第2章(その2)
男は立ち止まり、またしばし、その丸眼鏡の奥のエメラルドグリーンの瞳で女を凝視した。
「僕はここから離れる訳にはいかないんだ」
男は言った。男の声は思ったより若々しく、何より、訛りがない。見栄えが垢抜けないだけで、ここアルツィオラの住人なのかもしれない。もっとも、アルツィオラに魔法使いが住むには市当局の許可が必要だし、居住地区と行動範囲の制限もある。そもそも、こんな風に魔法使いが国の最高機関の一つである陸軍最高司令本部の前をウロウロするのは法に触れる。それはその魔法使いがアルツィオラの住人であろうと地方在住者であろうと、同じことだ。
突然男は「アッ」と叫んで、往来の真ん中へ向かって駆け出した。道行く人々や馬車が慌てて止まり、「危ねえな」とか「邪魔だ」とかの怒号が飛ぶ。男はそんな声の一切が耳に入らぬ風で、往来の真ん中に屈み込んだ。一旦は遮られた人の流れは、たちまち男を呑み込むように再開し、その合い間から見えるだけなので、女には男が何をしているのかよくわからなかったが、少なくとも路上にそんな大事な何かが落ちていたようには見えなかった。
やがて男は立ち上がると、もはや陸軍最高司令本部にも、ましてや件の女なんぞにもまったく目をくれず、歓楽街の方へ向って歩き出した。どことなく、男の顔が晴れやかになったように女の目には見えた。女は往来を行く人の間をかき分けて、その後を追う。たった今男が屈み込んでいた辺りをチラリと横目で見やったが、やはりそこには何もなく、往来の石畳があるばかりであった。その女の胸元は、豊満な乳房の重みよりさらにほんの少し重くなっていた。
しばらくの後、男は歓楽街の真っ只中を歩いていた。
旅館の看板があるたびに足を止めては、少し考えて、また歩き出す。女もその度立ち止まる。
やがて、とある旅館兼居酒屋の前で足を止めた男は、しばし考え、そこへと入っていった。その表には『快楽の起源亭』という派手な原色のネオンサインがギラギラ輝いていて、その扉にはミミズののたくったような字で書かれた「空室あり」の看板が下がっていた。女も当然、その後を追ってそこに入る。
この一帯の旅館はほとんどすべて、居酒屋を兼ねていた。『快楽の起源亭』もその例に漏れず、一階は居酒屋で、すでにもう客でごった返していた。居酒屋のカウンターは旅館のフロントを兼ねており、カウンターの奥でシェイカーを振っている禿頭で小太りのオヤジがこの『快楽の起源亭』の主人なのであった。壁にはダーツの的がいくつも掛かっていて、それぞれ酔客がゲームに興じている。
ここでまた余談なのだが、この『快楽の起源亭』に限らず、この一帯のどの旅館兼居酒屋も、みなギラギラと原色の派手なネオンサインの看板を出しているのだが、これはみなすべて自前の発電によるもので、その電源はそれぞれの店が個別に飼っているデンキウナギであった。このネオンサインもまた、アルツィオラの名物の一つなのだったが、同時に、年に何件かは、デンキウナギの水槽に落ちて感電死する奴も出るのだった。
男は『快楽の起源亭』の中に足を踏み入れて一瞬茫然と立ちすくんでいたが、やがて、禿頭のオヤジがここのあるじだと見定めたのか、まっすぐそちらへ向かった。
「泊まりたいんですが」
「何だって」禿頭のあるじは大声で聞き返す。「大きな声で言わなきゃ、聞こえないよ」
男は大声で繰り返した。あるじはジロリと男を見て、無愛想に言う。
「女はいないのか」
「いませんよ」
男はいささかムッとして答えた。
「素泊まりか」
「ええ。一泊です」
「一部屋だけなら空いている。10カラン」
「10カラン…」男は絶句した。「それは高い」
