鬼嫁さんの話Ⅰ
名護千晃は右手の小指が少し不自由だった。と言っても、生活に支障があるほどではない。右手は利き手だが、小指の動きは左手よりも拙い。父方が沖縄の出で、その血筋なのか、地黒なのだが、右手の小指だけ少し色素が薄い。小指だけを深く曲げようとすると痛みが走る。そのくらいだった。
今まで小指を駆使するようなことはなかった。特に指切りげんまんの手をすると痛むのだが、右手の小指でそれをしなければならない場面というものにも遭遇したことはない。
子どものころに動物に噛まれて以来らしい。よく憶えていないが。野生動物に噛まれたということで、当時はてんやわんやだったらしい。なお、何に噛まれたのかは、今もわかっていない。
そんな少年だった千晃だが、そこそこの時は過ぎ、今はただのおっさんである。人並みに生きてきたつもりだが、女性との縁はやや遠く、いつの間にやら独りで不惑。多少の役職がついているおっさん。このまま一人で、すっと死んでいく想像ができるようになるくらいの。
それでいいかと思っている。今更躍起になったとして、明るい将来を思い描けない昨今、わざわざ責任も作りたくない。ほどほどに死ねればいい。
そう思っていた。“あれ”と再会するまでは。
オフィス街の駅前は、わかりやすく朝と夜に混む。朝ほど集中していない夜はマシだが、夜がふけると酔っ払いというタチの悪いものが混ざってくるので油断ならない。千晃も軽い酔っぱらいではあるのだが。
プロジェクト完遂の打ち上げ飲み会は早めに抜けてきた。気分が乗らなくても一次会くらいは最後までいるべき立場なのだが、今日は妙に気がそぞろになり、適当に理由をつけて抜け出してきた。上司らしく、多めの金額を渡してから。あとから考えれば“予感”だったのかもしれないが、そのときはただ気が乗らないだけだと思っていた。
金曜の夜の飲み屋街はとてもにぎやかだ。余波で駅前もにぎやかで、しかしスーツやオフィスカジュアルという画一的な格好ばかりでいかにも有象無象である。もちろん、千晃もその一人だ。
その有象無象の中で、ふと、目が吸い寄せられた。
群像の中に若者がいないわけではないが、若い(おそらく)男だ。少年とも青年ともつかない彼は、誰かを探しているのか、ゆっくりと周囲を見回している。眉が隠れるほどまでニット帽を被っている。はみ出ている髪は赤い。カーゴパンツにスカジャン、黒に金のプリントのあるシャツと、着ているものはあまりにも治安が悪かった。耳にはバチバチにピアスが刺さっている。治安が悪い。しかし、顔は良かった。間近で見ているわけではないが、それでも美少年然とした容貌がうかがえた。シャープな鼻梁とフェイスライン。少し開いた唇は薄いが形がよく血色もいい。切れ長の目は鋭く見えるが、顔全体が涼やかな印象でバランスがよかった。千晃は“美少年”という言葉が似合う顔立ちを初めて見た。
駅前は明るいとはいえ、すでに宵の口。その中でも鮮やかに際立っている。ゾッとするくらいに。その顔と格好と、場所が似つかわしくない。何かよくないものでも見てしまった気分だ。しかし、美形は七難を隠すのか、違和感を覚えるより見惚れてしまっていた。
ぱちりと、周囲を見回していたその美少年と、うっかり目があってしまった。カラーコンタクトでもつけているのか、黒猫のような金の目をしている。見つめ合うことなく目をそらす。ジロジロ見るのは失礼だ、と。ほんのわずか、一秒足らずのことだった。千晃は切り替え、帰ろうと足を
「千晃ーっ!!」
「おごぉ!!」
数メートル離れていたはずの美少年に飛びつかれていた。
「人違いだ」
引き剥がそうとするが、なかなかどうして力が強い。
「人違いじゃない。千晃だろ?」
「それはまちがっちゃいねえが……」
シラを切り通すべきだった。言ってしまってから気づく。
「オレが探してる千晃でまちがいないって。ここに残ってる」
言いながら、美少年は千晃の右手をそっと持ち上げた。するりと、何かが欠けた右手の小指をなでられる。
「ヒトチガイデス」
どうにか手を振り払い、つかつか駅方向へ足を進める。できるだけ速く。カバンに手を突っ込み、定位置に入れている定期入れを引っ張り出す。改札に定期入れを叩きつけ、電光掲示板を見る。目的の電車の発車時刻はデジタル時計と一分差だ。足をさらに速める。階段を駆け上がり、心の中で駆け込み乗車を謝りながら電車に滑り込む。
発車の放送とともに閉まるドア。一昔、いや、二昔前であれば撒けたかもしれない。
「人違いじゃないって」
今は、文明の利器が広く普及している。息を乱す千晃。となりに涼しい顔をした美少年。撒けていない。負けた。千晃はうんざりしながら思った。
帰宅者数のピークは過ぎており、席にはすぐ座れた。美少年も当たり前のようにとなりに座ってくる。
「何なんだよ、お前」
「忘れたのか? まあ、三十年くらい経ってるからなあ。人間にはちょっと長いか」
ツッコミをいれると負けな気がする。ぐっと堪える。
「見つけられたから、返す」
右手の小指が絡め取られた。指切りの形で。反射的に身を固くするが、痛みはなかった。
「あ?」
緊張を解く。少年はポンポンと手をなでた。
もどっていた。何が欠けているのか、動かしづらく、少し他よりも色素の薄かった右手の小指が、普通の状態に。同時に、わずかながら思い出した。
「お前、山の……」
「うん、それ」
千晃は今でこそ都市部でサラリーマンをしているが、幼い頃は田舎に住んでいた。呼吸器に疾患のある妹を、空気のいいところに住まわせたいと親が一時的に移住していたのだ。ちなみにその妹は、今は逞しき二児の母だ。すっかり丈夫になっている。
田舎暮らしにつきものなのは駆け回る野山である。千晃も例外ではなく、(妹と違って)身体が丈夫であったため、野山を駆け回った。
それは山の中にいた。
得体のしれないもの。ざわざわするもの。人ではないもの。獣でもないもの。畏怖を与えるもの。
千晃はそれに少しだけ食べられた。右手の小指の何かを。痛かったような気がする。それだけでなく──。
「うっ……」
余計なことまで思い出した。
それがどういう仕組なのかはわからない。しかし、右手の小指が正常な状態にもどっていることはわかった。医者は誰も治せなかった。それを治せるのは、山にいたそれしかありえない。認めたくないのだが、
「お前、オカルト的なやつか?」
正気の沙汰とは思えないので、そっと小声で耳打ちする。
「オレはオレだとしか言いようがないんだけど、だいたいそういうもの」
信じたくはないが、オカルトでも持ち出さなければ説明がつかない。断片的に知る者はいるが、千晃の小指の事情のすべてを知るのは、千晃自身と原因となったあの得体のしれないものしかいないのだから。
車内の放送が目的の駅への到着を知らせる。ついてくるんだろうな。口から幸せを吐き出しつつ、停車を待つ。腰を上げ、
「んぐっ……!」
そのまま腰がのびて尻が付いてこない感覚だ。鈍痛、しかし激痛。何度か経験している痛み。
腰がやられた。
「どうした? 千晃」
「……とりあえず、降りる」
手すりにすがってどうにか背を伸ばし(腰痛い)、勝手に引けてくる腰をどうにか動かす(腰痛い)。
降車した他の乗客は改札へ向かうが、千晃は不自然な体勢でベンチにむかい、腰を下ろした。少年もついてくる。
「お前が……」
「オレ?」
「飛びついてくるから! 腰をやったじゃねえか!」
カバンを抱えてマシな姿勢を探す。どうあっても痛い。動けない。とはいえ、何度かやったことがある。病院で診てもらったが、『炎症を起こしていますね。貼り薬を出しますから、それを貼って安静にしていてください。何かあればまた来てください』と毎回言われただけで終わった。なにか具体的な病名らしい病名は告げられなかった。一日寝ていれば、痛みはしばらく残るが、少しずつ回復していった。いずれも家で発生したため、動けないために帰宅困難とはならなかった。つまり、今は帰宅困難に陥っているわけだが。
せめて駅前でタクシーに乗ることができれば。しかし、そこまで歩ける自信がない。つまり、痛くてヤバいのである。
「どうしました?」
乗客の去ったホームで座り込む千晃は十分な声掛け対象なのだろう。駅員に声をかけられた。
「すみません、腰をやってしまって……」
「あぁ、それは大変ですね。救急車は必要ですか? 車椅子、お貸しできます。短時間でしたら、救護室で休めますよ」
「オレが連れて帰れるから、大丈夫!」
「お客様は……?」
「ごめんな、おじさん。オレが二十歳になって、おいしいもの食わせてくれるっていうから、はしゃいじゃって」
少年はしれっと嘘をつく。成人済みアピールまで織り込んで。しかし、千晃も少しだけ心当たりのあるオカルト的存在が問題を起こしてもらっても困る。その嘘に乗るしかなかった。
「連れて帰るって……」
困惑の色を見せる駅員は、線の細い美少年と、寝て一畳がギリギリ足りない千晃を交互に見やる。少年もけして背が低いわけではないが、千晃が大きすぎた。一八〇を少し超えるくらいだが。
「オレ、米俵とか全然かつげるし、大丈夫!」
少年は立ち上がった。同時に、千晃の身体が持ち上がった。横抱き、いわゆるお姫様抱っこである。
「いっ! だだだ!! 腰が伸びる千切れる!」
