一緒に暮らしたい?
エドが研究所に提出したレポートはノアが目覚めたときと同じくらいの騒ぎを引き起こした。古代アラダ語の読み書きができる子供。体重と同じ金より価値がある、とまた同じことを上は言い出した。一度はいらないと捨てたくせに、てのひらを返して慌てて取り戻そうとしてきた。現金な物だ。
だがこうなってくるとノアの知識は誰の物かという問題が生じる。研究所は発見者であることを元に所有権を主張したが、ノアは物ではなく人間だ。だがいまのままでは知識だけ取り上げられてしまいノアには何も残らない。しかし知識を生かさないのは大きすぎる損失だ。
この間をどう埋めるか。それはエドが矢面に立って上と戦ってくれた。申し訳ないが、俺はノアを拉致されないよう見張ってろと言われてずっと自宅にいた。リモートワークが可能で助かった。
レポートを出してから一週間後。夕方に玄関のベルが鳴って、ドアを開けると疲れた顔のエドが立っていた。黙ったままリビングに行き、どっかりとソファに腰を下ろすとわざとらしい口調で言う。
「あーっ!疲れたーっ!!」
「お疲れさん。コーヒー飲むか?ノアが入れ方覚えたぞ。」
「いいね、頼む。」
ノアがマグカップを差し出すと嬉しそうにエドは受け取って一口飲んだ。俺とノアが腰を下ろすのを待ってエドは話を切り出した。
「メールしたけど、古代アラダ語の辞書作成と翻訳装置の開発プロジェクトが提案された。みんな欲しくてたまらない物だから、来週末の審議会で承認されると思う。」
「それ、読んだけどノアが協力しないと実現できないだろ?」
「ああ、協力することで合意した。いま英語を教える言語学者を選定中だよ。過保護って言われるかも知れないけど、できればノアが怖がらないよう女性の…」
意味が分からず、エドの話を遮って割り込む。
「ちょっと待て。協力するってどういうことだ?権利の話どうなったんだよ。」
「ボランティアとしてプロジェクトに無償で参加、だ。その代わり僕には昇進と特別手当が約束された。これで所内で動きやすくなったよ。君たちを売った代償としてはまあまあかな。」
予想もしてなかったエドの言葉に、思わず腰が浮いた。
「売ったって…どういう意味だ?まさかおまえ、本気で言ってるんじゃないだろうな…。」
エドは薄笑いを浮かべたまま答えない。代償って…それがエドの狙いだったのか?憤りを押さえきれず椅子から立ち上がると、エドはにこっと屈託のない笑顔を見せて言った。
「そろそろ種明かししないと本当に殴られるな。座れよヴィンス。ノアが怖がってる。」
言われて振り返るとノアはうろたえた顔で俺とエドを見比べていた。
「言葉はわからなくても雰囲気でわかるんだな。ノア、大丈夫だよ。ヴィンスは怒ってないって。ほらお前も大丈夫って言え。」
それをお前が言うか。だが俺が無理矢理笑顔を作ってみせると、ノアはほっとした表情をした。それを見届けてもう一度椅子に座る。エドは足を組み、観客に説明する道化師のような訳知り顔で話し出した。
「ちょっとややこしいんだよね。まずは黙って聞いてくれる?」
「もったいぶってないでさっさと言え。」
いらっとして刺々しい口調になった俺に、やれやれと言わんばかりに肩をすくめてエドは話を続けた。
「上の考えとしてはノアに一切の権利を渡す気はない。辞書作成に協力している期間は給与を出すけど、英語を教える費用負担と相殺してかなり少ない額を提示してきた。」
「ふざけるな!」
「僕もそう思う。で、僕が折れないのを見てこっちサイドに取り込もうと買収にかかったのさ。」
「昇進と特別手当か。汚ねぇな。」
「けっこうな額だよ。それでもノアがまともに権利を主張した場合に比べたらはした金だ。で、僕は買収に応じた。その代わりノアが無償で協力することに合意。思惑通りだ。」
「どういうことだ?」
「それは後で説明する。ところでヴィンス、ノアを養子にする気はない?」
突然話が変わって面食らった。養子だって?
