後片付け
ぎりぎりですが、最終話となります。
些か以上に雑なのですが、後日談のようなものと捉えて頂ければ幸いです。
「……おーい、この案件の資料、どこにやったっけ」
「またですか先輩。それは別の部門に資料請求の申請をしてくださいって昨日言われたでしょう」
狭いオフィス内を声が飛び交う。
大声を上げる先輩へ、私は嘆息しながら答えた。この人は私より何年も長く仕事をしているというのに、そのペースは全く低いの一言に尽きる。仕事覚えが悪いというか要領が悪いことに加え、まるで集中力が無いのだ。
かくいう今も、先輩のパソコン画面へチラリと視線を向けると艶めかしい女性の写真画像が映り込んでいる。このエロ野郎、一体どうやって今まで現在のポジションを確保できていたのか不思議なくらいだ。そんなだから婿の貰い手が未だに無いのだ。私だってこんなだらしない男の嫁に行くのはゴメンである。
私の返答を受けても「あっれー、そうだっけかなー」などと呟いている辺り、彼の記憶力と仕事に対するモチベーションがいかほどのものか示している。
「確かに、先輩も色々な案件を抱えていて忙しいとはいえ……他の先輩方はちゃんと仕事を進めていらっしゃるのに……」
私も愚痴が多くなってしまう。いけないいけない、余計なことは考えず自分の仕事に集中しよう。意識を切り替えて、デスクに並べた資料のファイルを開いた。
医薬品部門が開発した新商品の、一か月間における売り上げ数を今日中に纏めておかなければならないのだ。自分のパソコンに向かって資料のデータを打ち込む。
「(あー、でも数年前に出した商品の売り上げよりは低いのね。碌に宣伝費をかけられなかったし、その所為もあるのかな)」
パソコンの画面には、あまり芳しくない数字とグラフが並ぶ。とはいえ、この結果は開発した部門に問題がある訳では無い。きちんとした販売プランを計画・実行できなかった我々に責がある。……少なくとも、上層部はそう判断するに違いない。
今度の会議までに、プランの見直しを行なわなければなるまい。また徹夜作業かと思うと気が滅入る。ついこのあいだまで、会社の再編期で忙しかったと言うのに。治りかけた肩こりが再発しそうだ。というか、今も両肩にずっしりと重い感覚が乗っている。おまけにお腹の辺りがむずむずしてきた。気分が滅入ると、お腹まで減ってくる。
思わずため息を吐いてしまうが、余計に虚しくなるだけだった。
「……おーい、頼むから手伝ってくれよ」
「先輩、それならどうして勤務時間内にちゃんと仕事をなさらなかったんですか」
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃねえか。なぁ頼むよ、今度奢るからさ」
「……分かりました。では短時間で終わらせてしまいましょう」
退社時間になったというのに一つも仕事を進ませない先輩に頼み込まれて、渋々私は手伝いを了承した。こちらはもう退社の準備を含めてすべて終えたと言うのに。私だけでは無い、他の同僚も先輩方もだ。つまり、それくらいの時間になっているということだ。
しかも、これでも既に先輩の分を幾つか他に分担したうえで、なおこの男は手伝えなどとほざくのだ。今度勤務態度について管理部に訴えてやろうか。余計なことを考えると、今度は後頭部がむずむずしてしまう。
とはいえ、とりあえず今回だけは手伝ってやろう。エンゲル係数の非常に高い私にとって、「奢る」の一言は中々に魅力的だ。既に空腹がなかなか酷い状態だが、自分のデスクへ戻りパソコンを起動させる。(なお、その様子を見ていた他の人たちは先に帰ってしまった)
「あのさ、この調理器具に関する問い合わせの件って、どこの部門に確認とればいいんだっけ」
そんな状態の私に、この男は如何にも気軽そうに声をかけてくる。こめかみを押さえたくなる気分だが、ぐっと我慢して先輩へと向き直る。
「その件でしたら、技術開発部門に問い合わせて頂ければ確認できるかと思います」
「お、サンキュー。ここの卸し先、昔からやたらと電話かけてくるんだよな。確認作業ばっかりで嫌になっちゃうぜ」
そう言って、やれやれと言わんばかりに先輩は肩をすくめる。その気持ち、痛いほど分かる。分かるのだが、この先輩がそれを言うのは何か釈然としないものを感じる。
「問い合わせが多いって……例えばどんなものが上がってくるのですか?」
「色々だ。使ってた機械が壊れたから修理して欲しいとか、そういうのもあるし、他には卸してる食品についての苦情とか」
「苦情?」
