第8章(その1)
漆黒の闇に沈む森の中を、二つの炎が全速力で駆け抜けて行く。
二つの炎…。燃え上がる二台の荷馬車の間で、リュテカが操り、ソーナ婆さんと生き残った兵たちが乗る荷馬車もまた、全速力で駆けている。生存した兵は八名…すなわち部隊の半数であった。うち、前後の炎上しながら走る荷馬車を操る兵がそれぞれ一名ずつ、それにこの時点ではまだ生存のはっきりしていない隊長のゲレル少尉を除く五名が、リュテカ操る荷馬車に乗っていた。
あの修羅場を抜けたからと言って、危機が去った訳ではない。兵士や荷馬車のあちこちに付着した血や、リュテカや兵士たちの負傷による血が、森じゅうのムラサキビルを目覚めさせてしまったかのように、荷馬車が駆けて行く先へ先へと、紫の光のトンネルが広がってゆくのであった。
しかしそれも、勢いよく燃える二つの大きな火柱のおかげか、そして荷馬車が全速力で駆け抜けて行くせいか、実際にムラサキビルが落ちて来ることは、あまりない。だが、油断していると…。
「ギャーッ」
後方で叫び声が聞こえた。「ヤレスの奴がやられた!」とリュテカの背後の荷台で兵の一人が叫んだ。ヤレスとは、後方の炎上している荷馬車を操っている兵のことらしかった。
しかし、リュテカは自分の馬車を止めはしない。なぜなら、ヴァン・ドラン少佐が「一時も休まず全速力で行け!」と命じたからだった。今も昔も、リュテカにとってヴァン・ドランの命令は絶対なのだ。
しばらくして、「アッ、隊長殿!」と言う兵の叫びが、またも背後の荷台から聞こえて来た。
「あの隊長が、後ろの馬車を操ってるみたいだ」ソーナ婆さんが言った。「あの三白眼の隊長、生きてたんだねえ。悪運の強いこと。あの黒ずくめの大男は、どうなったことやらねえ」
婆さんの相手をしている余裕は、今のリュテカにはない。だからその時、婆さんの表情がそれまでになく曇っていたことには気づかなかった。
その婆さんは、荷馬車を操るリュテカの真横にあって、振り落とされまいと必死に御者台にしがみついていた。兵たちは、荷台に積まれた荷物の間に潜り込むように、窮屈な姿勢を取り続けている。
そして、隊はようやく森を抜けた。夜のこともあり、必死でもあったので、リュテカは森を抜けたことにしばらく気付かなかった。しかしそのことに気付いても、リュテカは減速などしない。もちろん、ヴァン・ドランの命令があるからだ。
やがて、山あいにかすかにきらめくものが見えて来た。それは、小さな湖だった。その湖面が、月光を受けてきらめいているのだ。ヨアシュ湖だった。
アバネの森の手前で二股に分かれた道は、このヨアシュ湖のほとりで再び一つになる。先頭でまだ炎上し続ける荷馬車も、リュテカの操る荷馬車もようやくゆるゆると減速して、ヨアシュ湖の岸辺へと乗り入れる。すると、後ろの荷馬車から怒鳴り声が聞こえて来た。
「ダメだ! 休息などしているヒマはない! 全員で火を消して、ただちにタヴェルンに向けて出発するのだ!」
ゲレルだった。まだこちらも炎上している荷馬車の御者台に、炎を背に仁王立ちしている。リュテカも自分の荷馬車の御者台に立って、その方を見やり、負けじと怒鳴る。
「ヴァン・ドラン少佐はここで待つように命じました」もはやゲレルなんか怖くなかった。「火は直ちに消しますが、出発はしません!」
「少佐は死んだ」ゲレルは言った。「この目で見た」
「少佐はこんなことでは死にません」リュテカはきっぱりと言った。「上官として命令します。ゲレル少尉、ここで休息し、ヴァン・ドラン少佐を待ちます。それと、あなたには森の中での件で聞きたいこともあります。でもその前に、全員で火を消します。さあ、みんな!」
