ヴィンスパパだよ
エドが紹介してくれた弁護士事務所のドアを開けたとき、俺は自分が場違いな所にいることに気づいた。そもそもビル自体が金持ちが利用する高級店が入っている建物だったから、もっと前に気づいていいはずだった。
上階にある事務所は落ち着いた雰囲気のインテリアで趣味の良い絵が飾られていた。俺にだってどれもこれも高価な代物だとわかる。ここは高級テーラーで仕立てた高級スーツを来た人間が出入りするところだ。エドはいったいどういうきっかけでこんな事務所の弁護士と知り合いになったんだろう。俺は一張羅のスーツで来たが、ノアはデニムの上下を着ていた。スーツまではいかなくてもせめてジャケットを着せておけばよかったと後悔した。あとで買おう。
美人の受付さんに名前を名乗って通された部屋では、すでにエドと弁護士が椅子に座って待っていた。初対面の弁護士は俺とノアを見て立ち上がり手を差し出す。
「はじめまして。ダン・カミングスです。」
一分の隙もなく整えられた髪、誠実そうだが強い眼差し。これ見よがしなところは何もないが、信頼できる弁護士という印象だ。軽く握手をすると、弁護士はノアにも手を差し出した。ノアも俺の真似をして握手する。ノアに笑いかけている目元には笑いじわができていて、クライアントとしてではなく子供を歓迎しているように見えた。感じのいい人だ。
促されて俺とノアも椅子に腰を下ろす。すでにエドと打ち合わせをしていたようで、契約書らしい書類がテーブルに並べてある。だがその話に入る前に、俺は1つ確認しておきたいことがあった。
「エド、今ここで言うのもなんだが弁護士費用の話はどうなってるんだ?」
「心配ないよ、成功報酬だから。研究所との交渉が成立した時点でその一部が事務所に入ることになってる。」
「それは…ただ働きになる可能性があるんじゃないか?友人だから受けてくれた…わけじゃないよな?」
「大丈夫。事情は話してある。ダンは権利関係なら指折りの弁護士って保証付きだ。アンジーのサロンに個人で仕事をしている人がいてね。揉めたときダンが解決してくれたって、紹介してもらった。」
なるほど納得だ。アンジーのサロンは取り巻き連中を集めるわけじゃなくて、異業種のネットワーク作りという意味もあったのか。アンジーさまさまだな。まあエドとつきあってる時点で、天使のような外見からは想像できないしたたかなところがあるってのはお察しだが。
話が終わったのを見計らって、ダンは2枚の紙を俺の前に差し出した。
「契約書がこちら、養子縁組の申請書がこちらです。まず契約書をご一読いただけますか?」
差し出された契約書はエドが話したものとほぼ同じだった。ノアの財産管理者は名義上俺だが4年間は手を出せない。4年たったら所有権はノアに移る。と同時に俺とノアが養子縁組の継続を判断し、どちらかが合意しない場合は破棄する。その前にノアに何かあった場合、財産は全額慈善団体に寄付される。
「4年か…半端だな。」
「それは僕とダンも悩んだところでね。ノアの生活を確保するのが最優先だけど、判断をずるずる伸ばしたくない。言葉を覚えるのに半年から一年、それからアラダ語の辞書を作るのに1年以上かかる。と考えたら辞書の使用料が入ってくるのは3年後くらい。だからまず4年を期限に設定した。そこで見直しする前提でいいんじゃないかな。」
「そうか…だったら俺はこれで問題ない。問題なのはノアに意味がわからないことだが。」
「ノアに不利益がないことは僕とダンが保証するよ。研究所との交渉もダンが担当してくれる。もちろんビジネス的にかなり儲かるってのもあるけど、ダンはこういう話が好きなんだ。」
「こういう話?」
「誰かの正当な権利を守る、弁護士としてあるべき姿。正義のヒーローだ。」
そう言われてダンはにっこり笑った。ノアの周りには良い人ばかり集まってくる。いや違うな。エドが選んでいるんだ。なぜエドはノアにこんなに入れ込むのか…身内ならまだわかるが赤の他人だ。そのうち落ち着いたら理由を聞いてみよう。
俺とエドは書類にサインをした。ノアには自分の名前を書く練習をさせておいたので、署名欄を指さして「ノア」と言うとうなずいて書いた。何もわかってないノアに署名させるのは欺した気になるのは否めない。最後にダンがサインをして、あとは全てこちらで処理すると言ってくれた。事務所から出たとき、なんだか変な気分だった。
「これで俺はノアの父親なのか?」
「そうなるね。おめでとうパパ。」
「…なんか実感がない。」
エドはノアの耳元に顔を寄せると俺を指さして言った。
