第5章(その2)
『快楽の起源亭』を急いで出たビリーアは、そのまま北の門に行かず、まずは市内のとあるアパートに向かった。
そこは、ビリーアの自宅であった。別にビリーアは根なし草の放浪者ではない。ちゃんと市当局に税金も払っている(ただし市民登録するための書類は偽造だが)。
ビリーアはそこでずっと被りっぱなしの赤毛のカツラを脱ぎ捨て、青のドレスも脱いで、栗色の地毛を急いで結い上げ、地味な農夫風の服とそれに見合った灰色の地味なマントを着た。顔を洗って化粧を落とし、それからタバコに火を点け、二三口吸って消す。その他必要なものと、隠してある金を財布に入れて、再び急いで自宅を出た。今後いつ戻るか分からないし、もう戻らないかも知れないが、日頃から寝に帰るだけのような部屋なので、何の未練も愛着もない。正味十分ほどの自宅滞在であった。それでも鍵だけは掛けてゆく。
北の門の前の広場に着いたのは、それから三四十分ほど後だった。案の定だった。北の門の前には旅人の群れがズラーッと並んでいた。日の出から時間が経てば経つほど、この混雑と渋滞はひどくなる。それを知っている旅人は日の出前のまだ夜中から、この広場で開門を待っている。陽が昇って開門してからやって来るのは、それほど急いでいない旅人か、そういう事情を知らない田舎者のどちらかであった。
その旅人の列を目で追っていたビリーアの顔に、満足げな笑みが浮かんだ。そのニヤニヤ笑いのまま、ビリーアはある方に向かって歩いて行く。
「どうしたの、このロバ」
不意に声を掛けられて、エルコはギョッとした。まだエルコ一人しか背中に乗っていないが、すでにロバは哀しげな表情でうつむいていた。エルコはしばらくの間不審げに、丸眼鏡の奥のエメラルドグリーンの瞳で、ビリーアのことを凝視した。
「どちら様ですか?」
挙句にエルコは言った。その反応に充分満足したビリーアは、得意げにエルコの鼻先に指先を突き付けて、「あ・た・し」と言った。ようやく理解したエルコは、たちまちげんなりした顔になった。それに構わずビリーアは、ロバをしげしげと見やって言う。
「このロバ、貸し馬屋で借りたの? いくらで?」
「20カラン」エルコは不承不承といった調子で言う。「これしかなかったんだ」
「ハハッ」ビリーアは嘲笑う。「ボラれたね。ロバなんて、5カランがいいところよ。あんたもう、ほとんどお金ないでしょう。悪いけど、財布の中身は改めさせてもらったよ。だから、はいこれ」
ビリーアは10カラン銀貨を差し出した。
「こんなもの、もらう義理はないわ。ごめんなさい、あとの10カランは、あの旅館のハゲおやじにお礼であげちゃった。親切にあんたの行く先を教えてくれたので」
エルコは天を仰いで舌打ちした。エルコは口止め料に5カラン銅貨をおやじに渡していたのだ。
ビリーアは自分のマントの下から財布を取り出した。
「あ、これはあたしの財布」しっかり紐で首からぶら下げているその財布を、ビリーアは振って見せた。「何よその顔。あたしが一文無しだと思った? 誰もそんなこと言ってないわよ。まあ、あたしもお金持ちって訳じゃないけど、今のあんたよりはお金持ってるわよ」
ジッと疑わしげなまなざしをビリーアに向けていたエルコは、やがて呻くように言った。
「…どうするつもりだ」
「あんたがどこ行くつもりか知らないけど、一緒にお伴しようって言うのよ」
「なぜ?」
エルコに問われてビリーアは肩をすくめた。
「あんたにピンと来るものがあるから」ビリーアは正直に言った。「あんたの目的は、多分あたしの目的とも一致する。しなくたっていいのよ。あんたにくっついていけば、きっと何かあるはずだから」
