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第12章(その3)

 要塞の中庭にたむろしていた兵たちが退けられ、何かが大急ぎで組み立て始めた。

 それは、絞首台であった。

「少しでも苦しんで死ぬように」

 というチャドランの希望で、ヴァン・ドランの処刑は絞首で行われることになったのだ。

「斬首や銃殺は一瞬で死ぬから苦しくない。火あぶりは臭い」

 だから絞首刑なのだそうだ。

 そのチャドランは、金モールや勲章のいっぱい付いた、モンティバル陸軍軍人の正装をしている。絞首台の正面にしつらえられた席に陣取り、晴れやかな、心から楽しそうな顔をして、ショウの開幕を、今か今かと待ちかまえている。

 そして絞首台が、完成した。兵たちの慣れた、手際のよい仕事っぷリだ。

 ヴァン・ドランが、両脇を兵たちに抱えられて、よろめきつつ、絞首台の上に引き出されて来た。チャドラン一人が、ご満悦の表情で、拍手を送っている。



「少佐が処刑されるよ!」

 そう叫びながらビリーアがリュテカの独房に駆け込んで来た時、そのリュテカとソーナ婆さんは、婆さんの魔法によって、部屋から消えようとする直前だった。二人の姿は、薄くなりかけていた。

「何だい、タイミング悪いねえ」婆さんは消えかけた姿を戻してブツブツ言った。「あんまり生身をほっとくと、腐り始めちまうんだよ。用があるなら早くしとくれ」

「だから、少佐が…」

 ビリーアが言いかけると、

「わかってる」リュテカは言った。「窓から見た。ソーナさんに手伝ってもらって、彼を助ける」

「あたしも手伝うよ!」

 ビリーアは言ったが、その時にはもう、リュテカと婆さんの姿は独房から消えていた。

 ビリーアは窓から中庭を見た。

 絞首台の下に立たされたヴァン・ドランの首に、縄が巻かれるところであった。ビリーアは胸元を探りつつ、ジッとその光景を見つめる。

 が、次の瞬間、ビリーアはサッと踵を返して、独房から駆け出していた。

 表の通路に出て、階段を下ると、そこは露天の回廊になっていた。そこからも、中庭はよく見える。ビリーアは再び胸元を探って、ナイフを取り出した。それは、軍用の太いナイフであった。今着ているシルヴァルド軍の軍服と一緒に、拳銃とともに与えられたものであった。

 ビリーアは通路の上で狙いを定め、手にはナイフを持って、構えた。

 狙いの先では、首に縄を巻かれたヴァン・ドランが絞首台の真下に立たされ、足の下の踏み台が、執行役の兵によって、蹴飛ばされたところだった。その瞬間、ビリーアは狙いに向かって、ナイフを投げていた。そして、その結果を見届けると、ビリーアは次の目的…エルコの独房に向かって、駆け出していた。



