、米に目がくらんでキラサマの嫁を引き受けたところからのスタートで、仲良しなのは、あとからかな。悪い気はしなかったし、そのままほだされて今に至る。名護さんもあんまりツンツンしないで、認めれば楽になるから、ね?」
「何が“ね?”だ。俺は仕方なく……」
仕方なく、どうしているのだろう?
「名護さんは、紅鬼くんの何がいいと思ってる?」
「……顔」
「わかるー! イケメンにちやほやされるって、最高に気持ちいいから、もう顔面で許してしまったこといくらでもある」
思ったより肯定された。ここ最近の流行りの思想とは逆行するが、己の内面の趣味趣向はそうそう書き換えられない。
「顔は、まあ一面だ。小器用で、俺が仕事に行ってる間、色々片付けてくれる。……いや、小間使だとか思ってるわけじゃない。成り行きでおくことになって、生活に組み込まれて、そのうち、その、」
ただの面食いだと思われるのは癪だったが、口から出る言葉は言い訳にしかならなかった。墓穴を掘っていく。紅鬼は千晃にとって都合のいい存在だ。だからといって、都合がいいから置いていると思われるのも癪だ。では、何が理由に残るのか。
「──情がわいた」
ちびちび舐めていた盃をぐいっと空ける。角のないまろやかな香りが鼻にぬける。するりと流れ込んでくるが、やはり酒は酒だ。余韻が熱い。水よりも水らしい透き通った味は、無味ではなくあくまで透き通った味。爽やかな香りを残して、胃の腑に落ちていく。
すかさずぐい呑みは満たされた。慎がにやにやしてるのは気のせいにしておく。
「ペット感覚っていうのは、ちょっとわかる。だって人じゃないし。ただ、一方的に愛でるだけじゃない。双方間でコミュニケーションが成り立っている。時々、こっちに合わせてくれてるなーって思うこともあるけどね。ズレてることもあるけど、それはたぶんお互い様だ。そういうところもまとめて、僕はキラを愛しいと思っている」
へらへら笑う慎の顔が赤いのは、酒のせいだけではなさそうだ。
「いやー、同士にのろけるって、たーのしー」
徳利をひっくり返し、最後の一滴まで注ぐ。
「はいはい、好きに話してくれ」
慎が話せば、千晃はしゃべらずにすむ。墓穴を深掘りせずにすむのだ。
「じゃあ、夜の「それはいらん」
流石に止めた。
「口の品位が下がってるぞ」
「えへへ」
酒は強いほうだと自負していた。言動はふわふわして顔が赤くなっているが、ほかは変わりなく見える。経験則だが、やや顔に出やすいだけで、あまり酔っていないだろう。つまり、酔いのせいにしている。
「お風呂できたよー、千晃ー」
寝床だけでなく、風呂も手伝わされたようだ。紅鬼とキラが居間に戻ってきた。
「慎の方がほとんど飲んだな。風呂は少し酔いを醒ましてからにしておけ」
「はーい。名護さん、先に入っちゃって。キラの寝巻き貸すから。紅鬼くんには僕のを貸すね」
「うん、ありがとう!」
「紅鬼くんかわいいなあ、いい子だなあ。洗濯物はない? うちのキラが本気を出せば、一瞬できれいにできる。パンツとか」
「おかまいなく!」
朴訥としたのほほん青年かと思いきや、慎は案外愉快なのかもしれない。
『普通の布団ですみません』と慎が言ったのは、千晃の身長が一八〇を超えているからだ。普通の布団の長さでは、枕をギリギリの位置においてどうにかはみ出さないくらいになる。必然的に、身体を丸めて眠ることになるのだ。なお、旅館では事前に伝えておいたため、大きめの布団が用意されていた。また訪れる機会があるかは未定だが、評価は大変に高くなった。
身体を丸めて眠ると、必然的に横臥になる。常夜灯の薄明かりの中、シルエットが見えるとなりの布団にいるのは、もちろん紅鬼である。
「ちーあーきー」
もぞもぞ寄ってきた。
「枕はもってこい。いつもとちがう布団で、寝相の保証はしねえぞ」
「うん!」
紅鬼は(二人では)狭い布団であろうとおかまいなく潜り込んできた。
「なぁ」
「んー?」
「もしかしてお前、けっこう俺のこと好きなのか?」
