表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/36

第10章(その1)

 夜が明けて、そして昼になった。

 エルコがまた道の真ん中にしゃがみ込んでいる。そしてまた、何かを押し戴くように両手で持ち上げ、しばらくフムフムとそれを見ている。が、そこに何があるのか、他の三人には見えない。何か両手で持っている格好をしたエルコが、もっともらしい顔つきをして何やら一人合点しているようにしか、見えない。

 思えばビリーアは、何度か目にしたこの行為の、そのあとのエルコの様子に、格別の注意を払ってこなかった。改めてよく見ていると、そうやって何か押し戴いていたエルコは、その、他の者の目に見えない何かを観終わると、その場にそれをポイッと放り捨てる仕草をするのだった。思わずビリーアは言った。

「えっ、捨てちゃうの?」

「もう用はないからね」エルコは答える。「二三日すれば魔法が切れて姿を現わすけど、どうせ人には毛糸で編んだ切れっぱしにしか見えないし、符号は単なる模様にしか見えないから、みんなただのゴミとしか思わないよ。符号を読むことが出来るのは我がアルヴォラータ一族の者だけだしね。…あ、今はもう喋りかけないで。せっかく覚えた内容を忘れちゃうから」

 エルコは我が…一族と言う時に、ちょっとだけ得意げな表情を見せた。

 エルコが時々道に屈みこんで、何か祈りを捧げている(とビリーアが思っていた)行為の、真の理由がこれであった。そしてそれは、なぜエルコがアルツィオラからアバネの森までのソーナ婆さんの行方を、誰にも聞きもしないのに追うことが出来たのか、ということの答えでもあった。

 リュテカは、今さらながら、唖然としていた。自分の傍らでソーナ婆さんがずっと編んでいたのは、これだったのだ。

 これ、とはエルコによれば、数センチ四方の毛糸で編んだ切れ端であった。そこには幾何学的な模様が編まれているのだが、その模様が、エルコ言うところの、アルヴォラータ一族の者だけが意味を読み取ることのできる符号になっているのだった。ソーナ婆さんはリュテカの傍らでこういった毛糸片をせっせと編み上げては道端に落とし、後を追ってきているはずのアルヴォラータ一族の誰かに、自分の行方を知らせていたのだ。ただ、その誰かがエルコだったとは、さすがの婆さんにもわからなかったのだが。

 しかしこの毛糸片は婆さんが魔法を掛けていて、普通の人の目には見えない。エルコをはじめとするアルヴォラータ一族の者だけが、それを見つけだすことが出来るらしい。

 エルコはヴァン・ドランの所に行くと、馬上の彼に言った。

「一行はマッカリア渓谷に向かった」

「マッカリア渓谷か」ヴァン・ドランは言った。「ここから約二日だな。あまり馬は飛ばせない。ここから以降は本街道ではなく、山間の隘路をひたすら行くことになる。どれだけ急いでもそれだけはかかる」

 ヴァン・ドランは例の自分の大きな真っ黒な馬に乗っていた。パルチザンどもは、駐屯地の馬の大半を殺すか、連れ去るかしたが、幸いこの馬は無事だった。さすがのパルチザンの荒くれどもも、この見るからに恐ろしげな馬を殺したり連れ去ったりするのは、憚られたものと見える。パルチザンがそんな風に馬を迫害したのは、追手が追跡出来ないようにするためだが、この黒馬を残してしまったのは、手抜かりだったと言わざるを得ない。

 ちなみに、タヴェルン駐屯地からは追手の兵は派遣されていない。追跡するのに必要な馬がいないこともあるが、ヴァン・ドランと駐屯地の司令官との間で秘密協定が結ばれたからでもある。

 言うまでもなく今回の件は、リュテカはもちろんだが、ヴァン・ドランにとっても、司令官にとっても大失態である。ことが露見すれば、軍法会議に掛けられることは必定だった。

「我々が何とかしますから、任せて下さい」ヴァン・ドランは司令官に言った。「閣下はこの事態に対する最高司令本部への、上手い言い訳を考えて下さい。俺に全責任をおっ被せて頂いても構いません」

 その時、司令官がどれほどホッとした表情を見せたことか。

 さて、黒馬の上のヴァン・ドランの前には、リュテカが乗っている。馬の手綱を取っているのはヴァン・ドランで、その間にリュテカが挟まっている格好だ。リュテカはヴァン・ドランに身体を預け、そのたくましい腕につかまっている。まるで新婚の花嫁花婿の馬上姿だ。この姿が目に入るたびに、ビリーアは「ケッ」と言う顔をするのだった。

