吸血鬼
レンガ造りの家が立ち並ぶ、古色然とした都市『ミハルチャ』。都市の中央には巨大な城が築かれており、都市全てを見下ろせる高地に建てられている。この城に住まうのは、三年前よりミハルチャを統治することになったペルシュ伯爵。かつて戦争で捕虜にした敵国の人間を、全員串刺しにして処刑したことで知られる残虐非道な男――と言われている。
しかし私はそれは間違いだと思っている。
だって彼は……
「ナタリエさん、今日も有難う。今夜の交流会も問題はなさそうかな?」
「はい伯爵様。今回も皆さま非常に楽しんでおられます。それに警備も十分に整えられていますので、万が一にも問題は起こらないと思われます」
「それは何よりだ。では申し訳ないが、もうしばらく下で給仕の仕事をお願いするよ」
「承知いたしました」
私は深々と頭を下げ、ペルシュ伯爵の部屋を後にする。
廊下に出た私は、やはり昨今巷を賑わせている噂は嘘だという思いを強くした。
――こんな一介のメイドに過ぎない私に対しても、穏やかに、一切見下した様子も見せずに対応してくれる優しい伯爵様。それが、罪もなき人々の生き血を好む、吸血鬼なはずがない。
かすかに火照った頬の熱を冷ますように、手で軽く顔を扇ぐ。
高まっていた動悸が治まったところで。私は業務に戻ることにした。
* * *
ペルシュ伯爵様が住まうお城では、満月の夜、あらゆる身分の者が分け隔てなく参加することのできる交流会が開かれる。交流会には毎回数百人もの人が訪れており、ミハルチェ特有の名物行事として近隣に知れ渡っている。
交流会が開催されるようになって以来、この会にて階級の高い者とのコネを作ろうと、各地から一芸に秀でたものが集まるようになった。結果ミハルチェは他に類を見ない多文化都市となり、経済も発展。近隣に比べ遥かに貧困層の少ない豊かな都市へと生まれ変わった。
今宵もまた、城の中は交流会に参加しに来た人々で満ち溢れている。
私は彼らの隙間を縫うように歩きながら、飲食物の提供、空いた皿や汚れ物の片付けなどを行った。
一通りそれらの仕事をこなしたところで、部屋の片隅に移動し一息つく。すると同僚のメリッサとラミカが近づいてきた。
「ナタリエお疲れ様。やっぱこうも人が多いと大変ね」
「全くですよ~。もっとお城の仕事って優雅で楽なものだと思ってました~。ナタリエ先輩もそう思いますよね~」
「うーん。私としては大変って思いより、やりがいがあるなって思いの方が強いけど。だってこの人の多さは、それだけミハルチャが発展してる証拠でもあるでしょう?」
「うわー、先輩マジメ過ぎますよ~。私は都市の発展とかより今日の寝る時間の方が大切です~」
「ラミカは素直過ぎよ。まあナタリエが真面目過ぎなのには同意だけど」
「そうかなあ? でもラミカは交流会の日に仕事するの初めてだから、やっぱり疲れちゃうよね。大変だったら私が代わりにやっておくから、奥で休んでていいからね」
「先輩神様過ぎます~。そんなこと言われたら逆にさぼれませんよ~」
泣き真似しながらラミカが抱き着いてくる。
私はよしよしと彼女の頭をなでて慰めた。
ラミカはつい一か月前にこの城で働き始めたばかりのメイドだ。約一年前から働いている私やメリッサとは違い、ここでの暮らしにまだ慣れていない。加えてメイド仕事は意外と力を使うことが多い。かなり小柄な彼女には、体力的にもきついものがあるはずだ。
――でもそれ以上に、彼女が可愛すぎてつい甘やかしてしまっているというのが本音かもしれない。ここに来る前は貧民街の方に住んでいたらしいが、お肌はつるつるで白磁のようだし、子供っぽい口調を除けばまるで童話の中のお姫様みたいだ。
と、つい彼女の頬を撫で撫でしていると、そんな私たち二人のやり取りを呆れた目で見ていたメリッサが小さくため息を吐いた。
「もう二人とも。あんまりふざけてるとミザリーさんに怒られるわよ。今は仕事中なんだから」
「もうー、メリッサさんも真面目ですよ~。でも確かにミザリーさんに見つかったらまずいかも……」
ぴょんと私から体を離し、ラミカは両肩を抱いて体を震わせる。
ミザリーさんは私やメリッサと同じく一年前からこのお城で働いているメイドだ。年齢は五十を過ぎているらしいが、目つきは鋭く体つきも非常に逞しい。働いている期間こそ同じものの、その手腕を買われて今ではメイド長に抜擢されている。
性格はかなり厳し目で、穏やかに歓談している姿を見たことがない。誰に対しても明るいラミカですらこんな風に怯えてしまうほどだ。
私も正直得意な部類ではない。メリッサの言う通りこうしてさぼっていることがばれればどんなペナルティを課せられるか分からない。
仕事を再開しようかとぐっと伸びをしたところ、窘めてきた当のメリッサが新たな話題を提供してきた。
「それにしても、最近交流会に参加する人減ってきてるようにも思えない? 前はもっとたくさんいた気がするんだけど。やっぱり伯爵様のあの噂が――」
「ちょっとメリッサ! あんな噂嘘に決まってるじゃない! まさか本気で信じてるの!?」
伯爵様の優しげな笑顔が脳裏をよぎり、つい興奮して言い返してしまう。
メリッサは少し気まずそうに眉根を寄せるも、「でも……」と呟いた。
「実際奇妙な点はあるし、全部が全部嘘だとは思えないから……」
「だからって伯爵様に限ってあるはずないじゃない! あの方の優しさはメリッサだってよく知ってるでしょ!」
「それはそうだけど……、その優しさが逆に怪しいっていうか……」
「何よそれ――」
「あのー、お二人はさっきから何の話をしてるんですか? 伯爵様の噂って、もしかして吸血鬼がどうこうとかいう?」
私とメリッサの会話に置いてけぼりにされていたラミカが、恐る恐る口をはさんでくる。
彼女の様子を見て自分が興奮しすぎていたことに気付き、軽く呼吸をして心を落ち着ける。メリッサも少し冷静さを取り戻した様子で、「まあ、その噂についてよ」と肯定した。