 絞首台にヴァン・ドランがぶらん、と吊り下がったとたんであった。

 突如縄が切れて、ヴァン・ドランがドサリと下に落ちた。そしてそのヴァン・ドランの前に、これまた突如、ポン! とリュテカとソーナ婆さんが、姿を現したのだった。

「な、何だ…?」

 最前列のチャドランが、唖然として呟いた。

 居並ぶ兵たちもどよめき、そして絞首台に向けて次々と銃を構える。

「騒ぐんじゃないよ!」

 婆さんが一喝する。兵たちは発砲しようとするが、カチカチと言うばかりで弾が出ない。

「何をしている!」チャドランが兵たちを怒鳴りつける。「早く撃たんか!」

「あんまりカチカチやると、暴発するよ」婆さんがニヤリと笑って言う。「全員の銃を、弾づまりにしているだけだからねえ」

 すると、バン! バン! とあちこちで爆発音が響き、「ギャアッ」「ヒイイッ」という叫びとともに、兵たちが次々に倒れた。婆さんの言ったとおり、銃が暴発したのだ。

「あんまりあたしを怒らせない方がいいよ」婆さんは言い放つ。「威張る訳じゃないが、あたし一人の力でこの要塞を破壊することなんて、お茶の子さいさいだよ」

「な、何を言っているのだ!」チャドランは怒鳴った。「確かに貴様が大変な魔法使いだとは聞き及んでいるが、大言壮語が過ぎる…」

 そのとたん、要塞の四方の塔の内の、北の塔の先端がいきなり爆発した。塔はガラガラと崩壊する。

「アアッ、何てことを!」チャドランが蒼ざめて叫ぶ。「あそこにも兵がいるのに、無益な人殺しを…」

「あっちをごらん」

 婆さんが指さす方を、チャドランも兵たちも、そしてリュテカも、一斉に見た。それは南の塔であった。その狭い塔の上に、兵たちがひしめいている。

「北の塔の兵はすべてあそこに集めておいた。で、あっちをごらん」

 婆さんが言いながら指さしたのは、今度は西の塔であった。その塔の上にも、兵たちがひしめいている。

「当然、どういうことかわかるね」

 婆さんはまたもニヤリと笑い、東の塔をチラリと見やった。そのとたん、東の塔が爆発した。塔はたちまち全壊する。

 チャドランはじめ兵たちは、呆然自失の体でこの光景を見やっている。

「無駄な抵抗はやめろ!」突如、男の声が中庭に響き渡った。「これを見ろ!」

 続いて、男はワハハハハと高笑いをした。みなは一斉にその声の方を見た。

 そこは、西の塔と南の塔の間の、露天の回廊であった。そこに、両手を上げたビリーアとエルコと、二人に拳銃を突きつけて高笑いしている、副官のスタルツが立っていた。

「閣下!」スタルツは得意げに叫ぶ。「やりました!」

「ブハハハハ」チャドランは呵々大笑する。「でかしたぞ、スタルツ!」

 婆さんはうんざりしたように肩をすくめると、スタルツに向かって「消えな!」と一言叫んだ。

 とたんに、パッ! とスタルツの姿は消えてなくなった。

「ヒッ!」

 チャドランは顔を引きつらせた。そのまま腰が砕けたように、座っていた椅子に、へなへなと座り込んでしまった。

 リュテカはその間に、ヴァン・ドランを抱き起こしていた。気を失っているヴァン・ドランの頬を、リュテカは何度も必死に叩いていた。

 婆さんは、ニヤニヤ笑ったまま、絞首台を下りてゆく。そして、チャドランの方へと、近付いて行く。

「さあてと」婆さんはニヤニヤ笑いのまま、チャドランに言う。「一つ聞きたいことがあるんだがねえ」

 チャドランは顔面蒼白で、椅子に座ったままブルブル震えている。構わず婆さんは聞く。

「あんた、奥さんや子供はいるのかい?」

「つ、妻と二人の娘が、アルツィオラにいる」

「あんたが国を裏切っていることを、奥さんや娘さんたちは知っているのかい?」

「いいや」

「どうするんだい?」婆さんは顔をしかめる。「あんたは良くても、奥さんや娘さんは、反逆者の家族として投獄、悪くすりゃ処刑されるよ」

 するとチャドランは、急にぐっと胸を逸らして、重々しく言った。

「大義のためだ。もしそうなったら、それは仕方のないことだ」

「それで奥さんや娘さんたちが、納得すると思うのかね」

「彼女たちはワシのことを信じておる」なおも重々しくチャドランは言う。「だから当然、納得するだろう」

「信じてる者を裏切って、よくまあヌケヌケとそう言えるものだ。あたしゃね、そういう図々しい奴がとにかくこの世で一番嫌いなんだよ」婆さんは吐き捨てるように言うと、小さく溜息をついた。「まあいい。あんたの銃だがね、実はそれだけ撃てるようにしてあるんだよ」

 言われてチャドランは、自分の腰の、豪勢に飾りのついた拳銃を引き抜いて、見やった。婆さんは言葉を続ける。

「大人しく降参するか、それともあんたの副官みたいになるか、二つに一つだよ。さあ、どうする。三つ数えるうちに決めな。一、二、三…」

 チャドランはニヤッと笑い、引き金を引いた。その瞬間、婆さんは「消えな!」と叫んだ。同時に、チャドランの姿はパッ! と消えてなくなった。

 と、にわかに隣のエランドリア側の要塞が、騒がしくなった。ここまで聞こえるというのは、尋常ではない騒がしさであった。西の塔や南の塔の上にひしめく兵たちが、口々に叫び始める。