「ノア、今日からヴィンスパパだよ~。」
「びんす?ぱぱ?」
「やめろ。…いやそうか。」
だがノアは混乱しているようで、俺とエドの顔を見比べて言った。
「びんす?ぱぱ?」
「あー、まだわからないか。ヴィンスでいいよ。ヴィンス。」
「びんす…?」
ノアは最後までよくわからない顔をしていた。気が引けるが、いまはこれがベストとしか言えない。どっちにしても4年後は確実に来る。
その日の夜、二人揃って風呂から出てくるとノアはいつものようにソファに座り、ケーブル局にチャンネルを合わせた。リモコンの使い方を教えたら、いつの間にかお気に入りの番組を見つけていた。子供ってのは楽しいことはすぐ覚えるもんだ。
ノアが一番好きなTV番組はアニマルプラネット。あと旅や自然を扱った番組も好きだ。ノアが来る前はホラー映画だの、どうでもいいようなバラエティ番組を見てたものだが。子供ができると見る番組もずいぶん健全になる。
TVに映る象を食い入るように見ているノアを見て俺はひらめいた。ノアが俺の子供になったなら、前から考えていたことをそろそろ実行すべきだろう。どうせやるならサプライズでやってみたい。
「ノア、今度動物園に行くか?」
「どうぶつ、えん?」
「アラダには動物園なかったのか?動物、見る、場所。」
ノアは首をかしげた。動物園がなかったのかな。古代アラダならライオンどころかキメラやドラゴンくらい展示してそうなものだが。だが初めてなら喜んでくれそうだ。
***
週末はノアを連れて動物園に行った。そういえば俺も動物園に来るのは子供のころ以来だ。俺が覚えている動物園は檻で飼育されている動物を見るものだったが、今の動物園はそういう展示をしないらしい。さすがに鳥はケージに入れられていたが、ライオンや虎も檻の外の広い場所にいた。深い堀を設けて人と接触しないようにしている。その分遠くから見ることになるが、ノアはすごく楽しそうだった。
動物園から家に帰ると、リビングではちょっと疲れた風のエドが待っていた。エドを見てノアが嬉しそうな顔をする。エドも笑いながらソファから立ち上がりサムアップしてみせる。
「なんとか間に合った」
そう言うとエドはノアの手を引いて、使っていなかった部屋に連れて行った。ドアには「ノア」と書かれたプレートが下がっていた。俺が頼んだ覚えはないからエドの趣味か。いい仕事するな。
「開けてみて」
エドがドアノブを指さすと、促されたノアはドアを開けた。部屋の中にはベッドとライティングデスクが置かれていた。さすがに風船で飾り付けはしてなかったが、開いている窓から外の光が入りこみカーテンが風に揺れていた。カーテンもベッドカバーも明るい水色ですっきりした部屋に仕上がっている。
「ノアの部屋だよ」
そう言うとエドはノアと一緒に部屋に入り、クローゼットを開けた。
「ほらここに服が入ってる。次からは自分で入れてね。」
ノアはやっと意味がわかったらしい。指で床を指し、自分の胸を叩く。
「のあ、の、の、へや?」
「そう、ノアの部屋。」
ノアはぱっと笑うとエドに抱きついた。嬉しそうに顔をエドの胸にこすりつける。その頭をエドが抱き、同じように嬉しそうに笑う。顔を上げたノアに俺を指さすと俺にも抱きついてきた。
「そうかそうか、嬉しいか。」
サプライズ成功だ。俺の子供になったんだから、この家に自分の部屋があって当たり前だ。家具の設置をエドに頼んだのは正解だった。ノアは家にいる間はだいたい俺にくっついているから、俺がいるときに搬入したらすぐにばれてしまう。ノアの頭をなでていると、面白がるようにエドが言った。
「いいの?」
「なにが」
「もう一緒に寝てくれないよ?」
「…おい」
「冗談だよ、冗談。ま、そろそろちゃんとした扱いをした方がいいね。」
「ああ、男の子だしな。プライバシーが必要な時もあるし。」
「子供が大きくなると大変だねパパ。」
「まあな」
その日の夜、ノアは自分のベッドで寝た。寂しくなって夜中に俺のベッドに来るんじゃないかと思っていたが来なかった。安心したが、来なければ来ないで肩すかしを食ったような気分になる。
自分の部屋を持ったことはノアが変わるきっかけになった。一人で寝るようになっただけなく、一人で風呂に入るようになった。俺にくっついてない時間も増えてきた。自分の部屋、自分の場所が出来たことが心の安定につながったのかもしれない。
それはそれで嬉しい変化だが寂しい気もする。なんだか急に大人になってしまった。子供が大きくなった親ってこんな感じなのか。お父さんって辛い。