キラと話していて気づいたことだ。千晃たちは、お互いに都合のいい存在だ。紅鬼によるマッチポンプ的な働きかけでそうなってしまっているとも言えるが。それでも、千晃は情がわいた。では、紅鬼は? 好意という感覚がそもそもあるのか、そこから疑問だった。嫁を自称するのは、そばにいるのに都合のいい関係だからではないかと思っていた。だが、キラは明確に人に対して“愛”をもっていた。都合がいいという点はまったくないとは言わないが、紅鬼も“愛”を持っているから、“千晃のため”の行動を取ってきたのではないか。今さら思い至ったのである。
「うん。好きー。大好き。“もしかして”ってなんだよ」
「聞き流してた」
「えーっ!」
ぐりぐりされた。ツノが痛い。
「いくらオレが人じゃないからって、たいした感情もなく人間といっしょにいたいとは思わない。それくらいの感覚は持ってる」
「そりゃそうだけどなぁ。お前、自分の“快”で動いてるだろ。俺が都合がいいから利用してるんじゃねえのか?」
むぎゅ、と強く抱きつかれた。
「千晃だから、“快”があるんだ。千晃だから、気持ちいいんだ。誰でもいいわけじゃない。それが、都合がいいってことかもしれないけど。それって、好きってことじゃないのか?」
キラも紅鬼も、人の姿であるため、感情も人に寄せていると言っていた。人間らしく振る舞えるように、あくまでも似たようなもの、くらいにしか思っていなかった。数値化できない人それぞれが持つ感覚だが、どうやらキラや紅鬼が持っているそれも、大雑把には同じらしい。差異は、個人差の範疇で。
慎は受け入れてしまえば楽になると言っていた。何を? おそらく、好意や愛を。
人と人でも個人差はあるのだ。千晃が気にしなければ、些末なことなのである。
「──そういうもんだな。俺も、お前のことけっこう好きかもしれねえ」
「“かも”?」
「はいはい、好きだから、ねんねしな」
「ふひひっ」
いつものように、首元のあたりをぐりぐりされた。
「いてっいてっ。お前、ツノがある自覚を持てって言ってんだろ」
おかげであごと鎖骨のあたりに痣を作りがちだ。若い頃は痣などすぐに消えていたが、最近はそうでもない。なお、対外的にはネコのせいにしている。嘘は言っていない。
「する?」
「人様のうちで致そうとするんじゃねえ。せめて帰ってからにしろ」
「うん。じゃあ、明日」
少し墓穴を掘ってしまったかもしれない。
「おやすみ、千晃」
唇に柔らかい感触。
「おやすみ」
今日は、目をつぶらなかった。
起きると、朝食はすっかり用意されていた。紅鬼のためか、ごはんはちりめんじゃことかつお節を混ぜたおにぎりだ。ハムエッグと添え物の野菜、味噌汁。何もせずとも出てくる食事のありがたさよ。
「たぶんそろそろ友人が来ると思うから、紅鬼くんはツノを隠しておいてね」
ヘアバンドが渡された。
「漫画家のお友達?」
「そう。土日の朝のアニメ・特撮時間にうちにくるの忘れてた。お客さん泊まってるってLINE投げておいたけど、見るかどうかは半々。まだ未読」
「見ないまま来そうなんだな」
「うん。えーっと、とりあえずご飯食べて」
「いただきまーす!」
「いただきます」
すする味噌汁はしみじみする。くたくたの白菜がたっぷり入っており、なかなか食いでがある。
「紅鬼くんは味変調味料使う?」
「いい。慎が作ってくれたから、おいしい」
「かわいいかよ」
目に見えて上機嫌だ。千晃はうっかりぶっきらぼうに言ってしまうのだが、紅鬼の言葉は裏がなく素直だ。ほめる言葉はまっすぐストレート。わかっていたはずなのに、千晃は昨夜まで紅鬼の好意を信じられずにいた。そんな物があるとは思ってすらいなかったために。
「それで、キラがきららなんだけど、あっ、犬なんだけど」
「なんだって?」
「端折りすぎた、ごめん。言ってた通り、その友達、ハチヤっていうんだけど、まだキラの本当の姿を知らないから、バレないように犬の姿をしていることもあるんだ。その時の名前がきらら。“うんも”の別の読み方、雲母。犬なのは見た目だけなんだけど、犬は大丈夫?」
「あぁ。アレルギーもないから大丈夫だ」
なお、千晃は犬が特に好きでも嫌いでもなかった。
