第8章(その2)
さて、ここでアバネの森における、エルコとビリーアのことを語っておこう。
とは言ったものの、実はこの場面におけるこの二人について、語るべきことは少ない。大して何もしていないからだ。
森の手前の二股で、まずビリーアがヴァン・ドラン少佐に捕まり、ほどなくして、ロバに乗って森に入ったばかりのエルコも捕まってしまった。二人とも少佐に身体検査され、ビリーアはマントの下に隠し持っていた拳銃を没収された。エルコはビリーアが銃を持っていたことに驚いた。
ロバのアーシャは、そこで解き放たれた。アーシャは嬉々とした晴れやかな表情で、森の外へと駈け出して行った。今頃は、自由を謳歌しているに違いない。それとも、再び森に迷い込んでムラサキビルの餌食となってしまったものか…。もはやそれは知る由もない。
「二人ともマントを脱げ」
少佐は命じた。エルコもビリーアも唯々諾々とその命に従う。少佐はそこにあった木の枝を二本折って、それぞれを二人に渡す。
「そのマントをその枝に巻きつけろ」
二人が言われたとおりにすると、少佐は外国製のライターを取り出し、そこに火を点けた。そして言った。
「ヒルの餌食になりたくなければ、森を抜けるまでずっとこれを掲げていろ。少しでも怠けたら、ヒルの奴が落っこちて来て、貴様ら死ぬと思え」
二人とも、まったくヘビに睨まれたカエルであった。その迫力に呑まれ縮み上がり、反抗はおろか恐ろしさで身体を震わすことさえ出来ずにいる、といった感じで、これまた唯々諾々と仰せに従うのだった。
二人を後ろに乗せた少佐は、とたんに二人の存在などまるっきり忘れたように全速力で馬を駆けさせ始め、二人は振り落とされないように必死にしがみついているのがやっとだった。片手は渡された即製たいまつを持っているのだから、なおさらだった。もちろん、三人の間に会話なんてあろうはずがない。現代の感じで言うなら、乗りたくもない人と一緒に乗りたくもないジェットコースターに無理やり乗せられている感じ、だろうか。
で、あの補給部隊がムラサキビルに襲われ右往左往している、阿鼻叫喚の修羅場に至った。その間も二人はずーっと少佐の後ろに乗せられっぱなしで、少佐を怖がったらよいのか、ムラサキビルを怖がったらよいのか、それとも流れ弾を怖がったらよいのか、自分たちでも何が何だかわからぬ状態であった。ただもう必死でたいまつを掲げ続けていて、腕がすっかりくたびれて重くなってしまったのだった。森を抜けてからエルコは、自分の掲げていたたいまつがとっくに消えていたことに気付く有り様であった。
ようやく月光にきらめくヨアシュ湖が見えて来て、さらにそのほとりに集合している補給部隊の姿も見えて、ホッと一息ついたのも束の間、馬を下りた少佐が、駆け寄って来た(泣いているようにエルコには見えた)軍服を着た女の子を張り倒して怒鳴りつけるのを見て、エルコは心が凍りついた。
「いきなり殴るなんて、ヒドいな。しかも女の子を…」エルコは思わず呟いた。「さすが軍隊だな」
「うーん」ビリーアが言う。「あたしも状況がよくわかんないけどさ。あの子中尉なんだね。て、ことは見る限り少佐以外じゃあの子が一番上官な訳だ。あの少佐を撃った三白眼の将校は少尉だったからね。つまり、さっきの森の中で少佐が駆け付けるまでは、あの子が指揮権を持っているし、ああいう緊急事態だから、当然それを行使しなければならない。どこの国でもそれが軍規の第一鉄則だからね。逆に言うと、あの場で兵士が何人も死んでいる。その責任は、理由はどうあれあの子に掛かって来る。それを、ああやって兵たちの前であの子を殴って怒鳴りつけることによって、かえって少佐がさらにその上の責任者であることを兵たちに印象付けようとした…ってことじゃないかねえ。別に少佐の肩持つ訳じゃないけど、あたしにはそう見えたけどね」
「へえ…」エルコはまじまじとビリーアを見る。「詳しいんだね」
「いや、まあ」ビリーアは照れ笑いを浮かべる。「仕事がら、ちょっとね」
「よくわからないね」エルコは丸眼鏡を指でずり上げつつ言う。「僕には軍隊なんてとてもムリだってことだけはよくわかったけど」
「そんなことよりさあ」ビリーアはエルコの脇腹を突っつく。「ヤバいから早く逃げましょうよ。スキを見てさあ」
「その必要はない」エルコは涼しい顔をして言う。「もう僕の目的は達成されているから」
ビリーアはキョトンとしている。エルコはニッコリ笑ってソーナ婆さんの方を指さし、ビリーアに囁いた。
「僕のお婆ちゃんだ。僕はお婆ちゃんを探していたんだよ」
「ハアーッ!?」
思わずビリーアは大声を上げ、慌てて自分の口を塞いだ。だが遅かった。
少佐がこちらを見た。少佐は一瞬にして、婆さんを見るエルコのまなざしと、エルコを見る婆さんのまなざしに気付いた。少佐は口辺に不気味な笑みを浮かべて、馬上の二人の方へ近付いて来る。
と、ビリーアは視界に入ったものに気付いて思わず叫んだ。
「少佐、危ない!」
同時にソーナ婆さんも「危ない!」と叫んでいた。
ゲレルが、少佐に向けて拳銃を構えたのだった。しかしその引き金が引かれるより早く…。
パーーン…!