「そんなこと、どうしてわかる」
「だってあんた、挙動不審だもの。何か後ろ暗そうな魔法使い。何もないはずないわ」
「別に僕は後ろ暗くない」エルコは憮然として言った。「間違ったことをしている訳じゃない。間違っているのは、軍隊と軍人たちだ!」
ビリーアは慌ててエルコの口を掌で塞いだ。それだけで、エルコは真っ赤になって気勢を削がれたようだった。ビリーアはエルコの耳元で囁いた。
「大声でそんなこと言わないの」
そしてビリーアは、勝手にエルコの後ろに乗っかった。
「ロバちゃん」ビリーアはロバの身体を撫でて言う。「二人はちょっとキツいだろうけど、ガマンしてね」
「な、何してるんだ」エルコは叫ぶ。「勝手に乗るな。下りろ」
「あたしを連れてった方が、何かと便利よ。…あんたの通行証、どうせ偽造なんでしょ? 見せてよ」
エルコは素直に通行証を取り出して後ろ手にビリーアに渡した。通行証には紐が付いていて、首からぶら下げているのだった。
「ああ、こりゃお粗末ね」一目見るなりビリーアは言った。「よくこれでこの町に入れたわね。あたしホラ、こういうの持ってる」
ビリーアはエルコに通行証を返すと、自分のマントの下から、今度は木札を取り出してそれを渡した。「アッケル辺境伯領内ロンフルト村 夫エメ・ザッケルト 妻リューバ・ザッケルト」と入っている通行証であり、ご丁寧にアッケル辺境伯の印も入っている。
「なんでこんなものを持ってるんだ」
その通行証をビリーアに返しつつ、呆れてエルコは言う。
「まあ細かいことは気にしないで」ビリーアは笑って言い、ポン!とエルコの背を叩く。「ホラ、そんなこと言ってたら、順番がようやく回って来たわよ。ホラ、これっ」
ビリーアは自分の持参した通行証をエルコに押し付けた。
…と言う訳で、エルコとビリーアは、この世の受難すべてと同等なほどの重みを背に乗せて哀しげなロバに揺られて、ぽっこらぽこらと街道を北東に向かっているのだった。
「ちょっと、あまりしがみ付かないで下さい」
エルコが厳しい口調で言う。
「ごめんね。揺れるものだから」ビリーアが言う。「やっぱり、ロバの背に大人二人ってのはムリがあるわね。あら、きゃっ」
わざとらしい可愛い叫びを上げて、またビリーアがエルコの背にグッと己の肉体を押しつける。どさくさ紛れに右手をエルコの股間にさしのべた。とたんに「ギャアッ」とビリーアは大声で叫んでのけぞり、危うくロバの背から転げ落ちそうになった。
「何。何なのっ。ビリッと来たわよっ」半泣きになって右手を振り振りビリーアは叫ぶ。「あんたのソコ、何なのっ? デンキウナギなのっ?」
「つまんない魔法を使わせないで下さいよ」
エルコはうんざりしたように溜息をついて言ったが、突然「アッ」と叫んでロバを止め、飛び下りた。あまり急だったのでビリーアは今度は前につんのめって、ロバからずり落ちそうになった。ようやく体勢を立て直したビリーアが見やると、エルコはまた道の真ん中にしゃがみ込んでいる。
「昨日もあんた、そんなことしてたけど」ロバの上からビリーアは声を掛ける。「一体何? 何かのお祈り?」
エルコは何かを押し戴くような格好で立ち上がると、ビリーアの方へ向き直った。しかし、その手には何もない。エルコはぶすっとして言った。
「…まあ、そんなもんです」
エルコは再びロバにまたがった。ビリーアはたった今エルコがしゃがんでいた場所に目をやったが、そこはただの埃っぽい土の道に過ぎず、雑草や石ころ以外何もないのだった。
ビリーアは胸元からタバコを取り出したが、火を点けられないのに気付くと、忌々しげにそのタバコを投げ捨てた。