不意に持ち上げられ、体勢が整わず腰が痛い方へ伸びてしまい、激痛が走る。降ろされた。ホッとしたのもつかの間。
「じゃあ、おんぶ」
ぐい、と腕を前に引っ張られた。気がつけば、少年の背中に張り付いていた。今度はまだ腰は無事だ。前提としてそもそも無事でない状態なのだが。その細腕にどれだけの力があるのか、危うげなく足元も安定している。
「駅前でタクシー捕まえれば帰れます。そこまでなら、まあ」
「はあ、随分力持ちですね」
「任せて!」
「改札出るのだけ、お願いします。自分のは上着右ポケットです」
「オレはスマホのやつ」
どうにか改札を超えることができた。いつもであれば徒歩で帰宅だが、今日ばかりはタクシーを使うことも仕方ない。
「って、おい、タクシー乗るって」
「大丈夫大丈夫。全然歩けるから」
「そうじゃない! おっさんがおんぶされてんのが恥ずかしいんだよ!」
「にひひっ」
笑いながらズカズカ歩いていく。
「お前、わかって……」
千晃は手も足も出せないまま自宅へナビするしかなかった。
美少年に対して“ベッド”という言葉を使うこともためらわれ、ソファにおろしてもらった。ソファは二人がけ用で、身体を丸めて横になるのが一番楽な姿勢であるため、どうにか身体は収められた。だいぶはみ出ているが、仕方がない。
「それで、結局お前は何なんだよ」
「相当する言葉が日本語にないから、説明は難しいな。千晃がいってた“オカルト的な存在”が的を射てる」
少年はソファのそばに腰を下ろした。
「あー、痣になってる。そこはオレが悪かった。ごめんなさい」
少年の指先が千晃のひげの浮きはじめた顎をなでた。少しぐいっと押された。
「いてっ」
じんわりと痛い。見えていないが、なるほど、痣になっている痛みだ。
「なんでそこだけピンポイントに」
「これが当たったんだ」
ニット帽が引っ張られた。しゅぽんと脱げた。
「……ツノ?」
額に数センチの尖った骨のようなものがくっついている。周囲の皮膚が少し盛り上がって見える。ついているのではなく、生えている。ますますオカルトめいてきた。
「これは外側を固定するための楔。この身体は、まあ人のマネをしてるようなもんだ」
「何もわからん。いったい何なんだよ。お前につきまとわれるのも何なんだよ」
「んー、じゃあ、最初からできるだけ説明する」
信用ならないが、聞くしかあるまい。
「その前に湿布貼らせて。そこのカラーボックスに前の残りがあるから、取ってくれ」
******
それは意思も知性も持たないただの世界の仕組みの一つだ。例えるなら分解者。還す者。ただ、循環させるのは物質ではない。近い言葉を選ぶのであれば、命、あるいは情報といったところだろう。
それはただの仕組みだった。しかし、長い年月を経て、蓄積されるものがないわけではなかった。生命に似たものとなった。知恵を持つようになった。快・不快を持つようになった。趣向が発現した。人格のようなものを持つに至ったのが、それだった。
仕組みとしての役割は変わらない。日々に少し変動があるだけ。
朽ちたものを還すのが役割だが、たまには生きるものと会うこともある。
まだくちばしの黄色い少年。死のにおいには縁遠いもの。新鮮ではあるが、幼すぎた。
いつかその時には食わせてもらおう。少年と約束した。指切りという人間らしい契りを交わして。
******
「その時の少年が千晃」
「異議あり」
「人とそうでないものの美しい場面だろ」
「美しさなんてかけらもねえよ。俺にはただの恐怖体験だった。うわ、思い出してきた。よくわからんのに小指かじられたっていう、それのどこに約束とか指切りなんてあったんだよ」
少年は首を傾げた。顔が整いすぎて些細な仕草も愛らしくて腹が立つ。
「人に関わるなんて考えてなかったから、ちょっと外側が曖昧だったか」
「ちょっとじゃねえ! 全然人に似せようとしてなかったぞ。だいたい、食われてもいいなんて約束、自殺志願者でもなけりゃほいほいするもんじゃないだろ。まして、ガキだぞ!」
「そういう約束したからな」
「してねえ!」
「役割のかたわら、人間のマネの練習してたんだ。だいぶ板についてきたから、あの約束の少年はどうなったんだろうって会いにきたんだ。千晃を探すの、だいぶかかった。いやあ、人の世は進みが早い。最先端を憶えたと思ったら、流行りはあっという間に去っていく。人の機微はわからないな」
「俺もお前の機微はわかんねえよ」
噛み合っていない。こいつは合わないやつだ。それだけは確定した。
「その格好と顔面もマネか?」
「服は、一番最近の若いやつの遺体のだ。そのものじゃなくて、マネしてるって意味で。顔は、うーん、平均?」
「あぁ、そういうことか」
人間の平均的な顔を作ると美人になるというのは有名な話だ。身体に男の特徴があるので男ではあると思っていたが、中性的な顔立ちなのは平均ゆえだろう。
「……なんか信じる方向に流されてるな」
何も考えなくていいので、それが楽なのだが。
「俺の記憶とだいぶ食い違ってるけど、何があったのかはわかった。それで、お前は何をしたいんだ?」
「最終的に千晃を新鮮なうちに食べることが目的だけど、殺してまでは食わないから安心して」
「何も安心できる要素がねえ」
何から何まで物騒だ。
「健康で生きてくれたらいいよ。ボケたら味が落ちるから、そのときは考えるかもしれないけど」
「やっぱり何も安心できねえ」
世間話のような口調で物騒だ。
「見てるだけで、何もするつもりないって」
「あごに痣作って、腰やらかして、どの口が言うか」
「それはわるかった。ごめん。その分の世話はするから。千晃の週末の予定は?」
「……平日に目をつぶってた家事の片付け。気が向けば出かけてた」
「オレ、家事、全然できるし!」
「不安しかない」
すみずみまで物騒である。
「大丈夫だって。風呂は? オレが手伝うし」
「いい。このまま寝る。もう全部投げ出して寝る。明日にシーツ他洗濯する。家事をしてくれるっていうなら、カバンの中の弁当箱洗っておいてくれ」
千晃はうなりながら身を起こし、伝い歩いて寝室へ身体を引っ張っていく。身体を丸めなければ寝て一畳が足りないため、ベッドは大きいものを使っている。そのため寝室を圧迫しており、寝室は文字通り寝るためだけの部屋だ。
片付けは明日の自分に丸投げして衣類を脱ぎ捨て、ゆるゆるだるだるな部屋着になってベッドに潜り込む。着替えがいつもの倍以上の時間がかかってしまった。
「千晃ー、洗い物しておいた」
「あぁ」
「寝るってどんな感じ?」
少年は当たり前のようにベッドに潜り込んでくる。
「何入ってきてんだよ」
「オレも寝たい。必要なかったから寝たことないけど、人間の機能はだいたい再現できてるから、寝られるはず」
この少年について深く考えるのも、明日の自分に丸投げしておく。
「何も考えずに目を閉じてろ。……そう言えばお前、名前は何だ? ヤバいな、名前も知らないやつがベッドにいるとか、ヤバさしかない」
「ヤバくない! 名前は特にない。“紅の”とか“赤い鬼”とか“赤いやつ”とか呼ばれたことはあったけど」
「どれも固有名詞っぽくない。三倍の速さ出そうだし、赤い俳句か川柳ができそうだ」
「千晃が呼びやすい名前をくれよ」
「呼びやすいって……」
“紅”と言われて有名ロックバンドの曲しか出てこない。頭を取って、くれ、あ(五十音順)。紅愛とかいて“くれあ”と読むビジュアル系バンドのメンバーにいるやつだ。読み方を変えよう。べに……自称イニシャルCVの紅子しか浮かばなかった。紅丸なんていう鬼か侍キャラがいたような気がする。
呼びやすさは、人前で呼べるかだろう。古臭くても、キラキラしていても嫌だ。
「……紅鬼なら、響きは普通の名前だろ」
「こうき」
少年改め紅鬼はくひひと笑った。
「くっつくな、はなれろ、寝る邪魔すんな」
一番楽な姿勢は、横になって少し身体を丸めた状態だ。紅鬼はその背中にぴとりと張り付いてくる。見た目は美少年だが、幼い頃にあったあの得体のしれない恐怖を呼び起こすものが。
思い出して総毛立つ。うめきながら寝返りをうつ。まだ人の形をしていることを確認する。
「なんだ?」
「……寝る邪魔をするな」
くっついてこようとする紅鬼を引き剥がし、目を閉じる。
得体のしれないものと同衾なんてしたくはない。だが、布団から追い出すのもためらわれる。おそらく美人は七難を隠してしまうために。七難どころではない気はするが。あるいは、一つの難がデカすぎる。
わざわざ引き剥がしたことが効いたのか、今度はくっついてこなかった。遠慮がちに触れてきた冷たい指先は、振り払うほどではなかったので許容した。
******
土曜の朝である。千晃はソファに転がっていた。朝からシャワーを浴びて、湿布も貼り直した状態で。
『おはよう! まだ寝る? 龍神にきいたら今日は晴れるから、シーツだけじゃなく布団も干そう。オレがやるから』
『洗い物ついでに米もセットしておいた。やり方は炊飯器に聞いたから、大丈夫』
『人の丁度いい味ってまだわからないから、簡単なのしかできないけど、朝ごはん、これでいい? おいしい? やったー!』
『お昼ごはんどうする? 千晃はあんまり動けないから、軽いほうがいい? オレ、甘いの食べてみたい。ホットケーキミックス? 全然、作る!』