 ビリーアは一人で馬に乗っている。ロバではないが、老馬であった。駐屯地でかろうじて生き残った馬のうち、最も年老いた馬を、司令官が渋々貸してくれたのだった。

 ヴァン・ドランとリュテカは、エルコはともかくビリーアまで同行することは、もちろん反対だった。だがエルコが「この人も必要だ」と強硬に主張したので、二人は不承不承ながら、承知したのだった。

 エルコはと言えば、ほとんどホウキに跨って、空を飛んでいる。ホウキは、ソーナ婆さんが「返しといておくれ」とエルコに放ってよこしたものだ。エルコは時々地上に降りて来て、彼にしか見えない、婆さんの編んだ毛糸の端切れを拾い上げる。エルコはそれを、上空から発見するのだ。エルコの目には、上空からでもそれが見えるらしい。

 空を飛んでいるエルコは、楽しそうだった。少なくとも、地上をとぼとぼ行っている時よりも、晴れ晴れとした顔をしていた。すでに物語中で述べられているが、モンティバル王国においては、国の許可なくしてのホウキでの飛行は禁じられている。今エルコがホウキで空を飛んでいるのは、いわば、超法規的措置であった。これも、ヴァン・ドランがタヴェルンの司令官との秘密協定で認めさせたことだ。

 上空高く舞い上がっているエルコを見上げて、老馬の上のビリーアは溜息をつく。胸元からタバコを出して火を点け、二三口ふかした。前方にいる馬上のヴァン・ドランとリュテカの様子を見てつまらなそうな顔でタバコを投げ捨て、また大きく溜息をつく。

 ヴァン・ドランとリュテカの姿は、どう見ても軍の極秘任務を遂行中の将校二人、ではなく、ただの新婚旅行中の若夫婦でしかない。ビリーアの馬は老馬なので、ヴァン・ドランの馬よりずーっと歩行がのろくて、常に後方へ置いていかれるのだが、しばらく進むと、黒馬は立ち止まっていて、そうすると必ず(必ずだ)馬上の二人は熱烈なキスを交わしているのだ。これが昼間でなければ…いやいや、ビリーアとエルコがいなければ、絶対にこの二人は森の中に入って……あとは言うまい。

 ビリーアはゲンナリしたような顔でその傍らを通り過ぎるのだが、その時でもなお二人は熱々に唇を交わしているのだった。そしてまたしばらくすると、何事もなかったかのようにビリーアの横を澄ました顔で追い抜いて、軽やかに先に行ってしまう。そしてまたしばらくすると、ビリーアは先程と同じ光景に出っくわすのだ。

 ビリーアはまた一つ、大きく溜息をついて、上空を見上げるが、もうそこにエルコの姿はなかった。




 再び、夜になっている。

 深い山の中で、聞こえて来るのは川のせせらぎの音と、目の前の焚火のはぜる音だけだ。鬱蒼と繁る木々はそよりともそよがず沈黙を守っていて、まるで幾人もの巨人たちがこちらを見つめて立ち尽くしているように見える。

 ここは山道の傍らの、ちょっとばかり道幅の広くなった所であった。陽が暮れて、とりあえずはこの場に野宿することに決した。決した、と言ってもそれはヴァン・ドランの一方的な命令であった。ビリーアはそれに従った。エルコがそれに従ったからだ。

 ヴァン・ドランは食事を終えると、「この先の様子を見て来る」と言って、リュテカとともに黒馬に乗って行ってしまった。それを見ていたビリーアが、焚火の前に座ってじっと火を見つめているエルコにしなだれかかった。

「ねえ」ビリーアは甘ったれた声を出す。「ねえったらあ」

 しかしエルコはちらっとビリーアを見やったきりで、何も言わずまた火を見ている。

「もう」ビリーアはふくれっ面になる。「火なんかジッと見てて、楽しいの?」

「心が静まるんだ」

 エルコはそう言って目を閉じる。

「心なんて静めてないでさあ」ビリーアは言う。「あたしたちもあいつらみたいに楽しくやろうよ。婆ちゃんもいないんだし、ねっ。火は見て楽しむものじゃなくて、心に点けて激しく燃やすものよ。なんちゃって」

 言いながらビリーアはサッとエルコの股間に手を伸ばし、たちまち「ギャッ」と叫んで慌ててその手を引っ込める。

「もう。相変わらずそこ、デンキウナギなのね」

 ビリーアはそう言って立ち上がると、さも退屈そうにあくびをし、首を回してコキコキ鳴らしながらウロウロする。タバコを胸元から取り出したが、「あと三本しかない」と呟いて吸うのをやめ、挙句の果てには「ちょっとあいつらの様子見て来る」と言って行こうとして、エルコに裾をはっしとつかまれ、止められた。

