第9章(その4)
夜も更けた。
隣のベッドからは、ソーナ婆さんの寝息がスウスウとリズミカルに聞こえて来るのだが、リュテカは眠っていない。闇の中で…と言っても今夜はまばゆいくらいの満月なのだったが…リュテカは思い詰めたようなまなざしを、宿営室の天井に向けている。
やがてリュテカはそっと起き上がり、ソーナ婆さんの方をチラッと窺ってから、音を立てずに部屋を出て行った。その手には、拳銃が握られている。
リュテカはそっと忍び足で、隣の部屋の扉を開き、中に入って後ろ手に閉める。ここでも、スウスウとリズミカルな寝息が聞こえる。眠っているヴァン・ドラン少佐の顔が月光に照らし出されている。リュテカはその傍らに寄り、ジッとその顔を見つめる。
ヴァン・ドランの左肩の包帯に血が滲んでいた。包帯は、ほどけかかっている。きっとヴァン・ドランが動いたためだろう。新しい巻いた包帯が、その枕元の卓上にあった。その脇に、ヴァン・ドランの拳銃も置かれてある。リュテカはその隣に自分の拳銃を並べて置いた。少しの間逡巡したリュテカは、そおっとヴァン・ドランの左肩に手を触れ、そこを持ち上げた。包帯の端を手で探り、そおっとゆっくり、ヴァン・ドランが起きないように気をつけながら、包帯を外していった。
やがて、ようやく、包帯が外れると、傷を直接押さえている、血でもう真っ赤になったガーゼが落ちた。それを拾い上げたリュテカは、ほとんど本能的に、それを自分の唇に押し当てていた。鉄の臭いがした。血の味が舌を刺す。リュテカの身体の奥の何かが疼き、そして弾けた。
しかし、それでもなお、迷いがあった。逡巡していた。リュテカはギクシャクとした動きでベッドの脇に屈み込むと、ヴァン・ドランの左肩の、まだ生々しい傷口を見つめた。そして、ぎこちない操り人形のような動きで、その傷口の上に、自分の唇を置いた。舌先で、傷を舐めた。
「…リュテカか」
不意にヴァン・ドランの声がした。慌てて、リュテカは顔を上げた。
「何をしている…?」
そのヴァン・ドランの問いにリュテカは答えず、代わりに首を横に振った。新しいガーゼを手に取って消毒薬を染み込ませ、それをヴァン・ドランの傷の上に押し当てる。
「ウウッ…」ヴァン・ドランが顔をしかめ、呻いた。「バカ、もっとそっとやれ…」
しかし、それにもリュテカは答えず、黙々と傷の周りをガーゼで拭く。
「どうした。なぜ何も言わん」
そう言ったヴァン・ドランは、驚いてリュテカの顔を見上げた。自分の胸板に温かいものが二三適、ポタポタと落ちて来たからだった。リュテカの目に光る涙が、窓から差し込む月光に、きらめいた。
「傷が化膿しかかってます」リュテカは震え声で言う。「いくらタフなあなたでも、こんな無茶してたら、死んじゃいます」
「フフッ」ヴァン・ドランは鼻で笑う。「それもいい。いい加減、こんな仕事にも生きてるのにも、飽きて来たところだ」
「バカなこと言わないで!」リュテカは手にしたガーゼを床に投げ捨て、叫んだ。「私がどれだけ心配してると思ってるの!?」
リュテカは、むしゃぶりつくように、ヴァン・ドランの身体に抱きついていた。
「せっかく会えたのに」リュテカは押し殺した声を絞り出すように、言う。「また会えなくなってしまうかも知れないのに。もう二度と会えなくなってしまうかも知れないのに」
「よせ」ヴァン・ドランは言う。「貴様、任務中だぞ」
「そんなこと、どうでもいい」リュテカはヴァン・ドランの顔をキッと睨み据えて、言った。「軍法会議に掛けたきゃ、掛ければいいわ。これで銃殺刑になるのなら、本望だわ。私、もうあなたを失いたくないの」
ヴァン・ドランはしがみつくリュテカを無理矢理引き剥がした。
「おまえ、どうしたんだ。…気でも狂ったのか」
「わからないわ。そうかも知れない」リュテカはギラギラしたまなざしでヴァン・ドランを見つめる。「わかってるのは、私があなたを愛しているということ。そして、ここであなたを失ったら、私、一生後悔するということ」
リュテカはベッドの傍らに立って、ヴァン・ドランを見下ろす。ヴァン・ドランは言う。
「言ったろう。今は任務中だ」
「任務中でなければ、いいの?」リュテカは即座に言い返す。「さっきあなた、こんな仕事に飽きたって、言ってたじゃない」
「それは…」
ヴァン・ドランは言いかけて、深い溜息をついた。ヴァン・ドランはリュテカから目を外し、そして再び見た。
「おまえ」ヴァン・ドランは微笑んだ。「自分の気持ちを言うばかりで、俺の気持ちは聞かないんだな」
「気持ち…?」
そう言うリュテカを、ヴァン・ドランはそっと手招きした。リュテカはベッドの傍らに跪いた。ヴァン・ドランの両手がリュテカのブロンドの髪に差しのべられ、そして、引き寄せる。やがて、ヴァン・ドランの唇が、リュテカの唇を塞いでいた。
唇を離すと、リュテカは再び立ち上がった。リュテカはバスローブ一枚を羽織っているだけであり、もちろんその下には何もまとっていなかった。
リュテカはバスローブを脱ぐと、足元に落とした。




