ゴブリンと果ての島での禍殃
貪欲の市場からだいぶ遠く離れた。荒く粗雑な道は市場に富を運ぶ血管だ。オークの豚車が頻繁に行き交う。
貪欲の市場から半日の距離では、葉野菜や家畜の乳などを乗せた荷車が新鮮な食べ物の匂いを漂わせて市場へとむかっていた。
出発から数日たつと、すれ違う荷車からは削られた木やなめされた革の臭いがした。
十日目の今日、赤銅色に日に焼けたオークの豚車とすれ違う。積荷は海綿とカキ殻、日干しにした魚。干物に加工しても数日程度で傷んでしまうので貪欲の市場までは運べない。それでも道沿いに点在するオーク族の拠点で売りさばくことはできる。
これまで嗅いだことのない臭いを感じ取り、バザウは興味深そうに耳をピクピク小刻みに揺らした。深い秘密と原始の生々しさを宿した臭い。海が近い。
「へ~! あなたは色んな場所にいったことがあるんですね~」
エヴェトラはブチ柄の巨豚の鼻息に耳を傾けた。ああしてずっと豚と話している。
「バザウさん、もう少しで海にたどり着くそうですよ」
貪欲の市場から伸びる道の果てには海辺で暮らすオークの集落があった。戦場のオークは武力による強奪で生きている。農園のオークは肥沃な土地で作物や家畜を育てる。市場のオークは物品と金銭と労力の交換を取り仕切る。舟で海に漕ぎ出し魚を捕る彼らの暮らしぶりは、オーク族の中では変則的なものだ。
村にやってきたバザウとエヴェトラをオークたちが珍しそうに取り囲む。オークはゴブリンを軽んじているし、エヴェトラは一見すると人間の女のようである。この組み合わせは本来オーク族に温かく出迎えられることはないのだが、巨豚の存在がオークたちの目を引いた。シャルラードが用意したブチ毛の巨豚を見てもバザウには他の豚と区別がつかなかったが、オークの目なら他の豚との格の違いは一目瞭然。その毛並みの良さや湿った鼻の輝き、割れた蹄の形などからとびきり値の張る巨豚であると見て取れた。
何事かと集まってきたオークたちに向けてエヴェトラが気さくに挨拶した。
「こんにちは! 私はエヴェトラ=ネメス=フォイゾン。長らく禁足の森で眠てましたが、最近になってようやく起きたミミズの神です!」
エヴェトラの頭部には、髪の毛というにはいささか太く奇怪な触手のように伸びた部分がある。オークたちの視線はピコピコ動く触手にそそがれた。
「彼女が私たちをここまで連れてきてくれました。とても助かりました」
巨豚は鼻をぺたりとエヴェトラの後頭部にはりつけた。エヴェトラの顔は漁村のオークたちに向けられていたが、髪の一部は意思を持ったように動いて巨豚の鼻をなでる。動物を愛でるというよりも恋人をなでるような動きだとバザウは思った。
(いつの間にか親しくなってる……)
金首の漆黒ミミズが髪から分離して巨豚の前足にらせん状に巻きつく。
「充分な休息の後、彼女を貪欲の市場のシャルラードさんのお家まで送り返してあげてください」
足に巻きついた金首ミミズをエメリとシャルラードが見れば、バザウとエヴェトラが目的地について巨豚を返したことがわかるだろう。
かくしてブチ毛の巨豚は居心地の良い小屋に連れていかれ、エヴェトラは村の偉いオークたちの家に招かれ、バザウは……。
「おい、ハゲチビソラ豆」
運悪く村の悪ガキオークに捕まっていた。
「親父たちの話が終わるまで俺が遊んでやる。ほらよ、取ってこい」
そういってオークの子が放り投げた流木は寄せては返す波の間にぱしゃんと落ちた。
バザウはうんざりした顔で耳を不愉快そうに倒す。
「……お前は礼儀というものを教わらなかったようだな」
「ゴブリン相手に礼儀正しくするのは恥だと親父に教わった」
