常識ってすごい
食べ終わったデリバリーの箱をゴミ箱に入れ、テーブルを片付ける。腹か膨れたせいか用を足したくなった。トイレに行こうとしたときエドに声をかけられた。
「どこ行くの?」
「トイレ」
「ああ、じゃあノアも連れてって。」
「エドさん、意味がわからないんですけど。」
「トイレの使い方教えないといけないだろ?」
エドはしれっとした顔で言った。それはまさか…。
「…まさか俺がうんこしてるとこ見せろとか言わないよな?」
「うんこは見せなくていいけどトイレットペーパーの使い方は教えて。」
「いやほんと、それだけはマジで勘弁してください。」
「諦めろ」
「ふりでいいじゃん…わかるだろ?」
「君は誰かが何かの上で座っただけでそれがトイレとわかるのかね?」
正論だ。正論だが…。
「だったらお前がやってみせろ!」
「ああーしまったなー。うっかりして外ですませてしまった。」
「てめぇ…。わかった、じゃあお前も来い。」
「嫌だ、お前のうんこなんか見たくない。」
「俺だって見せたくない!見せていいとこだけノアに見せろ!」
結局俺は男2人の前でうんこショーをすることになった。最悪だ。まずトイレの蓋をあけ、ズボンと下着を脱いで腰を下ろす。横を向いてろと指さすと、エドは後ろからノアの顔を挟んで自分と一緒に横を向かせた。…まあ何が起きているかは音でわかるよな。最低だ。
「もういいぞ」
エドは横を向いたまま、ノアの顔だけこっちに向けた。トイレットペーパーを巻き取り、後ろから尻を拭く。ノアが気の毒そうな顔をしているようなのは気のせいだろうか。下着とズボンを引き上げ、最後に水を流すレバーを押して全部流した。人生で一番疲れた排便だった…。
洗面台で手を洗ってから便器を指さし、名前を呼ぶとノアはものすごく嫌そうな顔をした。そりゃそうだよな。大丈夫だよ現代人はそんな趣味ないから…くそっ。
ノアだけ浴室に残し、ドアを閉める。しばらくすると水を流す音がしたが、待っていてもドアが開かない。怪訝な顔でエドが言った。
「どうしたんだろうな。」
「ドアの開け方がわからないとか…いや、そういえば教えてない!」
慌ててドアをあけようとしてエドに止められた。
「ゆっくりな、向こうはどうなってるかわからない」
ゆっくりドアノブを回し、ゆっくりとドアを押す。開けたドアの前に困ったような顔のノアが立っていた。
「ごめんノア。開け方教えてなかった。」
一度浴室に入ってドアを閉め、ドアノブを回して引いてみせる。少し開いたところでドアを閉め、ドアノブを指さす。
同じようにノアはドアノブを回して引いたが開かない。最後まで回してないから開かないんだ。あれ?という顔をしているノアの手の上に俺の手をのせ、最後まで回してから引いて開けてみせる。
もう一度ドアノブを指さすと、今度はきちんと最後まで回し、それから引いて開けることができた。はい、よくできました。
「こんなこともわからないんだな。」
揃って出てきた俺たちを見てエドが言った。
「トイレの使い方どころか、ドアの開け方さえわからない子を閉じ込めておこうとかよく考えるよ…。」
エドはまた静かに怒っていた。そう言うエドの横でノアがあくびをする。
「眠いのかな。まだ8時だけど。」
「いろいろ起きて疲れたのか、それとも安心して気が緩んだか。歯ブラシ買ってある。歯を磨いて寝かせろ。」
エドが鞄から新品の歯ブラシを出してきた。うけとって包装をはがし、ノアに手渡す。手を引いて洗面台の前に行き、俺も自分の歯ブラシで歯を磨く。何に使う道具かわかったらしく、ノアもぎこちなく歯を磨いた。古代アラダも歯を磨く習慣はあったのか。
使い終わった歯ブラシを受け取って水で流してコップに並べて入れる。俺の歯ブラシは青で、ノアのは白でメーカーも違うから間違えることはないだろう。あ、個人用だってわかるかな…。まあ明日また教えよう。
「おわったぞー。もういつ寝てもいい。」
「じゃあ寝かせてやってくれ。」
ノアの手を引いて寝室に連れて行く。ベッドを指さすと寝る場所だとわかったようでサンダルを脱いで横になった。その上から毛布を掛け、枕元のベッドサイドランプの明かりをつける。
「おやすみ」
そう言って壁際に行き、部屋の電気を消したとたんノアはベッドから飛び降りた。慌てたように俺の腕を掴む。
「え?どうしたどうした?」