『洗濯はしてるけど、掃除は? 掃除ロボいるし、十分動けるように片付けてるから大丈夫なんじゃない? 千晃、散らかさないようにしてるの、偉いな』
「えっ、何なの。おっさんにそんなに優しくして、心奪おうっていうのか? たしかにおっさん、優しくされたらチョロいけど」
冗談めかしていってみたが、口にしてわかった。思いの外ガチだ。
気になる言葉の使い方はあるものの、随分と献身的だった。千晃は手で顔を覆い、腰が痛くないていどに丸くなる。紅鬼の不気味さは、顔のよさでマスキングされてしまっている。
「おー、好きになってなって。そういう感情の振れは、経験値として重なって“コク”になるから」
「コク? 何のグルメレポだよ」
「言ってたとおり、オレが食べてるのは日本語ではちょうどいい言葉がないけど、まあだいたい命と情報だ。それが詰まってるのが、」
紅鬼の指が、トンと千晃の額を突いた。
「“脳”だ。この世に出てきたてのピュアなのもおいしさはあるけど、積み重ねてきた人生で深みが出る。コクが出る。せっかく目をつけたんだ。おいしくなってほしい」
いたずらめいた笑みを浮かべる紅鬼は、本当に顔がいい。しゃべっていることは不穏で物騒だが。
「お前なぁ。俺もいい年なんだから、そういう話になると、身体の関係とかも出てくるぞ」
「全然大丈夫。むしろ、身体だけでもいいよ。こっちには、命がつまってる」
千晃の額を突いた指が、今度は股間をなでた。
反射的に腰が引ける。
「いっって!」
腰の痛み。
「まだ無理そうだな。いつでも言ってくれていいから」
「……じゃあ、何で男の身体なんだ?」
ベッドでベタベタ触って確認したわけではないが、紅鬼の身体にはついていた。他にも男の特徴のある身体をしている。
「棒も穴もあるから、両方対応できるかと思って。普通に弔われるなら、オレみたいなのが関わるのは最後のちょっとだ。オレが全部を還すことになるのは野垂れ死んだか自殺者だから、実際にオレが見てきたサンプルが、男のほうが多いっていうのもある」
自殺者は圧倒的に男性の割合が多いと聞いたことがある。まさかこんなところで人の闇を見るとは思っていなかった。
「穴、追加する?」
「えっ、こわっ、やめて」
反射的に断っていた。
「買い物は? お使いくらいできる」
「あー、ちょっと行けそうにないな。頼む。色々頼みたいものが出てくる。メモ、いるか?」
「スマホでメモとるから大丈夫」
言いながら、紅鬼はスマートフォンの画面をともしていた。
「どうやってんだ、それ。お前、まともな名前もなかったのに。住所、あるのか?」
「ない! ここ! そこは、いろいろと。現代社会、これがあれば切り抜けられること多いし、つーかオレの持ち物これだけだし」
「大丈夫なのかそれ!? ほんとにそれ使い続けて大丈夫なやつなのか!?」
少なくとも交通系ICカード機能は入っていた。どこかに財が必要なはずだ。“違法”の文字がよぎる。
「これは残り滓の寄せ集めみたいなもの。国内の一人ひとりから一円もらったら一億になるみたいなものだよ。正規ではないけど、違法でもない」
「なんか怖い。やめてくれ。スマホしか持ってないって、服は?」
「これだけ」
「……服も買ってこい。駅前にユニクロ、スーパーの方ならしまむらがあるから」
さすがに諭吉はドブに捨てられる金額ではないが、しみったれたことを言っている場合ではない。
「やりたいなら、ホットケーキをデコるためのホイップクリームとかカラースプレーでも買っとけ。ちゃんと買い物してくれるなら、文句は言わん」
送り出し、秒で不安にかられたが、自宅から出かけられそうにない千晃の腰である。もう後の祭りだ。しかたなくやきもきしながら待つ。
小一時間、気が気でなかった。そうしているうちに紅鬼は帰ってきた。
「たっだいまー! 着替えてきた!」
渡したトートバッグとエコバッグをいっぱいにしていた。
安堵と、うんざりのため息を吐く。
「なんでお前の服のセンスはそんなに治安が悪いんだ」
「なー、千晃。せっかく名前くれたんだから、そっち使えって」
「……紅鬼」
「くひひっ」
「くっそ、七難隠す顔しやがって」
「あっ! 作りたくてフルーチェ買ってきた!」
「はいはい、今日のおやつな。うちに気の利いた器はないぞ」
「うん。食器少ないと思ったから、とりあえず一〇〇円ショップで買ってきた。ホットケーキ♪ ホットケーキ♪」
うきうきをフルオープンにしている紅鬼は買ってきたものを広げて片付けていく。紅鬼は千晃宅に住み着くことをまるで疑っていない。千晃もそれをたった半日で受け入れつつあることに気づく。
「貼るやつも、店員さんに聞いて新しいの買ってきてるから、いつでも貼り替えられるぞ」
「ぐっ……どんどんほだされるやめてくれ……」
一人では貼りにくい背中側の的確な位置に湿布を貼ってもらえるのは、地味にありがたいことだった。
千晃はそのままソファに転がっていただけにも関わらず、平日中に目をつぶっていた家事は随分と片付いていた。どこに何があるとか、簡単な指示は口にしたが、本当にそれ以外は何もしていない。紅鬼が片付けてしまった。しっかりホットケーキとフルーチェをもりもり食べつつ。
夕食はスーパーの惣菜ですませた。
「それで、お前は」
「名前ー」
「……紅鬼はどうしたいんだ? これからどうするんだ? 俺にずっとくっつくみたいなこと言ってるけど、俺にそんな謂れはねえぞ」
「あるだろ、縁。あの日、約束した」
「してねえ。一方的なのは、約束とは言わねえよ。紅鬼が原因の腰痛だけど、世話してくれたからここまではチャラにする。ここからは、お前にかかるコストを俺が負う理由はない」
人間、生きてるだけで金がかかるのだ。紅鬼は人ではないが。
「えー、やだー。千晃看取って片付けるまでついてくー。家事ならできる。やっただろ? 食費かかるっていうなら、食べなくてもいい。排泄しないから、水道代も上がらないし」
「おい、聞き捨てならない。なんで食ったんだ?」
「おいしいものは別腹っていうだろ」
「娯楽か?」
「そうそう。オレは還すものだから、全部還す。何も残さないんだ。だから、排泄もない」
千晃には理解し難いが、紅鬼がそういうものであることは飲み込まざるを得なかった。
「夜の相手もできるぞ。穴も棒もあってお得!」
「やめろ。超絶でっかいお世話だ」
何が不満なのかと、紅鬼はむうっと唇をへの字に歪めていた。
「別にいいよー、オレのこと放り出しても。その場合、約束は果たさせてもらうけど。でも、そんな気ないよな、千晃は」
なぜ、一方的な約束を履行されねばならぬのか。理不尽極まりない。リスクしか見えない。しかし、
「あー、くっそー……」
すぐにでも放り出すべきだった。すでにコストをかけすぎた。惜しいと思っているわけではないが、コンコルドの誤謬という事例が頭をよぎる。たった一日で、ほだされてしまった自覚があった。すでに与えすぎてしまった。
特大のため息。紅鬼は対照的ににっこにこだ。
「じゃあ、今からオレは名護紅鬼だ」
「おいこら、籍にまで入り込もうとするな。そもそも戸籍……戸籍! また面倒そうなことに気づかせやがって!」
どう考えても面倒ごとの塊である。そうであるにもかかわらず、無邪気に笑う紅鬼を許してしまいそうになる。七難(あるいはそれ以上の難)を隠してしまっている。
「“籍”に“入”るって、入籍だ。ふふふー、オレ、千晃の嫁」
「鬼嫁って、そういう意味じゃないだろ」
なにか考え出すと眠れなくなりそうなので、何も考えず布団に入った。紅鬼は当たり前の顔をしてとなりに潜り込んでくる。
「なー、初夜はー?」
「紅鬼が言ってるだけで、俺はお前を娶ったつもりねえよ。はいはい、ねんねしな、ねんね」
したこともない寝かしつけのイメージで背をなでてやる。いわく、睡眠も必要のない紅鬼だ。付け焼き刃で眠ってくれるはずもない。
「昨日よりあったかいな」
少しだけ触れてきたひやりとした指先を思い出す。
「人間のマネがうまくなった。今まではずっと見たり聞いたりだけだったから、全然わかってなかった。今日は一日、千晃とずっといっしょだったから、もっと人間のことがわかった」
なかなかゾッとする話だが、何も考えずに適当に返事をして目をつぶる。何も考えず、何も考えず──。
ふにゃっと柔らかい感触が唇にふれた。
「おやすみ、千晃」
間近で囁かれる。
千晃は──何も考えず、寝た。
******
アラームなしで起きる日曜の朝は、怠惰に沈みそうになる。腰はまだ痛いが、昨日よりずっとよくなった。痛いが、十分に動ける。
「おはよー、千晃」
朝から目の前に美少年がいるのは少々心臓に悪い。
「紅鬼はどんな枕が好みだ?」
「千晃がいい」
「俺の身体も腕も枕じゃない。下手な腕枕は痺れるだろ」
「じゃあ、腕枕上手になって」
「下手はそういう意味じゃない」
不満げな紅鬼を引き剥がし、ベッドから降りる。すでに紅鬼を住まわせることに後悔がにじみ始めていた。
「下手でもいいよ、新婚っぽい」
「俺の籍に入ってくるな!」
朝食はトーストと冷蔵庫の片付けだ。紅鬼にも出すと、少し驚かれた。
「オレ、別に食わなくてもいいって言わなかったか?」
「食ってもいいんだろ? それを娯楽としているなら、うまいまずいを感じて、それが快・不快になってるって解釈であってるか? 俺にもそれくらいの甲斐性はある。紅鬼の舌に合ってるかは知らんが」