実にオークらしい礼儀作法である。
険悪な空気になったところで、村の方で着飾った年頃の男女の一団が大館に入っていくのが見え、子供の関心が移った。
鮮烈な赤髪を結い上げ花で飾り立てた女のオーク。がっしりとした大柄の体には波の模様のイレズミが彫ってある。
その隣は貝殻細工の首飾りと鼻輪をつけた女だ。ウェーブがかった桃色の髪と豊満な体つきで優しげな印象だ。
緊張気味の足取りで男のオークが歩いている。屈強な肉体を持った荒々しい雰囲気の若者だが、その足取りには困惑と戸惑いが見て取れた。
「ハレの格好をしてら。ズリィな、大人は。美味いもの喰って楽しいことしてるんだぜ」
楽しいことの場に呼ばれなかった子供とゴブリンは、岩場で捕まえた小さなカニをかみ砕きながら館へとむかう一団を眺めた。大人たちが館の中で何をしているのかは見ることはできなかった。
「ふーん。ハゲ豆虫はネメスとナイアラスにいくのか」
いくら名乗っても、オークの子供はバザウの名前を覚える気がないようだ。
「でもよー、耳デカチビ。こっからナイアラスって相当遠いぞ?」
バザウは太ったオークの子にちょっと小バカにする眼差しをむけた後、余裕たっぷりにこういった。
「俺ならあれくらい泳いで渡れる」
少し遠くに見える島を見て。
バザウは得意満面な顔をしているが、あれはちょっと先にあるただの小島である。けして大陸などではない。
その後バザウが憎ったらしいオークの子供に散々からかわれたのはいうまでもない。
爆笑が引き潮のように過ぎ去っていくと、オークの子はポケットから無造作に何かを取り出し、慣れた手つきでそれをちぎって海へと放り投げる。ヌラリと光る肌を持つ奇怪な生き物が海面に顔を出しそれを巧みに口でとらえた。
「デカい魚だ……」
「あれはイルカだ」
どうやらバザウにイルカを見せびらかそうと思ったらしい。
「……海の水面がずっとゆれたままなのは、こういう生き物たちが絶えず泳いでいるからか?」
バザウの問いに子供は答えられなかった。
わからない、という代わりにこういっておく。
「まあ多分きっとそんなところだな。イルカはなかなか利口なんだぞ。頭の良さは豚未満人間以上。コイツらが近頃ハマってる遊びは、陸や空の生き物を海に引きずり込んで溺れ死ぬ様子を鑑賞することだ」
むっちりとした手から、またしてもピンクの小さな塊が投げられる。
「……変わった食べ物だな。虫か?」
「これか? これはギョニソだ」
「ギョニソ……?」
「ソーセージみたいなもんだ」
バザウは驚きで目を見開いた。
ただのつまらないピンク色の棒にしか見えなかったものが、急に雑然とした混沌の世に光明をもたらすとても特別なものに映る。
「そっ、それを俺にくれ!」
バザウの勢いにオークの子はちょっと身を引いた。
「鼻デカ緑。お前って意外と喰い意地がはってるのな……」
少しあきれたようでもあり嫌そうでもある顔をしたものの、最終的にはバザウに新しいギョニソを手渡してくれた。
「おおっ、感謝するぞ。なるほど……これがギョニソなるものか……」
バザウはしげしげとレアなソーセージを観察した。その身は既知のソーセージに比べて真っすぐに整っている。色は淡いピンク色。ソーセージには茶色いものや白いもの、黒やオレンジがかったものもあるので、こういった色があってもおかしくはない。ギョニソ最大の特徴は可食の皮がないことだろう。
「はじめて見る……。珍しいな……」
「陸のヤツらにはそうだろうな。なんせギョニソは海でしか採れないからなー!」
