⑧乾杯
油臭いと、俺が抱くと春香は鼻をつまみ、それでも嬉しそうに笑っていた。
小学校へ上がるまでは、倫子の両親にお願いして育ててもらっていた。週末だけが唯一、親子でいられる時間だった。迎えに行くと、一週間分の話を、一生懸命に俺に話してくれていた。帰りの電車の中、はしゃぎ過ぎた春香は、ぐっすりと眠ってしまう。子供が、眠ってしまうとこんなに重いこと、俺は知らずにいた。
おばあちゃんに買ってもらったというブーツ。俺とお揃いだと言って、得意満面の笑顔を見せる。
誕生日プレゼントだと言って、倫子が初めて俺にくれたものだった。
「これあげます。だから私と付き合って下さい」
コンビニの前、タバコを吹かす俺は唖然となっちまっていた。
「給料の三ヶ月分まではいきませんけど、お願いします」
アホかと思った。
足がガクガクいっているじゃねーか。それでもおもしれーから、からかうつもりで受け取り、OKしたんだ。バイクに乗せ、静かな場所でいただいて捨ててやるつもりだったんだ。それなのに、星空を見上げて、嬉しそうに、本当に嬉しそうに俺を見て、倫子は笑っていた。
何も出来ないまま、俺も一緒になって柄でもなく空見上げたんだ。
その横顔が今でも忘れられない。
「いました」
そんな声が聞こえ、バタバタと走って来る水越が見え、俺はきょとんとなる。
「お父さん、僕と一緒に来て下さい」
腕を掴まれ、俺は訳が分からないままタクシーに乗せられる。
「式に出てください」
そう言われ、俺は目を大きくする。
「春香の晴れ姿を是非、お父さんにも見て欲しいんです」
「だが春香が」
「春香なら、僕が説得しました」
父親の話を持ち出されるたび、春香は機嫌が悪くなり、この結婚すら白紙にすると言い出す有様だったらしい。それでも、水越は諦めずに説得を続けてくれていたそうだ。
どうしてそこまでと訊く俺に、水越はポツリと呟く。
「そんなの淋しいじゃないですか。もし僕が同じ立場になったら、辛くて耐えきれないと思ったんです」
白い扉が開き、倫子が着るはずだったウエディングドレスをまとった春香とともに歩く。
「ケンちゃん本当?」
息するのも苦しそうにしていた倫子が、目を輝かせる。
「だいぶ遅くなっちまったけど、俺と結婚してください」
「もうだからケンちゃん大好き」
首に腕を回し、倫子は涙いっぱいに喜んでいた。
間に合わせてやりたかった。あいつが泣いている姿なんて見たことがなかった。いつでも笑っていたことしか思い出せない。
「……父さん、今まで、ありがとう」
小さな声で囁かれ、どうにも涙が止まらなくなっちまった。
「なぁ春香、一つだけ聞いてもいいか」
披露宴を済ませた控室で、二人きりになった俺は思い切って聞いてみた。
「母さんの手紙、何て書いてあったんだ」
春香は大事そうにバックから出してきた手紙を、俺に差し出す。
「読んでもいいのか」
コクンと頷く。
私の大きな子供を、あなたに託します。
まだまだ子供で目が離せないけど、大事に育ててあげてね。
あなたのお父さんはそんな人です。
純粋で負けず嫌いで、不器用な人。
どうかあなたが社会人になるまでは、私の大事な人の傍にいてあげてください。お願いします。
「参っちゃった。大人だと思うと腹が立つけど、子供だと思えば、仕方がないって思うしかないじゃない」
ケロッという仕草が倫子に似ていて、思わず涙があふれ出す。
俺、昔は相当やんちゃしていたんだ。
愛してくれる奴なんて誰もいないと思っていた。
自分の拳だけが信じられるものだった。こんな命、いつなくなってもいいって思っていたあの頃。
それなのに、倫子は足をガクガクさせながら、そんな俺にたくさんの愛を注いでくれていた。
「ケンちゃんと知り合えて、私本当に幸せ。私、明日、ケンちゃんのお嫁になります」
それが倫子の最後に見せた、飛び切りの笑顔だった。
倫子、俺こそお前と知り合えて、本当に本当に良かった。
(おしまい)
お粗末さまでした




