第6章(その2)
ソーナ婆さんが一人ぽつねんと待つ荷馬車まで駆け戻って来た時には、リュテカはもうすっかりベソをかいていた。マントの裾で涙を拭うが、涙はあとからあとから溢れて来る。
「やれやれ、大丈夫じゃなかったようだね」御者台のソーナ婆さんは、真っ暗な中でも編み物をしていたのだが、その手は止めずに言う。「さては苛められたね。…男ってのはどうも狭量な所があるからねぇ。ま、女もそうだけど。ここはまあ、こらえるしかないねぇ。それにまあ、泣けるぐらいならまだ余裕があるってもんさ。本当に悲しいと、涙なんか出やしないからね」
そう言いながら婆さんは、しかし編み物する手は休めないのだった。その隣にはい上がったリュテカは、なおもグスグスズルズルと鼻をすすっている。時々、チーンと鼻をかむ。
そこに、こちらに近付いて来る人影があった。
やって来たのは、暗い中なのでよくわからないが、あまり若くはない兵だった。軍服の上は脱いでシャツ姿であるが、刺青などはしておらず、何より人の良い笑みを浮かべて、両手に湯気を立て匙を突っ込んだ椀を一つずつ持っている。兵士というより、朴訥な農夫といった感じだった。
「まだメシ食ってないんだろう? 俺たちの食いもんで、口に合わないかも知れないがね」その兵はしゃがれ気味だが、人の良さが滲んでいる口調で言いながら、椀を差し出した。「アツアツだから、身体が温まる。何もないよりマシだろう」
「こりゃありがとう。すまないねぇ」ソーナ婆さんは椀を受け取った。「ありがたく頂戴しますよ」
リュテカも鼻水をすすりながら「あでぃがどう…」と言って椀を受け取った。
「俺はヴィガスという上等兵です」その兵は言った。「隊長のゲレルとは、同じ村の出身でね。どちらも口減らしのために、まあ軍隊に売り飛ばされたようなもんでね。俺もゲレルも、十三のガキだった。それからかれこれ、二十何年か経ったが、あいつは曲がりなりにも将校で隊長。こちとらはいまだ上等兵止まり。ヘヘッ、余計なことを言っちまった」
ヴィガスはまた人の良い笑みを浮かべて、頭をかいた。
「まあ、ゲレルの奴ですが、あれで部下思いの奴でね。信望は厚いんですよ。…とは言え、あいつも人間だ。やっぱりねえ、自分よりずっと若くて軍人としての経験も少なくて、、しかも女の子なのに上官ってのが、何て言うか、面白くないんでしょうねぇ。それに、女の子の将校にヘラヘラしてたら、この隊の荒くれどもに対して示しがつきませんや。まあ、そういうことなんで、中尉殿、一つ、大目に見てやって下さい。あ、いけねえ。俺、敬礼するの忘れてた」
そう言ってヴィガスは慌てて真面目くさった顔になり、直立不動で敬礼した。リュテカはつい吹き出して、、食べかけの椀を傍らに置いて敬礼を返す。ヴィガスはニッと笑った。
「じゃ、これで。あんまりここで油売ってると、ゲレルの奴にどやしつけられちまうんでね。食い終わったら椀はその辺に置いといて下さい。朝にでも回収しに来ますから」
「とってもおいしいよ」ソーナ婆さんが言った。「ちょっと塩辛くてね。懐かしい味がする」
「へえっ、お婆さん、軍隊のメシ、食ったことあるんですかい?」
ヴィガスが言うと、婆さんは手で口を押さえ、ホホホと笑いつつ、「これだけ生きてるとね、いろんな経験をするんですよ」と答えた。
ヴィガスはまた敬礼すると、人の良い笑顔を残して去っていった。
「ああいう友達がいるんだから、隊長さんだって決して悪い人じゃないんだよ」
婆さんは食べ終わった椀を置くと、言った。婆さんは傍らに置いた編み物を再び取り上げ、編み始めるのだった。もう泣きやんだリュテカは、不思議そうに聞く。
「こんな暗い中で、よく編めますね」
「長年やってるから、手が覚えてるんだよ」婆さんはニヤリと笑う。「魔法だと思ったかい?」
リュテカはこっくりうなずいた。
「魔法ってのはね、例えばこんなのさ」婆さんは再び編み物を傍らに置いた。「ちょっと背中を失礼するよ」
