第9章(その1)
北東地方の山中にあるタヴェルンの町は、タヴェルン公領の中心都市であり、その真ん中には、町のどこからでも見えるタヴェルン城がそびえ立っている。
その隣に、陸軍のタヴェルン駐屯地がある。ゲレルと六名の兵は駐屯地内の営倉に入れられ、駐屯地の兵たちによって二十四時間の監視を受けている。
ヨアシュ湖畔で彼らの武器を取り上げ、一旦は全員歩くよう命じたヴァン・ドラン少佐は、その直後に発覚した三台の荷馬車の重量疑惑によって、兵のうちの二人に、燃えた荷馬車のそれぞれの手綱を握るよう命令を変えた。もちろん、その二人は武器を剥奪されている。残るゲレルと四人の兵は、最初の命令通り、荷馬車の脇を歩かされたのだった。荷物の無事な一台は引き続きリュテカが手綱を握り、ソーナ婆さんが傍らに座った。
エルコとビリーアは引き続き少佐の黒い大きな馬の後ろに乗せられた。
こうして、一行はタヴェルンの町に入ったのだった。
タヴェルンに着くと、駐屯地に置かれた三台の荷馬車は、とりあえず目視によりざっと調べられたが、外見からは特に異常は認められなかった。
「バラさないとダメだな」ヴァン・ドラン少佐は言った。「よろしい。後ほど俺がじっくり調べる」
少佐はタヴェルン城に向かった。
タヴェルン城の城主であるタヴェルン公とその一族は、現在王都アルツィオラに長期滞在中であった。静養と称しているが、実は、ダコスタ峠からのシルヴァルド軍の侵入を恐れての逃避なのであった。領主がいなくても役人は残っているから、町は機能している。
その無人のタヴェルン城の、タヴェルン公夫妻の寝室だった部屋に、エルコがいる。エルコは、天井から逆さに吊り下げられている。そして、振り子のように左右に揺れている。左右には、大きく鋭い鉄の刃が、刃先をキラリときらめかせている。少佐がその刃の位置を、微妙に変えた。たちまちきらめく刃先が、エルコの鼻先すれすれの位置に来た。
「これをもう少しずらせば」少佐は淡々と言う。「この刃がおまえの顔面をきれいに削いでくれるぞ。さあ、おまえの目的は何だ」
「もう何度も言ってる通り」恐怖に顔を引きつらせつつも、ややうんざりした調子で、エルコは繰り返す。「婆ちゃんを村に連れ帰るためだ」
「それだけじゃあるまい」少佐は刃の位置をなおも爪先でじりじり動かしつつ言う。「あの女はいったい何だ」
「知らないよ」エルコは溜息混じりに答える。「勝手に僕に付きまとってるだけだよ」
「ほう、勝手に、ね。…まあしばらくそうして、どうすれば得かよく考えるんだな」
少佐はそう言い置いてその場を離れ、別室に行った。
そこには、広々とした深めの浴槽がしつらえられてある。言うまでもなく、タヴェルン公の浴室である。浴槽はぬるま湯が三分の一ほど入っている。ビリーアは全裸にされ、後ろ手に両手首を縛られ、足首も縛られているのだった。そして首から下はぬるま湯に浸かっている。いくら身をよじらせても、浴槽はタイル張りなので、ツルツル滑るばかりで、その外に出ることが出来ない。
少佐は浴槽を覗き込んだが、ビリーアの豊満な肢体を見ても、眉一つ動かさない。
「どうだ気分は」
少佐が聞くとビリーアは、恐れはすっかり通り越して、今はもう開き直ったふてぶてしいまなざしで、少佐を見上げた。
「悪い気分じゃないわ。両手両足が縛られてなければ、だけど」
「そうか」少佐はニヤッと笑った。「じゃ、もっと良い気分にさせてやる」
そう言って少佐はバケツを持ち上げ、その中味をドバドバと浴槽の中にぶちまけた。浴槽がたちまち黒く染まったかに見えた。
