第9章(その3)
リュテカはガバと立ち上がって、婆さんの方を右手で指さして、震えていた。震え声で、まくしたて始めた。
「ど、どうして気がつかなかったんだろう。私の部屋にずっと肖像のホログラムがあったのに…。えっ、まさか。ウソ、ウソでしょ…」
「まさかそんな歴史の遺物みたいなのが生きてるとは思わなかったろう」ソーナ婆さんはちょっとホッとしたような顔になって言った。「その名で呼ばれるのはずいぶんと久しぶりだね。どうだい? そんな歴史的遺物と出会った感想は? 急に恐れ多くなっちまったかい?」
リュテカは興奮で顔を真っ赤にしながら、しばらく突っ立って婆さんを見つめていた。頭の中が真っ白だった。任務のこともヴァン・ドランのことも何もかも、しばしの間、頭の中から吹き飛んでいた。
だが次第に、目の前の光景が戻って来た。殺風景な部屋。硬そうな簡易ベット。目の前の小柄な婆さん。そして、任務のこと。ヴァン・ドランのこと。その他諸々…。
リュテカはようやく少し心を落ち着けて、再び婆さんの傍らに腰を下ろした。
「不思議ね」リュテカはぽつりと言った。「何でだろう。ちっとも恐れ多くなんかないの。あ、ごめんなさい。馬鹿にしてるとかじゃないの。でも何だろう。そう聞かされても…うん、やっぱりソーナさんはソーナさんだわ」
「合格だ」婆さんはリュテカの背をポンポンと叩いた。「いいんだよ、それで。あたしだっていきなりあんたに祭り上げられるのはごめんだよ。まあ、あたしは祭り上げられるのが嫌で、あんな辺境に引っ込んだんだがね」
リュテカは婆さんの顔を改めてしげしげと見やった。そして、遠慮がちに言った。
「あの…聞いていい?」
「どうぞ」
「さっき少し話に出た、リタ・トゥデルナーゼさんのことだけど…。あ、もし、聞いちゃダメならそれでいいんだけど…」
「いや、大丈夫だよ。あたしから口にしたことだしね」
「私と似てるって…」
「そう。人柄がね。あの子が死んだのは、あたしの責任なんだよ」
リュテカはドキリとして婆さんの顔を見つめた。婆さんは特に表情を変えることなく、うっすらと笑みを口辺に浮かべている。
リタ・トゥデルナーゼは、いわゆる『ラクリ・ヴェステの七人の魔女』の一人であった。そして、その任期中に命を落とした、唯一のメンバーでもある。リスビアとエランドリアの間に戦われた「十年戦争」の最大の山場、シュンペスタ城攻防戦で、戦死したのだった。
「でも」リュテカは婆さんの顔を見つめ続けながら、言った。「リタさんはホウキに乗って敵状を偵察中に、撃たれて死んだのだから…」
「それは表向き、そう言われているだけだよ」婆さんは深い溜息とともに言った。「あの子…リタは『ラクリ・ヴェステの七人の魔女』が戦争に参加することに、徹頭徹尾、反対だった。しかしこれは王命だった。シュンペスタ城の攻防は、あの戦争のまさに正念場だった。あれに負けたらリスビアはエランドリアの属国になるか、良くて大幅な領土割譲を余儀なくされたろう。エルフリート王も苦渋の決断で、あたしらをシュンペスタ城に派遣したのだ。だけどリタは反対した。いつも大人しくて、あたしの言うことは何でも聞くリタが、この時だけは絶対反対だった。あたしたちは平和のために仕事をしているのに、それが戦争に加担するのは納得できない、ってね」
婆さんはまた溜息をついた。そして、リュテカに聞いた。
「あんたがエルフリート王のファンだったら、当然シュンペスタ城の攻防戦がどういうものだったか、知ってるだろう?」