するとラミカは目を輝かせて、「実はその噂気になってたんです!」と身を乗り出した。
「伯爵様が吸血鬼なんじゃないかって噂、一年位前からちょっとずつ流れてますよね~? もしかして先輩方はその理由とか知ってるんですか~?」
意外とゴシップ好きなのか、ラミカは体を揺らしながら交互に私たちを見つめてくる。
私とメリッサは顔を見合わせると、少し苦笑してお互いに頷いた。
「まあラミカなら噂を真に受けないと思うし、何れ知ることになるだろうから今話しちゃうわね。こんなつまらない噂が流れることになった原因は三つあるの。そのうち一番有名なのは、ちょうど一年ぐらい前から流れ始めた、ミハルチャでの浮浪者の数が減ってきたって話」
「浮浪者の数が減る……それって伯爵様の政策がうまくいって暮らしが豊かになってきたってことなんじゃないんですか? 全然吸血鬼と関係なさそうなんですけど」
「これだけならね。まあここでの問題は、浮浪者のその後を知っている人が誰もいないってこと。ラミカちゃんの言う通りお金を稼げるようになって別の町に行ったりしたのかもしれないけど、事実浮浪者の数は減り、その後を知ってるって人が全然出てこない。それでちょっと変な噂が広まったのよ」
私の話を補足するためか、メリッサも続けて言う。
「それに今では浮浪者の姿が全くと言っていいほどいなくなっているらしいわ。いくら景気が良くなったからって浮浪者全員が働けるようになっているとは思えないし、何か他に理由があるんじゃないかって噂になってるわけ」
「成る程成る程~。確かにそれは不思議ですね~。それで他にはどんなことがあったんですか?」
言葉の割にあまり不思議に思っていなさそうなラミカの様子に少し笑みが漏れる。
しかし二つ目からは彼女も他人ごとではいられない噂。さてどんな反応をするだろうと、微かにワクワクしつつ私は続きを話し始めた。
「二つ目は私たちにとってもかなり身近な噂よ。これに関しては私もここに勤め始めてから知ったことなんだけど、このお城で働くメイドはすぐに辞める傾向にあるの。ラミカも知っての通り、私やメリッサは一年前から働き始めたばかりだけど、それでも今のメイドの中では最古参に近いわ。私たちより前から勤めている先輩はもう二、三人しかいないほど。それにラミカが入る半年くらい前に入ったこの中にも、既に何人か辞めてしまった人がいるわ」
「そう言えば先輩たちより長く勤めてる人ほとんどいませんね~。それに皆若い子ばっかりで、年取ってるメイドさんってミザリーさんぐらいしか記憶にないですね~」
ラミカの言葉にコクコクと頭を上下させながら、メリッサが言う。
「そうそう。まさにそれが伯爵が吸血鬼なんじゃないかって噂される一番の理由よね。吸血鬼は若い女性の血が好物だって話だし、こうして若くてかわいいメイドをたくさん集めては、気に入った女性の血を吸って殺してるんじゃないかってこと」
「ほうほう~。でもそうすると先輩方は伯爵の好みじゃなかったってことですね。お可哀そうに~」
「ちょっと! そうとは限らないでしょ! むしろ気に入ってるからこそすぐには殺さないのかもしれないし!」
「えー、でも本当に好みだったら一年も待てますかね~。私が吸血鬼なら絶対に襲っちゃうな~」
「そこは我慢してこそでしょう! 我慢すればするだけその時が来た時に――」
「メリッサー、なんか話がそれてるわよー」
伯爵様の噂とは全く関係のない方向へ話が進みそうになったため、私は軽く声をかけて軌道修正を図る。因みにどうでもいいことだが、万が一伯爵様が吸血鬼だとしたならば、メリッサの言う通り楽しみを後に取っておくために私たちは襲われていないのだと思っている。だって私もメリッサもこれまでに辞めていったメイドより綺麗だと思うし、それに――
私自身の考えまで脱線しそうになり、慌てて頭を振る。それから気を取り直して、「でも、これも正直信用できるものじゃないわ」とラミカに言った。
「確かにすぐにメイドが辞めてはいるけれど、こっちは消息不明になったわけじゃないの。さすがに全員のその後は知らないけど、仲良くしてた人たちからは辞めた後に連絡があったし、皆元気にやってるみたいなの」
「――辞める前には、何の話もなかったのか」
突然、見知らぬ男の重低音な声が入り込む。
私たちが驚いて声の方に視線を向けると、そこには全身を黒服で包んだ大柄な男が立っていた。
室内にも関わらずフードまで被っているその男。顔は俯きがちで、フードのためにどんな顔つきなのかはよく分からない。ただ間違いなく、不審者と呼んで相違ない格好だった。
私はメリッサにアイコンタクトを送る。彼女はしっかりこちらの意図を汲み取ると、自然な動作でさっとこの場から離れていった。
そのことに不信感を抱かれないよう、私は即興で作った笑顔を男に向けた。
「すみませんお客様、何か御用でしょうか?」
「……気になる話題が聞こえてきたので、つい。できたら今の話の続きを聞かせてもらえないだろうか」
ぼそぼそと、ぎりぎり聞き取れる程度の声量で男が言う。
もしかして伯爵様の弱みを握りに来た恐喝屋だろうか? だとしたらあからさま過ぎる気もするが……警戒するに越したことはない。
私は笑顔を保ったまま、ゆるゆると首を振る。
「いえ、せっかくの交流会です。こんなつまらない噂話で時間を費やすのは――」
「え~! 私もぜひ続きを聞きたいです~。それこそたかが噂話ですし、別に聞かれてまずいこともないから話してあげてもいいんじゃないですか~」
「ちょっとラミカ!」
窘めようとするも、無垢な瞳でこちらを見つめてくる彼女の姿に毒気を抜かれる。
実際今から話そうとしていた噂に関しては、知っている人ならとっくに知っている程度のこと。むしろ変に誤解を与えずに伝えられるという点では、今ここで話してしまった方が都合がいいかもしれない。
