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第2章(その1)

 さて、同じ頃、陸軍最高司令本部の外では…。

 すでに太陽が西に傾いて、午後から夕刻へと、移り変わろうとしている。

 陸軍最高司令本部の石造りの厳めしい建物と、その隣に広大な敷地を有する陸軍アルツィオラ駐屯地は、それぞれの門前と各要所に衛兵が立って厳しいまなざしを外側に向けており、たいへんものものしい雰囲気なのだが、大通りをはさんだその向かい側は、ガラリと様相が異なっている。

 なぜかそこは、アルツィオラ最大の歓楽街が広がっていて、数多くの居酒屋、旅館、そして娼館がひしめき合って立っている。こういう場所の例に漏れず、ここもまた、朝から昼にかけてはいたって静かなのだが、午後も遅くになってくると、だんだんと賑わってくる。今がちょうど、その時刻であった。

 そして、この時刻になると、これはアルツィオラの一名物と化している光景なのだが、陸軍最高司令本部とアルツィオラ駐屯地のそれぞれの門前に、女たちがずらーっと人待ち顔で立ち並ぶのだ。この女たちはみな目の前の歓楽街の女たちであり、勤務を終えて出て来る兵士たちを待つ客引きなのであった。女たちの多くは酒場へと客を誘っているのだが、中には直接娼館へと誘っている女たちもいる。

 今日もまた、陽が西へ傾き始めると、女たちが三三五五、ものものしく衛兵が警備する門前へ、集まって来ている。

 その中に、真新しい青のドレスに身を包み、髪を赤く染めた、厚化粧の女が一人いる。ドレスと言っても淑女の着るそれではなく、胸元がパックリ開いて豊満な乳房をのぞかせ、腰のラインをくっきり強調したものだ。紅くべっとりと塗った唇の下には艶ぼくろが一つ。要するに、典型的な歓楽街の女で、その姿自体は派手なのだが、同じ場所にあまたいる似た身なりの女たちの中にあっては、かえって目立たない。だがそれは、女にとって好都合であった。

 のっけからバラしてしまうと、女は敵方シルヴァルド軍のスパイであって、指令を受けてここでこうして陸軍最高司令本部の入り口を見張っているのだった。ただその指令というのが、「モンティバル軍が何かとてつもない兵器を手に入れ、近々それをダコスタ峠の要塞に配備するらしい。それを探れ」という、雲をつかむような内容なのであった。それでまあとりあえず、そういう時の常として、歓楽街の女に身をやつして、ここ陸軍最高司令本部の真ん前に、やって来たという訳なのだった。

 余談ながらここで説明しておこう。

 気が付いてる人もいるとは思うが、先程から話に出ている「シルヴァルド軍」という言葉のシルヴァルドとは、国の名前ではなく、モンティバルの隣国エランドリアをはじめとする大陸諸国を征服し、かつ統合しつつある男の名前であり、それら諸国連合の上に「皇帝」として君臨する独裁者の名だ。現在大陸においてシルヴァルドの征服下にないのは数カ国に過ぎず、モンティバル王国もその一つであった。

 モンティバルがシルヴァルドの征服を逃れ得ているのは東の国境線上に壁のように屹立している、平均5000メートルを超えるコルデス山脈があるが故であった。ダコスタ峠はその中では唯一標高が低く、モンティバルに入るにはそこを越えるか、海路を行くしかないのだが、そのダコスタ峠であっても標高は2500メートルを超えるのだ。ちなみに、コルデス山脈の両端は4000メートル級の山からいきなり海へ落ち込んでいるという、奇観を形成しており、そこを通る道はいずれも狭隘過ぎて大軍が移動するにはまったく適していない。海は大陸最強を誇るモンティバル海軍が護っており、さすがのシルヴァルドもこれには太刀打ち出来ないとみて、陸軍でもってダコスタ峠から攻め入ろうとした。しかしそれもモン=ヘルベール将軍の英雄的な指揮によって撃退された。のちに再び攻撃を仕掛けたが、またもダコスタ峠で足止めを食い、以来三年、現在に至っている。

 余談はこれまでにして、青いドレスの女に戻ろう。

 悪目立ちする、と言うほどではないのだが、他の気だるそうに立っている女たちに比べて、その女の雰囲気にどこか緊張感があるのは否めない。しかしそれもまあ、真新しいドレスといい、やや気合の入った化粧といい、きっと新入りなんだろう…と周りは勝手に思ってくれるだろうと、女は永年の経験から思っている。何せこの場所に立つ女たちは一晩で入れ替わり立ち替わり、のべ軽く千人を超えるのだし、年間だったら何十万という数になる。お互いいちいち顔なんか覚えちゃいないのだ。実際、女はもう何度も、いかにも慣れぬ新入りといった顔つきで、この場に立った。そしてまあ…実際引っかけた客とともに歓楽街へしけこんだことも一度や二度ではない。女はちょっと鼻がとがって、茶色の大きな目を持っていて、それがやや猛禽を思わせるのだが、まあ美人の部類に入る顔をしていたから、男に声を掛けられる率も高いのだった。

 さて、とは言うものの、最高司令本部はいつものとおりで、格別の動きはないように見える。すでに衛兵が両脇を警備する門からは、勤めを終えた士官が出て来て、すると女たちがたちどころにすり寄って行っては、これまたたちどころに交渉が成立して、ようやく派手派手しい灯のともり始めた歓楽街へと消えて行っている。いつもの平和なのどかな風景であった。

