第4章(その1)
すでにアルツィオラの北の門の内側の広場には、大勢の人や馬車がひしめき合っていて、騒々しいというよりも、何かワーンというような響きとなっている。あちこちで白い息が立ち上る。みな、日の出とともに北の門が開くのを待っている。
その中に、リュテカとソーナ婆さんの乗った荷馬車も混じっている。
アルツィオラには東西南北の四つの門がある。それぞれの門の内と外に広場があり、他の三つの門でも、今の時間は同様に、開門を待って人や馬車がひしめき合っている。日の出とともに開門するのも同様であり、日の入りとともに閉門するのもまた同様であった。
地平線に太陽がまばゆくその頭をのぞかせた瞬間に、門の上の見張り塔に立つ番人が合図の旗を振り、鉄の門がギリギリと引き上げられる。門の向こう側の広場にも、すでに大勢の、アルツィオラへの入市を待つ人や馬車がひしめいている。内側から見ると、アルツィオラから出て行く者は左を、入る者は右を通る。いずれにせよ、門の番人に通行証を見せなければならない。通行証は木札で、旅人の住む土地の領主、あるいは市当局が発行する。偽造すれば死罪だが、それでも偽造通行証を持つ旅人の数は多い。
「祖母と一緒に北東の××村に帰ります」
そう番人に告げてリュテカたちが北の門を出ることが出来たのは、開門からかれこれ二十分以上も経ってからだった。リュテカの通行証はその××村の領主の発行の、もちろん正規のものであった。軍の身分証もリュテカは持って来ているのだが、今回それは、万が一の時にのみ使うよう命じられている。
ソーナ婆さんは荷馬車の御者台の、リュテカの隣に座った瞬間から、編み物を始めている。毛糸玉は背後の荷台でクルクルダンスを踊っている。
…今から二時間ほど前、隣室のソーナ婆さんの部屋の扉をノックしようとしたら先に開いて、毛糸玉を三玉も抱えた婆さんが出て来た。
「お早うございます」
また耳が聞こえないフリをされるのではないかと警戒しながらリュテカは挨拶したが、婆さんは「お早う」と答え、さらに「よく眠れたかい」と声を掛けて来た。
「ええ」
リュテカは答えたが、それは嘘だった。陸軍最高司令本部の最上級の宿泊室の、ふかふかの羽毛布団のベッドだったが、ちっとも眠れなかった。
すると、婆さんがフフフ、と笑った。
「嘘だね。あんた、眠れなかったろう。あたしが魔女なものだから、何か魔法を使って、いなくなっちまうんじゃないかと、気が気じゃなかったんだろう。それと、突然任された仕事の重圧だね。一人になってベッドに入ったら、ことの重大さがひしひしと身に染みて感じられて来た。違うかい? 違うって口で言っても、あんたの顔にそう書いてあるよ」
リュテカは思わず手で自分の顔を撫でた。図星だった。まったく婆さんの言うとおりだった。
だが、それよりも、目の前を毛糸玉抱えてひょこひょこ歩きながら、こちらを見もせずにこともなげにそんなことを言う、この婆さんだ。ちゃんと耳が聞こえているばかりじゃない。今の喋り口調だ。昨日のちょっとモウロク気味の、いかにも田舎の年寄りといった口調とはまるで別人のような、しゃきっと明晰な口調…! もうこれだけでも、この婆さんが一筋縄ではいかないと、リュテカはひしひしと感じる。
リュテカはますます用心した。と言うより、怖気づいてしまった。うかつに口をきいてはいけない、と思った。だが、道中何も話さない、という訳にはいかない。どうしよう。どうやってこの婆さんと上手くやって行こうか。陸軍最高司令本部の門の脇にすでに用意されていた、一頭立ての荷馬車の御者台に座る時には、リュテカの頭の中はそのことでいっぱいになっていた。
「あらまあ。荷台には何にものっけてないんだねえ」婆さんが言った。「ついでに言うと、あたしものっけないつもりかい? あたしゃそれで一向に構わないけどね」
リュテカは自分だけ先に御者台に座ってしまっていたのだった。リュテカは慌てて、御者台から婆さんに手をさしのべた。
「それじゃ腕がすっぽ抜けちまうよ」婆さんが幼児のいやいやのように首を横に振る。「年寄りの骨はひどく脆いんだよ」
リュテカは慌てて手を引っ込めて、途方に暮れた顔になって、「どうしたらいいですか」と聞いた。
「自分で考えな」
婆さんの答えはにべもない。リュテカはちょっと考え、御者台を下りて、婆さんの前に跪いた。左膝を付き、右脚を立てた。その右脚を、御者台へのステップ代わりにしてもらおうと考えたのだ。まあ小柄な婆さんだから、大して重くはないだろうが、願わくば、あまり乱暴に脚の上に乗らないで欲しいな、とリュテカは思った。
婆さんはニンマリ笑った。婆さんの手がリュテカの肩にかかった。
次の瞬間、とん、と軽い衝撃が右脚に伝わった。リュテカが気がつくと、もう婆さんは御者台に座っていた。とん、ふわっ、といった感じであった。もちろん痛みなんかまったくない。
「さあ、行こうかね」婆さんは涼しい顔をして言った。「グズグズしてると、門を出る前に日が暮れちまうよ」
…荷馬車は無事アルツィオラの北の門を出て、北東地方へ向かう街道を、とろとろと進んでいる。今日中に、アルツィオラの北東約50キロの地点にある、ドゥヴァルという町に着かねばならない。そこで、ダコスタ要塞へ向かう補給部隊と合流するのだ。ただし補給部隊はリュテカたちが合流しようがしまいが、明日の早朝にはドゥヴァルを出発する。もしそこで合流出来ないと、今度はどこで合流できるか分からず、そうなればリュテカは、ずっとこのソーナ婆さんとの二人旅を続けねばならない。
ちなみにリュテカは、真っ白な真新しいマントを着ている。軍服のマントと違ってレースの縁取りが付いているそれは、まったくリュテカの好みでない上に、いかにもくたびれた田舎の老婆といったソーナ婆さんの服装ともそぐわず、ちぐはぐであった。だが軍が用意してくれたのがこの服なのだから、これを着るしかない。
北の門を出てからというもの、リュテカと婆さんは何も喋っていない。婆さんはずっと編み物をし続けている。リュテカは婆さんに対して怖気づいたままだ。何をどう喋っていいのかわからない。しかし、喋らないでいるとますます気詰まりだ。
婆さんは涼しい顔をして黙々と編み物を続けている。
それを横目で見ていたリュテカは、ふと気付いたことがあって、ようやく口を利くきっかけを得た。アルツィオラを出発して、かれこれ三時間が経とうとしていた。
「あの、それ、何を編んでるんですか?」
リュテカは聞いた。また耳が聞こえないフリをするのかと、恐る恐る婆さんの様子を窺っていた。
だが、婆さんは答えてくれた。ただしリュテカの方は見ない。
「孫にセーターを編んでやってるんだよ」
「昨日と、編んでる物が違いますよね」リュテカは気付いたことを出来るだけ何気なく言った。「もう前のは出来あがったんですか?」
婆さんがハタと編み物する手を止めた。
リュテカは焦った。何かマズいことを言ったかしら…?
「さすが女の子だね」婆さんはチラリとリュテカを見上げた。「細かい所によく気がついたね。それとも、軍人さんだからなのかね。どうあれ、気に入った。合格だよ」