一番大事なこと
その後、エドは研究所内でうまく動いてくれた。俺の上司だからというだけでなく、本当にノアのためを思ってのことだったと思う。
だまし討ちをくらった上の連中は怒り狂ったらしい。辞書の利用料がノアに入ることは揉めに揉めたが、ダンが交渉に入ってくれたおかげでこっちに有利な条件で合意に至った。だがそれはノアが協力しなければ辞書作成が不可能だということすら考えていなかったということだ。本当にただの道具としてしか見ていなかった。わかっていても腹が立ってしかたない。出し抜かれてざまあみろだ。
交渉が成立し、俺はノアを連れて研究所に出勤することになった。予想はしていたが、俺もエドも研究所で冷遇されることになった。聞こえよがしに「アラダの知識を独占して金儲けする奴」とも言われた。俺が養子にしたのもいつの間にか知られていた。どう考えても俺とエドが金目当てに動いたと思われても仕方がない。
研究所ではノアは俺の…と言うか、俺がノアの目の届くところで仕事。ノアは言語学者がつきっきりで言語の習得。辞書作成は言語学者のマダム・ジリアンが担当した。なかなか美人だが気の強いお姉さんだ。初めて会ったときはにこりともせず、花にたかる毛虫でも見るような目で俺を見た。よほど悪評を吹き込まれていたらしい。
子供が好きな人らしくノアには母親のような態度で接してくれた。ノアも彼女を好きになった。そうなってくると彼女も、可愛がっているノアがなついている俺ををいつまでも「歩くでかい毛虫」扱いしているのも難しい。すぐ近くでずっと見ているうちに俺たちの関係を理解してもらえた。
そんな生活にすっかり慣れたある日、5時になって俺がノートPCをたたんで椅子から立ち上がると待っていたようにノアがそばにやってきた。
「びんす、帰る?」
「ん、終わりだ。晩飯どうすっかな。食って帰るか?」
「バーガーキング!」
「またかよ…いいけど。」
「僕、トイレ、行く、待つ」
「わかった、行ってこい。」
そう言うとノアはスキップでもしそうな足取りで部屋を出て行った。そんなに好きかバーガーキング。待っている間にジリアンが俺に話しかけてきた。
「本当にあなたが好きなのね。」
「ん?ああノアか。変ですか?」
「あなたが起こしたんでしょ?」
「そうですけど、ただの偶然で…それだけなんですよ。」
「私は神様が何を考えてるかわからないけど。あなたやエドみたいに良い人がそばにいてくれるのはすごい幸運よ。お金のこともね…ノアちゃんの生活費はあなたが負担してるんでしょ?」
「あいつが食う分くらい俺の給料でなんとかなります。」
「お人好しすぎ。ひと一人養うのにどれだけお金がかかると思ってるの。母親から見たら頭にくるわ。」
「ジリアン、お子さんいるんですか?」
「3人いるわ。本当に可愛くてね…写真見る?」
見せてもらったスマホの写真には3人の子供とジリアンが写っていた。3人ともジリアンに抱きついていて、みんな幸せそのものという顔をしていた。いい写真だ。1人はジリアンと同じ栗色の髪だったが、あと2人は髪の色も肌の色も全く似ていない。養子だろうか。スマホをしまうとジリアンは言った。
「『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。』マルコ福音書15章。この世で一番大事なことは誰かを愛することよ。それ以上に大事なことなんてないわ。」
そう言われて俺はうなずいた。ノアは俺の子供だ。子供を愛さない親がどこにいる。
***
そのあと日々は穏やかに過ぎていった。平日は研究所に出勤してノアは言葉を習い、俺は仕事。週末は一緒に買い物をして、どこかに遊びに行ったり。エドとアンジーが来て4人で晩飯を食うこともあった。普通の人間の、普通の生活だ。特に何があるわけでもないが、ノアが来る前はどんな風に過ごしていたのもう思い出せない。幸せというのはこんなものなんだろう。ただ俺がこのまま幸せになっていいのかと思うことはあった。
