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早朝に庭で一心不乱に霜踏みをしているチルリットを見かけてその無邪気な様子に思わずアギトは声をかける。なんだか恥ずかしそうにしているチルリットと話をしているとルルが言った通り思っていることがまんま顔に出ていておかしくなった。つい口を滑らせてその事をしゃべってしまうと、ひどく慌てていたのはたぶんシオンが言っていたのだと勘違いしたのだろう。
チルリットと会話をし、心が洗われたところで大人の時間に戻ろう。
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深夜といってもほとんど明け方に近い時間にアギトは屋敷を抜け出す。勿論誰の許可も取っておらず、鍵を開けておいてくれと頼むわけにもいかないので窓から抜け出した。底冷えのする通りをマントのフードを目深にかぶり口元も防寒用の布で隠し音も立てずに歩く。
昔馴染みに頼んでおいた情報はすぐに手に入った。
ちょっと前にルルと通った娼館の並ぶ通りの片隅でアギトは身をひそめる。
ふと、なんだか既視感に襲われ、辺りを見回す。この前来たから当たり前かとも思ったが、違った。アギトがまだ10代半ばのころによくこの道を通っていたことを思い出した。別に女を買いに来ていたわけじゃない。アギトが通っていた体術の道場への近道だったから通っていただけだ。
まあ今はどうでもいいけど。
相手はアギトが身を潜めている路地から見える娼婦館に馴染みの女がいるようでよく入り浸っている。今日もいるかどうかは分からないがほとんど毎日通い詰めているらしいから…ああ、出てきた。
当たりをつけていたとはいえこの寒い中大して待たなくてもよかったのは幸運だ。
男…ルルの従兄はディードというらしい。意外としっかりとした足取りで人気のない通りを行く。静かにディードの後ろについていたアギトはあらかじめ決めてあった場所で急速に間合いを詰め、ディードに声をかける。
「ふぐっ」
相手が振り向きざまに顔面に拳を叩きつけ、よろめくディードの腕を掴み、袋小路に引きずり込む。ゴミと饐えた臭いを発する汚物があちこちに落ちている中、さすがにこの寒さでは酔っ払いが寝ていたり住処を持たない街娼がお仕事の真っ最中ということもなく安心してことを進められる人気のなさ。
「な、なんだ突然…金なんかねーよ」
顔面血だらけになったディードが自分の鼻血を飲み込んで盛大にむせている。
アギトは顔の半分を覆っていた布を下げてディードに向けて笑みを浮かべた。
「今晩は。俺のこと覚えてます?」
「お前、ルルと一緒にいた?」
うんうん、と頷くアギト。
「なんだよこれ、あいつに頼まれたのか?」
「まさか。自発的に。ところでお願いがあるんですけど、街を出てくれません?出来ればどっか遠くに。で、一生帰ってこないでほしいんです」
拳を痛めないように右腕に巻いていたぼろ布をくるくると解きながら。
「ふざけるなよ。何言ってんだよお前」
うんうんと頷き、といたぼろ布をディードに手渡す。何を勘違いしたのかその布で鼻と口から流れる血を拭う。
「ああ、それ、使い方間違ってますよ。口にくわえるんです」
「は?」
「結構痛いですからね。大きな声出ちゃうでしょう。まあ、素直にいうこと聞いてくれるとは思わなかったんで」
ぼろ布を取りあげると素早くディードの口に捻じ込み、右肩に手を当て変な方向に右腕をひねり上げるとディードの肩がくぐもった音を立てた。
『ぐおおおおおおおおお』
苦痛の叫び声は口に詰め込まれた布のせいで阻まれて通りまでも聞こえていないだろう。まあ例え聞こえていてもこの通りでは血まみれの男など見て見ぬふりだ。
「大丈夫ですよ。ちょっと関節外しただけですから。またあとでいれてあげます。で、先程の話ですけど、どうですか?了承していただけます?」
ディードはふうふうと鼻で荒い息をし、涙と鼻水と血にまみれた顔を上げ、うつろな目をアギトに向ける。
「えーと。まだ駄目ですか?じゃあ今度はこっちで」
左腕を取ろうとするアギトから必死で身体をよじり何事か叫びながら逃げようとするディードの襟首をつかみ、引き倒す。
「そのままじゃ喋れませんよね。布をとりますけど声を上げないでくださいね。上げようとした瞬間喉をつぶします。ああ、今のうちつぶしておけばいいのかな」
ひいひい泣きながら首をふるのでさすがにやめておく。口の布をとると、寒いのか歯の根ががちがちとなっている。
「では了承してもらえますか。今日中になんて言いませんから二、三日中には身辺整理してでてってくださいね。当たり前ですが今後一生ルルの前に姿を見せないように」
「わ、わわわわわ、分かった、わかり、ました」
音が鳴るくらいに首を縦に振るディードにアギトは柔和な笑みを浮かべる。
「じゃあまたこれ口に入れてください」
布を口に押し込み、先ほどと同じように肩を掴み少し力を入れるとがこっと肩が元通りにはまる。勿論ディードの悲鳴付きで。
「はいもう用事済みました。あ、今のことは内緒でお願いします」
自分の右腕を何か恐ろしいものでも見るような目で凝視した後、そろそろと立ち上がり、アギトがそれ以上動こうとしないのを確かめてようやく半分泣きながら逃げていくディードを見送って。
弱い者いじめって虚しいなあ。小さくため息をつき、鼻歌を歌いながらアギトはその場を後にした。