とっさに反応した少佐は拳銃を抜き、撃っていた。ゲレルは銃を取り落し、右手を押さえてその場に屈した。
「モン=ヘルベール中尉!」少佐が怒鳴った。「そいつの銃を拾え!」
「ハッ!」
リュテカは弾けるようにピュッ! と飛び出し、ゲレルの銃を拾う。
「愚か者! 自分の銃を抜け!」
再び少佐に怒鳴られ、リュテカはまた「ハッ!」と言って自分の銃を抜き、ゲレルに向ける。少佐は他の兵たちの方に銃を向けながら、ゲレルとリュテカの傍らに来た。
「兵たちの数は、半分以下に減ったか。何を企んだか知らんが、高くついたな。…ここからは全員、俺の指揮下に入る。勝手な行動をする奴は、容赦なく射殺する。それと、俺とモン=ヘルベール中尉以外は、タヴェルンに着くまで全員武装解除する。その上で、小休止ののち、ただちにタヴェルンに向けて出発する」
少佐はそこでまた怒鳴った。
「リュテカ、返事は!?」
「ハッ! 了解しましたっ!」
リュテカは右手に銃を構えたまま、左手で敬礼する。
それから、少佐とリュテカは兵士たちから武器を没収し、リュテカが操って来た、唯一荷物の無事な荷馬車にそれを積んだ。
「荷物の燃えた荷馬車はここに置いて行く。馬だけ連れて行く。兵士たちはゲレルも含め全員歩け。先程も言ったように、変な行動をしたら即射殺する。俺が後ろからついて行くからな」
そう言って少佐は、何かに気付いたように、三台の荷馬車をしげしげと見比べている。リュテカはそれに気付き、「どうしました?」と聞いた。
「変だと思わんか」少佐は三台の荷馬車の車輪を指さす。「どれも同じように砂地に沈んでいる」
「それが何か…?」
「愚か者」少佐は呆れたように言う。「荷物が燃えて軽くなったはずの荷馬車と、荷物が無事な荷馬車の車輪が、どうして同じように砂地に沈んでいるんだ。重さが違ってしかるべきだろう。どれ」
少佐は燃えた荷馬車の隅をグイッと押した。本来なら、軽く動くはずのそれは、ビクとも動かない。
「重いな」少佐はニヤッと笑って言った。「おまえの目的は、これか」
少佐はゲレルに言ったが、ゲレルはプイッと横を向いて答えない。
「まあいい。タヴェルンに着いたらとっくり調べるさ」
少佐が言うその脇で、リュテカが「あの…」と小声で言い掛けた。しかしそれは、さらにその後ろからの、「ちょっといいかしら」と言う大声にかき消された。
「何だ」
「あたし、こちらの部隊とは何の関係もないの。もちろんこの眼鏡のボクともね」ビリーアは言った。「だから、解放してもらえないかしら」
いけしゃあしゃあとそう言うビリーアを、エルコは唖然として見やる。
「ダメだな」言下に少佐は言った。「銃を持っているのが変だし、だいたいが、さっき俺のことを少佐と呼んだな。なぜ俺が少佐だと、おまえが知ってるんだ」
ビリーアはしまった、という顔をした。
「それに、おまえの顔には見覚えがあるしな」少佐はほくそ笑む。「タヴェルンに着いたら、たっぷり聴くことがあるようだな。フフッ、楽しみだぜ」