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第9章(その6)

 リュテカはヴァン・ドランの左肩に、新しい包帯を巻いているところだった。それがなかなか巻き終わらずにいるのは、ヴァン・ドランが何度も無言でリュテカにキスをせがみ、リュテカがその度にそれに応えてやっているからばかりではなかった。

 リュテカは、新たに何かはっきりしない、モヤモヤしたものを抱え込んでしまったことを、感じていた。それが何なのか、今のリュテカにははっきりつかめずにいた。わかっているのは、ヴァン・ドランに抱かれる前に思い描いていたものと、それは全然違うものだ、ということだった。そのモヤモヤが、包帯を巻くリュテカの手を時々立ち止まらせ、物思いに耽らせる。

 任務中にこんなことをしている、という罪悪感は、不思議なほど、リュテカにはなかった。後悔もない。モヤモヤが、そういう類のものでないことは、包帯を巻き進めるにつれ、リュテカにもわかって来た。では、何が…。

 その原因の一つが、さっき自分のバスローブの右ポケットに突っ込んだガーゼにあることは、リュテカにもわかっている。そのガーゼでリュテカはしっかり拭き取ったから、身体の表面には、何の痕跡も残ってはいない。ちり紙がなかったので、仕方なくガーゼで代用したのだ。そんなものを、宿営室のゴミ箱に捨てる訳にもいかないので、リュテカは自分のバスローブのポケットに、とりあえず突っ込んだのだ。

 だが、ヴァン・ドランの痕跡は、リュテカの身体の内に、しっかりと刻印されている。熱く激しい、刻印だった。そしてそれは、無謀な航海だった。舵も帆も羅針盤もなしで、大海原に乗り出してしまったようなものだ。嵐に自ら突っ込み、、大波でこっぱみじんになった。それでもなお、大波は押し寄せて来る。男は執拗に攻撃をやめない。リュテカは男にされるがまま、男の言いなりになるしかなかった。

 しかし…。それがモヤモヤの原因でもなさそうだった。いったい、私は何で、こんなに割り切れない気持ちを抱えて、包帯を巻いているんだろう。罪悪感も、後悔もないはずなのに…。右ポケットのガーゼだけが、このモヤモヤの原因では、あるまいに…。

 包帯を巻き終える頃になって、リュテカはその原因らしきものに、ようやく思い至った。それは…。

 突如、発砲音が鳴り響き、鬨の声が上がった。

 リュテカもヴァン・ドランも、反射的にベッドから跳ね起きていた。その時リュテカは、ちょうどヴァン・ドランの左肩に巻いた包帯を、ハサミで切ったところだった。そのハサミを、リュテカはとっさに自分のバスローブの左ポケットにしまった。やはりこういう時はヴァン・ドランの方が動きが速く、跳ね起きた瞬間には彼は枕元の自分の拳銃を握っていて、リュテカにも拳銃を放ってよこすと、身振りで伏せるように命じた。廊下をバタバタ駆けて来る足音とともに、絶叫する声が響き渡る。

「パルチザンだ! 『北東解放同盟』が乱入して来た! 内通者が駐屯地の門を開けた!」

 直後に銃声が響き、「ギャーッ」という叫びとともに人の倒れる音がした。続いて窓の方でも銃声が響き、バス! バス! と窓側の壁に穴が開いた。ヴァン・ドランは窓際に寄った。リュテカは廊下側へ行き、扉の陰に屈み、拳銃を握りしめて息を潜める。

 ヴァン・ドランの方は、小さな窓からすでに応戦を始めていた。ヴァン・ドランが一発撃つと、三発お返しが壁に穴を開ける。

「くそ!」ヴァン・ドランは小声で悪態をつく。「こんな簡単に撃ち抜かれるとは、とんだ手抜きの安普請だな」

 そう言いながらヴァン・ドランはもう一発撃つ。

 廊下の方は、さっきの銃声のあとは、パタッと音が止んでいる。すると、ドアの開く音がして、再び銃声がして、人の倒れる音がした。そしてまたしばらく、銃声は止んだ。敵が、宿営所の部屋を一つ一つ開けながら、次第にこちらに近付いた来るのだ。リュテカは心の中でホゾを噛む。うかつだった。リュテカはこの宿営所に部屋がいくつあり、今いるここが何番目の部屋であるかを、確認するのを忘れていた。ヴァン・ドランのことで頭がいっぱいだったのだ。しかしその彼は、窓の向こうの敵に気を取られていて、こちらの方など見向きもしない。

 扉が勢いよく蹴破られる音に、リュテカはビクッ! として、危うく拳銃を取り落しそうになった。今度は銃声はしない。足音も聞こえない。よほど慎重に足を忍ばせている。相手はこういう戦闘に相当慣れた者らしかった。扉は内外双方に開くようになっている。万が一こういう事態に陥った時に、敵の方向によって、どちら側からでも盾として使えるようになっているのだ。士官学校でヴァン・ドランに教えられたセオリー通り、その扉の蝶番側に隠れたリュテカは銃を構え、身を屈め、息を潜めている。

 また、扉が蹴破られた。と、それとは別に廊下の向こうで銃声が響き、続いて手前からそれに応戦する銃声がした。廊下の向こうと手前で相次いで人が倒れる音がした。音が止んだ。リュテカはさらに息を潜めた。先程から掌がねっとりと汗ばんで、震えていて、拳銃にもそれが伝わっていた。リュテカの緊張は、極限に達していた。リュテカは心の中で数を数える。一、二、三…。

 これも士官学校で、ヴァン・ドランに教えられたことだ。このように身を潜めて敵の様子を窺う際は、心の中で数を数え、百まで数えて何の動きもなかったら、移動すること。リュテカはヴァン・ドランの方を見た。相変わらずヴァン・ドランは窓の向こうに気を取られっぱなしで、リュテカの方は見ていない。かつてヴァン・ドランはこう言った。

「敵と対峙している時は、結局自分の身は、自分で守るしかないものだ」

 ソーナ婆さんだって、アバネの森で同じことを言ったじゃないか。

「いいかい、ここから先は、自分の身は自分で守るんだ」

 …百!