「呼んだか?」
にゅっとキラの声を発した犬が入ってきた。
「ほんとに犬だ。変身できんのか?」
「変身とはちがうが、話すには少しこみいっておる。我は犬にもなれる。それだけだ」
たしかに犬の口からキラの声がしている。キラの存在に気づけた紅鬼が認めているなら、その赤茶の犬はキラなのだろう。違和感しかないが。
「かっわいいでしょ~?」
慎はキラ(犬の姿)のとなりに膝をつき、抱きしめた。犬の姿であっても、何も変わらないらしい。紅鬼は完全に犬扱いで、もちゃもちゃなでまわしていた。キラは嫌がるでもなく受け止めている。人を愛していると壮大なことを言っていたキラはなかなか鷹揚だ。犬と戯れる紅鬼を、少しかわいいと思ってしまった。
しばらくして、慎の予想通り、彼はやってきた。
「うーすーいー、あーそーぼー」
第一声が小学生男子だった。声は確実に成人男性なのだが。
「あれ? 誰かいる?」
「お客さんいるってLINE投げたよ」
「見てません、ごめんなさい」
「ちゃんと担当さんと連絡取りなさい」
「はい……」
慎には何やらお見通しのようだ。
「どうも、こんにちは。朝だな。おはようございます。碓井の友人で隣人のハチヤミナトと言います。八つの屋根に、サンズイに奏でる湊」
「こんにちは、名護といいます。おとなり?」
「隣接はしてないけど、おとなり」
この村で、家屋はかたまって建っているところもあるが、畑の中に点在している場合もあった。この家は後者だ。畑の向こうにあるならば、隣接していないおとなりだ。
「来たんだ。こんにちはー」
ヘアバンド装着済みの紅鬼がもどってきた。人ではないもの同士、積もる話があるらしく、キラとしばらく席を外していたのだ。
「え? ……え?」
八屋は声にならない吐息を漏らし、慎を見て、また紅鬼を見た。
「え?」
「こんにちは。名護紅鬼です」
紅鬼は親戚の子だということで通している。今回もその線で、
「こんにちは、八屋といいます。本日はお日柄もよく、結婚してください」
「オレ、千晃の嫁だから無理!」
いい笑顔で断っていた。
慎はしょんぼりする八屋をテレビの前に置き、テレビをつけて朝食を並べた。
「すみません、名護さん。八屋、プロポーズ断られてフラれてから、求婚癖がついてしまって」
「どんなヘキだよ」
紅鬼もテレビを見始めたので、千晃は荷物をまとめておくことにした。
アニメと特撮視聴後、改めて紹介された。
「名護さんは、村の経理に僕がスカウトしてきた人」
「まだ決めてねえぞ!」
「来てよー。名護さんが暮らせるように、金銭面も含めて準備しておくから。生活費、安いよ。移動費ほぼイコールガソリン代は高いけど。経理頼みたい人、どれくらいいるか調べておくし、貸せるか売っていい家も目星つけておく」
「やってもらいたい! お金のこと!」
八屋はやや前のめりだ。
「税理士じゃないから、確定申告の代行はできねえぞ」
「エーン、心読まれたー。次に会うときは税理士になってきてよー」
「無茶言うな。簿記は持ってるけど、二級だ」
「税理士と簿記って、関係ありそうだけど、何の関係が?」
「受験資格だ。そういう学部・学科の学校を出てる、会計の業務経験、日商簿記一級か全経簿記検定上級、いずれか。受けられたとしても、受かるかどうかはまた別の話だ。合格率は一〇%ちょいくらいだからな」
持っていれば食いっぱぐれない程度には、難関資格なのである。
「確定申告は、提出だけなら、同居人ならそんなに手間じゃないけど、それを委任状作ってまで他人に頼むなら、郵送しろって話だな」
「同居だと楽できる、つまり、結婚してください」
「やめろ」
見境がないにもほどがある。
「残念だったな。そもそも俺も、妻帯者みたいなものなんだよ」
一瞬間をおいて、紅鬼が腕に抱きついてきた。
「お前が“チアキ”だと……?」
「どうも、名護千晃と申します」
今度は名刺を出した。
「ご丁寧にどうも。てっきり、千晃“が”嫁ってのをいい間違えたのかと思ったけど、千晃“の”嫁であってたのか。ポケモンをゲットしたり、兄弟で賢者の石を探す旅をしてそうな声だと思ったけど」