お手伝いロボット、メイドロボットでピンとくるものはない。『夏への扉』に出てくるメイドロボットは何といっただろうか。大雑把に四次元ポケットを持っていないドラえもんのようなものだと思うことにした。丸くはないが、愛でるにもちょうどいい顔「いやいやいや」
顔はいいが、それはそれ。
「どうした?」
「なんでもない。本来の役割はどうなってんだ?」
「人間一人生まれて死ぬまでなんて、そんなたいした時間じゃない。ちょっと休憩してるくらいだ。いただきまーす!」
紅鬼は朝食をぺろりと平らげてしまう。
紅鬼がいつから“ある”のかはわからないが、世界の仕組みや役割を負っているならば、この世界が今の状態であるころより、あってもおかしくない。人の一生などあっという間だろう。
「千晃の役に立つ範囲ならいいかな。生きとし生けるもののみでなく、無生物でも、どんな物質でも、なんでも情報の塊みたいなものだけど、うーん、いらない本はない?」
「本?」
心当たりがあったので引っ張り出す。資格試験対策の本だ。受かっているため、千晃には必要のない本だ。誰かに譲ることも考えて置いておいたが、そのまま数年たってしまっている。最新版を買うべきだろう。
渡すと、紅鬼は躊躇なくかじりついた。きれいに半円の歯型がついている。そのまま食パンをかじっていくように、本は紅鬼の口の中に消えていく。
「ごちそうさま」
あっという間になくなっていた。
「……それはどういうやつなんだ?」
「わかりやすいのが本だと思って。本を構成している物質は、紙とインクだろ? けど、それだけじゃなく、加工されている。情報によって紙とインクという物質から、“本”という物に成っている。その物質と、生成物の差まで、オレは“還す”んだ。一種のエネルギーではあるけど、人はそれをまだ知覚できない」
「物質とか、物理ではあらわせないエネルギー?」
「わかりやすい言葉だと、例えばそれにかけられた情熱とか。それを“還す”のがオレの役割。大小はあっても、何にでも物質のみとの差はあるから、何でも食べられる」
「雑食にもほどがある」
「そのエネルギーが濃い・大きいほどおいしい……“快”を覚えるようにできている。役割を全うするために、分解して還すべきものをバクバクと食うためだろうな。人間も、大雑把に、おいしいものは、身体が必要としてるものだろ?」
「わかったような、わからんような」
「なんでも処分できるけど、一例として本の処分が得意ってくらいだ」
「適当だな」
「まだ説明に適した言葉がないし、人間が知覚できない感覚だからな」
「……オカルト、か」
「うん。結局それが適当な言葉だ」
まだ人類が追いついてない世界の事象くらいいくらでもあるだろう。読んだのはもう昔なので、内容はほとんど忘れてしまったが、なんとなく『幼年期の終わり』を思い出した。
やるべき家事はほとんど片付いているが、まだ残しているものもある。
「千晃、料理もするんだな」
「実用的な趣味だろ。趣味ってほどでもないけど、まあ、苦ではない」
紅鬼に適当に買ってきてもらったもので、多少日持ちのするものを作る。人参をスライサーで千切りにしていく。
「料理はわかりやすく成果が出るからな。自分しか食べない料理は自己責任で食べれば、まずくても失敗じゃない。……いや、お前も食うのか。人に食わせるような物なんて作ってないのに」
「オレがおいしいって思うのは、味覚だけじゃなく、情報の複雑さとかだから、人間のおいしいとちがうんだよ」
「その情報ってのは、どうやったら増えるんだ?」
「手間と愛情」
「一番省いてる。はいはい、おいしくなーれ、おいしくなーれ」
口先だけの魔法をかけておく。味に深みが出るかは知ったことではない。あからさまに適当だというのに、紅鬼は『にひひ』と笑っている。
「省いてるって言っただろ」
「オレのこと意識してるってだけで、十分に入ってる」
「ずいぶんハードル低い愛情だな」
「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心っていうだろ」
直接邪魔はしてこないが、ちょろちょろとして邪魔だった。
「ピーラーくらい使えるだろ。きゅうり三箇所くらいぴゃーっとむいて、キッチンバサミで一口大の乱切り」
きゅうりを一本、ピーラーで縞模様にして、端をいくつかカットして見せる。
「できるか?」
「やる! なんで皮むくんだ?」
「味がしみこみやすいように」
「全部むかないのか?」
「歯ごたえがへなちょこになる」
「むいた皮はどうすんだ?」
「食っとけ」
ぴろーんと緑が紅鬼の口から垂れる。黙らせるにはちょうどよかった。
黙らせるために手伝わせるが、作るものはいつもと変わらない。食べるのは千晃だ。千晃が文句を言わなければ、まずくても失敗ではない。よっぽど味が濃すぎたり、薄すぎたりしなければ、だいたい食べられるものになる。いつも通り目分量──はせず、計量スプーンを使う。いつもなら気が済むまで入れる香辛料も、常識的な範囲でとどめておいた。
「俺以外が食べる物作るの、めんどくせえ……」
「立ってるだけで腰にくる!」
限界を感じたので、中断してソファに倒れ込む。
「キッチンの高さが合ってない。千晃、背が高いから」
「賃貸だからしかたないだろ。特注しないと、一五〇から一六〇くらいの身長にちょうどいいように作られてるんだよ、こういうのは」
キッチンに限らず、日本の建築物は身長が一八〇センチを超えると途端使いにくくなる。
「千晃、おやつは?」
「……食わなくていいっていうわりに、そういう要求してくるか」
「千晃が作ってくれるもの、おいしい」
人に食べさせる前提のものは作っていないが、そう言われて悪い気はしない。
「バターと砂糖と卵と小麦粉があればなにか焼けるけど、うちに今バターはねえよ。……代わりにサラダ油とかオリーブオイルで作るクッキーがあったな」
横になったままスマートフォンで心当たりを検索すれば、レシピはすぐに出てきた。
「仕方ない。ひじき煮る横で作るか。あんまり期待するなよ」
とういうわけで、煮物の面倒を見ながらクッキーを作ったのだが。
「俺が作らなくても、コンビニで買えばよくなかったか!?」
「オレは千晃の手作りのほうがうれしいし、おいしい」
「高校生の初々しい彼氏みたいなこと言うな! コーヒーに砂糖とミルクは?」
「両方!」
「くっそ!」
紅鬼の顔面で許してしまう自覚があった。
かわいそうなものをかわいいと感じて庇護欲を覚えるのは本能的なものらしい。弱い個体が淘汰されないように。千晃が紅鬼に覚えているのは、きっとそういう感覚だ。同時に畏怖も覚えているが。そうでも思わなければ、精神衛生的によくない。つまり、美少年は愛でたくなるのだから仕方がないことなのだ。たぶん枕草子あたりに書いてある。伝統なのである。
週末、家事は片付いたが、全く疲れがとれなかった。むしろ、マシマシになった気さえする。睡眠でどこまで取り戻せるか、来週の仕事に関わってくる。安眠を求めてベッドに入れば、もちろん紅鬼も入ってくる。諦めた。おっさんは諦めが早いのである。
「紅鬼は明日からどうするんだ?」
「明日?」
「俺は普通に仕事だ」
「んー、専業主夫」
「……妥当か。明日に合鍵渡すから、言ってくれ。たぶん忘れてる。あと、籍に入ってこようとすんな」
全部信じてしまえば楽なのだ。千晃は開き直ることにした。
******
週明けのスケジュール確認ミーティングでは、腰の具合がよくないことを正直に告げて、できるだけ動きたくない、定時で帰りたい宣言をした。
「名護さん、週明けなのに全然リフレッシュできてない顔してますよ」
と、協力的だった。日頃の行いだ。あるいは、よっぽど悲壮に満ちた顔をしていたのかもしれない。腰痛に効くストレッチも教えてもらえた。
その日はどうにか乗り越えた。日頃の行いのお陰で無事に定時に仕事を終えることはできたのだ。『今週の名護さんの腰痛悪化防止のため、うちのチームは定時退社です』と言って回られたが。中年以降の者にはよく効いたらしく、いたわりの言葉をもらうハメになった。
自宅の最寄り駅。降りた客の流れには乗らず、教えてもらったストレッチをしてから改札へ向かう。こういうときは自分のペースで動くことが大事なのだ。
「あっ、お客様。腰はもう大丈夫なんですか?」
声をかけてきた駅員は、先日の腰痛時の駅員だ。
「お騒がせしました。まだ本調子ではないんですけど、どうにか働けるくらいには」
「腰は大事にしてくださいね。本当、大事ですから」
身近にやらかした人がいるのかもしれない。会釈をして改札を抜ける。
今日はどうにかやり過ごせた。しばらくはこの調子で
「千晃ーっ!」
今日はまだ終わっていなかった。
身構える。紅鬼はぶんぶん手を振っているが、今回は飛びついてこなかった。
「おかえりー。迎えにきた。なんでガードしてんだよ」
「誰のせいで腰やったと思ってんだ」
カバンを盾にしつつ、緊張はまだ解いていない。
「腰のことは悪かったって思ってるよ。何もしないって」
いつまでもそうしているわけにはいかず、少し警戒を解く。
「迎えにきたって、何かあったのか?」
「オレがそうしたかっただけ」
