すいすいすっころばし
雨が降るビアンガのとある道。
静かな住宅街に、たったひとつだけ、人影があった。
「…んー」
いつもより流れが早くなった水路を眺める少女─スィエル。
濡れても問題はないのだが、気分で傘をさしていた。傘の下から周りを覗くも、やはり誰もいない。
「…まだかな、オウカとシータス」
スィエルは深くため息をついた。いつもとは違い、群青色のワンピースの上にパーカーを羽織っている。
待ち合わせは十五分後。少し早く来すぎた気がする。
ぼーっとしていると、近くから足音が聞こえてきた。
「……?」
足音は一人のもので、オウカかシータスか、どちらかだろう。…いや、もしかしたら一般人かもしれないが。
足音はスィエルの真横で止まり、聞きなれない声が耳に入ってきた。
「あ、あの…すいません」
「えっ、あっ、わたひっ、ひゃ?」
「あ、ああ、驚かせてしまって申し訳ありません!」
そこにたっていたのは、爽やかそうな青年だった。ギルド周辺で暮らす人々の顔と名前は大体覚えているはずだが、その青年は見覚えがなかった。旅人か商人か、それとも新しく越してきた人だろうか。
「あ、いえ…こちらこそ、失礼しました、はい、ごめんなさい」
「…えっと」
スィエルの慌てように困惑する青年。少し考えたあと、頭をかきながら、にこやかに訊ねる。
「き、君が…水素さんなのかな?」
「えっ…?」
「あれ、もしかして…違ったかな」
「すい……………違います、けど…?ええと?」
「あっれー…、そうか。ごめんなさい」
青年から明確な悪意が感じられるわけではないが、スィエルもさすがに自分の立場を理解していないわけではない。
なんとか人、人…?違いとして流したいところである。
「変なこと聞いちゃってごめんなさい。失礼します…」
「い、いえ…お気になさらず」
「あ、そうだ」
変わらず、笑顔を張り付けたまま青年は人差し指を立て、スィエルに近付けた。
「演技は満点。でも、衣装がよろしくないかな」
「…?…??」
傘が手から滑り落ちて転がる。そして、全身から力が抜けたようにその場に崩れていく。
「改めまして、僕は魔術師…でもあり、研究者でもあるビレイさ」
「…」
「ああ、ようやく研究の最先端にたどり着ける」
心底嬉しそうにスィエルの元に近寄っていく。
動かないスィエルの体を持ち上げようとしたその時、それは氷が溶けたかのようにして消えた。
その表現がもっとも合うものであろう。体は水となって流れていった。
「…何が」
唖然としながら辺りを見回すビレイ。ハッとして後ろを振り返るも姿はない。
「折角のお洋服が濡れちゃったじゃないの」
その声は元々スィエルがいたところからした。
再び振り返ると、彼女は傘を持って立っていた。
「もう、みんなそうやって水素を馬鹿にして…水素ってすっごいんだからね!私はお安くないわよ!」
ほんわかとしたことを呟きながらも、周りに異様に透き通った青色をした水の玉を数個浮かべている。
「ひ、ひいっ…!」
「あまり舐めないでね、私のことを」
そう呟き、弾を銃弾のごときスピードと勢いで、一斉に放つ。
一つも当たることはなかったが、元々当てるつもりもない。
何が目的かと言えば、
「何で…嘘だ…うわあああああっ!」
…ビレイは一目散に逃げ出す。その姿を冷たく見送ると、小さなくしゃみを一つ。いくら水素で風邪を引くこともないとはいえ、寒いものは寒いのだ。
それにしても、あの態度の変わり様や怯え様といい…。
あとついでに溢れ出るちんぴら。(私怨)
「ぜえーったい私のこと馬鹿にしてた!あんな魔法で捕まえられたりしないもん!あなたたち生きてるの誰のお陰だと思ってるの!うわああああん!」
人目 (があるかはわからないが)も気にせず叫ぶ。
水素に危険なイメージが全くないのか、興味本意で捕まえてみようだとか思う輩すらいる。もちろん、化学者以外でだ。
「…濡れちゃったな、お洋服…。…くっしゅん」
「スィエル、待たせ…ってあんたなんでびしょ濡れなのよ」
「こ、転んじゃいましたてへ…」
「ドジだしー…そこはかとなくドジだしー…」
「だ、だって滑るんだもん!仕方ないじゃない!」
ようやく時間になり、三人が揃った。
「…まあ、今回のお願いは水路の掃除。どうせ多少は濡れることになるわね」
ビアンカは新鮮な水産物やみずみずしい農作物が多く売られており、それを求めて訪れてくる者もいる。また、高台から見下ろす港が大層美しいということで、それを実際に見てみようと訪れる者も少なくない。
しかし中にはポイ捨てをするようなマナーの悪い者もいるのだ。
また、草が生えすぎにならないように定期的に手入れをする必要もある。
「町長さんもちゃっかり私たちに仕事をくれちゃってね」
依頼主はビアンカの町長。毎回ギルドに依頼をしてくるのだ。
それは元素に対する理解がある証でもあり、いつも喜んで引き受けている。
「じゃあ始めようか!…へくしゅ」
「…寒くないの?」
「えへへ…寒いです」
「…急ぐ必要もないしー」
「そうね…」
オウカが右手を開くと、その中に橙色の光が灯る。
「…ちょこっとだけど温まるのではないかしら」
小さな火の玉である。
傘を上手に重ね合わせ、淡い光を三人で囲う。
炎と密着、そして色の効果も相まって、温かくはある。
なんともほのぼのとした光景だが、はたからみればまるで儀式でもしているように不気味な集団である。
こんな憂鬱な雨が降る日に通行人はほとんどいないが。