「どういう意味だ?」
「女性声優の少年声って言いたいんじゃないかな」
女性である可能性も考えていたのだろうか。
「念のため言っておくけど、紅鬼は男だぞ?」
「そこは、『だが男だ』って言って!」
「どういう意味だ?」
「話せば長くなるんですけど、要約すると、オタク特有の病気。八屋、シュタゲも鋼も、もうだいぶ前のだぞ。ポケモンはだいぶ長いぞ」
「ひぃ!」
よくわからないが、そういうことらしい。
「あぁ、そうだ。俺はハチエイトっていうペンネームで漫画時々イラスト描いてます。ハチはぶんぶん飛ぶやつ。エイトはカタカナ」
エア名刺が差し出された。
「試し刷りのやつなら残ってるよ」
見かねた慎が試作品らしい名刺を持ってきてくれた。千晃はあまり漫画を読まないので、残念ながら見覚えはない。
「知ってるか?」
腕にくっつく紅鬼に見せる。
「うん。雑誌で見たことある」
知っていたということがうれしいらしく、八屋は満面の笑みだ。
「俺には全然仕事の想像がつかねえけど、手に職をつけてるなぁ」
「名護さんの方が手に職つけてるでしょ。簿記まで持ってるし」
「俺の仕事は、誰でもできるとは言わねえが、ある程度算数ができればそれなりにできる。属人性は低いから、俺じゃなくてもいい仕事だ。食いっぱぐれないっていう意味では、どこにでも発生する、属人性がないから俺でもできる仕事ではあるけどな。そっちは属人性も属人性マックスで、慎さん、八屋さんにしかできない仕事なんだろ? まずマッチする需要が必要なのが難しいところなんだろうけど。今、プロとして稼げてるってことは、お金を出してでも見たい・欲しいって思う人が少なからずいるってことじゃねえのか?」
手に職をつけるということが、食いっぱぐれることのないという意味であれば、経済が回っていればどこかで発生する仕事である経理の業務をこなせることかもしれない。今は、正確には直接経理の仕事はしていないが。
特定の個人しか持っていない、稼ぐことができる技能も、“十分に手に職”だと、千晃は思うのだ。目の前にいる漫画家やイラストレーターはその最たるものだ。需要に波はあるのだろうが。
「やだ、名護さん、トゥンクする」
「ねー。そんな事言われたら、クリエイターみんな落ちちゃうよ」
「俺にはわかんねえ苦労があるんだな」
「多かれ少なかれ、どんな仕事にも苦労はあるものでしょ。名護さん案外人たらし。ちがうな、クリエイターたらし!」
「そうだそうだー!」
「何の茶番だ」
なお、キラ(犬の姿)は我関せずと、慎の膝の上に居座っていたのだった。
村は交通の便が悪いため、茶番劇もそこそこに出発となった。八屋もついてきたがったが、『じゃあ、まずは担当さんに返信しよっか』と慎が黙らせていた。そのまま圧をかけて返信させていた。同行はなくなった。
「エーン、お土産買ってきてー。ケーキがいいー」
すごすご自宅へもどっていった。キラは監視役として置いてきた。慎はなかなかスパルタだ。
予定通り、駅まで送られることになった千晃と紅鬼は車に乗り込む。
「腰のこともあるから、また来てくれるって確信はあるけど、移住はどう? 用意する資料が、プレゼン用になるか、具体的な物件リストと顧客リストになるか、なんだけど」
「ずいぶん移住を推してくるんだな」
「まあね。人材的にも、紅鬼くん的にも。あとは医者がいたらなあ。いない? お医者さんの知り合い」
「無茶を言うな。俺はあの村の理由を知れたから前向きに検討もできるけど、医者のいない村にわざわざ来てくれるとか、漫画みたいにうまくいくわけないって考えるのが普通だと思うぞ」
「名護さんは前向きに検討してくれるんだ」
「……まあ、俺は、な。残念ながら、そんな殊勝な医者の知り合いはいない。そもそも医者の知り合いはいない」
「残念」
無理難題だということはわかっているのだろう。慎はそれ以上医者について食いついてはこなかった。
千晃の移住については、勧誘は強引といっていいくらいだ。そちらは脈アリと思われているのだろう。