私は軽く息を吐き、「分かりました」と頷いた。
「ではお話しさせてもらいますが――まず聞きたいのは、メイドの皆さんが辞める前の話ですね?」
「ああ。仕事の引継ぎだってあるだろうし、普通なら辞める前に話がありそうなものだが」
「それはありませんでした。伯爵様から事後報告でお知らせが来ただけです」
「かなり怪しい話だな」
「そうですね。そこは否定しません。しかし辞めたメイドの中には交流会の日に改めてやってくる者もおります。現に本日も元メイドの一人が参加しているところを私自身が見ています。ですから伯爵様が吸血鬼で、メイドの血を吸って殺しているなどということは決してありません」
元メイドの姿でも探そうとしているのか、男は会場に顔を向けながら言った。
「その元メイドに、唐突に辞めた理由を聞いたことはないのか?」
「勿論あります。元々一定のお金を稼いだら故郷に帰るつもりでいたそうです。そしてそのことを知った伯爵様から特別に支援をいただき、辞めさせてもらったのだと。辞める前に私たちに話がなかったのは、特別扱いすることを他のメイドに知られたくないので、皆には伏せていてほしいと伯爵様に頼まれたからだそうです」
「……そうか。それで三つ目の理由というのはなんなんだ」
「随分と最初の方から聞かれてらしたのですね……。まあ別に構いませんが」
噂の原因となる話が三つあるというところから盗み聞きをされていたらしい。やはり私たちメイドの話を聞くことが目的で、最初からマークされていたのだろうか。
依然怪しいことに変わりはないが、かと言って特別失礼な質問をしてくるわけでもない。相手の目的が読めないのは非常に気持ち悪く――と、私たちのもとにメリッサが戻ってきた。
彼女は左の方に視線を動かし、軽く頷いて見せる。私がそちらに目を向けると、タキシードを着た屈強な男が立っていた。
私は安堵から少し緊張を解くと、目の前の不審者に向き直った。
「この噂の原因となった最後の話というのは、この城にたびたび運び込まれる黒い棺桶についてです」
「黒い棺桶、か」
「はい。とは言っても、棺桶というのは勝手な印象です。私もそこまで頻繁に目撃しているわけではないのですが、深夜になると城の裏口から棺桶のような巨大な黒い箱が運ばれてくることがあるんです。それが一体何なのかは私たちメイドにも一切知らされておらず、一度伯爵様に聞いたこともありますが、秘密だとはぐらかされてしまいました」
「それはまた随分と怪しい話だな」
「そうでしょうね。これを偶然目撃した人は、棺桶の中に人が入っているんじゃないかとか、寝床として持ち込んでるんじゃないかなんて噂を流し始めたようです。吸血鬼は日光に弱く、棺桶の中で眠るなどという物語も出回っていることですしね。ですが棺桶が運び込まれた日に、人がいなくなったという話は聞いたことがありません。それに伯爵様は普段棺桶などではなくベッドで寝ておられますし、当然日中も外に出られます」
黒いフードの不審者は、フードを深く被り直してから言う。
「棺桶の中身に関してだが、浮浪者の死体なんじゃないか。もしくは別の町からやってきたばかりの旅人とか」
「それを否定することは難しいです。しかし伯爵様が住むこのお城はご存じの通り都市一番の高地に建てられています。ここから浮浪者たちのいる貧民街まではかなり距離がありますし、そこで浮浪者を殺して棺桶に入れ城まで運んでくる――伯爵様は毎朝早くから活動されておりますし、そのような時間的余裕はないと思います」
「だが、協力者がいるなら可能だろう」
「血を吸いたいから浮浪者や旅人を誘拐して来いと命令され、それを実行する人がいるとでも? 少なくとも私は絶対にそんなことに協力しませんが……幸いにも、棺桶の運送に関わっている方があちらに見えています。もし気になるようでしたら、お話を聞いてみれば宜しいかと」
都合がいいことに(?)、メリッサが連れてきた警備員は件の棺桶を運んでいる人物だった。メリッサから話を聞いているのか、鋭い眼光で黒フードを睨みつけている。
黒フードの不審者もかなり大柄だが、この警備員も体格では負けていない。
まだ何か調査する気があったとしても、彼相手では好き勝手動くこともできないだろう。
こちらの思惑通り、警備員を見た男はフードを指で押さえながら、首を横に振った。
「いや、もう十分だ。仕事中にすまなかったな」
「いえ、満足していただけたようで何よりです。それでは引き続き交流会をお楽しみください」
何事もなく話を終えることができ、内心でほっと息を吐く。
黒フードの男は軽く頭を下げると、体を反転させ――
「え~、お客様もう帰っちゃうんですかあ? せっかくここまで話聞いたのなら、疑問は全部解消しちゃいましょうよ~。ということであの警備員さんにお話を聞きに行きましょ~」
「え! ラミカ!」
またもラミカが勝手に話を持っていく。
驚いて止めようとするも、既にラミカは男の手をひいて警備員のもとに向かっていた。慌てて追いかけようとした直後、
「ナタリエさん、メリッサさん。伯爵様がお呼びです」
透き通るような鋭い声が飛んできた。
見るとミザリーさんが凛とした足取りでこちらに近づいてくる。
メイドというより貴婦人と言った佇まいなのはいつも通り。年齢は五十を過ぎているはずだが、非常に若々しいオーラを纏っており、とても五十歳には見えない。
しかし威圧感自体はかなり年季を積んでいないと出ないであろうほど強烈なものであり――
「「承知しました!」」
と、私とメリッサは背筋を正し声を揃えて頭を下げた。
* * *
メリッサと二人で伯爵様の部屋に向かう中。不意にメリッサが口を開いた。
「ねえ知ってる? ミザリーさんに関する噂」
「また噂? メリッサも意外とゴシップ好きね」
「だって他に面白いこともないし。で、知ってるの?」
