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第10章(その2)

 リュテカは必死に薄目を開いて、その男を見ようとしたが、ヴァン・ドランは意地悪だった。さっきよりもずっとねっとりと執拗だった。頭の中が真っ白になって、ともすれば忘我の境地に至りそうになりながら、リュテカはどうにか、その男というのを見た。

 確かに、ビリーアが通り過ぎて間もなく、ロバに乗った小太りの、麦わら帽子をかぶった農夫然とした中年男がやって来た。中年男は馬上の二人に驚いて、帽子を目深にかぶって、傍らを通り過ぎて行った。男が通り過ぎると、ヴァン・ドランはたちまち唇を離した。リュテカは軽くめまいを覚え、危うく馬上から転げ落ちそうになった。

 再び馬を進め始めたヴァン・ドランを、リュテカはもの欲しそうに振り返った。

「ちゃんと前を見ていろ。落っこちるぞ」

 ヴァン・ドランはつれなくそう言う。ヴァン・ドランは馬を軽快な速足で進めた。

 やがて、山道の傍らにロバを止めて、道端で用を足している男の姿が見出された。男は麦わら帽子を目深にかぶったままこちらに背を向け、振り向かなかった。

「見るな」ヴァン・ドランが囁く。「無視するんだ」

 男を行き過ぎ、やがてビリーアも軽快に追い抜いて、しばらくしてまたヴァン・ドランは馬を止めた。そしてまた、ヴァン・ドランはリュテカの唇を唇で塞ぐ。

「本当に」リュテカは荒い息の下で言った。「あの男が怪しいの? この近くに住む、ただの農夫じゃないの? だとしたら、ただ単に趣味の悪い悪戯をしてるだけだわ、私たち」

「そうかどうかは、今日一日これを繰り返していればわかる」ヴァン・ドランはリュテカを抱く腕に力を込めつつ、言う。「おまえ、耐えられるか?」

 リュテカが返事をする前に、その口をヴァン・ドランの口が塞いだ。

 うんざりしたような表情を隠そうともしないビリーアが、不承不承といった様子で付いて来るのは(リュテカにはその理由が今ひとつよくわからないのだが)、まあともかくとして、例のロバに乗った男もまた、ずっとついて来るのであった。もっとも、深い山中ではあるが、これからさらに奥にだって集落はあるので、そこへ向かっているのだと考えられなくはない。

 だが、午後も遅くになった頃、男の姿は忽然と消えた。消えた地点はまったくの山の中であり、近くに集落のある場所ではなかった。途中で引き返したか、あるいは道の下方を流れる川に落ちたとも考えられるが、リュテカが見ていた限り、その可能性は低そうだった。意図的に姿を消した、と考えた方が自然だった。

 リュテカは、先の疑問を取り消した。

「このことは二人には黙っていろ」

 ヴァン・ドランは言った。そしてそれ以降、ヴァン・ドランはもう馬を止めてリュテカにキスすることはなくなった。リュテカはヴァン・ドランに身体をすり寄せた。が、そのリュテカの身体を、ヴァン・ドランは無情に押しやった。そして言った。

「あれは他の連中の目をくらますためにやったことだ。勘違いするな」

 …勝手な男。

 リュテカの顔と身体は、怒りと恥辱でカッと火照った。そして昨夜、タヴェルンの宿営室でヴァン・ドランに包帯を巻き終えた時に思い至ったことが、改めてまざまざと、脳裏によみがえって来た。それは、ヴァン・ドランに抱かれた後の、何とも割り切れないモヤモヤの正体のことだ。その正体がわかった瞬間に、駐屯地はパルチザンの襲撃を受けたのだった。

 昨夜リュテカはヴァン・ドランに抱かれ、組み敷かれ、責め立てられ、抗うことが出来なかった。しかし身体はそうでも、頭と心はすべて没入し切っていた訳ではなく、どこか片隅で、醒めていた。その醒めた部分が、こう言っていた。

(この男は、女を抱き慣れている。そして私を、それらの女と同じように抱いている。この男にとって、私はそういう女たちの一人に過ぎない…)

 そんなことは、抱かれる前からわかっていたはずのことだった。覚悟していたことだ。自分がヴァン・ドランにとって、初めての女でないことぐらい、むしろ当たり前のことだった。

 そう。そんなことが問題なんじゃない。

 ヴァン・ドランが自分を、至極あっさりと、当たり前のように抱いたことが、問題なのだ。

 自分から抱かれに行ったくせに、こんなこと言えた義理じゃないのはわかっている。だが、リュテカのモヤモヤの原因は、そこにあるのだ。ヴァン・ドランにとって、自分は単に目の前に都合よく現れた、欲望処理の相手に過ぎなかったのではないか…。

 その直後のパルチザンの襲撃と銃撃戦の中で、そのことはリュテカの中で一時保留になっていた。そして、タヴェルンからここまでの道中で、何度もしつこいほどヴァン・ドランにキスされて、そういう考えも薄れかけていた。

 そうしたら。こうだ。ヴァン・ドランにとって必要がなくなると、とたんにつれない態度を取る。

 勝手な男。自分の都合しか、考えていない男。任務のためなら、女なんて平気で利用して、そして使い捨てにする男…。


 …月の光に、せせらぎが照り返っている。遠くには焚火がチカチカ点滅している。幻想的な光景も、頻繁に飛んで来るブヨが台無しにする。どこかに潜んでいるかも知れないあの麦わら帽子の小太りの男も、このブヨに悩まされているのだろうか…。

 不意にリュテカは、後ろから抱きすくめられた。

「嫌」リュテカは身をよじらせて言う。「あなたの傷にも障るわ」

「構わん」

 ヴァン・ドランは抱きすくめる腕に力を込めつつ言う。リュテカはさらに言う。

「誰かが見てるかも知れない」

「構わん」

 ヴァン・ドランは面倒臭げに言う。そして、リュテカの唇を自分の唇で、塞いだ…。

 リュテカは頭も心も醒めているのに、身体が反応してしまう。

 その醒めた頭と心が、確信している。この男は、私を捨てる、と。この男にとって、私は一時の欲望のはけ口に過ぎない。この任務が終わったら、再び私の前から姿をくらますだろう。

 いや、もしかしたら、この男は、今は本気なのかも知れない。だが、結局、この男は私の前から姿を消す。責任を取る気など、さらさらない。

 それでいいって、思ってたんじゃないの? リュテカは自問する。そのつもりで、抱かれたんじゃないの?