千晃が前向きに考えようと思ったのは、あれこれ理由や言い訳を並べてみて、結局ウェイトが大きい要素は紅鬼だった。
慎には、紅鬼はペット感覚だと言ってある。そればかりではないが、愛でることに特化した存在という意味で。言っていないのだが、後ろめたい点もあった。
紅鬼は、人のマネをして、人の営みの中にいることが楽しいと言っている。ただ、その営みの範囲は狭い。出会った頃より、再会して以降も、人のマネはより精度を上げているが、それでも紅鬼は人ではないものだ。強く言っていないものの、紅鬼を外に出すには抵抗があった。察してか、紅鬼も必要以外はあまり外に出ようとはしていなかった。今回の旅行と、貴純村でのはしゃぎっぷりを見てしまうと、紅鬼を閉じ込めてしまっていたのだと、改めて思ったのだ。
キラという先達がいる貴純村であれば、紅鬼がもっとのびやかに暮らせるのではないだろうか。
キラは言っていた。健やかであれと思う者が、健やかに生きていることが幸せなのだと。千晃にはその対象が紅鬼になってしまっていたのだ。
「移住するとして、お前の口にあの村の食物は合わないんじゃないか?」
「千晃が愛情込めて作ってくれた料理はなんでもおいしい」
「……そうか」
懸念は一つ消えた。もう少し前向きに考えられそうだ。
「慎の作ってれたごはんもおいしかった」
「わぁ、うれしい。レパートリー増やしておくね」
「旦那のために増やさねえのか?」
「それはそうなんだけど、うちの冷蔵庫にお姉様方がおかずを入れていくから、なかなかなんだよね」
「それは大変……、なのか?」
「たぶんね」
八屋を除き、村に住む者はキラの存在をよく知っている。紅鬼も似た存在だと理解してくれる点は大きい。
「自主的に仕事を辞めるってのは、面倒も多いんだ。半年・一年がかりになるぞ。二週間前に言えば法的に問題はないが、俺も部下を持つ身だからな。キリよく年度末で終われたらいいが、そこは経理が忙しくなるタイミングなんだ。開発課は直接関係なくても、間接的には関係ある」
「組織で働くとそうなるよね。ゆっくりでも確実に準備を進められる展望をちゃんと持ってるのはいいことだ。移住前に何回でも遊びに来てくれていいよ。さっきアカウントいろいろ教えたけど、今はネットで気軽に遠方の人と話せるから、すり合わせも簡単にできるよ」
「あぁ。……あの村はいいところだな」
「もちろん。僕の自慢の故郷だよ」
しんみりほのぼのとしたのだが。
「虫が大丈夫なら」
「虫?」
「虫。対策はあるから、一触即発レベルで嫌いでなければ。小学生男子みたいに捕まえにいかなくてもいいし、いきなりそこにいたらびっくりするくらいは当然として、極端に嫌いでなければ」
「得意ってほどではねえけど、何がなんでもっていうほどじゃねえな。小さい頃は田舎暮らししてたから、捕まえにいく小学生男子ではあった」
「オレと初めて会ったころの話だ!」
「そのあたりのことは言いたくないからほじくり返すな!」
「あははっ。じゃあ、大丈夫だね! 貴純村はいいところだよ。僕の自慢の故郷だよ!」
慎は改めて言い直した。
******
“何もしない”をした温泉旅行も、お客様扱いをしてもらった貴純村も、十分に休んだと言えるのだが、自宅に帰ってくると『やっと帰ってこれた』と思ってしまう。外出すると、どうしても気疲れがついてまわるものなのだ。
「ただいまー」
紅鬼は上がるなり、ずっと肩にかけていた米(五キロ。慎に使っていないからと大きなトートバッグをもらった)をおろした。
「お前が買ったんだから、責任持って台所まで──」
紅鬼はくるり振り返り、靴を脱いだばかりの千晃に抱きついた。顔が近づいた。唇が触れた。
「あぁ、やっぱり」
紅鬼はうっとりと目を細める。
「昨日から、千晃おいしくて気持ちいい。なんで?」
「……黙秘する。内心の自由は保証されている」
キラの言葉が蘇る。感情は強いエネルギーなのだ、と。“愛”を自覚したとたん、蓋が開いたらしい。よりにもよって、感じ取れるものに対するそれを。
「帰ってきたよ」
「休む暇もあたえねえのか、お前は」