千晃が歩き出すと、紅鬼もならんで足を動かす。
「飯食ってくか? この辺だとファミレスになる」
「晩ごはんの用意できてる。オレの味覚と人間の味覚はちがうものだから、千晃の舌に合ったらいいけど」
「紅鬼のそれは、そもそも味覚なのか?」
「厳密に言うと違う。食べたときの快・不快だから、それはおいしいまずいって言い換えたほうがわかりやすいだろ?」
「本を食べたときもそうなのか?」
「うん。味のバリエーションっていう感じで、食べられないっていうのはない」
「本を食べるのも娯楽か?」
「うん」
「そうか。本も探しておく」
「ふひひっ、ありがと」
飛びついてこなかったが、腕に抱きつかれた。
「くっつくな手をつなごうとするな。なんでそんなに距離をつめてくるんだよ」
「千晃の存在っていう情報だけでおいしい。んー、どっちかというと、気持ちいい」
「理由はわかった。少しは許容するけど、外ではやめてくれ。紅鬼の方からくっついてきても、俺のほうが通報対象になる」
悲しいかな、おっさんというものはそういう場面では信用が低いのだ。
「今日は何して過ごしてたんだ?」
「ちゃんと家事してた。オレは千晃の嫁で、専業主夫だからな」
「スキあらば籍に入ってこようとするな」
「本屋で料理の本見て、今日の晩ごはん作ったんだ」
「そうかそうか」
新婚など、紅鬼が言っているだけで、千晃は何も思っていない。それっぽいと一瞬思ってしまったのも気のせいだ。気のせいなのである。
千晃が目をやると、となりの紅鬼はにこーっと笑う。腹が立ちつつ、それを許してしまうくらいに顔がよかった。
紅鬼が本屋で読んだ本に載っていたというポークソテーは問題なくおいしかった。
******
紅鬼は千晃の日常にすんなりと溶け込んでいた。それどころか、千晃の日常を確実に快適にしていた。
朝食は、弁当も作るので、千晃が作っている。夕食はあれこれ調べつつ、紅鬼が作っている。レシピ通りに作っているらしいので、今のところハズレはない。
千晃が仕事に出ている間に、マメに家事を片付けている。駅まで迎えにくるかは、そのときの気分らしい。人ではない紅鬼に気分や気まぐれがあるのかと、なにか不思議な気がする。
コストはかかっている。しかし、外食が減ったため、食費はあまり変わっていない。生活費全体で見ても、誤差と言うには大きいが、目をみはるほど上がっているわけでもない。快適さを思えば、全体的にプラスになっていると思っている。
ただ、紅鬼の存在はオカルトである。目をつぶるにはあまりにも常軌を逸していた。
考えても無駄で、諦めて受け入れているが、ふとその異常性を思い出しては背筋が冷える。異常の恒常化は案外難しいらしい。とはいえ、前述の通り、ほとんど受け入れてしまっている。異常を受け入れるという異常は、すでに千晃の中にも発生しているのだ。
千晃はほぼ毎日弁当を作っている。週末に作り置きしたものや冷凍食品を詰めただけだと、千晃は言っているが。いつも朝食ついでに作っている。作った直後はつめたご飯を冷ますためにカバンに入れるのは家を出る直前だ。たまに忘れることもある。
というわけで、昼休みに入ろうとカバンを探った千晃は弁当がないことに気づいて肩を落とした。
「……外にいくか」
自宅に取り残されている弁当は紅鬼に処分してもらおう。スマートフォンの定位置であるポケットに手をつっこみ、
「あれ?」
手応えがない。
デスクのひきだしを開けた。ちかちかと通知ランプが光っている。ミーティング前に入れたまま忘れていた。
「名護さん」
「ん?」
顔を上げる。部下に当たる杉浦が受話器を持っていた。
「ナゴコウキさんが、忘れ物を持ってきたって、お電話です」
スマートフォンの画面をつけると、履歴に紅鬼の名前が並んでいた。
「こっちに回してくれ」
転送された電話を手元の電話で受け取る。
「はい、名護です」
反射的にいつものように出てしまった。
『よかった、千晃につながった。お弁当忘れてたから、持ってきた』
「あぁ、スマホの方、気づけてなかった。悪い」
『うん。反応なかったから、携帯してなかったのかなって。だから、持ってきちゃった』
「どこまで来てるんだ?」
『ビルの前まで』
「わかった、すぐにいく。ロビーまで入って大丈夫だぞ」
『うん、待ってる』
職場の連絡先も紅鬼には教えている。名刺を渡しているので、所在地も知っている。スマートフォンにつながらなければ、そちらから連絡を取るのはごく自然なことだろう。
「昼、出てくる」
電話を回してくれた杉浦に告げる。
「いってらっしゃい。親戚の方ですか? 名護って、このへんだと聞かない名字ですよね」
「ちょっと親戚の子を住まわせてるんだ。“子”って言っても、もう二十歳過ぎてるけどな」
あまり厳密に決めていないが、そういう設定にしている。
スマートフォンを確実にポケットに。財布も持って、席を立つ。
「──……いってらっしゃい、じゃなかったのか、杉浦」
「気になるじゃないですか、親戚の方」
昼休憩は十一時から十三時の間で好きに一時間取っていいことになっている。杉浦がついてくることに問題はない。
「言ってた活字中毒って、その子のことですか?」
「あぁ、そうだ」
紅鬼は本を食べることを娯楽の一つとしている。職場でも以前にいらない本はないかと募ったのだ。本であれば、活字であればなんでも読みたがるから、分野は問わない、と。体よく押し付けられたものもあったが、紅鬼は特に文句は言わなかった。古くてもなんでも、味のバリエーションが異なるだけで、まずいというものはないそうだ。今も時々もらっている。
「見ても、おもしろいことなんかないぞ」
「おもしろいかどうかは、僕が決めることですから」
人の親戚の顔を見ておもしろがるようなやつに見せたくはないが、強く拒否もできない。杉浦もただ昼食を食べに行くだけなのだから。
千晃の勤め先はオフィスビルに入っていた。エレベーターで一階まで降りる。総合ロビーに出ると、気づいた紅鬼が駆け寄ってきた。オフィスビルのロビーという画一的な格好の会社員ばかりの中を、『千晃ーっ』と無邪気に手を振りながら。
「えっ、名護さんあれなに、ねえ名護さん」
「俺の親戚だが?」
ベシベシ叩いてくる杉浦の手をはねのける。
(そもそもそんなものはないが)贔屓目ではなく、紅鬼は顔がいい。もうとっくに三日以上たっているが、飽きていない。ざわつく周囲の空気に、己の目が節穴でなかったと確信する。頼むからシンプルな格好をしてくれと、ジーンズか黒スキニーに適当なシャツ+αくらいの服装をさせているが、治安が悪いままのセンスを継続させたほうがよかったかもしれない。治安の悪いファッションは、目立つにしても悪目立ちだ。今のようなユニクロ等で数千円の格好は、返って顔面を引き立たせてしまう。
「お前、地下だろ」
「あっ……財布持ってきてない」
「とっとと行け」
地下には食堂があり、オフィスビルに入っている会社でそのシステムを利用していれば、セキュリティのために情報が付与されているIDカードを使えば後払いで食べられるのだ。外部の人間も利用できるが、オフィスビル利用者は割引が効く。スマートフォンを持っていれば外に出ても電子マネーを使えるだろうが、杉浦はそれ以外は手ぶらだ。地下の食堂で食べるつもりで降りてきている。
「あ、こんにちは! うちの千晃がお世話になってます」
千晃としゃべっていた杉浦を勤め先の関係者だと推測した紅鬼はペコンと頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ、お世話になってます。名護さんと同じチームの杉浦です」
杉浦はツラにデレデレをにじませていた。
「地下、混むぞ。早くいけ」
「エーン、名護さんいじわるー」
杉浦はしぶしぶ地下へ降りるエスカレーターへむかってくれた。
「旦那さんの同僚に挨拶する嫁!」
「籍に入ってこようとすんじゃねえ。紅鬼は、昼はどうするつもりなんだ?」
「オレはなくても大丈夫だし」
「外に弁当も売ってるし、キッチンカーもあっただろ。それくらいの甲斐性はある」
促して先を歩く。
「やった! ありがと、千晃」
腕に抱きつかれそうになって危うく避ける。
「外ではやめてくれ。ここ、俺の職場なんだから、余計に」
不惑のおっさんが美少年を侍らせるのは、あまりにも事案がすぎる。
「じゃあ、あとで」
不機嫌そうにつぶやかれたが、千晃とて社会的な死に近づきたくなどないのだ。
オフィス街の昼食の時間帯はにわかに騒がしくなる。近くの飲食店はランチ営業だけでなくテイクアウトの弁当を店頭で売っている。オフィスビルの前まで売りに来ている店もある。ビル前の広場にはキッチンカーも並び、よりどりみどりである。
「好きなもん買っていいぞ」
紙幣を渡す。
「わーい!」
受け取った紅鬼は、キッチンカーへむかってうきうきステップを踏んでいた。
買ったものはオフィスに持ち帰り食べる者がほとんどだが、そのまま外で食べる者もいる。紅鬼をオフィスに入れるわけにはいかないため、外で食べるしかない。探すと、ちょうど空いたベンチがあったので陣取っておいた。
「買ってきた! 変わったもの色々売ってておもしろい」
「おっさんはああいうのはあんまり買わないから、ふるってないかもしれないな」