「シルヴァルドだ!」「皇帝だ!」「皇帝陛下だ!」

 それはたちまち、猛烈かつ熱狂的な、大歓声となった。中庭にいる兵たちも、色めき立ち、騒ぎ出す。要塞の門が開き、馬に乗った小柄な男が駆けこんで来た。その後ろから、大勢の従卒が続いて来る。自然に兵たちは道を開け、そしてみな口々に歓声を上げ、銃を振り、帽子を振り始める。

 馬上の小柄な男は、中庭の真ん中で馬を止めた。その男の上に天から光が差し込み、照らし出している。男が馬から下りる。

「皇帝陛下万歳!」「シルヴァルド万歳!」

 兵たちはみな大熱狂し、叫んでいる。中庭の兵たちも、塔の上の兵たちもだ。

 リュテカはヴァン・ドランを抱きかかえたまま、呆然としてシルヴァルドの姿を見ていた。それに気付いたシルヴァルドが聞いた。

「あの男の首に縄が付いているが、罪人なのか」

「いいえ」答えたのはソーナ婆さんだった。「たった今、無実が晴れたところです」

 婆さんはシルヴァルド帝の足元にかしずいた。リュテカも、ヴァン・ドランを抱きかかえたまま、慌てて頭を低くする。同時に、その場にいる者みなが、皇帝に対しひざまずいた。

 皇帝も、婆さんに気付いた。

「どうやらそなたが、ソーナリータ・フロンプシオンのようだな」そう言って皇帝は婆さんに手をさしのべた。「お会い出来て光栄だ。余がシルヴァルドである。そなたのホログラムは、余も持っていた。今でも面影を充分に残しているではないか。すぐにわかった」

「まあ、陛下。お口がお上手ですこと」婆さんは皇帝と握手しながら、まんざらでもない様子だ。「ホホホホホ」

「おお、そうだ」皇帝はふと思い出したようだ。「ビリーアはいるか。ビリーア・デル・スール中佐!」

 ビリーアが駈け出して来て、直立不動で敬礼する。

「ハッ、ここにおります」

 さすがにビリーアも、緊張している。

「おお、ビリーア」皇帝は笑みを浮かべる。「久しぶりだな。少し老けたようだが。…ああ、これは女性には禁句だな。先の后のジョルジョナータにもよく叱られた。ビリーア、よくこのソーナリータのことを知らせてくれたな」

 ビリーアは怪訝な表情をしている。皇帝の言っていることが、よくわからないようだ。しかし皇帝は構う風もなく、鷹揚に続ける。

「そちの、魔法使いの老婆がダコスタ峠に連れていかれている、という報せで、余はピンと来た。すでにシェーネル湖畔に隠遁しているソーナリータ・フロンプシオンをモンティバル軍が拉致したという報せは入っていたのでな。余は、士官学校時代からの、ソーナリータ・フロンプシオンのファンなのだ」

 皇帝は、改めて婆さんを見やった。

「そなたにお会い出来て、本当に光栄である。嫌でなければ、その御手にキスすることをお許し願いたい。そのためにここまで三日三晩、人目を忍んで馬を飛ばして来たのだから」

「ええ、喜んで」

 そう言って婆さんは皇帝に右手を差し出した。皇帝はその手を取り、膝をついて、手の甲にキスをした。婆さんはニッコリ微笑み、それを受ける。とたんに、大歓声が上がった。

「さて、ビリーア」皇帝は言った。「今回の件でそちの働きは実に目覚ましいものがあった。よって、二階級特進して少将に任ずる」

「しょ、少将…」

 目を白黒させているビリーアの様子を、やや離れてエルコが不安そうに見守っていた。ビリーアは、しばらく呆然としていたが、ハッと我に返った。ビリーアは、おずおずと言った。

