第9章(その2)
タヴェルン駐屯地の、宿営所の一室である。
そこにしつらえられた簡易ベッドの上に、ヴァン・ドラン少佐が横たわっている。
その少佐の上に、まるで覆い被さるようにして、リュテカがその顔を覗き込んでいた。
ここにヴァン・ドラン少佐が運び込まれてからと言うもの、リュテカはこのようにその傍らにピッタリと付き添って、離れようとしない。リュテカは少佐の厚い胸板に耳を近付けてはその鼓動を聞き、鼻先や口に顔を近付けてはその呼吸を確かめている。リュテカのまなざしには、何か憑かれたような、熱くたぎるものが満ちていた。それは少なくともアルツィオラを出発して以来、リュテカが一度も見せたことのないものだ。
リュテカは少佐の左肩の包帯を、神経質なくらい頻繁に替えようとするのだった。それを見かねたソーナ婆さんが、
「そんなに傷をいじると、かえって悪化するよ」
と注意した。
リュテカは落ち着かなげな、不安に揺れるまなざしで、婆さんを見てうなずいた。そしてそれからは、少佐の左手をずっと両手で握っている。時折、少佐の左胸に耳を押し当てて鼓動を聞き、キスするのではないかと思うほど顔を近付け呼吸を聞く。その姿はまさに、狂おしいほど、という形容そのものであった。
「さあ」婆さんがリュテカの肩を叩く。「そんなに根を詰めると、今度はあんたが倒れちまうよ」
リュテカはじいっと少佐の顔を見つめ、その左手をギュッと強く握りしめると、ようやく立ち上がった。それでも部屋を出るまでに、二度三度、少佐の方を振り返った。
リュテカとソーナ婆さんは、その隣の部屋に入った。リュテカと婆さんは相部屋だった。そこも隣と同じつくりの部屋で、殺風景な室内には簡易ベッドが二つ、机と椅子が一つ、それにカーテンで仕切られたバスタブとトイレが付いている。これが、どの駐屯地でも普通な将校用の宿泊室のつくりであった。
部屋の窓は小さく、そこからは駐屯地の中庭が見える。庭と言っても、殺風景な土の広場が広がっているだけだったが。
「お風呂、お先にお使い」
婆さんに言われて、リュテカは素直に従った。リュテカはカーテンを引くと、アルツィオラを出発以来、ずっと着っぱなしですっかり汗臭くなった軍服を脱いだ。風呂はすでに湯が満ちている。湯につかったリュテカは、両頬を、そっと両手で撫でた。
左の頬は、アバネの森で弾のかすった傷が痛々しく、右の頬はヨアシュ湖畔で少佐に殴られた。その腫れはとっくに引いていたが、殴られた感触の方は、いまだ残っている。おかげで、左頬の痛みの方は、あまり感じないほどだった。
湯の中で、リュテカはいつしか涙を溢れさせていた。
しばらくして、カーテンの向こうから声が掛かった。
「リュテカ、泣いてるのかい?」
声を忍ばせて泣いていたつもりなのに、いつの間にか嗚咽でも漏れてしまったのだろうか。
「いいえ…」リュテカは否定しかけて、やめた。「うん。でも大丈夫」
「そうかい。それならいいが…」
婆さんはそう言って言葉を切ったが、ややあって再び言った。
「余計な事を聞くけど、言いかね」
「…教官、いえ、少佐のこと?」
「ああ。あの彼は少佐かね。前からの知り合いのようだが」
「士官学校の教官だったの。軍事教練担当のね」
「なるほど。そんな感じだねえ」婆さんは溜息をついた。「しかし士官学校の教官が、何だってこんな所に?」
「今は教官じゃないわ。私が卒業した頃に辞めてしまって、その後は国外任務に就いているって聞いてたわ。…何でここに現れたのかは、私もわからない」
そう。少佐…その時はまだ、今のリュテカと同じ中尉だったが…との別れは、突然だった。リュテカの卒業間際、彼は士官学校の校長を殴ってしまったのだった。それが、リュテカの卒業認定を巡ってのものだったらしいとの噂を聞いたのは、ずっと後のことだった。リュテカの卒業認定に疑問を呈する校長と口論し、挙句に殴ってしまったというのだ。別れのあいさつをするいとまもなく、ヴァン・ドランは士官学校を去った。その前日まで、いつものように軍事教練で厳しく鍛えられていたリュテカにとって、それは青天のヘキレキ以外の何物でもなかった。それから卒業までの間、いや、卒業して少尉として任官してからしばらくも、リュテカは猛烈な虚脱感にさいなまれた。
以来まったく、リュテカは彼に会うことはなかった。ヴァン・ドランが国外での諜報活動に従事していることは、ゴルディアクから聞いた。それはヴァン・ドランが本来希望していた任務ではあった。リュテカは、ヴァン・ドラン本人の口からそう聞いていた。だが、それはもちろん、士官学校の教官などとは比べものにならない危険な任務だ。リュテカは彼の無事を心の底から祈った。
それが昨夜、あの修羅場の森の中での突如の再会だった。なぜヴァン・ドランが急に現れたのか、今でもリュテカはよくわかっていない。
だが、リュテカは確信していることがある。それは、ここでまた別れたら、再び会うことは大変難しい、あるいは、二度と会うことはない、ということだ。
