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第9章(その5)

 タヴェルン城の庭園の上空に、澄み切った満月が浮かんでいる。その周縁は煌々と月光が滲んでいるが、さらにその外縁は、満天の星空が彩っている。月光は庭園を青白く夜闇の中に浮かび上がらせている。

 庭園、と言っても手入れが行き届いていないから、草ぼうぼうであった。タヴェルン公がアルツィオラに逃避して以来、一般市民も駐屯地の兵も、出入り自由になっていたのだ。しかし市民や兵たちの中に風雅を愛する者はいないらしく、そのあちこちが野菜畑になってしまっていた。

 その一隅の大きな木の下に座りこんで、ぼおーっと夜空を見上げているのは、エルコであった。まったくエルコは、呆けたような顔で月と星々を眺めているのであった。そこに、ビリーアがやって来た。しかしエルコは何も言わない。ビリーアも何も言わず、黙ってその横に座る。ビリーアは胸元からタバコを取り出して火を点けた。二三口ふかして、ビリーアはタバコを消し、言った。

「星が綺麗ね」

「ああ」エルコは物憂げに答える。「でも僕の故郷の村の方が、ずっときれいに星が見えるよ」

「そう言えば、あんたの出身地、聞いてなかったわね」

 エルコはしばし沈黙した。言葉を選んでいるのが、ビリーアにはありありとわかった。やがて、エルコは言った。

「ここからずっと南の、山ん中の湖のほとり」

「ふう~ん。…そんな所ならさぞかし星も綺麗でしょうね」

 ビリーアがやたら素直なので、エルコはかえって戸惑った。

「ごめんなさい」ビリーアは言った。「一人が良ければ、そうするわ」

「いや、いいけど…」

 エルコは探るようにビリーアを見た。

「何よ」ビリーアは少し口を尖らせた。「あたしがこんなこと言うと、変?」

「いや、そうじゃないけど…」

「あんたが何だか元気がないから、心配してやってるんじゃない」

「別に、元気がない訳じゃないよ」エルコは小さく溜息をつく。「ただ、どうして僕はここにいるんだろうって、思ってるだけだよ。婆ちゃんは帰らないって言うし、だからって、僕がすごすご村に帰る訳にはいかないんだ。でも、僕がダコスタ峠まで行く理由もないし…」

「婆ちゃんのお守りでいいじゃない。あんた孫なんだし」

「婆ちゃんは僕なんかより数千倍も頼りになるよ」エルコはそう言って膝の間に、溜息交じりに顔を埋めた。「僕は不肖の孫なんだよ、婆ちゃんから見れば。…あの女の中尉さんの方が、よっぽど婆ちゃんの眼鏡にかなってるんだよ。ああ、ホントに僕はいったい、何しにこんな所まで来たんだろう」

「何よ、クヨクヨしなさんな」ビリーアはポン! とエルコの背を叩く。「それにあの中尉だって、あの『黒い狼』にメロメロじゃん。いったい何があったのか知らないけど。それにあんなおっかない男のどこがいいのかさっぱりわかんないけど。まあ、蓼食う虫も好き好きって言うからね。とにかく、あの中尉はもう男しか眼中にないから、あんたの婆ちゃんのお守りはほったらかしだよ、きっと。だからあんたが必要だってば」

「だから婆ちゃんは僕の数千倍も凄いんだって、言ってるじゃないか」苛立ちを隠さず、エルコは言った。「僕なんか近くにいると、かえって足手まといなんだよ」

「ああ、煮え切らないなあッ」ビリーアも苛立っていた。「何なの、その婆ちゃんコンプレックスは?」

「あのさ、ビリーア」エルコはうんざりして言う。「放っといてくれないかな」

「アッ」突如ビリーアが叫んだ。「うっかり聞き流すところだった! あんた今、あたしの名前呼んだわよね、ビリーアって」

「え、そ、そうだっけ?」エルコはなぜかたじろぐ。「それが何か?」

「うれしいっ!」ビリーアはエルコに抱きついた。「じゃ、あたしもあんたのこと、エルコって呼ぶわねっ。エルコ、エルコ、エルコ…」

「わっ、何なんだ、急に!」エルコは叫んでビリーアを押しのけようとする。「やめろっ!」

「いいじゃないのよう」ビリーアは力を込めてギュッとエルコを抱きしめ、無理矢理身体を押しつける。「あたしももういい加減、こんな明日をも知れぬ浮草稼業から足洗いたいのよう。ねえ、そしたらさあ、どこか静かなところで、二人で暮らしましょうよう。ねえ、あたしじゃダメえ? エルコお、ねえ、好きにしていいのよう。あたし、全身であんたのこと、慰めてあげるからさあ」