「あの、実は、あたし…」

「皇帝陛下」横から口を開いたのは、婆さんだった。「ひとつお願いがあるのですが」

「何だね」

「せっかくのお話ですが、実はこのビリーアを、孫の嫁にいただきたく思うのですが」

「ほう、孫の嫁」

「エルコ、ほら」

 婆さんに手招きされて、エルコはおずおずと進み出た。

「そなたの孫か」

 皇帝に問われると、婆さんは「はい」と答える。

「ずいぶんと生っ白いな」皇帝はエルコを見て言った。「齢もビリーアよりも下だろう。男はもっと鍛えねばならん。しかしまあ、他ならぬソーナリータ・フロンプシオンの願いなら、聞き届けない訳にはゆくまい。ビリーアは大変優秀なスパイだった。余のために大変役立ってくれた。彼女なら、そなたの孫の嫁に不足はなかろう。余が太鼓判を押すぞ」

「ありがとうございます」

 婆さんはうやうやしく頭を下げた。

「ときに、ここの司令官はどうしたのだ?」

 周囲を見回して、皇帝は言った。

「さあ」婆さんはそらぞらしく答える。「陛下にお会いするのが恥ずかしいのでしょう。アルツィオラにでも、逃げ帰ったのではありませんか」

「何と、それはまずい。せっかくの裏工作が水の泡になる」

 そういうと、皇帝は馬に乗った。馬上で皇帝は右手を高々と上げ、大声で言う。

「司令官がここを放棄した。よって、このダコスタ峠のモンティバル王国要塞は、本日より正式に、余の軍の指揮下に入ることを宣言する!」

 兵たちの間から、大歓声が上がった。

「では、さらばだ」馬上の皇帝は言う。「余は急いで帰らねばならぬ。仕事が山積しておるのでな」

 皇帝は婆さんに向かって一つウインクすると、たちまち馬の轡を返して、門から駆け去って行ってしまった。兵たちの大歓声が、去り行く皇帝を見送った。皇帝の後には、大勢の従卒が続く。

「ほ…う」婆さんは上気したような顔で、見送っていた。「なかなか、いい男じゃないか。…惚れちまったよ」

 婆さんは、エルコとビリーアの方を向いた。

「そういうことだからね。しっかりおやり」そしてふと思い出して、「ああ、そうだ。ビリーア、あんたがここまで着て来た服があったろう? あれを持ってきな」

「今?」

 ビリーアが怪訝そうな顔で聞くと、婆さんは、

「そうだよ。鉄は熱いうちに打てってね。ほら、あんたの夫のお婆様が言ってるんだ。つべこべ言わず、とっとと言うとおりにするんだよ。それと、どこかでもう一本ホウキを拝借して来るんだ」

 ビリーアはブツブツ言いながら、立ち去った。

 婆さんは一つフウッと溜息をついて、絞首台の上を見た。そこにはヴァン・ドランを抱きかかえたままのリュテカが、その首に巻きついた縄を取ろうと格闘していた。絞首台の上によっこらせ、と再び上がった婆さんが、ヴァン・ドランの首の縄にちょいと触れると、それはパラリと切れて落ちた。

「さてと」婆さんはリュテカに言った。「あんたにも聞かなきゃいけない。どうするね。この男とこれからも添い遂げるか、それともここでキッパリと別れるか。どっちにしても、あんたの人生はこれから決して楽じゃない。どうした、浮かない顔だね」

