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3.萌の告別式で

 道のりは悪路につぐ悪路だった。

 登れば登るほど道はせばまった。

 しだいに樹林の数がまばらになったとはいえ、こんどは熊笹の密集したエリアに入った。玲也の胸の高さまであり、広範囲にわたって続いていた。


 迂回ルートはない。

 藪漕やぶこぎするしかなくなった。


「熊笹と言えば、ツキノワグマがひそんでるかもしれない」と、玲也は萌をふり返って言った。「ボマーは僕があずかります」


「まさか、熊なんて」萌は立ち止まり、かぶりをふった。「だいじょうぶ。この子、軽いから。それよりしっかり前に集中して。私たちのために道を確保してくれたら助かる」


「なら、そうします」


「もし熊と出くわしたら、戦ってくれる?」


「勝ち目はないですよ。逃げるのが一番だろうけど、背中見せるのも禁物だというし。この熊笹のなかで鉢合わせしたら、どうにもならない」


「だったら、鉢合わせにならないよう、うしろで祈ってるから」


「なら、お願いします」


 ガサガサと緑色の海をかきわけ、泳いだ。

 鳥のさえずりなどない、生命の息吹を欠いた山だったが、万が一、熊は別物だともかぎらない。

 仏教の世界では、地獄にて閻魔えんまの配下として、鬼が獄卒をつとめていると言われる。

 だとすれば、ここは地獄ではないにせよ、鬼と同義のなにかが出てもおかしくないではないか。

 玲也は警戒した。


 慎重に熊笹の密集地帯を分け入った。

 行けども行けども、熊笹は尽きることがない。

 手は鋭い葉で傷だらけになった。うしろに従う萌とボマーも辛そうだった。

 いまさら、あとには退けない。

 進むしかなかった。


◆◆◆◆◆


 あの事故から二日経っていた。

 空が泣いていた。

 天童市内のセレモニーホールだった。


 菊の花で飾られた祭壇は、線香の煙でいぶされたかのように霞み、まるで雲海のなかを思わせた。

 遺影は萌だった。斜めを向けてポーズをつくり、白い歯を見せていた。

 えくぼが痛々しい。どうしてその若さで生涯を閉じなくてはならないのか。

 年をとった弔問客は、やりきれなさに肩を落としていた。


 告別式は三〇分後に控えていた。

 萌の父は気丈に受付のそばで、新たに入ってくる弔問客の労をねぎらっていた。憔悴しょうすいいちじるしく、眼の下にはくまができて、口のまわりのひげも満足に剃られていないようだった。


 かたや母の取り乱しようは目も当てられなかった。

 いまだ控え室で泣き崩れ、いくらなぐさめても涙がとめどなくあふれてきて、どうにもならない姿だった。こんな状態で、いざ告別式に立てるのか――。


 祭壇のまえで、喪服を着つけた祖母の陸子りくこが、端然と腰かけ、遺影を見あげていた。

 ラウドスピーカーからは、おごそかなBGMが音量をしぼり流されていた。そのうえ、街のイルミネーションなみにライトアップされた祭壇など、いささか演出過多であった。

 が、陸子はとりたてて不平も抱かず、飽くことなく遠くへ旅立ってしまった孫娘に思いをせていた。




 そのとき、陸子のかたわらで、黒のスーツを着た男が立った。

 陸子は男を見あげた。


「このたびは、息子がのった車でたいへんなことをしてしまい、申し訳ありませんでした」


 玲也の父親である草野くさの 和毅ともきだった。

 こちらも顔色が悪く、この数日のうちに見る影もないほどやつれていた。メガネの向こうの眼は、ひどく動揺しているが、どうにか理性を保っている揺らぎが見てとれた。


「草野さんですか。おたくさんの方こそ、次男になられる息子さんを亡くされたそうで。なんとなぐさめの声をかけていいやら苦しみます。――とにかく、お気の毒です」


「その兄も予断をゆるさない容態になっております。次男坊を失ったのもつらいですが、私としましては、なんの落ち度もない萌さんを巻き込んでしまった。そのことに責任を感じております」


「おたがいさまです。事故は草野さんのご長男だけの過失でもなかったのでしょう? すべて運が悪かっただけです。萌がその場に居合わせたのも、不幸なめぐりあわせだと思います。私はちっとも草野さんに否定的な感情は抱いておりません。だって、しかたないことではありませんか。これは本音です」


「そうおっしゃっていただけるのが、せめてもの救いです。先ほど、ご両親にも頭をさげてまいりましたが、取りつく島もなく、たいへん心苦しい。この場にお邪魔するのもいたたまれないほどでして」と、そこまで言うと口を押さえ、嗚咽おえつが洩れるのを防いだ。「いっそのこと、消えてなくなりたい……」


 陸子は立ちあがり、和毅の片腕に手をかけた。


「ご自身を責めないで。いまさらそれを悔いても、失ったものは帰らない。そうでしょ?」


「はい。残念ながらどうにもならない」と、和毅は涙をこぼしながら言った。メガネを取り、流れるがままにした。あれほど体内から水分が枯れるほど流し尽くしたはずなのに、涙は縷々(るる)とあふれてくる。身体の芯から突きあげてくる衝動。ほかの弔問客がいなければ、絶叫したい気分だった。「どんな償いでもいたします。もし萌さんが甦るなら、この身を捧げたっていい。あまりにも耐えがたいです」


 ここにきて和毅の感情は、ダムが決壊したも同然だった。


「でしたら」と、陸子は和毅のかたわらに寄りそい、背中をさすった。「弱みにつけこむようで悪いのですが――草野さん、折り入ってお願いがあります。どうか真剣にお聞きください」




 息子たちの事故の瞬間は、ドライブレコーダーに記録されていた。

 対向車の運転手は五〇代男性だった。運転中、とつぜん心筋梗塞を引き起こし、意識を失ったという。

 センターラインをはみ出して、片輪を浮かせたままカーブを曲がり損ねた対向車のライトバンがせまりくる映像。


 それが玲也の兄が運転する車の事故を誘った。

 結果的に玲也は死に、兄は意識不明の重体。現在も生命維持装置につなげられたままだ。

 対向車のライトバンは、そのまま路肩に接触。直後に男性は総合病院に搬送され、なんとか事なきを得ていた。


 和毅には不可抗力とはいえ、長男が人を死なせてしまった負い目があった。

 むろん、わずか十八歳の玲也の死も耐えがたい痛手だったが、それ以上に萌を巻き込んでしまったことに申し訳なさを感じていた。だからどんな要求にも応じる構えでいた。


「……よろしいですとも、なんなりとおっしゃってください。少しでもお役に立てるのなら、協力は惜しみません」


「でしたら」と、陸子は真っ向から和毅の眼をのぞき込んだ。否応も言わせぬ熱っぽさがこめられていた。「でしたら、玲也さんを……玲也さんの魂を私どもにおあずけください」


「は?」


 和毅は我が耳を疑い、背の低い陸子を見おろした。

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