⑤幻影
電車の中で眠ってしまった春香をぎこちなく抱き、階段を下りて行く。
いつの間にか脱げてしまった春香の靴。
呼び止められ、手渡され、俺、どうしようもなく泣きたくなっちまったんだ。
春香の自慢の靴。俺とお揃いだとはしゃぎながら、義母から買って貰ったその靴を見せて話す。その笑顔がお前そっくりで、俺、何も言えなくなってしまっていた。
昔はそれなりにやんちゃしてきたんだ。大人が作ったルールが気に入らなくて、俺は自分の拳だけを信じて生きて来た。単車を転がし定職も持たず、行き当たりばったり。いつ死んでもいいと思っていた。俺の命なんて大したことがないと、ずっと思っていたんだ。
この世に神様なんていないね。俺みたいな男がのうのうと生きている中、倫子がなぜ死んでしまわなければならない。
俺がしかたなく仕事を始めたのを知って、涙、ポロポロ流し喜びやがって。もうモルヒネも効かない躰のくせして、我が子を膝に乗せ、パパ、凄いね。やれば出来る人って信じてたんだ。あなたのパパは世界一。
俺は世界一なんかじゃない。
昔は、それなりに悪さをしてきたんだ。
茶色に染めた髪は手入れされなくなり、髭まで生えている。革ジャンだってもうよろよろ。ブーツなんて履き潰れて、かかとがすり減っちまった。
子供が寝てしまうとこんなに重いこと、知らなかったよ。
時々思ってしまうんだ。お前がここにいてくれたら、どうなっているんだろうって。
もうすぐこの子も5歳になる。
笑うとお前にそっくりなんだ。
男手ひとつで無理だと、またまわりの大人が騒ぎ出して、俺、眉間に皺を寄せ、拳を ぎゅっと握りしめた。
だって、俺にしかこの子は護れないだろう?
それでも夜泣きが酷い時、熱を出され、お前のように俺の元を去ってしまうんじゃないかって怖くて怖くて仕方がなかった。
どうしてママがいないんだって、ぐずられて探すんだ。辛くて悲しくてそれでも俺、何も出来なくて、何でだよって思っちまうんだ。なぜ、お前はここに居てくれないんだろうって。勝手だよな俺、散々好き勝手しておいて。
俺、タバコを辞めたんだ。
お前がいなくなってしまうかもと知った日から、願掛けのつもりだった。もう何年も吸っていないのに、ドアを開けた時、クローゼットの中から服を取り出した時、ふとした瞬間に匂うんだ。
「もうタバコなんてやめなよ」
そう言うお前の声。
「うるせっ」
て、弾き飛ばしてばかりの俺だったよな。
「身体に百害あって一利なしだよ」
お前は、いつだってお袋のように俺を叱るんだ。
情けないだろう。
些細な会話を思い出しては俺、お前に会いたくなってしまうんだ。
この子には教えてあるんだ。
いい子にしていれば、ママは虹色のバスに乗って、こっそり会いに来る。だから泣かないで、ママを待とうなって。
「私はいつでも一緒だよ」
お前はいつだって、笑ってそう言っていた。
俺、でもダメだよ。
気が付くとお前の影探して、涙が止まらなくなっちまうんだ。
「大丈夫大丈夫」
死ぬ間際までお前が俺に掛けてくれたおまじない。
笑わなくっちゃな。
「この子の前に居る時だけは、笑っていてあげて」
それがお前と俺の約束だから。
でも良いだろう。今日は少しだけ泣いても。お前がこの世に生まれ俺と出逢って、この子が産まれた。
お前にとって大切な記念日。
どうしようもない俺だけど、愛してくれてありがとう。
――そして、ハッピーバスディ。
起こさないように春香の頭を自分の胸に引き寄せる。
「私、春が好き。何か新しいことが始まる匂いがするでしょ。道端に花なんか咲いちゃって」
――春香。
倫子のそんな一言で付けられた名前。
絞り出すように礼を言う俺を見て、その人は春香の寝顔をそっと見て、微笑んだ。
いつだって思っている。
時間を巻戻せたらって。
夜に溶け込むように、俺は歩き出す。歩いていくしかないんだ。お前の為にも。