キッチンカーに並んでいるのは若者や女性ばかりだ。キッチンカーでなく売られている弁当は、◯◯弁当とその名の通り味の想像がつくものばかりだ。おっさんはそういう物を選びがちなのである。
「これ、千晃の好きそうな味してる」
紅鬼はさっそく買ってきたものにかじりついていた。
「何買ってきたんだ?」
半円でポケットのようになっているパンに、野菜や肉が詰め込まれている。ソースもかかっているようで、舌が唇を拭っていた。
「ジャークチキンサンド」
「ジャーク?」
「ジャマイカだって」
差し出されたので、一口もらった。かわりに弁当の卵焼きをとられた。
いかにもスパイスまみれのジャークチキンなるものは、スパイスも効いているが、レモンの爽やかな香りもした。胡椒と唐辛子と、何か他にも、なかなかパンチのある味だ。口の中を洗い流すようなぐいぐいいけるビールやサワーがほしい。
「貴族焼きにレモンかけたような味だな」
「エスニックが急に居酒屋になった」
「おっさんの味覚は、あればご家庭の味、なければ居酒屋・小料理屋メニューでできてんだよ」
「ふひひっ、居酒屋ドリンクはないけど、これ飲んだらスッキリする」
今度はストローの付いた蓋付きプラカップを渡してきた。中には黄色と緑の何かが漂っている。結露ではっきり見えないが、レモンとミントあたりだろう。飲むと、およそだいたいそんな味がした。
「そのジャークチキンに合わせるにはいいけど、ごはんの弁当の合間に飲むものじゃなかったな」
「オレが食べてるのと交換する?」
「そこまでじゃない」
千晃は自分の弁当に戻った。
「ミニサイズのフルーツサンドも買ったから、はんぶんこしよう」
デザートまでついてきた。
そんな予感はしていたが、オフィスに戻ると早速詰め寄られた。
「名護さん、美少女とイチャイチャランチってなんですか!?」
「私も外出てたんでちらっと見ましたけど、それでもわかりましたよあれ現実ですか??」
「ちょっと事案じゃないですか、おまわりさんこの人です!」
「……杉浦」
「はーい」
「杉浦くん、何て言ったのかな? 聞かせてくれる?」
一人で食べたからだろう。千晃が戻るより先に、杉浦はすでにオフィスに戻っていた。元凶はおそらくそこだ。
「えーっと、すみません、盛りました。コウキちゃんのことは盛ってないです!」
「何が紅鬼ちゃんだ、あいつは男だぞ、そもそも」
「性別超越した顔をしてましたよ。僕は間近で見ました。間違いないです」
そう言いたい気持ちはわかるが、下手に肯定すると面倒なことになりそうなのでスルーしておく。
「大学と下宿の関係で、俺のところに住まわせてる親戚だ。それ以外の何者でもない。俺が弁当を忘れたから、届けてくれた。そのついでに昼飯奢ってやっただけだ」
「写真ないんですか、美少女美少年めっちゃ見たいんですけど!」
「ねえよ。なんで持ってると思った。事案っていったのはどの口だ」
「すみません……」
「活字中毒ってその子のことなんですね! 文学美少年!」
「“文学少女”って言いたいんだろうけど、原型のとどめ方が微妙だぞ」
「本、貢ぎますから、写真を一度でいいから見せてください。生でもいいです」
「そこまでして本はいらねえよ! ちょっと聞け!」
パンパンと手を鳴らす。
「紅鬼はあの顔だから、そういうトラブルに巻き込まれやすいんだ。今、俺のところに置いているのも、元々の下宿先で何のいわれもないのに勝手な人間関係のもつれに巻き込まれたからだ」
大嘘である。
「引きこもったり、自分の顔を厭って傷つけようとしたりしたこともあった。本人がいなくても、騒がれるのは看過できない」
もちろん大嘘である。
「やっと元気になって大学生を謳歌してるんだ。静かにしてやってくれ」
言うまでもなく大嘘である。
「コウキちゃん、そんな……」
「“ちゃん”言うな」
「そうですね。アイドルでもないのに騒ぐのはよくないですね。アイドルとかモデルとかやらないんですか? 最近の仮面ライダーも狙えると思います」
「やる気があるならとっくにやってる。そろそろ俺の心証が悪くなっているんだが、続けるか?」
解散になった。
後日、『貢物ではないです』と前置きされた古本が集まった。
******
紅鬼が主夫をしているため、時間に余裕ができるようになった。紅鬼が現れた当初は、その紅鬼のために右往左往していたが、すっかりそれも落ち着き、すべてが“日常”となっていた。つまり、ほぼカレンダー通りに休日がある千晃は、週末のヒマを手に入れたのである。
「どこかに出かけるか?」
「行く! どこに?」
考えなしに誘うと、何をするのかもわからないというのに紅鬼は即決していた。
「どこ、うーん……」
千晃は本当に何も考えていなかった。
「水族館?」
朝食のデザートに紅鬼が食べていた本が、魚の絵が描かれた絵本だったために思いついただけだ。深い意味はない。
「行く!」
紅鬼は改めて元気に返事をしたのだった。
電車が通っている県内の端っこ、つまり海まで行けば、その水族館はあった。小一時間かかるが、アクセスは悪くない。朝のうちに思い立てば、昼には十分にたどり着く。
「何か食ってから入るか?」
水族館以外にも、郊外らしく大型のショッピングモールや大規模な家具屋などもあり、水族館以外でも食事を選ぶことができた。そろそろランチタイムに入る時間だ。休日らしく遅めの朝食だったが、昼食をすませてからでもいいだろう。
「水族館のレストランで食べたい」
「じゃあ、入るか」
思いつきで誘ってみたものの、千晃は水族館にあまり興味はなかった。興味がないなりに展示の説明文などを読んでいると、そういう疑問が多いのか、食べられるかどうかが高確率で書かれていた。それらを見るともなしに見ながら、ただ紅鬼についていくだけ。
入場してしばらくは陽の光をふんだんに取り入れた開放感のある通路だったが、洞窟に入っていくようにあっという間に明かりは乏しくなっていく。魚が泳ぐ水槽や展示パネルは見ることができるが、アクリルの向こう側を見やすいように通路は薄暗い。
赤は、陽の下ではよく目立つが、陽が陰ればとたん闇に紛れる。光の波長がどうこうという話なのだろう。だが、紅鬼の紅は、この薄暗い中でも鮮やかだ。駅まで出会ったあの時もそうだった。まるで舞台上のスポットライトが当たっているように、目が惹きつけられる。
「千晃、あそこ、ウツボ寝相悪い」
言われて目をやると、寝床らしいパイプを無視してウツボがだらりと垂れていた。
「あのウニ、可食部少なそう」
「ウニも食われるために生きてるわけじゃねえからな」
青く薄暗いせいか、声を潜めてしまう。そのため、自然と距離が近くなる。周囲の声が聞こえないわけでもないが、自然とボリュームを抑えてしまうようで、柔らかい音しか聞こえない。
「……楽しいか?」
申し訳ないが、千晃はちょっと変わった場所を散歩しているくらいの感覚だ。
「楽しいよ。いろんな生き物を見てるだけで、おいしい。生き物は、生きてるだけで情報を撒き散らしているようなものだから。オレは片付けばっかしてたから、そこまでの過程って見てなかった。海も近くないし」
「そういうもんか」
千晃が子どものころに住んでいた田舎は、海と山どちらかでいえば、山側だった。山には山の生態系もあるのだろう。川や湖はあったが、水生生物の海の生態系の広さには遠く及ばない。水族館で展示している生物は圧倒的に海の生き物が多い。それだけで、紅鬼の目には馴染みのないものなのかもしれない。
するりと、手の甲がなでられた。人差し指だけ軽く挟まれ、引っ張られる。一見すれば手の甲同士が触れ合っているだけ。少しだけ、指を重ねて、少しだけ囚われている。手をつなぐと言うには足りていない、わずかな拘束。いつも千晃が引きはがすくらいべったり張り付いてくるというのに、こういう時だけそんないじらしいことをしないでほしい。振り払うには、あまりにも儚すぎるから。
「まぐろカツカレー」
「サメバーガーと白熊クリームソーダ」
「海鮮丼まであったな」
「近くに小さいけど漁港があるから、海鮮豊富だって。お姉さんが言ってた」
千晃のまぐろカツが乗ったカレーには、お子様ランチのように旗が立っていた。イキがよく躍動的なまぐろが描かれているが、カツはそれの成れの果てである。同じく、紅鬼のサメバーガーにもサメが描かれた旗が立っていた。成れの果てである。諸行無常だ。
「魚を愛でたあとに魚食わせるって、なかなかだな」
「まぐろもサメも見たね」
水族館の中のレストランでは、海洋生物を模したパンやスイーツも売っていたが、シーフード料理も豊富だった。観光向けの牧場でも乳製品や肉加工品を売っているものだが、それより気持ちは微妙である。
「うん、普通にうまい」
日本人の、とくくっていいのかわからないが、食の貪欲さは計り知れないものである。
「サメ食べる?」
一口ずつ交換した。
「このあとイルカショーあるから、それ見に行こう」
青いソーダ水にチョコで白熊にされたアイスが乗っているクリームソーダを、紅鬼はちゅるちゅるすする。
「水族館自体が学生の遠足以来だけど、イルカショーか。……水かぶり席に座らせるつもりねえだろうな?」
「大丈夫、ガード用のビニールあるって」
「座らせる気満々じゃねえか」