「文句があるならよそへ行きな」あるじはシェーカーからグラスに飲み物を注ぎながら言う。「ただしうちは女同伴でも10カランだぜ。よそは女同伴なら割増だぜ。それに比べりゃずっと良心的だ。ま、いいさ。選ぶのは、おまえさんだ」
「…じゃ、その部屋をお願いします」
「そうかい」あるじは右手を差し出した。「なら先払いだ」
男はムスッと不機嫌顔で、でも仕方なく、懐に手を入れた。とたんに、男の顔が蒼ざめた。男は懐の奥まで手を突っ込んで探り、他のポケットにも次々手を突っ込んだ。その様子を呆れと同情半々といった表情であるじは見ていたが、
「悪いが金がなきゃ泊められない。とっとと出て行きな」
と非情に言うのであった。男はそれでもしばらくの間、薄汚いマントのあちこちを探っていたが、ふと気配に気づいて顔を上げた。次の瞬間、男は驚愕の表情とともにのけぞった。男の立つすぐ脇にダーツの的があるのだが、そのど真ん中にタン!とダーツの矢が刺さった。男は驚愕の表情のまま、その飛んできた方を見た。
壁際のカウンターの席にいる赤毛の派手な女が、ニコニコ笑いながら、男に向かって何か振っている。女が手にしているのは男の財布だった。
男は一瞬口あんぐりとなり、ついで、顔を紅潮させ、狭い店内にごった返す人をかき分けて、女の方に行った。女の前に来ると、右手をグイ、と差し出し、怒気も露わに言う。
「返せ」
「あたし、今夜泊まる所がないんだよ」
涼しい顔をして女は言った。男は女から財布をひったくろうと手を伸ばしたが、女は一瞬早く自分の胸元にスッと財布を突っ込んでしまった。男は怒りに震えた小声で言う。
「け、警察を呼ぶぞ」
「どうぞ」女はフフンと鼻でせせら笑う。「出来るもんなら、やってごらんなさい。さっき見たこと、包み隠さず警察に喋ってあげるから」
男はグッと黙り込んでしまい、エメラルドグリーンの瞳で女を睨みつける。一方…。
(あら、この子前髪ボサボサで丸眼鏡でまるでダサいけど、よく見りゃ顔つきは結構男前じゃない)
などと、女は男に睨みつけられながら思っていた。
「…何が望みだ」
男はようやく、振り絞るように言った。
「だから言ったじゃない」女は胸元からタバコを取り出し、壁でマッチを擦る。「あたし、今夜泊まる所がないの」
「今夜、この旅館は一部屋しか空いてないそうだ」
「そりゃ、おあつらえ向きだわね」
女はタバコの煙をプカー、と天井に向かって吐き出す。男は女を睨み据えたまま、何か考えているようだったが、やがて、不承不承といった様子で大溜息をつきながら、
「じゃ、仕方がない。…一緒にあっちに来て下さい」
と言って、カウンターのあるじの方を指さした。
「男同伴ね。10カラン」あるじは女から金を受け取りながら、ニコリともせずに男に言う。「な、良心的だろ。じゃ、これが部屋の鍵。くれぐれも火を出すなよ」
部屋へと上がる階段を男と女が上がりかけると、すでに酔っぱらっている客の何人かが「ヒューヒュー」と口笛を吹く。こういった所では毎晩どこでも見られるありきたりな光景だが、男は顔を真っ赤にしてうつむいている。女はと言えば、その酔客たちに対して投げキッスを返して「ワッ」と歓声が上がる。男はますます顔を赤らめ、そそくさと階段を上ってゆく。
「そう言えば、お互い名乗っていなかったね」部屋の前まで来て、女は言った。「あたしはビリーア。ビリーア・レカブルノ。あんたは?」
露骨にイヤそうないろを、そのエメラルドグリーンの瞳に浮かべつつ、男は渋々名乗った。
「エルコ。エルコ・イル=ディジャーン」そして一息置いて言った。「いい加減財布返して下さい」