「よくわからない」リュテカは言った。「けど、何だか虚しい気がする。こんなことのために、死んでしまった人たちがいるのに…。死んだ人の思いは、どうなるのかって」

「馬鹿言ってるんじゃないよ」婆さんは叱った。「死んだ人間に、思いなんてないさ。思いってのはね、生きてるから出来ることなんだ。そんなのは生きてるヤツの感傷だよ」

 リュテカは、無理矢理な笑みを作った。

 そこに、ビリーアが駆け戻って来た。右手にホウキを持ち、左手に服をつかんでいる。

「はいコレ」

 ビリーアが婆さんに服を渡した。婆さんはそれをリュテカに渡す。

「これを着な」

 リュテカがきょとんとしていると、婆さんは手を振って急かす。

「早くしな」

 リュテカはヴァン・ドランを横たえると、絞首台の陰に行き、急いで着替え、婆さんの所に戻った。婆さんはリュテカに言った。

「さて、さっきの答えだ。どうする?」

「決まってるわ」リュテカは横たわるヴァン・ドランを再び抱き起こす。「私はこの人の妻よ。そしてこの人は私の夫」

「そうかい」婆さんは言う。「さっきも言ったけど、これから決して楽じゃないよ」

「わかってるわ」リュテカは答える。「そして、まだまだ先は長いんでしょう? それから、どうなるの?」

 婆さんはニッと笑って自分を指さし、言った。

「こういう退屈で平凡な婆さんになる」

「…最高だわ」

 リュテカもニッと笑ってそう言った。

「では、お別れだ」婆さんはリュテカと、その胸に抱かれたヴァン・ドランに言った。「じゃ、消えな」

 二人の姿は、パッと消えた。傍らでビリーアが、立ちすくんでいる。

「あの二人、どうなっちゃったの」

「大丈夫だよ」婆さんは微笑む。「別に殺した訳じゃない。然るべき場所に移動してやっただけさ。ま、その後はあいつらが自分で考えるだろう。さあ、あたしたちもグズグズしないで、とっとと出発するよ。もう用はないからね」

 呆気にとられているエルコとビリーアに、呆れ顔の婆さんがまくし立て始める。

「何ボーッとしてんだい。皇帝陛下だって、何にも云わなかったじゃないか。こういう時はね、十中八九、逃げるにしかずって言うんだよ。要はとっとと逃げろってことさ。エルコ、さっさとホウキを持っといで。ビリーア、あんたはそのホウキにあたしと一緒に乗るんだ。シェーネル湖畔に帰りつくまでに、ホウキの乗り方をとっくり教えてやる。帰ったら、あんたダイエットだよ。もっとも、田舎の生活は厳しいからね。あっという間に痩せるだろうよ。さあ、もたもたしてないで、出発するよ…」



 その頃、アルツィオラの王宮の真ん前で、ひと騒動が起きていた。銃を手にした軍人が突然出現し、衛兵たちにボコボコにされて取り押さえられたのだ。おかげで、その軍人の出来そこないの福笑いみたいな顔は、ますますヘンテコリンなものになってしまった。スタルツ大尉と名乗ったその軍人は、ダコスタ要塞の副官だった。当然、職務放棄を疑われたスタルツは、例の「訊問横丁」から陸軍最高司令本部に連れ込まれた。そして、二度とそこから出て来なかった。



 パン! と花瓶が割れてビックリしたのは、その家の住人ばかりではない。銃を撃った本人が何より一番ビックリした。チャドランはしばらく状況が呑み込めず、呆然としていた。やがて、そこがとても見覚えのある場所…すなわち、アルツィオラの自宅の居間であることに気付いた。見れば、そこにティーカップを手にしたまま呆然とこちらを見つめている妻と二人の娘がいるではないか。

「あなた」妻が震え声で言う。「ダコスタ峠ではございませんの?」

「し、所用があって、戻った」チャドランは、銃を構えたまま、引きつった笑顔で言った。「た、ただいま。みな、元気そうで、何より、だ…」



 リュテカが気が付くと、そこは狭い路地裏であった。家と家の隙間、と言った方がよい。

 すぐ向こうには、人通りの激しい往来があるらしい。そして、リュテカの腕の中にはヴァン・ドランがいた。気を失ったままのヴァン・ドランをひとまずそこに置いて、リュテカは路地からそっと顔を出す。

 と、すぐ前に大きな帆船があった。磯の香りがプン、と鼻につく。ここは海に面した港だった。

 リュテカは左右を見回す。彼方に大きな灯台が立っている。その壁面に、大きな文字で、「ガリエラ」と記されてある。ガリエラ…。モンティバル最南端の、そして最大の、港町だ。

 目の前の大きな帆船の船体には、外国の国名が入っている。近頃独立を宣言したばかりの、大洋の遥か彼方にある、新大陸の国名だ。

 これが、ソーナ婆さんの言う然るべき場所…。リュテカはそれを婆さんから聞いた訳ではないが、その言わんとするところは、即座に呑み込めた。国外へ逃げろ、と…。

 あの船に乗れば、自由が手に入る。…自分だけでも…。

 一瞬よぎったその考えを、リュテカは頭を振って振り払う。

 まずは、リュテカにはせねばならぬことがある。ヴァン・ドランを、医者に診せることだ。身の振り方をどうするかは、その後の話だ。

 リュテカはヴァン・ドランの所に戻った。そして抱き起こし、その頬を叩いて、言った。

「さあ立って。行くわよ」

  

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