第3章
さて、さらに同じ日の、日付もそろそろ変わる位に夜遅くなってからのこと。
陸軍最高司令本部に馬で乗り付けてきた男がいる。全身黒ずくめのその男は、制止しようとする衛兵を尻目に門を駆け抜けていった。その衛兵を、別の衛兵が制止して言った。
「あれが有名な『黒い狼』だ」
黒ずくめの男は最高司令本部の入口前でひらりと馬から下りると、ここでも衛兵たちには目もくれず、受付にも寄らずズカズカと中に入り、まったく息も乱さずに一気に階段を駆け上がって行った。やがて男は、最高司令長官室の重々しい黒檀の扉の前に立った。
「長官は中にいるか?」
男が扉脇の衛兵に聞くと、衛兵は敬礼して、「閣下は先程から少佐殿をお待ちであります」と答えた。
男はドアノブに手を掛けて回そうとして、ふと思い直し、小馬鹿にしたような、形だけの敬礼をして、言った。
「ギル・ヴァン・ドラン少佐、出頭致しました」
「入りたまえ」
間髪入れず中からかん高い声がした。男は重々しい扉を押し開いて、中に入る。
正面の執務机にゴルディアクが肘をついて両手を組み、その上に顎を載せて、ジッと入室者の方を見ていた。ヴァン・ドラン少佐は、先程よりは幾分マシだが、やはりどこか小馬鹿にしたような敬礼をした。
扉の右の鏡に映し出されたヴァン・ドラン少佐は齢の頃は三十半ば位であろうか。眼光が鋭いだけでなく、顔の造作全体が鋭い感じであり、まさに「狼」を連想させる。服装は軍服ではなく、全身黒のマントに覆われている。服ばかりでなく、髪も瞳の色も、全部黒なのであった。
ヴァン・ドランは「直れ」と言われないのに勝手に敬礼を解いたが、ゴルディアクは何も言わない。ヴァン・ドランはニコリともせず言った。
「お久しぶりです」
「元気そうだな」
「閣下はお顔の色が冴えないようですな」
「ああ」ゴルディアクもニコリともせず答えてゆく。「先程ちょっとあってな」
ヴァン・ドランは座れとも言われないのに、ゴルディアクと正面に向き合う位置のソファに座った。それは、数時間前にソーナ婆さんが座っていたのと同じ所だった。ゴルディアクはやはり何も言わず、机の上の箱からタバコを取り出しかけて、「ああ、君はタバコはやらんのだったな」と言って手を引っ込めた。
「さて、少佐。今の仕事はどうかね。満足しとるかね」
「満足ですか」ヴァン・ドランはフッと笑った。「自分で望んで就いている職務ですからな。満足してないと言ってはいけませんな」
「君がやたらと上官をぶん殴らなければ、今頃は師団長ぐらいやっていて当然だがな」ゴルディアクは小さく溜息をついた。「君は軍人としてはおおむね極めて有能だが、一つだけ軍人としての重大な資質に欠けとるな。それは、集団が苦手ということだ」
「集団が苦手なんじゃありません」ヴァン・ドランは薄く笑った。「無能なバカが嫌いなだけです」
「君が中隊長をやっていた時、大隊長を殴って士官学校の教員に左遷されたのはいつだったかね」ゴルディアクは少し話に脂が乗り始めていた。「その士官学校で校長を殴ったのはかれこれ五年前になるかね。前の件といい、本来銃殺になりかねないのを、庇うのは大変だったぞ。君もそろそろ身を固めたらどうだ。そうすれば、君ももっと落ち着くだろう。君、幾つになった?」
「軍法会議の時はお世話になりました。感謝してます」ヴァン・ドランはぶっきらぼうに頭をちょっと下げた。「そんなことより、ご用件は何ですか」
ゴルディアクは気を取り直すために一つ咳払いをした。これがこのヴァン・ドランという男の性分だと承知しているのだが、やはりちょっと腹が立つ。
「では、単刀直入に言おう。君にある警護をしてもらいたいのだ。まあ、君のいつもながらの仕事、「裏からの警護」という奴だが」ゴルディアクはそこで少し言葉を切って、ヴァン・ドランの様子を窺った。「勿体ぶってもしょうがない。君に護ってもらいたいのは、リュテカなのだ」
ヴァン・ドランは怪訝な顔をしている。
「リュテカ? 誰ですか、それは」
「若いのにもう健忘症かね」ゴルディアクは呆れて言った。「リュテカだよ、リュテカ・モン=ヘルベール。モン=ヘルベールの娘で、士官学校時代の君の教え子だ」
