第7章(その2)
それからしばらく経って…。
前の場面と同じ場所、すなわち道が二股に分かれている地点に、エルコがしゃがみ込んでいる。
もちろん、補給部隊もリュテカたちもとっくに出発した後である。
ビリーアは道の端にくたびれ果てた様子で座り込んでいる。その傍らで、ロバが呑気に草を食んでいる。ロバの様子は愉しげで、笑顔を浮かべているようにさえ見える。
昨夜、あれからしばらくして、ロバが真夜中の道の真ん中で、まったく動かなくなってしまった。脅してもすかしても、もはや頑としてロバは動こうとはしなかった。仕方なく下馬…いや下ロバした二人は、代わりばんこにロバを引っ張りつつ、ここまで歩いて来た。二人が背に乗らなくなると、またロバは従順について来た。二人はここまで一睡もしていない。
「ねえ、もうお祈り終わったぁ?」
ビリーアが実に気だるい調子で聞くと、エルコは例によって何かを押し戴くような格好をして立ち上がった。エルコはロバの手綱を取ると、ビリーアに向かって「じゃあ、行こう」と言って、右の道の方へ歩き出した。ビリーアは慌てた。
「ちょっと、どこ行くつもり?」
エルコは黙って右の道の先を指さす。
「ちょっと待って」ビリーアは叫んだ。「その先って、有名なアバネの森なのよ。知ってるの? 吸血ビルがウヨウヨいるのよ。よほどの物好きかバカでない限り、左へ迂回するのが世の常識なのよ」
しかしエルコは議論する気もないようで、肩をすくめると、「さあ、アーシャ、行こう」とロバに声を掛けて手綱を引き、とぼとぼと右の道を歩き始めた。アーシャとは、エルコがロバにつけた名前である。
「待ちなさいよ」
なおも叫ぶビリーアに、エルコはうんざりしたように立ち止って、言う。
「嫌なら一人で左の道を行けばいいじゃないか」
そうして、ロバを引いたエルコは右の道を行ってしまった。その姿が見えなくなるまで、ビリーアはその場で腕を組んで仁王立ちしていたが、やがて「チッ」と舌打ちして、胸元からタバコを取り出した。火を点け、二三口吸うと、それも忌々しげに捨てて、同じ右の道を歩き始めた。そのとたんだった。
「待て」
野太い男の声が、背後から聞こえた。
聞き覚えのあるその声にビリーアの頭の中は一瞬にして真っ白になり、全身に冷たい汗が滲んだ。ビリーアは操り人形のようなぎこちない動きで振り返った。
そこにそそり立つ、巨大な黒い影を、ビリーアは見た。
すでにもう、三時間以上は確実に経つのだが、まだ森の出口が見える気配はない。それどころか、森はますます深く、薄暗くなってゆく。まるで何かの底に向かって、ずるずると落ちて行くような錯覚にさえ襲われる。確かにアバネの森はとてつもなく深い森だった。
ソーナ婆さんは編み物を続けている。
「また編み物を変えたのね」リュテカは不安を紛らすためもあって、婆さんに聞いた。「ところで編み終わったのは、どこへ行ったの?」
するとソーナ婆さんはニヤッと笑って言った。
「救いの神に、くれてやってるのさ」
リュテカはそれを冗談と解し、「フフフッ」と笑ってやり過ごした。
森の木々が遮っているので、今太陽がどの位置にあるのかよくわからない。木々の間から差し込む光だけが、かろうじて今がまだ昼間であることを伝えている。
「ムラサキビルって、どんなものなの?」
リュテカはやはり不安を紛らすために婆さんに聞いたが、その目的のためには極めて不適当な質問だったと、言ってしまってから後悔した。しかし婆さんはそんなリュテカの不安を知ってか知らずか、話し出すのだった。