「…また泣いてるのかい」
婆さんの声がした。リュテカは慌てて涙を拭った。
「士官学校の時も、あんな風に遠慮なくあんたのことを殴ったのかい? あの男は」
婆さんの言い方が非難めいているのは仕方がない。リュテカは「ええ」と答える。そして慌てて補足する。
「でも、あんまり痛くないの。本当よ。一見ひどいように見えるけど、あの湖畔で殴られたときだって、当たったのは教官…いえ、少佐の指先だけだったから、見た目ほどには痛くないの。本当よ。頬っぺたももう腫れてないし…」
婆さんは答えない。呆れているのだろうか。リュテカはなおも言葉を継ぐ。
「それにあれは、少佐の私への思いやりなのよ。あの森では、私が一番上官だったでしょ。だから本当は私がきちんと判断して、ゲレル少尉に命じて早急に退却させなきゃいけなかったの。だから…」リュテカの声は急に沈んだ。「あの兵たちが死んだのは、私の責任なの。それを、少佐は私をみんなの前で手ひどく殴ることによって、自分が悪人に見えるように仕向けたのよ」
「…まあ、そのことについてあんたがそう思っているのなら、あたしから言うことはないよ」婆さんは溜息詰りに言う。「ただし、あの兵たちが死んだのはあんたのせいじゃない。それはあんただってわかってるだろう? あの三白眼の隊長は、森の中であたしたちを殺そうとした。あるいは、あんただけかも知れないが。あの隊長含め、あの隊にはよほど後ろ暗いところがあるんだね。あの荷馬車の不自然な重さも変だしね。まったく、とっととあの荷馬車を調べりゃいいんだが、あの少佐…だっけ?」
「ヴァン・ドラン」リュテカは答えた。「ギル・ヴァン・ドラン少佐」
「ああ。彼がぶっ倒れなきゃ、とっくに調べてるんだろうが…。ああ…何だかこういうのは落ち着かないねえ。あたしが調べていいんなら、とっとと調べるんだがねえ」
それはリュテカも同感なのだが、婆さんはもちろん、リュテカにだってこの場合は調べる権限などない。あるのはこのタヴェルン駐屯地の司令官だった。だがその司令官は、ヴァン・ドランが倒れてしまうと、
「今アルツィオラに指示を仰いでいる。指示が来たら直ちに捜査を開始する」
と言うばかりで、自ら捜査を始める気配はさらさらない。軍人と言うよりは、典型的な官僚の事なかれ主義であった。
風呂の中で、思わずリュテカは笑った。
「何だい?」
婆さんが怪訝そうに言う。
「だって、ソーナさん、何だか教官みたいなんだもの」
「ああ、そうかねえ」婆さんは言った。「そう言われれば、そうかもねえ。あたしも若い時は確かにあんなだったかも知れないねえ。妙に尊大な自信があってね。それが失敗のもとだった…。ああ、あたしゃ偉そうに忠告できるような義理じゃないねえ」
「ソーナさんの若い時って、どんなだったの?」
リュテカは風呂を出て、身体を拭いた。そこに、バスローブが置いてある。元々置いてあるものか、今回気を使って置いてくれたものか、それはわからないが、リュテカはありがたく使わせてもらうことにした。そのバスローブを着ながら、リュテカは何気なく先の質問をしたのだが、婆さんの答えはない。
リュテカはそっとカーテンを開けてみた。婆さんはベッドの端にちょこんと腰かけ、うつむいていた。何だかとても孤独な感じがした。リュテカはその傍らに並んで腰かけた。
「どうしたの?」リュテカは心配げに聞く。「何か嫌なことを思い出させた?」
「いいや」婆さんは首を横に振る。「若い頃のことを思い出したのさ」
「そんなに…」
嫌なことがあったの、と言いかけて、リュテカは言葉を呑み込んだ。落ち込んでいる人にさらに追い打ちを掛けてどうする。リュテカは話題を変えた。とっさに思い出したことを口にした。
「最初に会った時、開口一番に言ったわね。綺麗な目をしてるって」リュテカは婆さんの肩に手を置いた。「今さらだけど、ありがとう」
「お世辞じゃない。本当にそう思ったからだよ」婆さんはほんのり笑った。「人は目を見ればどんな人間かわかる。一目見て、あんたは信頼出来る人だと思った。本当に目が綺麗だよ、あんたは」
「目だけ?」
リュテカが唇をとんがらせて聞くと、婆さんは吹き出した。
「目も、だったね。それに…」
婆さんは言葉を途中で切って、また遠いまなざしになった。
「それに…何?」
リュテカはまた心配げな情報になって先を促す。
「あんたはね、あたしの知ってたある人に似てるんだよ」
「ある人に? 顔が?」
「違うよ。人柄がさ」
「どういう人?」
「あたしの…妹分みたいな娘さ。…リタっていうんだけどね」
そこで婆さんはハタと口をつぐんだ。リュテカは「リタ…」とその名を呟いた。婆さんはちらりとリュテカの顔を窺った。リュテカの頭の中で、突然パズルの一片が、カチリと音を立ててはまった。リュテカは大きく目を見開いた。
「リタ…ソーナ。リタ…。リタ・トゥルデナーゼ。ソーナ…ソーナリータ・フロンプシオン…」リュテカは婆さんの顔を覗き込んで、叫んだ。「あああーっ。ソ、ソーナリータ・フロンプシオンだっ…!」