「知らないわ。まあ不満とか怖いみたいな話はよくけど」
「じゃあ教えてあげる。それは、伯爵様じゃなくてミザリーが本物の吸血鬼なんじゃないかって噂」
また吸血鬼。この城での噂はそれしかないのか。
少しげんなりするも、メリッサは話す気満々らしい。
遮るよりさっさと話させたほうが楽かと思い、「その理由は」と雑に聞き返した。
「そもそも吸血鬼の噂が本格的に流れ始めたのって、大体一年前じゃない。それってミザリーさんがこの城に勤め始めた日と被るわけよ」
「それを言ったら私たちだってそうじゃない」
「でも私たちと違ってミザリーさんは出身とか経歴も全然不明のままだし、そこは違うでしょう?」
「ここに来るまでの経歴なんて、他の人のも全然知らないわよ。メリッサだって私がここの出身っていうだけで、この城に来るまで何してたか知らないでしょ?」
「それもそうだけど……あんまり話の腰を折らないでよ!」
「だって穴だらけだから……まあできるだけ口挟まないようにするわ」
「そうして!」
普段はどちらかというとクールなタイプなのに、時々今みたいに妙に子供っぽくなる。
つい彼女の頭を撫でそうになるが、それを必死に我慢して話の続きを待つ。
メリッサは僅かに頬を膨らませながら口を開いた。
「それでミザリーさんって、年齢の割に凄い体力もあるし綺麗でしょう。でもこれといって美容に気を使っている姿を見かけたこともないし、トレーニングをしてる姿も見ないじゃない」
「まあそれはそうね」
「でしょう? だから実は人間じゃないんじゃないかって。加えて数人のメイドが、彼女が真っ赤な飲み物を、普段見せないような恍惚とした笑みで飲んでいる姿を何度か目撃してるのよ」
「それが人の血かもってこと? 普通に赤ワインじゃないの?」
「忘れたのナタリエ。完全無欠の彼女の弱点はお酒じゃない。一度お酒を飲んで、真っ赤な顔ですぐに部屋に戻ったの見たことあるでしょ」
「そう言えばそんなこともあったわね……」
あれはここで働き始めてから一か月後ぐらいのことだったろうか。伯爵様が私たちメイドのお疲れ様会と称してささやかなパーティーを開いてくれたのだ。その時にミザリーさんは間違えてお酒を飲んだらしく、顔を真っ赤にしてすぐさま部屋に引き上げてしまった。
あれが演技とは思えないし、突然お酒に強くなるとは思えない。となると彼女が飲んでいたのは赤ワインではないのだろうけれど……だからと言って血だと考えるのは飛躍し過ぎな気がする。
私がうむむと唸っていると、伯爵様の部屋に着いてしまった。
私たちは雑談をやめると互いに身だしなみを軽く整え、ノックをしてから伯爵様の部屋に入った。
「「失礼いたします」」
頭を下げて伯爵様の前に移動する。
伯爵様はデスク作業を止め、私たちに視線を向けた。
「仕事中に度々すまないね。大した要件ではないからあまり固くならなくていいよ」
「「はい、有難うございます」」
揃って深く頭を下げる。
伯爵様はそんな私たちを見て少し苦笑してから、「それで要件っていうのはね、君たちの慰労会を行いたいと思ってね」と、思いがけないことを言ってきた。
「慰労会、ですか?」
「ああ。君たち二人がここでメイドを始めてから一年も経つだろう。恥ずかしながらあまりここで長く働いてくれる人はいないからね。君たちにはこれからも頑張って欲しいし、何かプレゼントでも用意して慰労会を開こうかなと思ったんだ」
「そんなお気遣いいただかなくても! それにそういうお話でしたら、私たちよりミザリーさんの方が!」
メリッサが慌てた様子で言う。私も全くの同意見だったため、何度も頷いてしまう。
しかし伯爵様は笑顔で首を横に振った。
「ミザリーさんには断られてしまってね。それにこれは私の気持ちだ。君たちにまで断られてしまうとそちらの方が困ってしまうよ。別に今すぐでなくていい。何か欲しいものがあったら今度教えてくれないだろうか」
一介のメイドに向けるとは思えない、慈しみに満ち溢れた声。
――やはりこの人が吸血鬼なわけがない。いや、たとえ吸血鬼であったとしても、これだけお優しい方。もし彼が血を欲するなら、私は喜んでこの血を渡そう。
ちらりと隣を見れば、メリッサも同じように頬を赤らめ、恍惚とした笑みを浮かべていた。
* * *
伯爵様の部屋から出た私たちは、再び仕事に戻った。
しばらく会場内を見回っていると、ラミカの姿がどこにも見当たらないことに気付いた。加えてあの黒いフードを被った不審者もおらず、強面警備員の姿もなかった。
なんとなく嫌な予感がして、私は会場を抜け出した。
まだ彼らが一緒にいるとしたら、おそらくこのお城の裏口だろう。裏口は黒い棺桶が運び込まれている場所。勿論そこに今行ったからと言って何か見つかるわけはないと思うが、黒フードが見たいと言い出す可能性はゼロではない――むしろそれを言い出しそうなのは、ラミカな気もするが。
何はともあれ、いるかどうかの確認をしておこう。いなかったらその時はその時で考えればいい。
少し駆け足で裏口に向かう。しかし、予想に反して裏口には誰もいなかった。
杞憂だったかと思い踵を返そうとすると、私の頬をぬるい風が撫でていった。一見閉まっているように見えたが、どうやら裏口の扉が僅かに開いているらしい。
今日は交流会でたくさんの人の出入りがある。中には泥棒も紛れ込むかもしれないのだし、このままでは不用心極まりない。
私は扉に近づき鍵をかけようとする。しかし近づいた途端、むせかえるような濃い血の匂いが風と共に流れ込んできた。
驚きから私は体を硬直させる。しかし逃げ出したくなる気持ちを抑え、震える手で扉を開けた。
「こ、これは……」
視界に飛び込んできたのは、満月の光の下、うつぶせで倒れる一人の男と仰向けで倒れる一人の男。さらにその近くでぺたりと地面に座り込んでいる一人の少女。