「やれ冷凍食品の味が悪いだの、缶詰が味気ないだの、レトルトパックの味が犬猫の餌みたいだの、色々。そりゃ新鮮なものに比べりゃ幾らか味が落ちるけどよ。仕方ないじゃねえかそういうのは手に入りにくいんだから」
「はぁ」
思いがけず先輩の愚痴を聞く羽目になった。こうなると話が長いので、私はキーボードで作業をしながら話を聞くことにした。先輩へ背を向けながら生返事をする。
先輩も、私がちゃんと聞いているかどうか確認せず、ただ愚痴を垂れ流したいだけの様子であった。
「単にグルメ気取りなんだよ、あそこの連中は。昔っからそうだから――」
先輩の話もそこそこに、私は作業を進めた。というか、話してる暇が有るなら手を動かせと思ってしまう。
そんなこんなでさらに一時間後。ようやっと今日の分の仕事を終えた私は椅子に座ったまま大きく体を伸ばした。肩も背中も痛くてたまらない。
「やー助かったぜ。やっぱ持つべきものは素直な後輩だな」
「今度からはきちっと勤務時間内に仕事を終わらせて下さいね」
「はいはい……っと」
一応釘を刺しておくが、この男はどうせまた聞いていないのだろう。諦めて帰り支度をする。全身の倦怠感と痛みは勿論、お腹が空いて今にも倒れそうだ。やはり慣れない我慢などするものでは無い。
すぐにでも何かを食べたくて仕方ない気分だ。
だがそんな私の気持ちをよそに、先輩はこちらへ話しかける。
「お、なんだ疲れてんのか?若いくせしてだらしないな」
「ずっとデスクワークしていたら、さすがに体中が強張ったり重く感じたりしますよ」
「ふん……じゃあちょっと後ろ向け」
「?何をするつもりでしょう」
この男は何をするつもりだろうか?少なくとも仕事中にいかがわしい画像を閲覧するような輩と、二人きりのオフィスで余計なことをするつもりは無い。
「や、肩凝りだってんならマッサージでもしてやろうかと――」
「お断りいたします」
即断。渋い顔をしそうになるが、辛うじて堪える。
もう一度言うが、余計なことをするつもりは無い。こちらはそれよりも空腹をどうにかしたいのだ。
すると先輩は非常につまらなさそうな表情になった。アンタは何をするつもりだったのだ。
「なんだよつれない奴だな……じゃあほれ、これでも持ってけ」
「……これは?」
「湿布。ウチで出してる商品だよ。これ結構効くからさ」
「はぁ、ありがとうございます」
そう言って手渡されたのは、古めかしいデザインの箱。確かに、ここの会社で販売している商品のなかでは人気商品の一つに数えられるものだ。なぜこんなものを持っているのかは定かでないが。本当はおにぎりのひとつやふたつやみっつでも欲しい気分だが、ともかく貰えるものは貰っておこう。
箱を鞄に仕舞うと、今度こそオフィスを出ようと席を立つ。こんな時間だが、深夜営業の飲食店を探そう。或いは何か適当に買って自宅でのんびり食べるか。
「これから真っ直ぐ帰んの?」
「それは考え中です。どこかで食べて帰るかも知れません」
「まーったそれかよ。お前食い気ばっかりだな。そんなんじゃ婚期逃すぞ」
「……先輩?言っていいことと悪いことが有りますよ」
「あ、すみません言い過ぎましたゴメンナサイ」
先輩の余計なひと言に、ついに苛立ちがピークに達した。思わず髪を逆立てて先輩を睨みつける。前の口の端がギッと吊り上がり肩をいからせて仁王立ち。後ろの口がカチカチと物欲しげに歯を打ち鳴らす。
その鬼のような形相に、流石の先輩も冷や汗をかいて頭を下げた。
分かれば良いのだ。ひとの体質について云々言うなど随分デリカシーに欠ける行為である。
「やれやれ……今度から菖蒲を持ってこようかな……」
「何か言いましたか?」
「いえなんでも有りません」
なおもブツブツ呟く先輩へ、再びキッと威嚇。ザワザワと逆立つ髪は、それだけで先輩を黙らせた。
私はため息を吐いて、今度こそオフィスを後にする。その背後に、先輩の声が届いた。
「なあ、また仕事が溜まったら手伝ってくれ……や、手伝って下さい」
「……構いませんが、先輩はいつも他人に手伝って貰ってばっかりなんですから、まずは御自分でどうにかなさって下さい」
その厚かましさに、思わず険のある口答えを返してしまった。だが今更引っ込みも突かず、逃げるようにオフィスを後にした。
もしかしたら明日怒られるかも知れない。だが、そうなったらなったときに考えよう。今は空腹が何より優先される事象だった。
「他人に手伝って貰ってばっかりね……でもさ、俺だって仕方ないのさ」
誰もいなくなったオフィスで、彼はひとり呟いた。
「だって俺おばりよんだもん。おんぶにだっこが生来の気質なんだよ」
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