「ええ」リュテカはうなずきつつ言った。「シュンペスタ城に迫った約十万のエランドリア兵は、しかしその直前で突然現れた巨大な竜の幻影に驚いて総崩れになり、そこで打って出たリスビア軍に追撃され、敗走した。あとでそれが魔法によるものとエルフリート王自身が発表し、その戦法をめぐっては大陸の世論を二分することになった。魔法を使うのは卑怯、という意見と、いや合理的な戦法である、という意見とにね。いまだこの議論は決着を見てないわ」
「歴史の教科書通りの模範的回答だね」婆さんは言った。「あんたはどう思う」
「…私は、人的にも物的にも、被害を最小限にとどめられるのなら、戦法としてはありだと思う。…亡き父も教官も、この戦法には否定的だったけど」
「…まあ、あんたのお父さんみたいな昔気質の軍人さんは、こういうやり方は嫌いだろうね」
「でも」リュテカは言った。「それでどうしてリタさんと私が似てるって思うの? 私がもしリタさんだったら、反対なんかしなかったけど」
婆さんは、そこでもっとも深い溜息をついた。その表情から笑みが消えた。代わって、これまでリュテカにまったく見せなかった、深い憂いに満ちた表情が現われた。
「リタが聞いた私の作戦は、もっと違ったものだったんだよ。それを聞いたリタは、一人でホウキに跨って、敵軍に向かって飛び出して行ってしまった。敵のエランドリア軍に、その内容を知らせるために」
「えっ」リュテカは驚いてまじまじと婆さんの顔を見る。「それじゃ、裏切りじゃない。反逆じゃないの…」
「そう。だからリタは当然、それを承知の上で、覚悟して、飛び出して行ったんだ。そして、今のあたしは、そのリタの行動は、当然だったと思っている。どうかしていたのは、あたしの方だった」
リュテカは怪訝そうな顔で、婆さんを見やる。
「あたしがその時考えていた本当の作戦を、聞きたいかい?」
婆さんはギロリとリュテカを見やり、ニヤリと凄みのある笑みを浮かべた。リュテカは、思わずゾッとした。一旦は、思わず首を横に振った。それを聞いたら、この小柄な婆さんを見る目が変わってしまいそうで、怖かった。…だが、リュテカは思い直し、こっくりうなずいた。
「こっちへおいで」婆さんは小さく手招きする。「他のヤツに聞かれちゃ、マズいんでね」
リュテカは婆さんの口元に耳を寄せた。婆さんはリュテカの耳に、何やらゴニョゴニョ囁く。リュテカの表情が、みるみる変わる。顔のいろが、蒼ざめる。
「ということだよ」ヒソヒソ話を終えて婆さんは言った。「それを聞いたあんたはどうするね」
リュテカは、呆然と目を見開いて、婆さんをまじまじと見つめていた。身体が、震えていた。
「そんな…」リュテカは声が震えていた。「まさかそんな、恐ろしいことを…」
「そう、恐ろしいことだ」婆さんはまた溜息をつく。「リタもまさにあんたと同じことを言った。だがそれは、リスビア側にまったく人的かつ物的損害を与えない、唯一の方法だった。いや、少なくともその時はそう思った。そして、若かったあたしたち七人の魔女には、それが出来た。出来る能力があったのだ。…さあ、もしあんたがリタだったら、どうしたね」
リュテカは首を横に振った。その顔を、婆さんがジッと見つめる。
「…リタさんと…」リュテカは震える声で言う。「同じことをしたわ。だって、それは敵とか味方とか言う前に、人間として…それはやってはいけないことだわ。それはもう戦略なんかじゃない。ただの殺戮、ただの駆除だわ。そんなやり方がまかり通るのなら…もう軍隊なんかいらないもの。人間は…害虫やゴミじゃないのよ…」
リュテカの目にはいつしか涙が溢れていた。