 しかし、女の猛禽を思わせる目は、さっきからある一点に向けられている。

 そのまなざしの先に、一人の男がいる。

 男はさっきから陸軍最高司令本部の門前を、右へ行き、左へ行き、時折立ち止まって高い壁の向こうを見上げたりしながら、ウロウロウロウロしている。若い男のようだが、髪はボサボサ、丸眼鏡を掛け、茶色の薄汚れたマントに身を包んだ、いかにもお上りさん風な、垢抜けない風体をしている。喋るときっと、地方の訛りがきついに違いない。

 そのウロウロっぷリも、ほんの短時間なら、田舎者が物見遊山しているだけのこととして、さして誰も気にしなかっただろう。あるいは、あまたいる派手派手しい盛り場の女たちに声を掛けようとして、ためらっているようにも見えるだろう。そんな光景、ここでは日常茶飯事だ。しかし、そのウロウロがかれこれ三十分以上も続くとなると、これはもう挙動不審だ。男は女たちにはまるで興味がない様子で、最高司令本部の方ばかり見ている。女たちに声を掛けられてもまるで聞こえぬ様子であり、腕を引っ張られたりするとギョッとしたように慌ててそこから離れて、またウロウロウロウロ、最高司令本部の方ばかり見ている。

(ああ、いけない)女は心の中で舌打ちする。(衛兵たちも、不審に思い始めた)

 門の警備に立つ衛兵が、男の方を窺いながら、詰所の中の兵と何やらごにょごにょ話している。やがて、二人の兵が門から出て来て、男の方に向かった。

 男はと言えば、そんなことにはとんと気づかぬ様子で、相変わらず高い壁の向こうを背伸びして見上げながら、首を横に振って、またウロウロし始めるのだった。いきなり、二人の兵に囲まれ、男はビックリ仰天している。何やら押し問答しているが…と言うより、兵たちに誰何され、男はすっかり震え上がってしどろもどろになっているようだ。

 他の女たちがこの様子に興味を持っている様子はない。気だるそうに立つ女たちは、もはやこのいかにも金のなさそうな、垢抜けない田舎の若者などにはまったく関心がない。もちろんそいつがどうなろうと知ったこっちゃない。女たちの関心は門から出て来る兵士、それも金を持っていそうな出来るだけ上の階級の将校にあるのだ。それに目の前の往来はひっきりなしに人や馬車が行き来しているから、その喧噪の中に、兵士たちに囲まれてまごついている若者の姿なんぞかき消されがちで、この女のようによくよく注意して見ているのでなければ、見過ごしてしまうだろう。

 女は不意にその場を離れた。と言うのも、件の男が、二人の兵士に連行されていったからだ。その後を、女は付いて行く。

 別に、確信がある訳ではない。だが女には、何となくピンと来るものがあった。自分がスパイになって何年になるのか、女は忘れてしまったが、この勘が外れたことはなかった。それが自分に与えられた指令と関係があるのかは分からないが、「何かある」とこの女に思わせるものが、あるのだ。

 兵士二人とその間に挟まれた男は、最高指令本部の門ではなく、指令本部と隣の駐屯地との間に入って行った。そこには、双方の高い壁に挟まれた、細いまったく人気のない路地があって、通称「訊問横丁」と呼ばれている。この先に陸軍最高司令本部の裏口があって、不審者はそこから中に連れ込まれて訊問されるためにこの呼び名がある。大したことなければすぐ釈放されるが、そうでなければ、入ったが最後、二度とシャバには戻って来れないことも珍しくない。

 女はその「訊問横丁」の入口脇の壁にピタッと身を寄せて、奥の様子を窺う。こんな姿も、長々やっていればあの男同様不審者と思われてしまう。女は胸元からタバコを出して、マッチを壁で擦って火を点ける。いかにも火を点けるために風をよけるのでこうしているのだ、という恰好をするためだ。

 突然、路地の奥で男が「アッ」と言って立ち止った。何事かと驚く兵士たちの顔の前で、男はパン!と手を叩いた。そしていきなりクルリと踵を返すと、全速力でこちらに駆け出して来る。兵士たちはその場に突っ立ったままだ。あまりの急な展開に女も仰天して、思わず火を点けたままのタバコを投げ捨てた。「訊問横丁」から駈け出して来た男を避けるのが精一杯だった。

 ところが、である。

 当然そのままこの場から逃走するであろうと思われたその若い男、あろうことかまたもや陸軍最高司令本部の方を見上げて、ウロウロし始めたのだ。「訊問横丁」の奥ではまだ二人の兵士が凝固したように突っ立ったままでいる。

 チッ。女は自分のことでもないのに舌打ちした。お節介だが、言わずにいられない。それが、この女の性分なのだ。女は男に近付き、背後からその背をポン、と叩く。ギョッとして男が振り向く。

「あんた、いつまでもウロウロしていると、また捕まるよ」

 男は、丸眼鏡の奥の目を大きく見開いて、女を凝視していたが、やがて

「放っといてくれ」

 と呟くと、再び最高司令本部の方を見上げつつ、足早に女から離れる。男の瞳が深みのあるエメラルドグリーンなのが女の印象に強く残ったが、それはともかく、女はしつこく男の後を追う。男はそれに気づいてギョッとしてまた離れようとする。女はさらに男に近付くと、身体をすり寄せるようにして、その耳元に囁いた。

「あんた、魔法使いなんだろ? 今そこで見ちゃったんだよ」

 

 

 

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