文句を言いつつ、千晃は少しかがんでこたえる。受け止める。
口内を絡ませたのは、ほんのわずかな時間だった。
離すと、紅鬼の勢いは消え、脱力したように身を預けてきた。
美醜はおいておくとして、見た目は人だ。外側を留めているというツノ以外は。触れれば温かく、柔らかい。皮膚の下には肉と骨が感じられるが、それはまやかしかもしれない。あくまで人の“マネ”。一枚剥げば、何があるのかわからない。今なお、紅鬼は得体のしれないものだ。
だが、情がわいた。愛しいと思うようになっていた。
「紅鬼は、愛情手間ひまかかった料理がおいしいんだよな?」
「うん」
「それは、セックスにも適用されるのか?」
千晃の推測は当たっていた。
キャパシティを超えたらしく、紅鬼は糸が切れたように気を失った。気を失うという機能が備わっていることに驚いた。排泄はしない。睡眠と食事も必須ではない。疲労らしきものも見せない。その細腕で、長身の千晃も軽々抱える紅鬼が。
今回にかぎってやりすぎたということはない。千晃に疲労感はあるものの、いつもに比べれば余裕があるくらいだ。感情は強いエネルギーだとキラは言っていたが、これほどまでのことなのか。
片付けねばならないことは積まれている。放り出したままの荷物の片付けやら、今週分の家事やらを。しかし、今だけは前向きな考え事ならばしてもいいだろう。“二人は幸せに暮らしました”というハッピーエンドのおとぎ話の締めの言葉を実現するにはどうすればいいか。その具体的な生活と、実現のために必要な事柄を。
千晃はやっと独り身ではない自覚をしたのだった。
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千晃は、村の老夫婦の家を買い取ることになった。
『お父さん死んじゃって、どうしようかと思ってたら、娘のところの子たちも社会人になって出ていったタイミングでね。一緒に暮らそうってことになったのよ』
とのことだ。
『もし仲違いしたら、千晃ちゃんの第二の母になって、紅鬼ちゃんを孫にするわ!』
と、恐怖の宣言をされたので、ぜひとも仲良く暮らしてほしいところである。なお、売買契約は専門業者を介して行った。
何度目かの村の訪問。準備は着々と整いつつある。
「ゲーム雑誌にも載ったから持ってきたよ。言ってた柘榴の紹介ページ」
駅まで迎えにきてくれた慎は、早速といわんばかりに付箋紙の貼ったページを開いてみせた。ミネロマ特集ページで、新キャラ“柘榴”の情報が載っている。紅鬼をモデルにしたらしい。キラほどあからさまにしないと言っていた通り、いくつか紅鬼の要素は見つけられるが、それを紅鬼と言い切れるほど似てはいなかった。額にツノのある鬼キャラと言ってしまえば、たしかに紅鬼なのだが。
そのキャラクタについては以前に聞いていた。一般への情報公開と同じ日に、慎から直接。紅鬼は喜んでいたので、千晃には特に言うことはなかった。
ざっと眺める。
「声、女性なのか?」
字だけではわからなかったが、ふられたルビを見ると、女性の名前の響きだ。
「うん。最近はそういう需要もあるからね。松本梨香さん、ぱくろみ、くぎゅよりも、田村睦心さんの方が僕は好きだなーって言ったら、採用されてた」
「イラストレーターにそんな権限あるのか?」
「ないはずなんだけどねー。でもそれを頭の片隅に置いて描いたからか、しっくりきちゃったのかな。もちろん、プロの声優さんの力量もあるけど。キラの安元洋貴さんは、なんかもうネタ。ゲーム開発してる人たちには、キラの声だけはバレてるから」
慎はケラケラ笑っている。それが笑い事なのかどうかは、千晃には判断しかねた。
「今はないけど、タイミングが合えばガシャの触媒としてポチポチ依頼あるかもしれないね。受けてくれると嬉しいな」
「いいよー」
「よくわかんねえけど、あんまり安請け合いするなよ」
「はーい」
「スマホの画面をタップするだけだから。願掛けみたいなもの」
よくわからないが、そういう文化なのだろう。最近やっとわかってきた。
「そういえば、鉱物なのに柘榴なのか?」