「そのとおりだよ」婆さんはそこでようやく、口辺にうっすら笑みを取り戻した。「驚いたね、あんたの言ったこと、リタがシュンペスタ城を飛び立とうとする時にあたしに言ったのと、ほとんど同じセリフだよ。リタはもう一つ最後に付け加えたがね。今でもよく覚えてるよ。…そんなことをするためなら、魔法なんてこの世界には必要ない…ってね。しかしリタは、自分の目的を達せないまま、エランドリア軍に撃たれて死んでしまった。作戦を変更したのは、リタが死んであたしが心を入れ替えたって訳じゃなく、六人じゃあたしの当初の作戦が実行出来なかったからさ。七人そろってやっと、あんたに耳打ちした恐ろしい作戦は実行出来るんでね。リタが死んで作戦はやむなく中止、慌てて出来ることをやった結果が、あんたがさっき教科書通りの模範的回答をしてくれた、いわゆるシュンペスタ城攻防戦の、現実の顛末さ。どうだい、それでもまだあたしを祭り上げる気になるかい?」
リュテカは涙を拭った。そして、首を横に振った。
「ならないわ」
「じゃ、軽蔑するかい?」
リュテカはまたも首を横に振る。
「そうかい」婆さんは本当にホッとしたように、満足げに微笑む。「安心したよ」
「さっき言ったでしょ?」リュテカは言った。「あたしにとってソーナさんはソーナさんであって、ソーナリータ・フロンプシオンじゃないもの。かつて、そうだったかも知れないけど…。今の話は、ショックだけど、でも、私にだってわかる。今のソーナさんが、今の話の中のソーナリータとは違うんだってことぐらい。だから…」
あとはうまく言葉にならず、リュテカはうつむいてなおも溢れる涙を拭った。
「うれしいね。あんたはいい子だ」婆さんはリュテカのすっかり冷えた髪を撫でる。「リタに、本当によく似てるよ」
「リタさんが私に似ているって思うなら」リュテカは言った。「きっとリタさんは、ソーナさんのことをわかっていたはずだわ。最後の最後まで」
「そうだといいがね。確かに、リタが死んであたしは自分の愚を悟った。それからだいぶ経ってからだったけどね。『ラクリ・ヴェステ』も同様に愚かな試みだった。そう悟ったあたしは、エルフリート王のもとを去った。陛下に振られたからじゃないんだよ」
婆さんは微笑み、小さな溜息をついた。涙を拭ったリュテカは、聞いた。
「…エルフリート大王とのロマンスって、ホントだったの?」
「ああ、まあね」婆さんは言った。「恋愛じみた感情は、確かにあったね。お互い若かったしね。しかし、国王と魔法使いでは、しょせん無理な話さ」
「…でも、結婚したかったんじゃないの?」
重い話をした後に、ずいぶん軽い話題だとは思ったが、リュテカの長年の疑問でもあった事柄なので、聞かずにいられない。すると婆さんはフフッ、と笑った。
「まあ、その時はね」婆さんは言った。「でも今となっては、結婚しなくてよかったとつくづく思っているよ。あたしに王妃様が務まると思うかい? お妾さんなんて、ご免だよ。今のような境遇で、あたしゃ充分満足しているよ。…それより、あんただよ」
「へっ? 私?」
急に婆さんにギロリと睨まれて、リュテカは素っ頓狂な声を上げた。
「あの少佐のこと、好いてるのかい?」
婆さんにストレートにそう言われて、リュテカは顔を赤らめた。
「誤魔化してもダメだよ」婆さんは言う。「あんたの様子を見てりゃ、あたしでなくたってわかるからねぇ」
リュテカは、顔を赤らめたまま、こっくりとうなずいた。
ずっと心に秘めた恋だった。
しかし、ヴァン・ドランが急に目の前に再び現れて、しかも怪我を負って気を失って、リュテカの心の均整は急激に溶解し崩壊しつつある。
「変でしょう」リュテカは言う。「だって、軍事教練のたびに怒鳴られて、罵られて、その上殴られるのに」
「そんなに殴るのかい?」
