③覚悟
珍しく、倫子がだるそうに布団から出てこなかった。
それでも俺は気にすることもなく、平然と飯と言ってタバコに手を伸ばす。
「ケンちゃん、本当にタバコは」
そう言った途端、倫子は口を押さえてトイレへと駆け込んで行った。
流石に心配になった俺は、トイレの前で倫子に声を掛ける。
「大丈夫か?」
「大丈夫。病気じゃないから」
はぁ?
と思いながら、俺は心配させやがってなんて自分勝手なことを呟き、早く飯にしろよなんて言っちまったんだ。
トイレを流す音がして、ごめんねと倫子が出てくる。
顔色が優れないのは、一目で分った。
どんな顔をしていいのか俺、分らずに、携帯に目を落とす。ついでにテレビも点ける。
「音、大きすぎだよ」
そう言った倫子はまた、トイレに駆け込む。
「おい本当に大丈夫なのか」
面倒臭そうに言う俺に、倫子はしばらくして返答して来る。
「仕方ないよ。落ち着くまでは」
まったく意味の分からないことばかり言う奴だなと、俺は寝そべりゲームに没頭していたんだ。
「ケンちゃん、来年にはお父さんになるんだから、もうそろそろ仕事して」
口をタオルで拭いながら、倫子は今までに見せたどんな笑顔よりも眩しいもので、そう告げた。
まじ?
持っていた携帯を落としそうになる俺を見て、倫子はまた微笑む。
冗談じゃないと思った。
「無理」
咄嗟に出た言葉だった。
「無理なんかじゃないよ。この子、私たちに会うためにここへやって来てくれたんだから」
「生活、出来ないだろう」
「だから、ケンちゃんも働いてね」
「無理だって」
「私、産むから。誰がなんて言ったって絶対産む。ケンちゃんが反対なら、私一人で産むから」
倫子が俺に歯向かったのは初めてだった。
どんどん膨らんで行く腹を見るのが辛くて、俺はふらふらと遊び歩く日々が続いた。
金が尽きアパートに帰ると、玄関で倫子が苦しんでいて、俺は焦る。
「ケンちゃん、タクシー呼んで」
「バカ。こういう時は救急車だろ」
「お産で救急車なんて呼んだら怒られちゃう」
「お産?」
すっとんきょな声を上げる俺の首に手を回し、倫子が微笑む。
「やっぱりケンちゃんは凄い。本当にいて欲しい時にはいつもそばにいてくれる」
買い被りの言葉に、俺は居心地の悪さに、うるせいやと悪たれを吐く。
お産は、時間がだいぶかかった。
バタバタと人が出たり入ったりして、なんだか物々しい雰囲気がしていた。
人が一人生まれてくるのだから、こんな物だろうと思った俺は、携帯でゲームをして暇をつぶす。
電池が切れても、倫子は運び込まれた部屋から出てこなかった。
ドラマかなんかで見たことがある、赤ん坊の声が聞こえ、医師たちがおめでとうございますという奴もまだだ。
その内、バタバタと見知らぬやつらが廊下をかけてきた。
俺を見るなりに、「倫子は」と聞いてきた。
何だこのおっさんて、俺、思った。
「あの子は、大丈夫なんでしょうか」
お産ぐらいで涙ぐむって、アホかこいつらと思いながら、俺、何も答えなかった。
「あんたには言いたいこと、山ほどある。どうして、倫子はあんたみたいな男を、選んじまったんだ」
そんなこと、知ったことない。
あいつが勝手に俺に惚れて、付いて来ちまったんだ。
それでも、俺はあいつのために族を抜けた。半殺しになりながら、ここまで逃げて来たんだ。それだけでも褒めて欲しい。
筋違いに訝る俺に、倫子の母親はすがるように泣き出す。
「お願いです。あの子を、私たちに返してください」
このタイミングで、どうしてこんなことになってしまったのか、俺にはさっぱり分からなかった。
処置を終えた医者が、説明する言葉一つ一つが理解できないでいる俺に、するどい目線が向けられる。
なぜ、救急車を呼ばなかったんだと責められた。
何一つ聞かされていなかったんだ。ヤバい病気があいつの体をむしばんでたことも、後がないってことも、いつだってニコニコして、ガキが出て来る日を楽しみにしている姿しか、思い出せずにいた。
仕事だって、ぎりぎりまで頑張るって言っていたし、そんな仕草、一つも見せずにいたんだ。
廊下に出た俺は、倫子の親父に殴られる。
もう付きまとわないでくれと言われ、赤ん坊は自分たちが育てると、握り拳を震わせていた。