「やめときなよ」エルコは呆れたように言う。「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえって、言うじゃないか」

「何よ。何悟ったようなこと言ってんのよ」ビリーアがわめき出す。「あんた、間近であんなことされて、頭に来ないの? 腹立たないの? ムラムラしないの? ああもう。だいたいあんた何よ。あんたこそ、あたしの恋路を最大に邪魔してるじゃない。そこにあたしの乗って来た馬がいるから、あんた、ためしに蹴られて死んでみる?」

 また、ビリーアは訳の分からないことを言い始めたが、急に脱力したような顔になって、ガックリとエルコの脇に腰を下ろした。

「ああ、あたし、疲れてるんだわ。もう嫌。本当はそんなこと言いたいんじゃないの。あんた、あのヴァン・ドランにあたしのことを必要だって、言ってくれたじゃない。そのお礼を言いたかったの」

「え、あ、ああ」エルコはビリーアから目をそらして、とぼける。「そ、そうだっけ?」

 ビリーアはそれには構わず、続ける。

「あたし、ホントはもっとクールな女なのよ。仕事を沈着冷静にこなす女なのよ。でももう嫌。もう疲れた。ホントに、こんな仕事とっとと足を洗ってどこか空気のいい田舎に行って、のんびり暮らしたい。だからさあ、ねえ、エルコ、あんたの故郷のさ、何だっけ? シェ…シャ…」

「シェーネル湖」

「ああ、そうそう。そこに連れてってくれない?」

「婆ちゃんを無事救い出したらね」

 うっかり言ってしまって、エルコは慌てて自分の口を塞いだが、もう遅い。ビリーアが目をキラキラ…いやギラギラ輝かせて、エルコの腕をつかみ、その顔を凝視して「ホント?」と叫んでいた。

「いや、でも」エルコは慌てて言い繕う。「婆ちゃんが…」

「またババーコンプレックス? あんた、それを克服しなきゃ、大人になれないわよ。ホラ、あたしが克服させてあげるから…ネッ? …ギャッ」

 またデンキウナギだ。




 ヴァン・ドランとリュテカを乗せた黒馬は、道の途中から木立の中を下り、下を流れるせせらぎの傍らに着いた。リュテカは顔の前を手で払う。

「夜なのに、ブヨって飛んで来るのね」

「血の臭いがすれば、奴らは年中無休だ。ヒルよりもましだがな」

 そう言ってヴァン・ドランはリュテカの脇腹をつついて、下りるよう促した。リュテカに続いてヴァン・ドランも馬を下り、傍らの灌木につないだ。昨夜と同じ満月が、狭い山峡を照らし出している。二人が立っているのは、川のせせらぎが小さな淀みを作った、その傍らにある岩だらけの川原だった。その中の一つの、比較的大きな岩の上にヴァン・ドランは上がり、リュテカに手を貸して彼女もそこに上げる。遠目に、チカチカと焚火の燃えるのが見える。それを見ながら、リュテカは言った。

「…あの男も、この山中のどこかにいるのかしら」

「俺たちをつけているのなら、そうだろう」ヴァン・ドランは答える。「このどこかに潜んで、俺たちのことを見ているに違いない」


 …その男に気付いたのは、ヴァン・ドランであった。タヴェルンを出発して間もなく、後ろをつけて来るその男の存在を、ヴァン・ドランはリュテカに告げた。リュテカが思わず振り向こうとすると、「見るな」とヴァン・ドランは言った。

 ようやくリュテカがその男の姿を見ることが出来たのは、タヴェルンの郊外を外れ、道が急に細くなってきた辺りであった。不意に馬を止めたヴァン・ドランは、後ろからリュテカの顎に手をやり、振り向かせると、唇を唇に押し付けて来た。急に唇を奪われ、リュテカは動揺し、かつ身体が急速に火照った。その傍らを、後から老馬に乗って来たビリーアがゲンナリした表情で通り過ぎても、ヴァン・ドランはまだ唇を離さなかった。リュテカは、つい陶然としてしまった。ヴァン・ドランが唇を離すと、リュテカはそれが惜しくて、自分からヴァン・ドランの唇を求めて行こうとした。すると、ヴァン・ドランが小声で言った。

「あの男だ。薄目を開けてしっかり見ていろ」

 そしてまた、ヴァン・ドランの唇はリュテカの唇を塞いだ。


  

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