三人全員が真っ赤な血に塗れており、意識が飛びそうな死の匂いが充満していた。
全身の震えがより一層激しくなる。しかし目の前には助けないといけない後輩がいる。
私は唯一の生き残りであろうラミカに声をかけた。
「ラミカ……無事、よね?」
「せ、先輩……」
顔も手も血に染まってしまった後輩の姿。幸いにも返事が返ってきたことから、死んではいないことが分かった。
彼女はどこか呆けたような顔で私に視線を向ける。徐々に意識が覚醒してきたのか、彼女は目から大粒の涙を流しながら私に抱き着いてきた。
「せ、先輩……! わ、私……!」
「落ち着いてラミカちゃん。もう大丈夫だから。落ち着いて呼吸して、とにかくリラックスして」
こんな場所で呼吸をさせては余計気持ち悪くなるのではと思ったが、ラミカの鼻はすでにマヒしているのか、気持ち悪そうなそぶりも見せず何度か呼吸を繰り返す。
呼吸を繰り返すたびに、少しずつ彼女の震えが治まってくる。
私はしばらく彼女の背を撫でて落ち着くのを待った後、何が起きたのか聞いてみた。
「それで、これはどういう状況? ここでいったい何があったの?」
ラミカはまだ目を潤ませつつも、健気にも口を開いた。
「か、棺桶が運び込まれてる裏口を見たいってお客様が言うから、さ、三人で見に来たんです。それでしばらく裏口でお客様が床を調べたり扉を調べたりして……。そのまま裏口を出てこの辺りも調べ始めて。そしたら突然お客様が何かを見つけたらしく声を上げたんです。それで……そしたら……警備員さんが突然ナイフを持ってお客様に襲い掛かったんです」
「け、警備員の方が襲い掛かったの?」
てっきり逆かと考えていたため、少し驚いた声を上げてしまう。となるとまさか、棺桶には本当に見られたら困るものが入っていたのだろうか? そして見られたくないものを黒フードに発見されてしまったため襲い掛かった……それともまさか、巷を騒がす吸血鬼の正体はこの警備員だったのだろうか?
ラミカは両腕で自らの体を抱きながらこくりと頷いた。
「はい……。そしたらお客様の方もナイフを取り出して……。しばらくもみ合った末に二人ともお互いのナイフが……。私、止めようとしたんですけど……!」
「ラミカちゃんは何も悪くない! とにかくいったんここから離れて落ち着こう! 落ち着いたら人を呼んで、そのまま休んでて。私はここで彼らを見張ってるから」
「わ、分かりました……!」
体をふらふらと揺らしながら、ラミカはゆっくりと城の中に戻っていく。
私は彼女の背を見送ってから、本当に二人が死んでいるのか、近づいて確かめてみることにした。
うつぶせに倒れているのは、黒フードを被った不審者の方。背中からはナイフが突き立っており、柄の部分までずっぷりと体に刺さっている。争った際にも脱げなかったのか、フードを被ったままで素顔は良く見えない。しかしこの状態では、死んでいるのは間違いないだろう。
それから警備員の死体に近寄る。こちらはなんと、首を貫くようにナイフが刺さっている。仰向けのため表情もしっかりと確認でき、驚きで目を見開いた顔がはっきりと視認できた。こちらは確かめるまでもなく死んでいるのが分かる。
死体を直視した影響か、きつすぎる血の匂いの影響か、私は頭が痛くなるのを感じふらりとその場に座り込んだ。
――取り敢えず二人が死んでいるのは間違いなさそう。後は人が来るのを静かに待って居よう。
そう思うも、ふとあることに引っ掛かりを覚え、私は二つの死体を交互に見まわした。
「ラミカの話では、二人は相打ちしたらしいけど……でも、これっておかしいんじゃ――」
「あ、気付いちゃいましたか~」
不意に、ぎゅっと後ろから抱きしめられる。
それによりさらに強まる血の匂い。
私は恐る恐る後ろを振り返ろうとするが、気付けば首元にナイフが当てられており、身動きが取れなくなっていた。
どうして、という思いが強くこみ上げる中、私の鼓膜に彼女――ラミカの声が響いていく。
「まさかもう先輩が来るとは思ってなかったから、即興で物語作ってみたんですけど、流石に無理があり過ぎましたね~。一人は背中を刺され、もう一人は正面から首を刺されている。この状況で相打ちだって説明するのは無理過ぎですよね~。それに、私まで全身血まみれなのはちょっと違和感強かったですよね~」
「な、なんであなたがこんなこと……」
震える声で尋ねると、ラミカはいつも通りの明るい声で言ってきた。
「それは私こそが、世間で噂されている吸血鬼の正体ですから~。まあ噂とは違って本当に吸血鬼なんて怪物なんかじゃないですよ。単純に、美容のために血液が欲しくて人を殺してるんです~。理由はよく分かんないんですけど、血をお肌に塗ると肌がどんどん綺麗になりますから~」
「そ、そんなことのために……」
「そんなことって、とっても大事なことじゃないですか。お肌は女性の命です。私の家は貧民街にありまして~。貧乏だったから美容に効く化粧品やお薬なんて手に入らないから、何とか代用できるものないかなーって、必死に探したんです。そしたらちょうど一年位前ですかねー。血液が最高の美容液になるってことを発見したんですよ~」
「貧民街……血液……って、まさか浮浪者の姿が見えなくなったのは――」
「だから最初に言ったじゃないですか~。世間で噂されている吸血鬼の正体は私だって。浮浪者さんは私の美容のための尊い犠牲になってもらってたんです~。彼らなら殺しても文句言う人がいませんし、昔は今と違って腐るほどいましたから~。でもちょっと殺しすぎちゃったみたいですね~。最近ではほとんどの人が逃げ出しちゃって全然血液もらえなくなって……それで新しい狩場を探してここに来たんですよ~。ここのメイドがよく辞めるって噂はとっくに耳にしてたので、その辞めていくメイドを今度は標的にしようかなって思って。あ、だから二つ目の噂は吸血鬼騒動とはなんも関係ないガセでしたね~」