「アッ…何これ。気持ち悪いっ…。アッ、アッ…ア…気持ちいい…」
ビリーアが悲鳴じみた声を上げたのは最初のうちだけ、すぐに喜悦の声を上げ始めた。
浴槽の中にぶちまけられたのは、手の指ほどの大きさの、小魚であった。これが大量に浴槽内に入れられ、それはたちまち、全裸のビリーアの全身にたかり始めたのだった。
「ア…アッ」ビリーアの声は上ずり、表情は恍惚の極みに達している。「そ、そんな所ダメっ…。アッ、いけない。ダメ、そこは…」
「それは東洋の小魚で、こうして風呂に入れて一緒に入ると、身体の垢を食って綺麗にしてくれるのだ」少佐はまたニヤリとした。「しかしだ。こいつらはそれしかエサがない。どういうことか、わかるか」
「ま、まさか…」
ビリーアはギョッとして少佐を見上げたが、また「アッ…」と喜悦の声を漏らす。
「そう」少佐は淡々と言う。「このままずっとこうしていると、やがてこいつらは食うものがなくなって、おまえの皮膚を食い破り、やがてはハラワタを食らい始める」
「まさか」ビリーアは愛想笑いを浮かべる。「そんないつまでもここに放り込んで置く気じゃないでしょうね」
「おまえが希望するなら何日ここにいてもらおうと構わんよ」少佐は冷淡な表情を変えずに言う。「ちなみに、こいつらがハラワタまで食い始める最短時間は、一日半だ」
「もう話すことなんてないわよ!」ビリーアは叫んだ。「全部話したわよ!」
「おまえが婆さんの孫でないことはわかった。俺がウカツだった。おまえはシルヴァルド軍の情報屋だ。どうりで顔に見覚えがあると思った」少佐は表情を変えずに言う。「しかしあの男に近付いた理由は頂けんな。何がピンと来た、だ。そんなご都合主義な話があるか」
「情報屋じゃない。スパイよ」ビリーアは小魚に全身を突っつかれながら、うっとりとした表情で言う。「ご都合主義って言われたって、仕方ないじゃない。本当なんだから。もうどうせあたしは銃殺刑でしょうから言わせてもらうけど、だったらあんただって、どうやってこんなに大量の小魚を仕入れたのよ」
「そんなことはどうだっていい」
「ほら見なさい。同じことよ」ビリーアは勝ち誇ったように言う。「あたしがエルコと知り合って旅に出なかったら、話が先に進まないでしょ? あんただってあたしをこんな目に遭わせられないじゃない。違う?」
少佐はじいっとビリーアを見ていたが、不意に無言のまま部屋を出て行った。と、何かがドサリと倒れる音がした。そして、何の物音もしなくなった。ただビリーアの身体を舐め尽くす小魚たちのピチャピチャいう音がだけが響く。
「少佐…?」
ビリーアは呼んだが返事はない。ビリーアは急に不安に襲われ、叫び始める。
「少佐! どこ行ったのよ! 何でも話すから、ここから出してよ! ねえ、少佐ったらあ」
「まだ何か話すことがあったのか」
そう言ってニュッと顔を出したのは、エルコだった。
「あんた」ビリーアは驚いて素っ頓狂な声を上げる。「天井から吊るされてなかった?」
「あんなの魔法を使えばすぐ切れるよ」エルコはこともなげに言う。「ただ、この人がおっかないんで、されるがままになってただけさ」
「この人って」ビリーアは怪訝な表情で聞く。「少佐、そこにいるの?」
「ああ。ここで気を失って倒れてるよ」
「あらまあ。肩のケガをまったく治療してなかったものね。さすがの『黒い狼』も出血多量には勝てないようね」ビリーアはエルコに言う。「ねえ、せっかくなんだから、そんな所に突っ立ってないでこの縄も切ってよ」
エルコは浴室の入口に立ったまま、入って来ようとしないのだった。
