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1.邂逅

 玲也れいやは息を切らしながら、セメント袋のように重い脚を交互にくり出していた。

 苦役を強いる道のりだった。

 重さ二〇キロもの背嚢はいのうをかついだ自衛官よろしく、身体はきしみ、節々はこわばっていた。


 山の麓から見あげたとき、たしかに見えたのだ。山頂の光を。

 まるで誰かが鏡の反射で合図しているかのように、一定の間隔をおいて輝いていたのをおぼえている。

 とにかくあそこを目指すしかないと思い、歩き出した。


 登山道はろくに整備もされていない悪路。

 つづら折りのそれがずっと上まで続いているのだろうが、鬱蒼うっそうたる樹林が行く手をはばみ、あとどれぐらい進めば目的地までたどり着けるのかわからない。

 いや、そもそも僕の目的地って、どこなんだ?――玲也はそんな明確な目的意識をもって登山しているわけではないのだ。


 自身の恰好を見た。

 なぜ学生服のまんま、山登りに来てるんだ?

 しかも荷物らしい荷物はなにもつけていない。手ぶらだ。


 霧が忍び寄ってきた。

 足もとを乳白色の水の粒子がからめとり、にわかに不穏なものを感じるようになる。

 たちまち視界は、幽玄のレースのカーテンですべてを覆い隠してしまった。


 こんな状況では、むやみに動きまわるべきではない。焦ればよけいに迷走してしまう――昔、父親と沢登りをしたとき、そう教えられたものだ。

 玲也ははやる気持ちを落ち着かせようとしゃがみ込み、靴の紐を結びなおすことにした。

 なんてことだ。山へ登るのに、よりによって革靴とは。




 それにしても、まるっきり生命を感じさせない山だった。

 自然特有の、野鳥の平和なさえずりや、虫のつぶやき、梢を吹き抜ける風の吐息がいっさいしないのは、どういうことなのか?


 ――と、そのときだった。

 玲也の上方で、枯れ枝を踏み折る音が聞こえた。

 パキパキと連続して鳴り、なにかが歩いてくる気配が沸いた。

 玲也は眼をこらして、上を見あげた。

 霧のなかに、人間のシルエットが現れた。


「そこに誰か、いるんですか?」


 と、思わず玲也は聞いた。


 人影はゆっくりとくだってきた。

 そのたびに枯れ枝を踏み砕く音が、ひそやかに響いた。

 影は女性のような繊細なラインを結んだ。


「君の方こそ、どなた?」


 と、そのひとは言った。鼻にかかった艶のある声。


 やがて二人はたがいに接近し、霧のなかでおたがいを視認しあった。

 玲也のまえに現れたのは、カーディガンをはおり、ジャンパースカートをはいた髪の長い女だった。まだ娘といっても差し支えない年ごろだ。


 その涼しげな眼もとには、おびえや敵意もなく、一瞬で玲也は『同行者』だと直感でわかった。

 女の足もとにはリードにつながれたパグが寄りそっていた。生後半年も経っていないようなサイズだ。

 やはり彼女の恰好といい、小型犬といい、登山にしては場ちがいな気がした。

 

「僕は玲也と言います。さっき、一時間ぐらいまえに気づいたときには、この山を登ってたんです。なんだか理由はわからないけど」


 女はびんにかかった髪のひと房をかきあげて微笑み、


「とりあえず、そのへんに腰かけて身の上話でもしましょうか」


 と言い、手近の岩場を指した。そこなら傾斜もきつくないので、小休止するには適していた。

 玲也は疑うことなく、女に従った。


◆◆◆◆◆


 女はもえ、とだけ名のった。二十三歳だという。

 玲也と同じ地元である山形県天童市出身だった。短大を出たあと、同市の清酒製造業の事務職として働いていたとのことだった。

 やはり萌もなぜか軽装で、ましてや犬をつれて登山しているのか、記憶がないのだという。


「ふしぎですね。僕も登山する直前の記憶が飛んじゃってる」


「今日は日曜だったはずでしょ。この子の記念すべき散歩デビューの日で」と、萌は言い、膝のうえのパグの頭を撫でた。「bomberボマーっていうの。爆弾。小っちゃなころから、頭から突っ込んできて体当たりするところから名づけたわけ」


「爆弾とか。過激な名前ですね」


「ボマーといっしょに街を歩いてたところまでは憶えてるんだけど、こちらも途中から思い出せない」と、萌は言って、白い頬に手をそえ、うつむいた。霧のかかった失われた記憶をまさぐる。眼を閉じてしばらく考え込んでいたが、あきらめたらしい。晴れやかに笑った。えくぼが魅力的な人だった。「やっぱり、こっちも飛んじゃってる」


 やがて霧は晴れていった。

 つづら折りの道が現れたので、山頂をめざして歩くことにした。

 いまさら下山は考えられなかった。

 いや――彼女が霧のなかから現れたとき、上からおりてきたのではなかったか?

 玲也はその疑問をぶつけた。


「それがふしぎでね」と、萌は言った。「頭のなかで、おばあちゃんの声が聞こえたような気がしたの。私のあとから人が追ってくるから、いったん引き返し、その人と行動をともにしなさい、と。いま思えば、気のせいかもしれないんだけど」


 玲也は腕組みしたまま、


「それが僕のことなんでしょうか? なんにせよ、選んでいただき、ありがたいですね。僕だって心細かったんですから」


「男子たるもの、人前で弱さを見せちゃダメ」


「ですよね」




 二人は登りながらしゃべった。


「今日のお昼前、ボマーをつれて街を歩いてたはずなの。県道二六七号線沿いだったと思う。道沿いに私の自宅があるの。両親と祖母と姉を入れて五人家族でね。あの日は清酒会社から給料が出たばかりだったので、散歩のついでにペットショップへ寄り、ボマーのお洋服でも買おうかと思って。知ってる? 小型犬の服って、意外と高いの。ついでにその足で、友だちの家に行くつもりだった。まえからボマーを見たいって言ってくれてた子なんで」と、萌はそこまで言って立ち止まり、頬を押さえたまま考え込んだ。「――そのつもりだったんだけど、友だちんまで行った記憶がない。ていうか、まるでこの霧みたいに霞がかかってる。なんでなんだろ?」


「僕もそうだ」と、玲也は頭を抱えて言った。失われた記憶をまさぐると、鈍い痛みがこめかみに走る。「高校の部活の遠征から戻ってきた直後だった。バスケの試合を終えて、学校に帰ってきたんです。いつもはバスで家に帰宅するところを、めずらしく兄が迎えにきてくれたんだ。車で。助手席にのり込んだ。くだらない話をしながら道路を走ったと思う。――そうだ、僕らも県道二六七号に入って間もなくのことだったはずだ」


「あそう」


「――そこまでは、なんとなく思い出したけど」

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