ある日エドが来た夜、ノアが自分の部屋に行った後で俺は前から気になっていたことを聞いてみた。
「エド、前から聞きたかったんだけど。なんでお前、あんなにノアのためにがんばってくれたんだ?」
そう言うとエドは俺の顔を見た。しばらく黙ったまま何かを考えているようだったが、目をそらしてぽつりと言った。
「うん…そうだね。懺悔になるけど話していいかな?」
「言いたくないなら言わなくていいけど、話したいなら話していいぞ。」
俺の言葉にうなずくと、エドは目を合わせないまま独り言のように話し出した。
「僕が難民だったって話、したことあるよね?弟も一緒にボートに乗って逃げたんだけど、事故が起きて…弟は助からなかった。僕はまだ子供で何もできなくて。でも本当は何か…少しでも何かできたはずだってずっと思ってた。」
「似てるのか?ノアは、その…」
「全然。似てるのは髪の色だけ。だけどね、ノアが目覚めたとき今度こそ僕に何かできることがあるんじゃないかと思った。だから僕がしたことはノアのためじゃなくて僕のため…罪滅ぼしだよ。」
そう言うとエドは見覚えのある暗い顔で薄く笑った。弟か…。
「俺も弟がいたよ。18のとき家を出て行ってそれきりだけど。」
「家出?」
「さあ、わからない。」
そう俺が嘘をつくと、エドは顔を向けて心配そうな口調で言った。
「捜索願は?見つからなかったのか?」
「出してない。親が出さなかった。何か知ってたのかもしれない。」
これは本当だ。ある日、弟はいなくなった。親は「大学に行くため家を出た」と不自然な嘘を言った。だから俺はあいつの仲がいい友達を探した。何か手がかりはないか、行き先を知ってないか、そう思って。だが俺に向けられたのは哀れみの目と「あんたが兄貴なら俺だって逃げ出したくなる」という言葉だった。
「馬鹿にしてくれたらまだ憎めたのに。兄貴はいい奴だから、嫉んでいる自分が惨めで辛い。」あいつはそう言ったらしい。自慢の兄になれるよう、学業もスポーツもがんばったと思っていたのは俺だけで。優秀な兄となにもかも駄目な弟。そういう周りの目や、あいつが自分自身に貼ったレッテルに苦しめられ、追い詰められていったことに俺も両親も気がつかなかった。
あの日何があったのか俺にはわからない。だがラクダの背を折る最後の1本の藁…耐えきれなくなる何かがあったんだろう。
「どこかで幸せに暮らしているといいんだが…ああ、すまない。俺の話じゃなかった。」
「ヴィンス、いつか会えるよ。」
「だといいな」
「会える。生きているなら希望はある。」
きっぱりとエドは言った。その後ろに弟を抱きかかえて泣いている子供のエドの姿が見えたような気がした。いやその時はエドではなく遠い国の、その国の子供に付けられる名前を名乗っていたかもしれない。海を渡って養子になり、言葉を学び、勉強してここまで来た。そして自分が得た物をノアに分け与えようとしている。
こいつは強い。しなやかで鋼のように強い心の持ち主だ。アンジーが惚れたのも今ならわかる。俺がこいつを好きなのもその強靭さが魅力的だからだ。かなわないな。そう思いながらエドの言葉に応えた。
「ああ、そうだな。生きていたらいつか…会えるかもしれない。」
そう言いながら俺は、ふと子供のころエドに会っていたらどうだったんだろう?と考えた。俺とエド、そして2人の弟が一緒に遊ぶ。一度も経験したことがない想像上の光景は、たまらなく懐かしい子供時代の記憶のように胸を刺した。
そんな日があったことはないし、これからも来ることはない。少なくともエドには。だが俺にはまだ兄と呼んでもらえる可能性はある。いつかそんな日は来るだろうか。