生き残った六名の兵は、戸惑った顔をお互い見合わせたが、リュテカとソーナ婆さんが、荷馬車にあった水を汲めそうなもの…バケツとか、鍋の類だが…を持って、湖の方へ駈け出して行くのを見て、自分たちもそれぞれタライやらバケツやらを持って、湖の方へ駈け出した。湖のほとりで婆さんが全員に何か言っている。すぐに、リュテカを要にして、婆さん、兵たちがそれぞれ炎上している馬車に向かってVの字の形に二つの列を作った。リュテカが水を汲み、それを次の二人に交互に渡す。それをさらに次の者に渡す。Vの字型のバケツリレーが始まったのだった。
「クッ…」
ゲレルは一瞬、憤怒の表情になったが、御者台から飛び降りると、「貸せ!」と言っていちばん端の兵が受け取ったタライの水を、ひったくるように炎上する荷台へとぶちまけた。
「ほら、次!」
ゲレルは空いたタライを兵に渡し、やって来たバケツを受け取った。
火はしかし、なかなか消えないのだった。1時間以上も水をぶっかけ続けて、ようやく火勢は衰えたものの、当然補給物資は丸焼けで、まったく使い物にならない。
そこに、重低音の蹄の音が響いて来た。やがてようやく、黒い大きな馬に乗った、ヴァン・ドラン少佐が現れた。その後ろには、疲労困憊の極みといったような顔つきでぐったりしている、エルコとビリーアの姿もある。
リュテカは思わず涙ぐんでいた。そして、思わず笑顔がこぼれた。思わず駆け足になって、少佐の方へ向って行った。少佐は馬から下りて、これもリュテカの方へと近付いて来る。そしていきなり、リュテカの頬を右手の甲で張り飛ばした。リュテカは岸辺の砂地の上に倒れた。
「貴様、なぜ銃を抜かなかった!」少佐は怒鳴った。「あの場では貴様が最上位の将校だった。当然、隊長に代わっておまえが指揮を取るべきだった。それがあのザマは何だ。貴様の責任だぞ」
その場が一瞬にして凍りついた。ゲレルも兵たちも、エルコもビリーアも、呆然とこの様子を見ていた。
ソーナ婆さんが駆け寄って来て倒れているリュテカを抱き起こし、キッと少佐を見上げ、睨み据えた。
「女の子を殴ることはないだろう」
婆さんが吐き捨てるように言うと、少佐は冷厳に、
「その必要があるからです」
と答えた。そして婆さんに向かって敬礼する。婆さんは「フン」とそっぽを向く。
「いいんです」真っ赤になった右の頬を押さえながら、リュテカはよろよろと身を起こす。「確かに、私の失敗ですから」
「いいや」婆さんは首を横に振る。「銃を使うなと言ったのは私だよ。リュテカはそれを忠実に守っただけだ。殴るなら、あたしを殴ればいい」
「そんな必要はありません」
少佐はまた冷厳に言う。婆さんはさらに返す。
「必要必要って、大した自信だね」
「あなたと今その点を議論する気はありません」
「そうかい。あんたのその自信が裏目に出なきゃいいけどね」婆さんは眉をひそめた。「で、その肩の傷はどうしたね」
リュテカもハッとして少佐の肩を見る。
「あなたには関係ありません」そうまた冷たく言った少佐は、フッと笑って付け足した。「ご忠告は受け取っておきます」
「教官…いえ、少佐。お話が…」
リュテカが言いかけた時だった。
少佐の背後で、「ハアーッ!?」という素っ頓狂な声が聞こえた。
その方を見た少佐は、ついで婆さんを見やり、再びその方を見やり、そしてニヤリと笑って「そうか」と言った。そしてその方へ、ニヤニヤ笑いのまま、歩き出した。
そこには、少佐の黒い大きな馬がいた。そしてその上には、顔をひきつらせて近付く少佐を見ている、エルコとビリーアがいるのだった。
と…。
「少佐、危ない!」「危ない!」
同時に声が上がり、次の瞬間。
パーーン…!
湖畔に、銃声が響いた。