まるで世間話をするかのように笑いながら話すラミカに、ただただ恐怖の気持ちが込み上げてくる。今彼女が言っていることが本当だとしたら、それは彼女は最初から私たちを殺すつもりでいたということ。
一緒に仕事をしている時も、楽しく歓談している時も、仲良くご飯を食べていた時でさえも……。
あまりの気持ち悪さから、全身の力が抜けていくのを感じる。それを知ってか知らずか、ラミカはさらに話をつづけた。
「ちなみに棺桶に関して何ですけど、たぶんあれは私が殺した死体を伯爵様がこっそり片付けてくれてたんだと思うんですよ~。浮浪者殺しの殺人鬼がいる街に人は来たがらないでしょうからね~。醜聞を抑えるために、必死に私の後片付けをしててくれたわけです。伯爵様には本当に感謝していますよ~。そのおかげで今まで捕まることなく、こんな至高の素材に巡り合えたんですから~」
「至高の、素材……」
「はい、先輩のことです! 一目見た時から本当に綺麗な人だなーって思ってて。基本的に血であれば誰のでも構わないんですけど、美女の方が気分的に凄く良いんですよね~。ここでメイドを始めてから全然血液に触れられませんでしたから、つい我慢できずに二人殺しちゃいましたけど……そのおかげで先輩までゲットできちゃいました! しかも満月の夜なんてとってもロマンティック……ああ、先輩。早くその血を、私に注いでください」
首元のナイフがゆっくりと動き出し、私の首に当たる。そして鋭い痛みを感じた直後、私の意識は暗闇に沈んだ。
* * *
「ああ、夢にまで見た先輩の美容液。どこから楽しもうかな~」
気を失ったのか、ナタリエ先輩はぐったりとその体を私に預けてくる。もしかしたらまた誰か来るかもしれないし、あまりゆっくりはしていられない。けれどしっかり堪能せず、あっさり搾り取ってしまうのはとても勿体ないことに思えた。
「ああ、どうしよどうしよ~。サクッと絞っちゃう、それともじっくり? 何にしろもう我慢できない! 取り敢えず軽く首から――」
ナイフを思い切り横にひく。そして念願の血しぶきが全身にかかる――はずだったのだが、私の手は突如横から伸びた手に掴まれ、ピクリとも動かなくなっていた。
私は反射的に掴まれていない方の手で、新たなナイフをメイド服の下から引き抜く(ナイフは常に十本近く忍ばせている)。そして素早く目の前の腕に突き立てた。
痛みからすぐに力が弱まるだろうと思ったが、一向に私を掴む力は弱まらない。それどころかもう片方の手まで取り押さえられてしまった。
せっかくの美容タイムを邪魔されたことから、怒りをむき出しにして相手を睨みつける。だが、その相手の姿を見て、私はぽかんと固まった。
黒いフードが頭から滑り落ち、素顔がしっかりさらされている。何の変哲もない男の顔。されどその頭には、フードの代わりに二つの獣耳が付いていた。
「自分、オオカミ男なもんで」
その言葉を最後に、ラミカの意識は消失した。
* * *
私――メリッサは一度会場に戻り場内を一周した後、再び伯爵様の部屋に向かっていた。
「ごめんね、ナタリエ」
呟きが口をついて出る。
同僚のナタリエが伯爵様を好いていることは知っていた。彼女とは働き始めたタイミングも近く話もあったため、できるだけ良い仲を保っていたかった。だから彼女には度々伯爵様に関する噂話をして、その好意が薄れるように仕向けてきた。
「結局、逆効果だったけど」
しかしナタリエが伯爵様への好意を失うことはなく、それどころかエスカレートしているようにすら見えた。
そして、今日。伯爵様から何でも好きなものをプレゼントしてもらえると言われた。それもとびっきりの笑顔とともに。
こうなっては、ナタリエが伯爵様に何を頼むのかは火を見るより明らかだった。そしてそれを阻止するためには、彼女との友情を壊すことになってしまうが、選択肢は一つしかないように思えた。
「ナタリエより先に、私が伯爵様と……」
急ぎ足であったこともあり、すぐさま伯爵様の部屋の前に到着する。はやる気持ちが抑えきれず、軽くノックをすると、返事も待たずに部屋の扉を開けた。
「失礼します伯爵様!」
そう言って部屋の中に入る。しかし不思議なことに伯爵様の姿は見当たらず、部屋には誰もいなかった。
「さっきまで部屋にいたのに……どこ行ったのかしら?」
出直した方がいいかと思いつつ、気分が高揚しているためかつい部屋の中に目をやってしまう。呼ばれもしないのに部屋にお邪魔したのは初めてのこと。少し興奮気味に部屋の中を見て回ってみる。
「え! これって……」
いつも伯爵様が使っているデスクの下のカーペットがはがれ、地下に続く階段の入り口が見えていた。
私は改めて部屋の中を見回し、誰もいないことを確認する。それから好奇心に負け、その秘密の入り口に一歩ずつ足を踏み入れてしまった。
薄暗い階段をいったい何段降りたことか。ついに金属製の扉が控える場所までたどり着いた。
さすがにそろそろ引き返した方がいいという思いと、ここまで来たのなら行けるとこまで行くべきだという二つの思いがせめぎあう。結局、扉が開くか試すくらいはしてもいいんじゃないかと思い、ゆっくりとドアノブに手をかけた。
少し力を込めて引いてみる。すると想像していたよりも遥かにすんなりと扉は開き――私は絶句した。
目の前に広がる異常な光景。年齢性別を問わない幾人もの人が、モズのはやにえの如く巨大な串に突き刺さっている。肛門から入り込み口から突き出した串は、それだけで吐き気を催すほどグロテスクな産物。
胃から酸っぱいものが込み上げてくるのを必死に我慢し、今すぐここから立ち去ろうと足を動かす。しかしそれら串刺し死体の中に、見知った顔を見つけ、堪えきれずに悲鳴を上げてしまった。
自らの悲鳴の衝撃で腰を抜かし、その場にへたり込む。すると声を聞きつけたのか、部屋の奥から手を真っ赤な血で染めた伯爵様がやってきた。