「ああ」ヴァン・ドランは膝を打った。「あの「ブロンドたぬき」ですか。あいつ、どうしていますか?軍人なんてやめて、大人しく嫁に行きましたか」
「君がそんな風に呼ぶものだから」ゴルディアクはジロリとヴァン・ドランを睨んで言った。「可哀そうに、あの子はその…」
「ブロンドたぬき」
「そう。自分はそれだと思い込んでいる。まったく、若い女性に言うセリフとは思えんな。それともう一つ、残念ながら彼女はまだ軍人で、現在は中尉だ」
「へえっ」ヴァン・ドランは大げさに驚いてみせた。「あいつが中尉ですか。…もはや我がモンティバル陸軍も、壊滅の日が近いようですな」
と、ふとヴァン・ドランは真顔になった。
「待って下さい。今、警護する相手がそのリュテカだと言いましたね」
「ああ、そうだ」
「お断りします」間髪入れずヴァン・ドランは言った。「甘ったれたガキのお守りはもうコリゴリです」
「まあそう言うだろうと思った」ゴルディアクは鼻先でフン、と笑った。「そう結論を急がず、終わりまで聞きたまえ。最後まで聞けば、気が変わるかも知れん」
ヴァン・ドランは腕組みをして、目をつむっている。居眠りしているようにも見えるが、ゴルディアクは構わず話し出す。
「もちろん、ただリュテカを警護しろと言っているんじゃない。リュテカは今回、重大な任務を負っている。こう言った方が正しいかな。リュテカの負った重大な任務を警護しろ、とな」
「あいつにそんな重大な任務を任せて大丈夫なんですか?」
目をつむって腕組みしたまま、ヴァン・ドランが言った。
「大丈夫じゃないから君に警護してくれと言っとるんだよ」ゴルディアクは少々苛立った。「だからそのくらい重要な任務なんだ」
ヴァン・ドランが目を開いた。ゴルディアクは気を取り直すため一つ咳払いをする。
「ダコスタ峠の要塞へ、ある秘密兵器を運ぶ」神託でも述べるかのような厳かな口調になって、ゴルディアクは言う。「その秘密兵器とは、魔法使いの婆さんなんだ」
ヴァン・ドランは再び目を閉じて首を傾げ、耳の穴に指を突っ込んでかっぽじった。
「今何と?」ヴァン・ドランは首を傾げたまま聞く。「俺の耳が悪いのかな」
「いいや」ゴルディアクは努めて冷静に言う。「今君の座っているそこに、数時間前はその婆さんが座って編み物をしとったよ」
「魔女の婆さんに頼らなきゃならんとは」ヴァン・ドランは深い溜息とともに大きく肩をすくめて見せた。「本当にもうモンティバル陸軍は終いですな」
「ただの婆さんじゃないぞ」ゴルディアクは再び肘を机の上について両手を組み、その上に顎を載せる。「君は当然、『ラクリ・ヴェステの七人の魔女』事件を知っとるだろうな」
ヴァン・ドランの精悍な顔が呆気にとられてポカンとした。その位、この話の転換は突拍子もないものに聞こえたのだ。
「何ですか、突然…」ヴァン・ドランは怪訝な顔つきで尋ねる。「歴史の授業ですか」
「知っとるかどうか聞いとるのだ」
「そりゃもちろん…」ヴァン・ドランは訝しげな表情のまま答える。「数十年前、リスビア王国で起きた、啓蒙主義運動の極端な一例を示す事件ですね。当時のリスビアの君主でかつ啓蒙君主として名高い、エルフリート大王の若かりし頃の事件です。…リスビアの首都リプシアの近郊にラクリ・ヴェステという人工都市を作り、そこに人を住まわせ、男女を問わず最高度の教育を施し、かつアウレア魔術大学出身の七人の魔女によって心理統制をおこない、闘争心、虚栄心、性欲、食欲、金銭欲といったものを極力抑制させ、平和的な理想社会を実現しようとした。しかし、結果は失敗した。…でしたね」
「なぜ失敗したんだっけな」
「細かいことは俺も詳しくは知りませんが」そう前置きしてからヴァン・ドランは答える。「確か大きな理由は二つ…いや三つか。内部的には、そうやって道徳的、宗教的に否定的に捉えられる心理や欲望を統制した結果、ラクリ・ヴェステの住人たちはまったく活動的でなくなってしまった。いわば、動物園の檻の中でひねもす昼寝している猛獣のようになってしまった。それが一つ目の理由。外部的には、若きエルフリート大王と、その魔女たちのリーダーとの間に恋愛スキャンダルが噂され、それが世の指弾を受け、ラクリ・ヴェステのプロジェクトが中止に追い込まれた。これが第二の理由。もう一つの理由が、その大王とリーダーの恋愛スキャンダルがらみで、七人の魔女の間に分裂が起きたこと。…そんな所でしたな」
