プロローグ(4)
「国王、陛下……?」
自分でも驚くほどに呆然とした声を上げたクロレナリアは、男性が目を嗤うように細めるまで、我を忘れていた。
「ああ、そういえば言っていなかった――俺はディラン・ラ・シナリータ。戦争中に心臓を悪くした父に変わって即位した者だ」
ということは自分の夫となるお方なのだろうか。
この見目麗しい方が? ……本当に?
「どうした? 言葉も出ないか――無理もない」
そう。無理もない。
だってこんなに素敵な方は今まで仮にも公国の頂点近くにいて、見たことすら無いのではないだろうか。
クロレナリアが歓喜か戸惑いかそれとも別の感情か――自分でも分からないまま、色の透けた瞳を揺らした。
「わ、私は」
「無理をせずとも良い。どうせ形だけの仮面夫婦だ。人質同然の者に書類仕事などさせる気もない。社交は最低限行って貰うが」
言葉を遮るように言われて、口を噤む。
それだけ一瞥して、男性――ディランは背を向けた。
ルードに何かを指示して去っていく背中に、クロレナリアはただ溢れてくる感情を押さえるように床を見つめて、気づく。
ここに来て全てのものが違うと思っていたのに、几帳面に磨かれた大理石の床だけは、アカルエのものとそっくりだ。
思わずもう懐かしいとまで感じるようになった故郷に思いを馳せると、アカルエの王宮を出る前の胸糞悪い出来事がフラッシュバックしてしまった。
趣味の悪い黄金であちらこちらを飾り付けられた、謁見の間。
偉そうにふんぞり返る大公。
狐のような顔の宰相が済まし顔でその後ろに立っている。
初めてドレスというものを着たクロレナリアを汚いものでも見るように弄る無数の視線。
全てが、気持ちが、悪い。
吐き気が催す。
次第に顔色が青に染まってきたクロレナリアをどう思ったのか舌打ちを一つした後、父は鼻息を荒くし一気にまくし立てた。
『いいか、クロレナラリア。シナリータは悪だ――お前の兄は腹をかき破られ、内蔵を回され、死してもなお愚弄された。砦の騎士は籠城を強いられ、女子供構わず餓死するまでその魔の手を止めなかった――。
決して心を許してはならぬ。散っていった者たちを常に頭に浮かべ、機を狙うのだ……あの悪魔の首が取れる、その時を――ッ!』
それは、侍女の一人も連れて行かせずに娘を送り込む親の言うことだろうか。
そんなことが頭に横切るが、こんなのに期待してもするだけ無駄だと頭の片隅で否定した。
その言葉に字面上は御意と承諾したものの、何の法的拘束力もない。
幼い頃、クロレナリアが食事の席へと上がるたび、机に唾を落としてきた兄。
姿を見せるたび男女年齢問わず石を投げ、嗤ってきた民草。
人生で片手の数ほどしか呼んだことがないクロレナリアの名を、こんな時でさえ間違える父親。
そもそも見送りにすら来ない母親。
彼らとの縁は……民を愛すべき義務と、肉親への情は。
自分が享受してきた彼らの血税は、この身に課せられた、公女の血の役割は――
――『敵国の人質』となったことで清算される程度には、脆く拙いものだった。
故に頭を垂れながら、クロレナリアは静かに憤怒したのだ――そんな義理はない、と。
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