「おっと、今日は興奮していて鍵をかけるのを忘れてしまったか。まさかメリッサ君に見られてしまうとは」
「は、伯爵様……これはいったい……」
あまりのショックにより半ば過呼吸状態に陥り、かすれ声で尋ねる。伯爵様はいつもと変わらぬ優し気な笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「ああ、これらはすべて私の作品だよ。実に素敵だろう? 人の死は惨く悲しいもの。されどこうして少しの手を加えるだけで芸術に変えることができる。
私は戦争をしていた頃、大量に生産されるただの死体に非常に勿体ないもの感じていたんだよ。過去も未来も置き去りに、放置しておけばただただ腐り、何れは土に還ってしまう。それはあまりに悲しいことだよね。せっかく人として生まれた以上、死後も人としての価値を持たせ続けてあげたい。何かもっと有効に利用できないかと――そしてようやく見つけたんだ。死体を修復し、その全身を串で貫く。するとどうだい! 彼らはこの世で最も美しい芸術に生まれ変わることができたんだ」
「……えふ…………おえ…………」
見た目には、普段の伯爵様とまるで変わらないその姿。しかしそこから発される言葉は、到底理解できるものなどではなく、ただただ気持ちの悪さだけを増幅させた。
胃から押し寄せる波を我慢しきれず外にぶちまける。伯爵様はそんな私を見て、一層顔を輝かせた。
「ああ、メリッサ君。君はとても素晴らしいよ。最後の最後まで私に貢献してくれるなんて。胃の洗浄はかなり大変なものでね。そうして中身を少しでも出しておいてくれると助かるんだ。さて、予定を少し早めることにはなるが、君にも生まれ変わってもらおうか」
よく見れば伯爵様の手には血に染まったメスが握られている。
私は再び嘔吐すると、そのまま気を失った。
* * *
ペルシュ伯爵は微笑んだ。
串刺しになった死体はどれも魅力的だ。しかしやはり、素材が魅力的であればあるほど、その芸術的価値は高まるというもの。中でも一年前からこの城のメイドになったナタリエとメリッサ。彼らは私の求める素材に実に近かった。
運よく見つけた最高の素材。せっかく作るのなら最高の姿勢を模索してからがいいと考えていた。
そして非常に運のよいことに。時を同じくして貧民街で浮浪者が次々と殺される事件が発生し始めた。犯人の目的や動機は不明だが、既に血抜きが行われており剥製にするにはちょうど良い死体であった。
多少傷が荒くはあったが、それも時が経つにつれ改善されていった。どうやら殺人者の腕は日々上がっているらしい。
私はその浮浪者の死体を戦争時代からの部下に頼み、人知れず城に運び込ませた。名目としては、殺人者の存在が表に出ては市民が怖がって正常に生活ができなくなるため、死体のことは隠し、内密に犯人を見つけ出したいというもの。
彼らは私のことを慕っていたため、なんの疑念も抱かずに従ってくれた。
しかし浮浪者は総じて年齢が高く、素材としてはあまりよろしくはない。だからメイドの中からも身寄りのない者を中心に、こっそりと殺害して芸術作品になってもらっていた。勿論全員を殺してしまっては怪しまれる危険性があるため、ほとんどの者は褒美を渡し実家や別の町に送っていたが。
そして最近になってようやく、彼女たちに相応しい最高のポーズを見つけ出すことができた。ちょうど浮浪者もいなくなっており、死体の入手も困難になってきていたため、まさに絶好のタイミングだったと言えるだろう。
後は彼女たちが各自私のもとに来るように仕向け、作業を始める予定だったのだが――
「こんなにもあっさりその機会が訪れるとは! 彼女たちが急に消えては多少怪しまれるかもしれないが、二人だけならどうとでもなるだろう。さて、それでは始めていこうか」
まずは一刺し。見た目に最も影響の出ない部分を突き刺し、至高の芸術素材に代わってもらう。
私は慎重にメスを彼女の体に近づけ――
「そこまでよ」
メスを持っていた手に一陣の風が吹き抜ける。いや、それは突風を起こすほどの激しい蹴り。
慌てて後ろに下がると、目の前には凛とした老婆――ミザリーが立っていた。
私はポケットからもう三本メスを取り出しつつ、困惑した表情を取り繕った。
「まさかミザリーさんまで下りてくるとは。あなたは私の部屋に勝手に侵入するような女性ではないと思っていましたが」
ミザリーは鷹のような目をさらに細目、落ち着いた声音で言い返してきた。
「それは全くの見当違いです。私はずっとあなたのことを狙っておりましたから」
「ほう。まさかあなたにそんな興味を持たれているとは……知りませんでしたよ!」
私は持っていたメスの一本を彼女に投げつける。
彼女の髪を数本裂きはしたものの、メスは彼女の体に刺さらず壁にぶつかる。しかしメスを避ける際に彼女の姿勢が崩れたのを見て、私はすかさず彼女の懐まで入り込んだ。
ミザリーもやや年老いてはいるものの、素材としては一級品。できるだけ傷はつけまいと、心臓目掛けて二本目のメスを突き出した。彼女は左腕で心臓を守ることで、メスの進行を食い止める。だが痛みで体がふらついたようで、バランスを崩しその場に膝をついてしまう。
私はその隙を逃さず、逆の手に持ち替えた三本目のメスを振りかぶる。すると彼女は、背筋が凍るような冷酷な視線を向けてきた。
「くっ……!」
私は見えざる手にひかれるようにメスを上段から思いっきり振り下ろした。メスはちょうど彼女の眉間に深々と突き刺さる。ミザリーは目を見開いたまま短く息を漏らし、その場に俯せに倒れこんだ。
これは間違いなく即死。しかし彼女の気迫に押され、殺すことを優先してつい顔を傷つけてしまった。
顔は作品の質に大きく関わる重要な部位。謎の悪寒に負け顔にメスを突き刺してしまったことを後悔する。しかし後悔するぐらいなら早めに修復してしまうべきだと思い直し、彼女の体を持ち上げた。