「ねえ、早くしてよ」ビリーアは苛立って言う。「早くしないと、あたし、この忌々しいサカナどもにハラワタまで食い尽されちゃうのよ」
「だって、裸、でしょ」
エルコが言った。
「そうよ。決まってるじゃない。…あんた、照れてるの?」
エルコが答えないでいると、ビリーアが畳みかけるように叫ぶのだった。
「もう、じれったいなあ。…あんた、女の裸見たことないの?」
エルコはまたも答えない。ビリーアはますますイライラする。
「もう、どうでもいいから、早くしてよ。タダで見せてやるからさあ。って、あれ、どうしたの? どこ行くのよ」
エルコの気配が入口から遠のいたので、ビリーアは焦った。すると、隣室からエルコの声が言う。
「少佐を運んでもらうように、人を呼んで来る。あなたもその時一緒に助けてもらえばいい」
「ひどい…。あんまりだわ…」
そう言ったきり、ビリーアが静かになってしまったので、エルコはまた浴室の中を覗いた。ビリーアの頭の先だけが、深い浴槽から見えている。エルコは恐る恐る、その中を覗き込んだ。エルコはとたんに顔を赤らめ、顔をそむけたが、また恐る恐るそこを見やるのだった。
「な、泣いてるの…?」
エルコが問うまでもなく、ビリーアは浴槽の中で身体を震わせ忍び泣いているのだった。
「ひどいわ」ビリーアは声も震えている。「あたし、裸でこんな所に転がされて、こんな小魚どものいいエサにされてるってのに、何でそんなに冷たいの。ここの兵隊たちに、こんなみじめな姿を晒せって言うの? 何て薄情なの? それでも男? 婆ちゃんと会えたらもう私なんてどうでもいいの?」
初めはウソ泣きでもしているのかとエルコは半信半疑だったが、どうやらビリーアは本気で泣いているらしいとわかった。ビリーアの言っていることはまったく理不尽で、エルコは困惑するよりほかはない。とは言うものの…。
エルコはビリーアの身体を直接見ないよう目をそらしながら、右手を彼女の手首に差しのべた。すると、縄がパラリと切れた。ついで、足首にも同様にすると、やはり縄がパラリと切れる。エルコは慌ててそそくさと立ち上がり、ビリーアに背を向ける。
「あーあ、身体がすっかり生臭くなってる」ビリーアは自分の肌の匂いを嗅いで顔をしかめながら、立ち上がる。「ねえ、そこに突っ立ってるのなら、あたしの服、取ってよ」
いきなりガラリと変わったビリーアの口調に呆れてエルコは思わず振り返ったが、また慌てて前を見た。浴室の入り口近くに、ビリーアの服はきちんと畳まれてあった。エルコはそれを手に取ると、ビリーアの方は見ないようにしながら、それを渡す。
「ありがと」ビリーアは含み笑い気味に言う。「見たっていいのよ。縄切ってくれたお礼」
エルコは憤然として浴室を出た。そのまま、そこに伸びている少佐の脇を抜けて、部屋を出て行こうとするエルコに、ビリーアは呆れて声を掛ける。
「ちょっと、ホントに人を呼びに行くつもりじゃないでしょうね。こんな好都合をみすみす見過ごす気? 婆ちゃん連れて逃げる絶好のチャンスじゃない」
「負傷して倒れている人を放ってはおけないよ」エルコはビリーアに背を向けたまま言う。「それに、婆ちゃんが逃げないって言うんだ。見捨てちゃ置けないんだって。僕には何のことだか良くわからないんだけどね」
「婆ちゃんが言うって…」ビリーアは怪訝な表情になった。「あんたとあんたの婆ちゃん、話してるところ、見たことないんだけど」
エルコはビリーアに背を向けたまま、肩をすくめた。そして、
「早く服を着ないと、風邪ひくよ」
と言って、部屋から出て行った。