ガードがあるならまあいいか。と、そのときは思った。
「二回目がくるなんて聞いてないぞ……」
一回目はガードできたが、気を抜いたところで二回目の水かぶりが発生した。間に合わなかった。ずぶ濡れとまではいかないものの、首肩周りまで濡れた。
「千晃、水滴ってる!」
「うまいこと言ったつもりか」
紅鬼はまったく濡れていないわけではないが、二回目もしっかりガードできていたらしい。
「次はどうするんだ?」
「ペンギン見に行く。スタンプもらったら再入場できるし、着替え買いに行く?」
「そこまでじゃねえよ」
濡れた髪をハンドタオルで押さえる。ずいぶん白髪が増えた髪は、白くなるが残る母方の髪質を持っていると思いたい。父方は、白髪は少ないが、そもそも髪自体が少なくなる。このまま母方の遺伝子を信じたいところだ。
席を立ち、イルカショーのプールの前を通って次のペンギンコーナーへむかう。イルカはまだプールの中を泳いでおり、前に集まった観客にファンサービスをしていた。
「オレの連れを、よくも濡らしてくれたな!」
寄ってきた一匹のイルカに紅鬼は抗議していた。
「『ごめん』だって」
どうも人でないものとも通じる紅鬼だ。もしかすると本当に言っているのかもしれない。
「気にしちゃいねえよ」
水かぶり席だとわかって座ったのだ。文句は言うまい。
「じゃあ、次いこう! ペンギン!」
紅鬼は指先だけ掴むように、控えめに千晃の手を引いた。こちらが少し引けばすっぽ抜けてしまいそうだ。
儚いつながりを、千晃は仕方なく受け入れ、紅鬼についていくのだった。
ショッピングモールで食事をして帰ることになったのだが、少し生臭いシャツで食事もためらわれたので、千晃のシャツだけ買って着替えた。ついでにまだあまり多くない紅鬼の服も買った。紅鬼のセンスは変わらず治安が悪いが、あまりシンプルに似合う服を着せると、顔面が引き立ち、より注目を集めてしまうため、紅鬼のセンスにまかせている。治安が悪い服であっても似合っているのだが。
紅鬼に荷物を預けてトイレに行っていると、紅鬼は若い男に話しかけられていた。
「どうした?」
割り込むと、紅鬼はさっと千晃の腕に張り付いた。
「パパかよ」
若い男は吐き捨てるように離れていった。
「……ナンパか?」
「うん、たぶん」
千晃は渋い顔をしながら紅鬼を引きはがす。
千晃は今、四十歳だ。紅鬼はせいぜい大学生で通るくらいだと、そのくらいの年齢設定で通している。親子ほど離れているような計算になるのだが、さっきの若い男がこぼしていった“パパ”はそういう意味ではないだろう。
援助交際で援助をする“パパ”。最近は援助交際ではなくパパ活とかいうやつだ。そちらの“パパ”のほうがニュアンスは近い。誰もが目を奪われる美少年と、似ても似つかぬせいぜい背が高いくらいのおっさんが並べば、そう見えてしまうものなのだろう。わかっていたが、気が重くなる。
「パパ?」
「やめろ。マジでやめろ」
不惑のおっさんもまたセンシティブなのである。
たしかに今日何をしたかといえば、デートのようなことではあるのだけど。千晃はうなったのだった。
******
ついにやってしまった。
千晃は朝から通勤電車の中で陰鬱で気だるいため息を吐いた。
もらった本は中身を確認せず、そのまま紅鬼に渡していた。おやつやデザート感覚で、少しずつ食べていた。食べると内容もわかるらしい。『物語を食べる文学少女の話。オレとおそろいだ』、『世紀末世界観で、きのこ操ってドッタンバッタンする話』、『実践が優秀過ぎて返って学校の成績はよくない最強おにいさまの話』と、ライトノベル系は聞いてもよくわからないことが多かった。『全部妖怪のせいにしようとするけど、最終的に怖いのは人間だっていう話』と聞かされたときは、妖怪ウォッチのノベライズでも混ざっていたのかと思ったが、かすりもせずミステリ小説だった。
おもしろそうな物があれば読んでみようかと思って聞いていたが、極端な要約のためか、今のところおもしろいかどうかの判断ができなため、購入には至ってない。
さて。紅鬼の異常性はまだ常態化していないが、千晃の日常に組み込まれていった。寝るとき、となりに潜り込んでくることも。枕は買った。室内飼いの犬猫が潜り込んでくるようなものだ。飼ったことがないので、想像だが。
昨夜の紅鬼はぴとりとはりついてきた。時々あることだが、くっついてくるいつものそれと違っていた。
「ホラー小説でも食ったのか?」
ベッドに入る前、紅鬼は一冊たいらげていた。紅鬼の存在がオカルトやホラーの類なのだが。聞いてみたものの、紅鬼はそんなことで怖がるようなタマでもない。
「ちがう。官能小説」
食べたものが関係していたことは当たっていたらしい。半ば反射的に身を引いてベッドから落ちそうになった。
「それにかぎって実践しようとするな! ああいうのはフィクションだ。実在の人物や団体などとは関係ありません」
「オレもフィクションみたいなもんだし」
「何の免罪符にもなってねえよ!」
一見華奢に見える紅鬼だが、千晃を抱え上げた実績がある。簡単にのしかかられてしまった。ちなみに、千晃は身長が高いため、米俵より重い。
「前にも言ってたけど、お得なことに、オレには棒も穴もある。どっちがいい? オレは千晃を味わいたいから、受け入れたいな。そのつもりで準備してきたから、大丈夫」
「何も大丈夫じゃねえよ! まっ──」
──というのが昨夜のハイライトである。なお、千晃の下半身は千晃自身が思っていた以上に馬鹿だった。食われた、食わされた、どういうのだろうか。
それは排泄物にあたるのか、明らかに達した反応をしていた(それが演技だという可能性はゼロではないが)紅鬼からは出るはずのものが出ていなかった。性的な“快”はあるようで、請われるままに愛撫した。震え、跳ねる肢体。苦痛に耐えるようでありながら、溶けるように甘い声。清廉で凛とした顔は、妖艶に笑み、“もっと”と請う。──思い起こされる罪悪感で死ねそうだ。
おっさんは何発も耐えられないため、途中からは紅鬼に“快”を与え続けることになった。余力を残したはずが、全身はだるく、なぜか背中はチリチリする。セックス翌日の出社や登校などいくらでもあることだが、今日ばかりは全力で休みたかった。通勤電車に乗っているあたり、お察しなわけだが。
「オハヨーゴザイマース」
いつも通りの出社である。一グラムでも身を軽くしたくて、デスクでジャケットを脱ぐ。
「わっ! 名護さん、背中に血! ついてますよ!」
「なっ! マジか。そんなに酷いことになってるのか?」
振り返るように背中をのぞいてみるが、自分の背中は見えない。
「ちょっと動かないでください」
パシャリ、電子のシャッター音。杉浦は撮った写真を見せてくれた。ポツポツと赤い点が散っている。確認してみるが、ジャケットの方に血痕はない。原因は千晃の背中だ。
「あぁ……」
背中がチリチリしていたのはそれが原因らしい。たいした傷ではないのだろうが、通勤時に傷がこすれて軽く出血したようだ。
「何かあったんですか?」
「ネコに爪を立てられた」
嘘は言っていない。
「あー、猫って自分で乗ってきたくせに、キレながら下りますよね。……名護さんち、美少年だけじゃなく猫までいるんですか!? 天国じゃないですか!!」
「それ以上は俺の心証が悪くなるぞ」
「ナンデモナイデスー」
今は余計に紅鬼のことをつっこまれたくないので、牽制しておく。
「名護さん、血液はお湯で洗うとかたまっちゃうから水で洗った方がいいですよ。石鹸とか、ボディーソープで下洗いするといいです。血液を落とす洗剤持ってますけど、貸しましょうか?」
と、女性社員の野原に声をかけられた。
「惜しいほどのシャツじゃないから大丈夫だ。貸せるって、今持ってるのか? 随分準備が……あっ、すまん気を使わせた! 全然大丈夫だ!」
女性は怪我をしなくても出血することがあるのだ。
「いえ! 返って気を使わせてすみませんでした! 私にはいつものことですから!」
軽く謝罪の応酬になってしまった。杉浦は『?』を浮かべていた。
「そういえば、コウキちゃん、本を読んで何か言ってませんでしたか?」
「ん?」
血痕が人目に触れぬよう、しかたなくジャケットに再び袖を通す。杉浦を見やると、かすかにいやらしい笑みをにじませていた。時々子どもじみたいたずらを仕掛ける杉浦だ。『官能小説はお前か』と言いそうになったが、飲み込む。そういう反応は、杉浦を喜ばせるだけである。
「かわった本でも渡したのか? へそくりか、四つ葉のクローバーでも挟んでたか?」
「いえいえ、言ってないなら、なんでもないです」
官能小説の出どころは千晃の決めつけなのだが、個人的な杉浦への心証はガタ落ちしたのであった。
子どものころはそうだったため、染み付いているのだろう。
「ただいま」
誰かがいるところへの帰宅だと思い、自然に口にするようになった。
「おかえり、千晃。時間計算、バッチリ! 揚げたて!」
できるだけコストはかけないはずが、紅鬼のために増えたものは様々ある。厳密には紅鬼のためではないが、その一つがオイルポットである。一般的なご家庭の揚げ物は、何から何まで面倒なのだ。
「なぁなぁ、千晃」
「ん?」
「ご飯にする? お風呂にする? それとも、オレ?」