 そう。実際に抱かれるまでは、そう思っていた。だが、今は違う。リュテカの中に、もう一つの確信が、芽生えている。

 それは、私はこれからの人生をこの男と生きて行くだろうという、極めて現実的な確信だった。

 たとえこの男が、私を一時の欲望のはけ口としか考えていなかったとしても、そして、その結果生ずるであろう責任から逃れようとしても、私は決してこの男を離さないし、死んでも食らいついて行くだろう。逃げようとしても、そうはさせない。それが、私をいとも簡単に抱いたあなたへの、私のささやかな復讐なの。覚悟しててね…。

 リュテカは微笑んだ。月光に照らし出されたその微笑みに、ヴァン・ドランはヒヤリとするものを感じて、動きを止めた。ヴァン・ドランは聞いた。

「どうした?」

「今頃気が付いた」リュテカはなおも微笑みつつ、言った。「あなた、タバコやめたのね。…教官時代は、よく吸ってたのに」

「あ、ああ…」

 ヴァン・ドランは戸惑いつつ、答えた。海外のとある町で、とある女(名前は忘れた)に、やはり同じような状況下で、「口がヤニ臭い男は嫌い」と言われてやめたのだとは、さすがにリュテカには言えなかった。

 そのリュテカは、ジッとヴァン・ドランのことを見つめている。ヴァン・ドランは、急にいたたまれないような気持ちになった。リュテカのそのブルーの瞳が、あまりにも澄んでいて、吸い込まれそうな気がしたからだ。ヴァン・ドランは心の片隅が、チクリと疼くのを感じた。

 これまでヴァン・ドランにとって、女は任務のため、そして己の欲求のために、利用するものだった。時々、失敗もあったが。先のタバコの女の件は、その一つだった。でも、だからと言って、女を抱くのに躊躇したことはない。

 だが今回は、完全に失敗だ。つい、据え膳を食ってしまったが、これは食ってはいけない相手だった。だのに、また、食っている。このままズブズブと深みにはまって行きそうな気が、してならない…。

 ヴァン・ドランは頭を振って、余計な雑念を払って、とりあえず目の前のことに集中しようとした。そのとたん…。

「…え?」

 リュテカは思わず聞き返した。ヴァン・ドランが、不意にリュテカの耳に何か囁いたのだ。

「今頃…気が付いたぜ」ヴァン・ドランは荒い息の下から言っていた。「…おまえのおかげだ」




 三台の荷馬車だけが、崖下に落ちていた。一台分だけ残っていた補給物資も、馬も、なくなっていた。当然、人は誰もいない。

 すでに陽が昇っている。昨夜野宿した場所から、さらに一時間ばかり進んだ所に、この光景が展開していた。

 なぎ倒された灌木を伝って下に降りたヴァン・ドランが荷馬車を調べていた。エルコは例によってホウキで空に飛び立ってしまい、この場にはいない。

 荷馬車の荷台の板は、三台ともひっぺがされている。それは、山道にいるリュテカからも見て取れた。荷台の下には、さらに20センチほどの空間があった。そこにはわらが敷き詰められ、何かの跡が残っているところもあった。それが何だったのかは、リュテカにも容易に理解出来た。そこにはライフルが詰められていたに違いない。

「少なく見積もっても一台に30挺。三台で90挺」ヴァン・ドランが言った。「切りよく100挺だったかも知れん。それだけライフルを積んでいれば、荷馬車も重くなる訳だ」

 ビリーアは老馬に跨ったまま、つまらなそうな顔をして、胸元からタバコを取り出すと、火を点けた。そして二三口吸うと、たちまちその場に投げ捨てた。それをリュテカが非難する様な目で見ている。

「何よ。文句あんの?」

 リュテカは慌てて首を横に振ると、下から上がって来たヴァン・ドランの方へ寄って行った。ヴァン・ドランに手を貸して山道へ引き上げたリュテカを、今度は馬に乗る段になって、先に乗ったヴァン・ドランが手を貸し、引き上げる。そして馬上で二人はキスをする。さらに二人で何か囁き合っている。ビリーアは退屈そうにあくびする。

「先に行ってるぞ。遅れずに付いて来い」

 そうヴァン・ドランはビリーアに言うと、馬を速足で駈け出させ、駆け去って行ってしまった。ビリーアは周囲をぐるりと一つ見渡して、こちらはゆっくりと、老馬を発進させる。

 五分ほど進んで、ビリーアは馬を止めた。止めざるを得なかった。

 ヴァン・ドランの黒馬が、止まっていたのだ。しかしヴァン・ドランの姿はない。手綱はリュテカが左手に握って、馬の傍らに立っていた。その右手には拳銃が握られていて、ビリーアに向けられていた。ビリーアは思わず背後を見た。

「動かないで」リュテカが厳しく命じる。「手を上げなさい」

 ビリーアは一つ大きく溜息をつき、命じられたとおりにした。


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