序章
今日は卒業式。
厳かで格式あるこの学園で行われる一年で一番盛大なイベントだ。
「私」もこの日のために新しいドレスを設え、髪だってメイクだってばっちり整えている。
髪飾りは彼にもらったものを綺麗に整えて結い上げて貰ったそこに飾り、ドキドキとした気持ちで式が終わるのを待つ。
学園長や生徒会長、そして「彼」のスピーチなどが終り、みな三年間過ごした学園を卒業することに涙している。「私」の卒業式ではない。
まだ一年しか過ごしていない学園で、それでもたくさんの思い出が出来たのは、そして自分の卒業式でもないのに視界がうるうると揺れるのは、「彼」が私に幸せをくれたからだ。
豪華なシャンデリア、深紅の絨毯、金に縁どられた装飾の数々。
大きく繊細な色味の花瓶には彩り豊かな花々が瑞々しく咲き誇っている。
式が終わり移動してきたその見るからに豪華絢爛といったホールには若い声で溢れている。
賑やかなその場には上質な生地で設えられた燕尾のスーツをその身にまとい楽しそうに談笑する男子生徒が、華やかなドレスや輝くアクセサリーで着飾った女子生徒たちが、数百人といるのだがそれでもホールは所狭さを感じさせない。
その場は確かに賑やいていたのだ。
しかし次の瞬間には誰もが声を出すことを躊躇う程の緊迫した空気に変わる。一人の女生徒が、彼にエスコートされる私を目に留めヒステリックに声を上げたのだった。
「貴女のような地位も身分もない町娘がこの方に近寄らないでと再三申し上げた筈でしてよ!」
親の仇とでもいうように憎しみ篭った瞳で少女を睨みつける彼女はその美しいであろう顔を酷く歪めている。
甲高く叫ぶその声に私をエスコートして入場してきたばかりの美しい青年が煩わしそうに顔をしかめる。
しかし金切声を上げる少女はそんな様子に気付くこともなく、ホール内の楽し気な雰囲気が失われたことを気にすることもなく、自分の目前で怯える私を激しく責め立てる。
そして自分の思い通りにならないものに、当たるようにして手を挙げたのだ。
ばちん、と大きな音が響き周囲が息をひそめるが、しかし泣いて怯える私の頬は赤く腫れることはなく、その代わりに私をエスコートしてくれていた彼の頬が赤く染まる。
それに対してヒステリックに叫んでいた少女も流石に青ざめた。
「あ…わたくし…!」
叩かれた頬をかばうこともなく、青年は私を守れたことに安堵し、その手をぎゅっと握りしめ、そっと耳元で君を守れて良かった、と囁くのだ。
私は赤面し、赤く腫れた頬を気遣うように手を伸ばす。
その柔らかい手に優しく口づけを落とし、その慈しむような眼差しを次の瞬間には氷のそれに変え、自らの頬を打った少女に冷酷に告げる。
「この無礼は許されるものではない。処刑だ」
白い肌をさらに白くさせ青ざめる少女は、その温度のない視線に、眼差しに、ヒッと小さく声を上げるがその状況に助け船を出す者はなく、誰もが少女の行き過ぎた警告にあきれ果てていたのを空気がありありと語っていた。
騒ぎを起こした少女は衛兵に連れ出され、それを待ってましたとばかりに広間に音楽が響き渡る。
金切声で責め立てられ、その恐怖に震え、涙を浮かべていた私の肩を柔らかな笑顔を浮かべ、青年が優しく抱いた。
青年と私は見つめあい、甘やかな雰囲気の漂う二人が周囲に祝福されるようにホールの中心で踊り始める。
桃色の豪華なドレスを、夜空のような上質な燕尾を翻し、幸せな時を過ごす。
少女の金の髪に美しい薔薇の冠を載せて――
「はー良かった…どのルートも最高だった…」
手持ちゲーム機から顔を上げ、ふっと息をつく。
此処最近の私の生活の一部になっていたそれが終わりに近づいていることに寂しさを覚えつつも、同時に心の満足感に放心する。
「Rose Crown」、通称ロズクラ。
人気のイラストレーターを起用し、人気のシナリオライターを起用し、人気の声優を起用したヒットさせるために作られたような作品。
恋愛シミュレーションゲームならではの美麗で繊細なイラストに乙女心をくすぐるイケメンたちの心を「私」が癒し、包み込む。
甘い声で甘いセリフを囁く彼らに会いたくて仕事が終わればすぐに家に帰り起動する。
休日は一日中ゆっくりとセリフの一文も余すことなくキャラクター達のフルボイスに酔いしれた。
仕事が終わらない日も、上司にセクハラまがいの発言をされても、これが終わればダミーヘッドマイクを通して聞こえる彼らのリアルな息遣いや生活音が楽しめると思えば頑張れた。
この感動を誰かに伝えたい。
そう思うも今現在深夜2時。
一人暮らしの私にはこの情熱を熱く語りあえる人間はいない。
サービス業に従事している私とは違い、明日は平日のため友人たちもこの時間は軒並み寝ているだろう。
それにしても熱中しすぎた。
ご飯も食べず、お風呂にも入らずにプレイし続けてしまった。
明日が仕事休みとはいえ流石にこのまま寝るのも憚られたし、今の私はあまりにも興奮状態である。
布団に入ったところですぐに眠れるとも思えず、いっそ夜更かししてしまおうかと近所で24時間営業しているスーパー銭湯にでも行こうと決めて荷物を詰めて家を出ると外は街灯以外の灯りはほとんどない。
ご近所さんが寝静まっている今、もしかして銭湯は空いているんじゃないかと逸る気持ちで向かう。
広いお風呂にゆっくり浸かって温まった後マッサージ機に解されながら、ロズクラの最後のルートを開放しよう。
最後に残ったのは全員を攻略することにより解放されるヒロインの逆ハーレムエンド。
ゲームを勧めてくれた友人によると攻略対象キャラクターである四人の青年たちがこぞってヒロインに求婚し、愛され過ぎて困っちゃう!というような内容らしい。
最後のルートらしく難易度も高い。
その分4人が愛を持って主人公を取りあい、守り、欲する。
最終的に誰を取るのか、それとも誰も取らないのか、色々とリアルな感情を持ちだしてしまったらもしかしてヒロインは尻軽になってしまうのでは…と思ってしまうのだがそれでも、それが楽しみで仕方がなかった。
乙女ゲームに感情移入するタイプの私はそれぞれのキャラクターたちにその時々で恋をしたし、恋の試練が二人の間を阻めば阻むほど悔しくなり、そしてよりキャラクターたちへの気持ちが強くなっていった。
つまりもうどっぷりとロズクラの沼に全身浸かり切っている訳なのだが、そんな今まで恋してきたキャラクターたちが全員ゲームの中の私に夢中になるのだ。
楽しみでない筈がない。
「全員が不幸にならない大円団エンディング」はやはり最後のルートとしてはふさわしい。
ワクワクしながら銭湯へ向かう道。深夜とは言え大通りには車通りが多い。
そこを抜ける信号を渡り右に曲がれば目的地だ。
暗い空に煌々と光る青になった信号を確認して、白線を踏みしめ渡っている私が最後に感じたのは警告音のように響くアスファルトがタイヤを削る音とあまりにも眩しいライトが高速で近づいてくる様子と、ばちんっと身体に感じる、声を上げる間もない程の強大な衝撃だった。