もう一度電気を付けると、どうしていいかわからないと言いたげな表情を浮かべて見上げてきた。
「暗いのが怖いのか…?わかった、電気つけたままにしておくから。」
もう一度ベッドに寝かせ、明かりをつけたままドアを閉める。リビングに戻ろうとするとドアが開く音がした。振り返ると閉めたドアが開いていて、ノアが顔を出してこっちを見ていた。困ったな。眠いけど寝たくないのか。
もう一度手を引いてリビングに連れて行く。戻ってきた俺と眠たげに目をこすっているノアを見てエドが?という顔をする。
「眠いけど寝たくないって。何が気に入らないんだろう。」
「ふむ…一人になるのが怖いのかな。ソファに寝かせてみるか?」
寝室から毛布と枕を持ってきて、枕をソファに置く。指さしてみるとノアはソファに横になった。その上から毛布をかぶせる。ノアはもぞもぞ動いて毛布にくるまり、顔だけ出した状態でじっとこっちを見ていた。
「良さそうだな。やれやれ、ちょっと休憩するか。エド、コーヒー飲むか?」
「頼む」
「ちょっと待ってろ。」
キッチンに行き、コーヒーメーカーにカプセルとマグカップをセットする。水をいれてスイッチを押すとすぐにコーヒーができあがった。新しいカプセルとカップに交換してもう一度スイッチを入れる。
マグカップを両手に持ってリビングに戻ると、エドはノアを見守っていた。俺に背を向けたまま小さい声で言う。
「あっという間に寝たよ。」
その言葉どおりノアはもう寝ていた。エドにコーヒーを渡し、やっと一息つく。
「いや…何も知らないってのは大変だ。常識ってすごい。」
「明日もいろいろあるよ。アンジーの店は8時くらいに行きたいな。カットが終わってからショッピングセンターがオープンするまで時間があるから…朝飯食って時間潰す?それから服や靴を買うとして…うーん、昼までかかるか。」
「それから研究所に連れて行くのか?」
「いや、君も僕も今週は出勤しなくていい。」
「へ?いいのか?」
「心配しなくていいよ。無給じゃないから。ノアのレポートは僕が出す。出来上がったらチェック頼む。」
「了解」
そうか、これも仕事のうちか…。そう思うとちょっとやましい気になる。ソファで寝ているノアを見ると、目は閉じていたが肩のあたりの毛布は上下に動いていた。当たり前だか生きて呼吸している。3日前までステンレス台の上の物体…いや5000年棺に閉じ込められていたとは思えない。なんで生きている人間の時間を止めるなんてことしたんだろう。
「何の実験だったんだろうな。」
「想像するしかないね。たとえば人間の保存とか。」
「保存?何のために?」
「たとえば今の…古代アラダでも治療できない病気の患者を、より医療技術の発展した未来まで凍結する。あとそうだな、奴隷の保存とか。時間を凍結しておけば食わせる必要もない。逃げない、年もとらない。完全な物体だ。そうやって保存しておいて売れたら元に戻す。」
「まさか…ああ、まさかがないのが古代アラダか。ただほとんど失敗してないか?」
「実験がうまくいかなかったのか、中止になったのか、効果が切れたのか…成功したのを誰も確認してない可能性もあるな。もしくはノアに特別な成功要因があったのか。」
特別な要因…そう言われても特に変わったところがあるようには見えない。一人で寝るのも怖いような子供だ。それともそう見えるだけで、実は古代アラダの魔法使いか何かなんだろうか。駄目だな、そこまで行くと空想を通り越して妄想だ。
「可哀相だよな。目が覚めたら5000年後だ。知り合いも誰もいない。しかもわけがわからないところに閉じ込められて…俺がそうだったらと思うと絶望的な気分になるよ。」
「本人は5000年たってるとわかってないだろうけど…おかしいとは思っているだろうね。それはこれから順々に教えていけばいいけど、知り合いは…しばらくは君が保護者としてずっとついているのがいいと思うよ。」
「お前もだぞ。名付け親なんだからな。」
「もちろん。できる限りサポートする。」
「素直だな。古代アラダ人を間近で観察できるからか?」
「それもあるけど…」
エドは言葉を濁した。ふだんは飄々としている奴だが、ときどき見せる暗い顔をしていた。難民だったと聞いている。一見そう見えないがかなり苦労も努力もしている。俺には想像もつかないような辛い経験もしているかもしれない。だから気づかないふりをしてコーヒーを口に運んだ。