「は?どういうことだ?」
「大丈夫だ、独身でも養子はとれる。」
「いや、そんなこと聞いてねぇ。」
「嫌なら僕でもいいぞ。ノアはこれから大金持ちになるから。」
「…どういう意味だ?無償で協力するんだろ?」
「金と聞いて聞く気になったか。」
「ちげーよ。馬鹿にすんな。」
むっとして言い返したが、気にする様子もなくエドは言葉を続けた。
「いま僕が考えている計画にはノアの市民権が必要だ。それを手に入れる一番簡単な方法は誰かの養子になること。誰でもいい。君でも僕でも。」
「わかったよ、たとえばノアが俺の養子になったとする。市民権も得る。で?」
「ノアは無償で辞書作成に協力する。ただし完成物…古代アラダ語辞書の権利は放棄しない。辞書の利用権、辞書を利用して解明した技術の利用料がノアに入るようにする。アラダ語はノアの知識だ。知識に対価を払う。当たり前の行為だ。」
「だから市民権か」
「わかった?市民権があれば弁護士もつけられる。これがわかったら研究所には相当恨まれるけど、向こうだってノアをただ働きさせる気なんだからお互い様だ。」
なるほど、開発費は研究所に出させて利益だけ横からかっさらおうって魂胆か。本当にこいつ性格悪いな。だがそれがばれたら間違いなく俺達は解雇される。
「じゃあエド、俺達は…いや、お前は昇進するから大丈夫か。首を切られるのは俺だけか。」
「それも大丈夫だ。ノアが無償で協力するから。」
「どういう意味だ?」
「ノアには悪いけど…僕たちの保険だ。いいかい?無償で協力するということは、研究所と契約して雇用されるわけじゃない。ボランティア参加だ。ボランティアは義務じゃない。いつでもやめようと思えばやめられる。たとえば、だ。僕たちが解雇されたとしよう。それを理由にノアが協力をやめるって言ったら?」
「…誰も止められないな。止める権利がない。」
「そういうこと。ただこれを僕が言い出すと上が怪しむ。だから買収しに来るのを待ってたんだ。その代償として君たちを差し出す。そう言えば怪しまれない。思い通りにひっかかってくれて真面目な顔してるのが辛かった。」
エドは髪をかき上げると、いたずらっぽい…いや悪党顔で言った。まったくしたたかだな。だがこれでノアに言葉を教えるのも、アラダ語の辞書を作るのも、ノアに対価が支払われるのも、俺達が首を切られないのも全部解決する。
古代アラダ語の辞書…閉ざされた知識への窓だ。その価値は計り知れない。それができたら研究は飛躍的に進む。研究所に入る利益は莫大なものになるだろう。もちろんノアにも。
「エド、ノアはすごい金持ちになるんじゃないか?」
「そのとおりだ。さっき言ったろ。」
「そしたら誰かしっかりした弁護士をつけて…ちゃんと管理しないと…」
「落ち着けよヴィンス。順番に考えよう。まず最初は市民権、つまり養子になることだ。」
「それはわかったが…ノアの意志を無視して決めるのはどうも…なぁ…。」
「正論だけど養子制度とか契約とか説明できる?」
「無理だな。まだ。」
「だから市民権を取るのを優先したい。その時、弁護士をつけて正式な書類にする。研究所との交渉も弁護士にまかせる。財産はノアの物。一定期間君が手を出せないようにして、君との養子縁組をノアと君の2人が合意しないと破棄…無効にできる条件をつける。僕もノアの後見人として連名でサインする。それでどう?」
「よし、それで行こう。」
「じゃ、決まりだね」
二人で左手の親指を立てる。よくわからないまま、ノアも真似をしてサムズアップしてみせた。まるでノアも合意したようで俺とエドでちょっと笑う。だが俺には気になることがあった。
「エド。なんでお前、自分がそうしよう思わないんだ?すごい大金だぞ?」
「僕でもいいんだけどね。ノアは君になついてるし…君も一緒に暮らしたいんじゃないか?」
ノアと一緒に暮らしたい?
思わずノアの顔を見るとつられてこっちを見た。何が起きているかわかってない顔だ。何か教えてもらえるのか?とでもいうようにエドを見て、もう一度俺に目をむけるとにこっと笑った。人を信じ切っている子犬みたいな顔だ。
「君がそうしないんなら、僕は喜んでノアを家族にするよ。」
「嫌だ」
それを聞いてエドはにやっと笑った。俺も自分の口からするっと出てきた言葉に驚き…はしなかった。わかってる、毎日毎日俺の後をついてきてこんな目で見るんだ。可愛くないわけがないだろう。わかってて言うなよ、エドめ!