「ムラサキビルは夜行性で、しかも夜光性だ」婆さんは淡々と話す。「紫色にボウッと光るんだそうだ。そしてネオンサインのように、赤い光の筋が点滅しながら身体の上を走るんだ。それが幾万って数で森に出現するさまは、不気味でもあるがとてつもなく妖しい美しさに満ちた光景でもあるそうでね。もちろん、あたしは実際に見た訳じゃないよ。数少ない生存者がそう言ったんだ。でも、その人は続けてこうも言った。それが、とてつもない悪夢の始まりだった…ってね。学者によると、そうやってムラサキビルが身体を光らせるのは、共食いを防ぐためだそうだけどね。…おや、どうしたね」
リュテカがギュッと目をつむり、肩をすくませ、ワナワナと細かく震えていた。
「ああ、怖がらせちまったかい。それは悪かったねえ」婆さんは溜息混じりに言う。「でもねえ、こうなった以上は、ちゃんと知っといた方がいいと思うよ。…ホラ、ちゃんと前を見ないと、森ん中に突っ込むよ」
リュテカは慌てて目を開けて、手綱を操る。
「篝火を焚かないのかねぇ」婆さんが言う。「篝火を焚いてりゃ、ヒルは寄って来ないがね」
しかし補給部隊は一向に篝火を焚く気配はなく、一方で時間が経つにつれ森はどんどん暗くなって、不気味な涼しさを増して行く。森が深くなったというより、だんだん夕刻に、そして夜に、近付いているのだろう。
やがて兵たちは篝火ではなくカンテラを灯し始めた。馬に乗ったヴィガスがカンテラを持って、リュテカたちの方にやって来た。ヴィガスは例によって人の好い笑顔を浮かべながら、カンテラを婆さんに渡した。婆さんはヴィガスに聞いた。
「なぜ篝火を焚かないんだい?」
「運んでる荷物の中に燃料油があるからね」ヴィガスは答えた。「間違って引火しちゃまずいから、火力の弱いカンテラを使うのさ」
「やれやれ」ヴィガスが去ると婆さんはまた溜息をついた。「それじゃテコでも篝火は焚きそうにないねえ」
そうして、しばらくの間ゆるゆると進んでいた部隊だったが、突然ピタッと止まった。
「おやまあ、こんな所で休憩かい? こんな所で油売ってちゃ、マズいよ」
そのことさらに呑気を装うかのような婆さんの口調に、リュテカは少々苛立ちを覚えた。
「ちょっと様子を見て来ます」
と言って御者台から下りようとしたリュテカのマントの裾を、婆さんの手が素早くハッシとつかむ。
「下に降りちゃダメだ。ヒルは土の中にもいるんだよ」婆さんは言う。「ホラ、向こうから来たから大丈夫」
見ると、またヴィガスが馬に乗ってやって来た。しかし今回はヴィガスは笑っておらず、少々困ったような顔をしている。
「先頭の荷馬車が脱輪したらしい」ヴィガスは馬の上で肩をすくめた。「ちょっと荷物が重過ぎたようだ」
ヴィガスが再び去ると、婆さんはリュテカに「マントをお脱ぎ」と囁いた。
「え?」
「あたしもこのショールを取るからね」婆さんは実際ショールを取りながら言う。「燃やせるもんを用意しとくんだ。こうして止まっているのが一番危ないんだよ。襲われるのを待ってるようなもんだからね。銃はまだしまっておきな。このカンテラがあるから、火の方は大丈夫だからね。いざという時のために、銃はとっておくんだ」
婆さんの声は緊迫していた。リュテカは不安ではあっても実感は湧かなかったが、とりあえず婆さんの言うとおりマントを脱いだ。アルツィオラの北の門を発してこの方、マントを脱ぐのは初めてだった。
「おやまあ」婆さんが呆れた声を出す。「あんた、律儀だねえ」
リュテカはマントの下に白の軍服を着ていたのだった。
「これが一番機能的で、楽なんです」リュテカは照れたように笑った。「軍人になってからは、すっかりお洒落に縁遠くなっちゃって…」
しかしマントを脱ぐと、森の涼しさが身に染みる。リュテカはブルッと震えた。
その瞬間、視界の隅に、何かがボウッと光ったように見えた。
「さて、お出ましだよ」婆さんの声が低く沈む。「いいかい。ここから先は、自分の身は自分で守るんだ」