 エルコも、理性と裏腹に本能が、ついビリーアの身体をグイと抱きしめてしまうのであった。二人はそのまま、そこに倒れ込んだ。

「おまえたち、何してんだい」

 上からいきなり声がして、二人はギョッとして起き上がり、見上げた。

 ソーナ婆さんが頭上の木の上から、仏頂面でこちらを見下ろしていた。その手にはホウキが握られている。

「ゲッ、婆ちゃん…」

 そう呟いたエルコは慌てて突き飛ばすようにビリーアから離れた。ビリーアは不服そうに頬を膨らませる。

「まったくエルコ」婆さんは深い溜息とともに首を横に振る。「おまえは出来が悪いくせに、こういうことだけは一人前なんだねえ。見損なったよ」そして小声で呟く。「まったく、今夜はどいつもこいつも盛りがついちまって、満月のせいかねえ」

「ち、違う」エルコは慌てて首と手を振る。「婆ちゃん、これは…」

「これはもあれはもないよ」婆さんはビリーアにギロリと視線を向ける。「あたしの孫の嫁には、あんたは不合格だ。おとといおいで。ホントにね、あのリュテカなら、逆にエルコにはもったいないくらいなのにね。あの子一人にエルコ五人付けたっていい位なのに」

「ちょっとお」ビリーアは立ち上がって腰に手を当てた。「あんまりじゃないの、さっきからさ。何様のつもり?」

「ふん」婆さんは目を細めてビリーアを見下ろす。「エルコのお婆様だよ。文句あるかい」

「何なのそれ」

 ビリーアは婆さんに向けて叫んだ。そして右手の人差し指を、地面に腰を抜かしたままのエルコに向け、怒鳴った。

「ちょっと、あんたも何か言いなさいよ。あんな言われて、悔しくないの?」

 ビリーアは、今度は同じ人差し指を頭上のソーナ婆さんの方に向け、なおも叫ぶ。

「だいたい、あんたもあんたよ。エルコのお婆様。そうやって出来損ないだの何だのって、あんたが言うから、エルコだって自信をなくしちゃうんじゃない。あんたもそうやってエラそうに言う位自信があるんだったら、その自信をエルコにちゃんと伝えてやったらいいじゃない。それがあんたの務めでしょう」

「あんたにウチの教育方針にケチつけられる覚えはないね。そもそもね、ウチはタバコを吸う女はご法度なんだよ」婆さんはソッポを向いて、小声で言った。「何だか威勢のいい女だね。昔のあたしみたいだ。タバコ吸う以外はだけど」

「ふん。あたしだったらこのエルコに自信を与えてあげられる」ビリーアは豊満な胸をこれ見よがしに張って言う。「今まさにそれをやろうとして…」

 ビリーアはふと何かに気付き、言葉を切り、耳を澄ます。ビリーアは婆さんを見た。婆さんも同様に、耳を澄ませていた。婆さんとビリーアはうなずき合った。

 その直後、駐屯地の方から何か騒々しい物音が聞こえて来た。そちらを見ていたビリーアが再び頭上を見ると、婆さんがホウキに跨って、ふわりと空に舞い上がっていた。空の上から婆さんがビリーアに言う。

「あんた、見かけによらず勘は良いようだね。とりあえず、その点は合格だよ」

「余計なお世話だわ」ビリーアは言い返し、エルコに言った。「さあ立って。行くわよ」

 婆さんはホウキに跨って駐屯地の方へ飛んで行き、その後を追うように、エルコの手を引いたビリーアが駆け出して行った。

 


 


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