「どこで憶えてくるんだ、そんな言葉。順番だ。揚げたてを無駄にするのか? 俺に風呂に入らせないつもりか?」
「“オレ”は?」
「一回やったくらいで調子に乗るな」
「めっちゃ乗る! 既成事実!」
「はいはい、順番だ」
促すというには強引にリビングに追いやった。
メシ、風呂、そしてストレッチと筋トレ。腰痛予防である。筋肉はすべてを解決する。
「なぁなぁ、“オレ”は?」
紅鬼はソファの千晃の足元に座り込み、もたれかかってきた。猫と混同させたが、『なぁなぁ』と鳴いているので間違っていない気がしてきた。
「一回やったくらいで調子乗るな」
「乗るー。めっちゃ乗るー。既成事実!」
千晃の膝にあごを乗せてくる。ますますペットじみてくる。
オカルト的な存在。千晃のその認識は変わっていない。だが、神社に祀られているような神様がいかにも人間くさい性格をしているように、人の形をして生活をともにすれば情もわく。愛着もわく。時々、畏怖を覚えることもあるが、それとは異なる恐怖も覚えるようになっていた。
「なあ、紅鬼。聞きたいんだが、」
「ん?」
「俺じゃなくてもよかったんじゃないか?」
千晃の腰痛と心労の原因ではあるのだが、紅鬼はそれを補って余りあるほど献身的だ。それごと受け入れているが、正直なところ紅鬼の理由には、全くこれっぽっちもピンとこない。人間でも他人の心のうちは簡単にわかるものではない。人ではない紅鬼の機微など、もっとわかるはずもない。紅鬼には真っ当な理由があるのかもしれないが、もっともらしいとして、その理由を聞いていない千晃は思うのだ。“誰でもよかったのではないか”、と。
「出会いガシャで千晃を引いたって言えば、それはそうだけど、オレと千晃の出会いにかぎったことでもないだろ。そういう意味では誰でもよかったかもしれないな」
「ガシャって……。たしかに、運といえば運なんだろうけど、もっと言い方なかったのか」
「誰でもよかったとして、オレは千晃を引けて大正解だと思ってる。ガシャでいうならSSRだ。千晃じゃない他の誰かがNかLRの可能性はあっただろうけど、それは意味のない“もしも”だ。どうやったって、今はこの今しかないんだから。SSRを引いたオレは、毎日楽しく過ごしてる」
紅鬼はよじのぼるように千晃の膝に乗り上げた。外ではベタベタするなと言っている分、うちでは仕方なくされるがままだ。
「千晃はどうなんだ? ガシャでオレ引いて」
「ガシャ引いた主体はお前じゃなかったのか。そもそも人は、人でないものとの出会いガシャは引けない」
「めちゃくちゃ条件の厳しい限定ガシャひいたんだな」
「どうあってもそっちに持っていくのか。……どっちでも。独り身で適当に暮らしてたんだ。いても、いなくても、どっちでも」
「いていいんだ! ひひっ、じゃあずっといる」
紅鬼はむぎゅうと張り付いてきた。いわく、千晃の存在という“情報”が心地よいそうだ。
「ずぶとい」
「都合のいいように解釈してるんだ」
「都合がいいってわかってんじゃねえか」
千晃はしかたなく紅鬼の背をなでる。ペット感覚である。
「今はもう、いないとダメになってきた。あんまり俺の都合のいいようになってくれるな」
「なるよー、最期においしくいただくためなら、いくらでも千晃の都合のいいように」
「悪魔め」
「どっちかというと、鬼」
紅鬼はケラケラ笑った。
悪魔は、神に敵対する存在というだけでなく、人を誘惑するものという意味があったはずだ。紅鬼のそれを誘惑と言わず、悪魔と言わず、何と言うのか。
「千晃をダメにするオレ」
「人をダメにするソファみたいに言うな」
と。ここで終われば、表面的には人と人でない者のハートフルな話ですんだ。
「千晃はオレと初めて会ったときのこと、どれくらい思い出したんだ」
ゾク、と総毛立つ。同時に、チリリと痛みにも似た熱が灯った。
「思い出したくない」
「あ、そんなふうに言うってことは、けっこう思い出してくれてるんだ」
悪魔めいた笑み。それを薄ら寒く感じるのは、千晃の心情のためなのか。
「オレ、千晃じゃなきゃ、“あっち”から出てこなかったよ。ここしばらくで人間のマネも実践できて、感情みたいなのが人間に似てきた。今はちょうどいい感じの言葉にできるようになってきた。かわいいなって思ったんだ、千晃少年のこと」
甘えるように貼りついてくる。ソファに千晃を縫い留めるように。
「オレがいた“あっち”がわと“こっち”がわは、曖昧なところもあって、千晃と会った場所がそれだっだ。いちおう人のマネはしてみたけど、全然違ってたんだな。千晃少年、それでびっくりしたんだ。泣いちゃって。小指だけちょっと食べちゃって、すっごくよかった。人の脳のおいしくておもしろいところでもあるんだけど、時々変な回路がつながるよな。痛みはないはずなのに、千晃少年、痛いって言いながら泣いて、」
「その話はやめろ!」
「精通した」
「っ!」
ちょっとした雑談のように、無邪気に笑いながら紅鬼は言う。
「それもちょっともらったけど、おいしかった。その時かぎりのだっていうのはわかったから、あぁ、初めてだったんだって」
「やめろ!」
にひひとかわいらしく笑っているが、やはりそれは存在が価値観の異なるオカルトでしかなかった。
千晃は、恐怖に興奮が付随することがあった。ジェットコースターのような“びっくり”の恐怖ではなく、ホラー映画や怪談などに覚える恐怖に対して。死の淵に立たされたとき、子孫を残そうとする本能で性欲が高まるとか、眉唾物の話を聞いたことがあるが、そういうものに起因しているのだろうと思っていた。自覚したのは中高生のころで、それらを忌避するようになった。理性で抑え込んだ。そういうことに向いていないのだと。たいして珍しくもない経歴をたどり、今に至るまで、女性とのお付き合いもあった。そのねじ伏せていた性癖が根底にあるのか、性の不一致が起こり、独り身のおっさんがここにいる結果となった。
千晃が紅鬼のことを“都合がいい”と言ったのは、多少のコストを補って余りある自称専業主夫の働きのことだ。ただ、それだけでなく、“一回やっただけ”ではあるのだが、都合のいいことに千晃の性癖にも合致してしまっているのだ。外見は取り繕っているが、紅鬼は畏怖の塊だ。人ではないもの。オカルト的な存在。そもそも、その性癖の始まりは紅鬼に由来する。思い出して自身の性癖とつながった。山の中で遭遇した異形に少しかじられたあの少年時代の自分と。
千晃の深いところは、ずっと紅鬼にとらわれていたのだ。
「ふふっ、ドキドキしてる」
千晃にぴとりはりつく紅鬼の指が、ゆるりと胸をなでる。
「怖いから? 興奮してるから? どっちも?」
「それ、は……」
どっちも、というのは正しい。紅鬼は恐怖を内包している存在だ。怖いから、興奮する。
間近でまたたく妖しい金の目は、さらに近づく。
千晃の言葉が続かなかったのは、唇を塞がれたからだった。
「おっさん、二日連続はマジでつらいんだけど!!」
昨夜と同じく、最後は紅鬼に請われるまま“快”を与えるだけになっていたが、それでもやることはやったので、ぐったり疲労困憊である。(日付はとっくに変わっているが)明日こそ有休を行使しよう。肩書の責任など知ったことではない。
「明日の千晃より若いんだから、おっさんを理由にするなよー」
さんざん喘がせたというのに、千晃とは対照的に紅鬼はピンピンしている。
「昨日の俺より年食ってるってことじゃねえか」
先程までの妖艶さはすっかり消え失せ、ニヒニヒ子どものように笑っている。どこかに切り替えスイッチがあるにちがいない。
「千晃は、オレが都合のいい存在って言ったけど、オレはオレのしたいことをしてるだけだ。オレが関われるのは、全てが終わったあと。人の営みに紛れ込めているだけで、全部楽しい。それが、千晃の“都合がいい”と一致してるだけ。性事情まで都合いいのが一致してるなんて、千晃をもっとダメにできる」
「そもそもの原因がお前じゃねえか。結果的に自作自演。指切りの話はどこに行った。普通に食ってる認識じゃねえか。やっぱり約束してねえな、さては」
「そこはいい感じに言っておこうかと思って。うまくピースがはまってくれた。千晃少年のことをかわいいって思ったのはまちがいないけど、ここまでうまくいくなんて、オレも思ってなかったよ。そういうのは、運命っていうんだ。まだ“こっち”がわに完全に出てこれてなかったのに、千晃はちゃんとオレを見つけてくれたんだから」
駅前で目があった。全てはそこから始まった、とでも言いたいところだが、あれはあくまで通過点にしか過ぎなかったらしい。
「うるせえ、俺の性癖と運命ねじまげやがって。責任持って俺の最期には一片も残さず片付けていけよ」
「うん!」
「元気だな。ねんねしろ、ねんね」
適当に寝かしつけポンポンするが、できるけれど睡眠が必要ない紅鬼に効果があるはずもない。
「今日は、枕、使いたくない」
「……お前の勝手だ、好きにしろ」
むぎゅっとくっついてくる紅鬼を、千晃は引き剥がさなかった。
「ふひひっ、おやすみ、千晃」
軽く唇が触れた。二つの意味で目をつぶっているのだが、紅鬼はおやすみのキスをしてくる。
こぼれた吐息は、ため息成分をおおいに含んでいた。
「おやすみ、紅鬼」
千晃が名付けた恐怖を内包するオカルト的存在は、鬼で悪魔だった。