「そうだよ。ガーネットのことを柘榴石っていうんだ。赤いし、鬼っていったら柘榴だし。鬼子母神的に」
「……女の神様だな、鬼子母神」
「イメージ、イメージだって」
笑いながら車に誘導された。
何度目かの貴純村への訪問。慎の実家に車を停めて、慎宅まで歩くことにも慣れたものである。
「万が一、結婚でもしないかぎり、こんなに大きく人生の舵を切るとは思ってなかった」
慎宅へ向かう道中、千晃はポツリと漏らす。
「結婚してるでしょ、千晃さん」
「してねえ」
「あー、僕もしてるけど、してないんだ。僕、自称既婚者なんだけど、否定されたー」
「勝手に言ってろ」
「オレ、千晃の嫁!」
「勝手に言ってろ」
くっついてくる紅鬼を引きはがすのは、もうとっくに諦めた。
「認めて受け入れたら楽になるでしょ?」
「うるせえ」
口先だけの抵抗はまだ止められないでいる。
「ただいまー」
「おじゃまします」
「おじゃましまーす!」
上がり込むと、奥はいつも通り姦しい。
「あら、おかえり。千晃ちゃん、後で話聞いてくれない?」
「そろそろ金取るぞ」
「野菜払いでいいかしら? 売るほどあるから」
「計上しにくいから、売ってからにしてくれ。販売経路もそっちのほうがちゃんと知ってるんだろ?」
さすがに諸々と並行しながら短期間で取れるものという制約があったものの、もう少し広く話ができるようになるだろうと、FPの資格を取ったのだ。制約のため、三級だが。少しは足しに、くらいのつもりが、村に来るたびに誰かに捕まる始末である。
「何回も聞いて悪いけど、本当に金だしてまでも経理他金にまつわることを頼みたいって思ってるんだよな?」
『いざとなったら一緒に農業しましょう』と慎が保険(?)をかけてくれているが、企業ではなくほとんど個人規模の経理だ。委託するという選択を天秤にかけるほどのものかと、千晃はずっと懸念していた。
「もちろん! お金は大事だけど、めんどうなのよね」
「千晃ちゃん、信頼できるから大丈夫よ。紅鬼ちゃんが好きになるのも、わかるわぁ」
「紅鬼ちゃんかわいいし」
「もうみんなの孫みたいなものよね。おにぎり食べる? 新作よ」
「食べるー!」
「ほんと、手間暇汲み取ってくれて、かわいいわぁ」
「佃煮おいしー!」
「うちの孫にするわ」
「いいえ、うちの孫よ」
「うちの息子にするんだから」
「ごめんね、オレ、千晃の嫁だから」
「「「どうぞどうぞ」」」
「何の茶番だ」
いつもこの調子である。いつものことになり、千晃も慣れつつあるのが困りものだ。
「千晃ちゃん、うちの子にならない? そうすれば、芋づる式に紅鬼ちゃんを孫にできるから」
「ならねえよ。そもそも俺の嫁なんだから、孫にはならねえだろ」
「そうねえ。……紅鬼ちゃんの姑も悪くないわね」
「やめろやめろ!」
本当にこの地で骨を埋めていいのだろうかと一瞬思ってしまうが、すぐに別の考えに上書きされてしまった。何の解決にもなっていないが、最期はもうとっくに決まっているのだ。
千晃が骨を埋めるのは、紅鬼の腹の中だと。
溶けない飴をずっと口の中にふくんでいるような状態だった。
感じるのは、味ではないが、“おいしい”。少年の小指を数十年飽きることなく味わい続けているうちに、早くあの少年を味わいたいと思った。
還すにはまだ早い。だから、そばで毎日味わい続けられるようにした。
毎日ちがうおいしさがあった。
どんな命も儚く、活動的でいられる期間は一瞬のようなものだ。それが残念でならない。“残念”などという感覚を持てるのも、人のマネをしているからなのだが。
かつての少年──千晃の最期には、やっと念願かなって全部食べられることになっている。還してやるものかと思っている。人のマネをやめて、いらなくなったものは還して、ずっと千晃を溶けない飴のように味わいながら、役割をこなすだけのものになる。
その日が早く来てほしいと思うも、今もまた変化に富んだ日々が楽しくて、一日でも長く続いてほしいとも思う。それは、人のマネをしているから生じる感覚だ。
なにはともあれ、これからもずっとおいしいことは確定しているのである。