婆さんの手がリュテカの背中をさすり始めた。
すると、次第にリュテカの気持ちが何か温かくて爽快な、不思議な心地よいもので満たされ、身体が何だかのびやかになってゆくように感じられるのだった。
「何だか、気持ちがおさまって来ました」リュテカは続けて聞いた。「これがソーナさんが村でやってる「治療」ですか?」
「治療なんて大層なものじゃないよ」婆さんはリュテカの背をさすり続けながら言う。「治療なんておこがましい。人の心を「治療」するだなんてね…」
ソーナ婆さんは苦笑した。リュテカがこちらに顔を向けて、真剣に話に聞き入っていたからだ。婆さんはリュテカの背をぽんぽんと叩いた。
「今日はここまで。明日は早いんだろう? もう寝ようね」
同じ頃、ドゥヴァルの町よりもう少し…いや、かなり離れた、北東への街道である。
夜中だというのに、ぽっこらぽこらと、大人二人を乗せたロバが行く。ロバは相変わらずうつむいているのだが、その表情はもはや哀しげと言うより、苦しげだ。
背中に乗ってる二人の大人はと言えば、そんなロバの苦衷などとんと意に介する様子もない。
ビリーアはエルコの背にもたれかかって、くかーと大口開けてイビキをかいて、ヨダレ垂らして眠りこけている。時折ずり落ちそうになるのを、エルコは背中を揺すってわざわざ直してやっている。ビリーアのヨダレが己のマントの背にベッタリ付いていることなど、エルコは知る由もない。
ビリーアがふと目覚めた。ヨダレが垂れているのに気付き、慌てて手の甲で拭く。目覚めたとたん、ビリーアは文句を言い出す。
「ちょっと、一体どこまで行くつもりなのさ」
「ドゥヴァルって町まで行かなきゃならないんだ」
面倒くさそうにエルコは答える。
「ドゥヴァルって…」ビリーアは真っ暗な周囲をきょろきょろ見回す。「今ここどこよ」
「さあ。ただまだそのドゥヴァルって所じゃないのは確かだ」
「どこかで適当な旅籠に泊りましょうよう」
ちょっと甘えかかるようにビリーアが言うのを、「いいや」と即座にエルコは却下する。
「ドゥヴァルまで行く。あなたがそうしたければ、勝手にそうすればいいじゃないか」
ビリーアはフッと笑った。
「そんなこと言って、眠りこけてるあたしをどこかに放り出そうとすれば出来たのに、しなかったじゃない」
「たとえ誰だろうと、女性をその辺の道っぱたに放り出して行く訳にはいかない」
「ふうーん」ビリーアはニヤニヤ笑った。「優しいのね、あんた」
と、その時だった。
背後から微かだが、重く響く音が聞こえて来た。それは、次第に大きくなって近付いて来る。蹄の音だった。エルコもビリーアもギョッとして、思わず背後を見やる。しかしそこには夜の闇があるばかりで、何も見えない。音だけが、近付いて来る。
突然、闇の中から黒いものが躍り出た。
「ワッ」「ゲッ」
エルコとビリーアがそれぞれ叫ぶ。黒いものは、全速力で彼らの傍らを、うなりを上げて通り過ぎてゆく。それは、黒い大きな馬に乗った、黒ずくめの男であった。重低音の蹄の音が闇の中恐ろしげに轟き渡る。そしてたちまちその姿は再び闇の中に呑まれ、蹄の音だけが、次第に小さく遠ざかってゆく…。
「く、『黒い狼』…」ビリーアが思わず呟く。「どうしてこんな所に…」
「え?」怪訝な顔でエルコはビリーアを見る。「何のこと?」
「『黒い狼』よ。ギル・ヴァン・ドラン少佐。モンティバルの腕利きスパイ、工作員…。彼がこんな所にいるなんて…」
ビリーアの声がこわばり、表情が真剣になっていたので、むしろエルコはその方に驚いていた。何か言おうとしたエルコの肩を、ビリーアの手がグッと掴む。
「彼はとても危険な男よ」ビリーアは大真面目な顔で言う。「あたしもだけど、あんたも気を付けなきゃだめだわ。…『黒い狼』が出張るなんて、これは…思った以上に大事だわ…」
そして改めて、ビリーアはエルコに言った。
「あんた、一体どんなとんでもない秘密を隠してるって言うのよ…」