だが、その直後。彼女の体から「ベキ、ミシ、バキ」という人の者とは思えない音が鳴りだした。私は驚いて床に彼女の体を落としてしまう。床に落ちた彼女の体はそのまま異音をかき鳴らし――音が聞こえ終わるころには、まったく別の生き物へと変貌していた。
「いやはや。やっぱり変身した状態だと動きづらくてかなわないね。まして老婆に変身していたから体中が痛いこと痛いこと」
「き、君はいったい……」
つい数秒前までミザリーだった女性。しかし今は銀色の長髪をたなびかせ老若男女を虜にしてやまないような絶世の美青年へと変貌していた。
その美しさは伯爵がこれまで抱いてきた価値観を一変させるほどのもの。
魔に魅了されたかのように硬直する伯爵に向け、絶世の美青年は大きく口を開く。その口からは犬歯というにはあまりにも長く、鋭い牙がのぞいていた。
「僕は吸血鬼さ。君のような紛い物とは違う、本物のモンスター。そして悪人の血だけを好む、高貴なる正義の使途でもある」
それじゃあ、さよならだ。
一閃。
瞬きをしたほんの刹那の間に首に突き立てられた牙は、伯爵の体から全ての血液を奪いさった。
* * *
後日談
「いやあ、今回は本当に疲れたねえ。まさか一年もスパイとして潜り込むことになるなんて。しかも老婆の姿で。こんなことになるなら君の力を借りずに一人でやった方がよかったよ」
「だが、結果として目的は果たせたんだ。加えて殺人鬼をもう一人捕まえることもできた。文句はないだろう」
「いやまさか、いざ伯爵を懲らしめようとしたら、別の殺人鬼が出てくるんだもんねえ。そのせいでこっちの推測が外れてるんじゃないかって、色々計画を立て直さないといけなくなったし」
『ミハルチェ』から少し離れた山の中。
満月の光に照らし出されながら、二匹のモンスターはゆったりとその歩みを進めていた。
二匹のうち一匹はとても陽気に、もう一匹はとても陰気な表情で会話を続ける。
「家出した娘が返ってこない。どうやら伯爵の家のメイドになったらしいが、それ以降全く消息がつかめない。噂によれば、伯爵の元に集められたメイドはよく姿を消すらしい。娘が今どうなっているのか調べて欲しい。万が一殺されているようなら、何か遺品だけでも回収してくれないか――全く健気な依頼だよ。結果としてかなり時間をかけた上に、最悪の報告をしないといけなくなったけどね」
「伯爵の元を辞めていったメイド。行方が分かる者もいたのは狡猾だったな。本当に奴が殺しているのか確信を抱きづらかった」
「いやいや、君が慎重過ぎるんだよ。疑わしきは罰するってね。もっと強引な手で調べに行けばもっと早く終わったのに」
「だが明らかに伯爵が関与していない殺人も起きていた。万が一にも冤罪だったなら俺は俺を許せなくなる。それに伯爵の悪事を暴けたとしても、もう一人の殺人鬼の特定はできなかったはずだ」
「僕は君と違ってボランティアで動いてるわけじゃないからね。依頼されていない事件にまで首を突っ込む気はないさ。というより今回浮浪者殺しの殺人鬼を見つけられたのだって偶然だろう? 事件を解決する気があるなら、もっと頭を使わないと」
「頭を使うのは苦手だ」
オオカミ男の素直過ぎる一言に、吸血鬼は笑いながら頭をかく。
「ははは。やっぱり僕と君だけじゃ力不足だね。フランケンシュタイン君がいてくれればたぶんもっと早く解決できてただろうに。狙われる対象が浮浪者だけってことは、浮浪者と旅人の区別ができてるってこと。つまり殺しても大丈夫な人物が誰かを知っている、浮浪者側にかなり身近な人物。加えて殺人の精度が徐々に上がっていたことから、犯行は素人の者である――みたいな感じにね」
「そして伯爵がその死体を密かに回収している理由もな」
「いやいや、あんな悪趣味な理由で死体を集めてるなんて流石のフランケンシュタイン君でも分からないんじゃないかな。というか死体の処理をまさかあんな地下でやってるなんてね。血の匂いも完全に遮断されてたし、あれじゃ気づけない」
「だとしても流石に時間がかかり過ぎじゃないか。お前がメイドとして潜入してからも、何人か被害者は出ていたはずだぞ。まさか、トマトジュースに気を取られ調査を忘れていたわけじゃないだろうな」
少し怒気を含んだ声に、吸血鬼はわたわたと手を振った。
「そんなわけないだろ! そりゃあ久しぶりに金欠を脱してトマトジュースを思う存分飲めたのは至福だったけど……被害を止められなかったのは伯爵の殺害タイミングが毎度あまりに唐突だったからで!」
「そもそもなぜ老婆の姿で潜入した。普通に美女に化けていけばすぐに伯爵が襲ってきたんじゃないのか」
「美女に変身すると色々面倒なんだよ……。どれだけ冷たく接しても話しかけてくる人が出てくるし、自由に動くにはあの姿が一番だったんだって! というかオオカミ男君こそ、今回はずいぶん調子が悪かったじゃないか。いつもならふらふら歩いてるだけで悪人がホイホイ襲ってくるのに、今回は一年も殺人鬼と対面できなかったんだ。まさかさぼっていたわけじゃないだろうね?」
「さぼってない。いつも通り死体が出た付近を毎晩歩いていた」
「ただ歩いてただけのことをそんなに堂々と言われてもねえ……ああ、もうこの話は止めよう! 何はともあれ事件は解決したんだ! 少し羽を伸ばして――」
そう言った直後、二匹はぴたりと足を止めた。
「……全く、君は本当に悪党引付体質だな。まさかもうこんな現場に遭遇するとは」
「馬に乗った首なし死体が五つ、か。『首狩り騎士』、架空の話だと思っていたが、どうやら実在するようだな」
「まあ僕たちみたいなモンスターがそれを言うのもおかしな話だけど……これは死体がまだ新しいねえ。『首狩り騎士』まだ近くにいるかもしれないけど、どうするんだい?」
「決まっている」
そう言ってオオカミ男は少し鼻を引くつかせると、迷いなく歩みを再開した。