「まあ、そういうことだ」
「何で突然そんな話を…」言いかけてヴァン・ドランの目が大きく見開かれた。「…まさか」
「そう。そのまさかだ」ゴルディアクはしてやったりといった笑みを浮かべる。「その魔女たちのリーダーはソーナリータ・フロンプシオンという名だった。ラクリ・ヴェステのプロジェクトが華々しく全大陸に喧伝されていた時には、彼女はまさに全大陸のアイドルであったと言って良い。何しろ知的聡明な顔立ちの美人だったからな。肖像画やホログラムが飛ぶように売れたものだ。エルフリート大王とのロマンスが噂されたとしても、無理はない。もっとも、いくら啓蒙君主でも、国王と魔女が結婚する訳にはいかんが。まあ、どうあれその計画は失敗に終わり、以後大王は一転して反動的な軍事国家へとリスビアを変えて行った。七人の魔女の行方はわからなくなった。裁判になる前に、さっさと高飛びしてしまったのだな」
「噂ではもっぱら新大陸へ逃亡したとのことでしたが」ヴァン・ドランは珍しくやや興奮気味の様子だった。「…モンティバルにいたんですか」
「こんな情報、とっくに君の耳に入っとると思っとったが」
皮肉っぽくゴルディアクが言うと、「ちょっと東方に行ってて一昨日戻って来たばかりなんですよ」とヴァン・ドランは肩をすくめる。
「ふん」ゴルディアクは知らぬ者に初めて新情報を伝える優越を感じつつ、表情はあくまで仏頂面で続ける。「ここから南東の山ん中にシェーネル湖という小さな湖を中心にした辺境がある。ソーナリータ・フロンプシオンはソーナ・アルヴォラータと名を変えてそこで暮らし、結婚もして今じゃ孫が大勢いる好々爺ならぬ好々婆になっている。…好々婆というのはいささか保留しなきゃならんかもだな。婆さんは周囲に結界を張り巡らせていたので、これまで全く気付かれなかった。あと、そこの領主、シェーネル辺境伯が婆さんを匿ってもいた。リスビアから亡命後、各地を転々としたソーナリータを辺境伯が自分の領地内に受け入れ、そしてずっと国には黙っていたのだ。しかしまあ、婆さんも言っとったが、昨今は高速馬車やら竜に乗っての移動が当たり前になって来て、いくら隠しても隠し切れなくなってしまった。まあ結果的には、その存在が我々に知られてしまったという訳だ」
ヴァン・ドランは腕組みしたまま、ソファに深々と腰かけて、天井を睨んでいる。
「確かにそれは重大な任務だ」そこでハタとヴァン・ドランは何かを思い出して、ゴルディアクを見て尋ねた。「そのことをリュテカは知ってるんですか? リュテカは確か、エルフリート大王の大ファンでしたね。部屋に肖像画を飾っているとか」
「ああ、そうだ。何せリュテカが軍事工学を専攻したのは、エルフリート大王が軍事工学や築城学に極めて造詣が深かったから、というのが理由だった程だ」ゴルディアクは溜息をついた。「だから当然、そんなことはまったく教えておらん。もしそんなことを知ったら、多分仕事にならんだろうからな。いろいろな意味で」
ゴルディアクとヴァン・ドランはしばし黙り込んで、お互いの顔を見つめ合う。
「で…」ヴァン・ドランが口を開く。「出発はいつです?」
「明朝、アルツィオラの北の門の開門と同時だ」ゴルディアクはヴァン・ドランの顔をなおも見つめている。「もう一つ、リュテカには伝えていないことがある。その婆さんの大勢いる孫の一人が、所在不明になっている。齢の頃はほぼリュテカと同じ位らしいが、その孫が婆さんの奪還を狙っているかも知れん。当然孫も魔法使いだから、気をつけねばならん。シルヴァルド側の攻撃も気をつけねばならん。見た目の呑気さに比べて、実際はかなり危険な任務だ」
「そんな危険な任務を、実の娘同様のリュテカに任せるんですか」
「だからだよ」ゴルディアクは複雑な笑みとともに言った。「だからリュテカに任せるんだ。万が一、リュテカに何かあっても、悲しむのは私と妻だけで済む」