「ええ、もう」リュテカは肩をすくめる。「でもね、私だけじゃないのよ。他の士官候補生は男ばっかりだったけど、みんな同じ。怒鳴られ、罵られ、殴られてたわ。私が女だからとか、モン=ヘルベールの娘だからと言ってえこひいきとかは絶対にしないの。でもね、私、わかってたわ。殴る時、私だけ掌や拳じゃなくて、手の甲で、しかも指先の方で殴るのよ。そうすると、殴られるこっちもあまり痛くないの。そりゃ少しは痛いわよ。でも、それって教官の手の方がもっと痛いのよ。ある時教官は、私にそっと教えてくれたもの。殴られたら、手の飛んで来たのと同じ方向に飛べって。ただし、ちゃんと手が触れてからだぞって。そうしないと、殴ったように見えないから。気がついた? 私、ヨアシュ湖の湖畔でもそうしていたでしょう。ホント、久しぶりだったけど、上手くやれたわ」
リュテカの表情と口調は、語るうちにともに熱を帯びて来るのだった。まなざしは、潤んで来た。
婆さんは呆れ顔でリュテカを見やりつつ、聞いた。
「それは、リュテカにだけ教えてくれたのかい?」
「ええ、そう」リュテカはうれしそうに微笑む。「私だけによ。…教官には「ブロンドたぬき」とか「軍人になるのなんかやめて、とっとと嫁に行っちまえ」とかいっぱい罵られたけど、そういう、私だけに見せてくれる優しい所もあったの」
「ふうーん。で、いつの間にか好きになっちまったのかい」
「ええ」リュテカは溜息をついた。「そのことに自分で気がついたのは、突然彼が何も言わずに私の前からいなくなってからだった。実際に目の前に教官でいる時は、そんな風には夢にも思わなかった。くそ、いつか見返してやる、とか、ああもう、目の前から消えてなくなればいいのに、とか、そんな風にばかり思ってた。でも、本当に突然消えてなくなったら、どうしようもない喪失感ばかりが残った。そして、ようやく気付いた。私は彼に恋を…いえ、愛していたのよ」
「それは…」婆さんは顔をしかめて言う。「本当に愛しているのかね。…あたしにゃ、どうもよくわからない感情だねえ。まあ、蓼食う虫も好き好きって言うからねえ。で、どうする気かね」
「どうするって…?」
「あんたにはあたしをダコスタ峠に連れて行くという任務があるだろ? あたしはもう孫とも会えたし、このままトンズラしちゃったっていいんだ。今までだって、しようと思えばいくらでも出来た。それをしなかった。なぜだと思う?」
リュテカは首を横に振った。それから、ハタと気付いて言った。
「私が、リタさんと似ているから…?」
「そうだ」婆さんはニンマリと笑った。「リュテカ、あんたはね、放っておけないんだよ。だからさ」
「でも、ソーナさんはダコスタの要塞に行って、どうするつもりなの?」リュテカは急に顔をこわばらせて、言った。「まさか、さっきの恐ろしい作戦を、またやる気じゃないでしょう?」
「まさか」婆さんは笑った。「でもね、あんたのいる陸軍は、あたしに少なくとも、シュンペスタ城攻防戦の再現を期待しているし、それに今のあたしは悪いことにその後経験も積んで、一人でも同じことが出来るようになっちまってるんだ」
リュテカが唖然として婆さんの顔を見やる。
「冗談だよ」婆さんはまた笑う。「まあ、なるようになるだろ。それにね、もうひとつ、あたしにゃモクロミがあったのさ」
「モクロミ…?」
「そう。ここまであたしを探しに来た、孫のエルコ。眼鏡かけて、いかにも頼りないヤツだが、あれでもあたしの孫だ。それにもう年頃だ。その嫁に、あんたはどうかって、ずっと思ってたんだよ。だけど、今のあんたの話じゃ、それこそ土台無理な話のようだ。残念だねえ。…しかし、あんた、エルフリート王が好きなんだろう? あの少佐、どう見てもエルフリート王には似てないよ。エルフリートの方が、ずっと男前だったよ。まあ、蓼食う虫も好き好きだから、しょうがないけどねぇ…」