 リュテカはそおっと扉を外へと押し開いた。その開いた隙間から、慎重にゆっくりと、まず拳銃を、ついで頭を出した。そのとたん、頭の天辺に重く冷たいものが押し当てられた。

 次の瞬間、右手に衝撃を受けた。叩かれたのか、蹴られたのかはわからないが、とにかく拳銃が右手から飛んで、床に乾いた音を立てて落ちるのが聞こえた。頭に押し当てられた銃口がグイグイと押して来て、リュテカに扉の外に出るように促す。リュテカは両手を上げて、その指示に従う。

 月光の届いていない廊下は、実に光が乏しかった。などと思う間もなく、リュテカは突き飛ばされ、その場に倒れた。たちまち凶暴な力に、組み敷かれた。さっきヴァン・ドランに組み敷かれたのと、まったく同じだった。リュテカのバスローブはたちまちはだけ、前がすべて露出した。ごつい男の手が、リュテカの身体をまさぐっていたのは、身体検査のためだったろうが、途中でその手がピタリと止まった。その手が、気味悪くリュテカの胸を撫でた。闇に慣れたリュテカの目に、下卑た見知らぬ髭面の男の、ニヤニヤ薄笑いを浮かべた顔が、浮かび上がるように見えて来た。

 リュテカは、思わず顔を背けた。すると、真横に目を剥いて口から血を流している男の顔があった。さっき撃たれた男らしい。リュテカは慌ててまた顔を上に向けた。そのとたん、力任せに頬を殴られた。たちまち、リュテカは鼻血を出す。そのリュテカの胸に、男が音を立ててむしゃぶりつく。髭の感触が気色悪い。

 と、男の動きが止まった。ズボンを下ろそうとして、何かが引っ掛かったようだ。リュテカはとっさに、右膝を思い切り曲げた。それは上手く男の股間にヒットした。

「ぬうっ」

 男は呻いたが、リュテカの上から離れるまでにはいかなかった。リュテカはさらに、バスローブの右ポケットから、突っ込んでおいた汚れたガーゼを取り出し、それをなすりつけるように男の顔に押し付けた。

「ゲッ、何だっ」男は叫んだ。「ウエッ、これって、ザー…」

 リュテカはみなまで言わせなかった。今度は左ポケットからハサミを取り出し、ガーゼの上から、男の顔面に渾身の力をふるって、突き立てた。

「ギャーッ」

 今度こそ、男は絶叫とともに、リュテカの上から転がるように、離れた。リュテカは素早く身を引いて、先程拳銃の飛んだ方に身を滑らせた。その辺を、闇雲に手探りする。冷たい金属の塊に手が触れた。とっさにそれを握ったリュテカは立ち上がり、闇の中で絶叫しつつ蠢く影に向かって、立て続けに五発も、弾をぶっ放した。闇の中に五回の閃光と銃声が上がり、そして静かになった。

 リュテカは銃を構えたままその方へ行く。闇に目が慣れて、判別は可能だった。一応爪先で恐る恐る蹴ってみたが、男がくたばっているのは確実だった。リュテカは男の銃と、その傍らで死んでいる男の銃も回収して、それを左の小脇に抱えて、部屋の中に駆け戻った。自分でも不思議なくらい、落ち着いていた。生れてはじめて人を殺したのだが、そんなことが気にならなかった。そんなことを気にする余裕などない、とも言えたが。

 リュテカは姿勢を低くして、ヴァン・ドランの傍らに行った。

「馬鹿野郎。勝手な行動をするな」

 小声で罵るヴァン・ドランに、

「ごめんなさい。お説教なら後で聞く」

 とリュテカは言い、垂れっぱなしの鼻血をようやくバスローブの袖で拭った。

「殴られたのか」

 そう言ってヴァン・ドランがリュテカの頬に手をやると、リュテカはフッと笑った。

「自分だって殴るくせに、人が殴ると心配するんだ。大丈夫、あなたに殴られ慣れてるから、平気」

 ヴァン・ドランはリュテカの物言いに驚いた顔を一瞬見せたが、すぐに「フン」と鼻を鳴らすと、また窓の外を見た。

 不意に銃声が止んだ。

 それでもしばらくの間、ヴァン・ドランとリュテカは身を屈め、息を潜めて様子を窺った。一分ほど経っても、銃声は起きなかった。

「行くぞ」

 立って扉の方へ行くヴァン・ドランにリュテカも続いた。着替えているヒマなどない。ヴァン・ドランはズボンだけで上半身は包帯を巻いただけの裸だ。リュテカに至っては、バスローブをまとっているだけであった。

 廊下に出たヴァン・ドランが驚いて聞いた。

「こいつら、おまえが倒したのか」

 リュテカは、肩をすくめただけだった。

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