ゴブリンはバカということは僻地のオークでもしっている。バザウを騙そうと、オークの子は低レベルなウソをついた。魚のすり身と食用豚の脂を混ぜて加工したものが魚肉ソーセージであることはこの子供もしっていた。
(陸と海……環境に応じて形態を変えるということか……。これで確信した。植物か獣か虫かは断定できないが、ソーセージは命あるものに違いない)
最後に味を確かめてギョニソの調査を完了する。
(好みなのはパリッとした陸ソーセージの方だが、海ソーセージもむにっとして面白い食感だ)
あくる日の朝バザウはエヴェトラに話しかけた。ナイアラスにむかうにあたりバザウは一つの問題点を発見していた。それを相談しておきたい。
「おはようございます、バザウさん。海ってず~っとざぷざぷって音がしますけど、よく眠れました?」
そう尋ねたエヴェトラは少し眠たげだった。村に着いた後エヴェトラは村の有力者たちの家に招かれ、そのままそこで一夜を過ごしたようだ。
規則的な波の音はむしろバザウを心地良い眠気を誘う。貪欲の市場の砕かれた星屑亭の雑魚寝部屋よりも質の良い睡眠がとれた。寝床として提供されたのが家畜小屋のすみだったことなど、ゴブリンにとっては些細な問題だった。
「……はい。ところですみません。オークたちに確認したところ、この村の舟は近場の海で漁をするもので大陸間を移動するほどの長期の航海は不可能とのことです」
自分なら泳いで渡れると自信満々で宣言したことは伝える必要がないので黙っておく。
「そうなんですね」
エヴェトラは呑気にバザウの報告を聞いている。問題を理解していないのだろうか、とバザウは少しイラついた。
「……なので、別の移動手段を探す必要があります」
「村の舟には乗りませんよ? ……あ~、ごめんなさい! どうやって海を渡るのか説明してませんでしたね! この辺りの海はクジラの化身である神の神域なのです」
バザウとエヴェトラは旅の荷物を持ち、村の舟が行き来する場所からは離れた岩場に訪れた。
「エヴェトラ=ネメス=フォイゾンです。同乗者が一名。ナイアラスまでいきたいです」
エヴェトラの声は波紋となって海の底へと吸い込まれていく。
波が五回も寄せぬ間に海の中から巨大な海の化け物が姿を現した。
(……イルカ……じゃない)
陸の獣とは違う生臭さがバザウの鼻に這いずりこんできた。
シワが寄ってぶよりとした白灰色の肌。水死体のような色だ。不気味なコブのある頭部には水を噴き出す二本の管が備えられている。
その体はあまりに大きく、全体がどうなっているのかはバザウからは見えない。かろうじてわかるのは、今見えているのは海面から出された頭の一部でしかない、ということだ。
大きいが短い腕が岩をつかむ。海からきたるクジラの神は頭の管から潮水を吹き散らしながら、腕を使って岩場にずり登ろうとしてくる。
バザウはクジラの神の顔を見た。
人間に似た形の巨大な目は、濁った黒の光彩にほとんど占められていてわずかに見える強膜は血走った不吉な赤。
エヴェトラがバザウの手をとった。
「さあ、バザウさん。彼女の口の中へ!」
クジラの神が大きく口を開けた。
バザウの脳裏に太っちょのオークの子供の声が響く。
――陸や空の生き物を海に引きずり込んで溺れ死ぬ様子を鑑賞することだ――
――海に引きずり込んで――
――溺れ死ぬ様子を鑑賞――
「怖がらなくても大丈夫ですよ~」
気の抜けた声がバザウの背を押した。
◆◇◆◇◆
妖星を縛る儀式。その途中で起きた事故。ほとんどの神は儀式の島から立ち去ったが、流れ星事件の後始末でまだ数柱の神が残っている。
ワタリガラスの神が島に帰還する。優秀な部下を率いて各地を見て回ってきたところだ。島で待機していたシアにワタリガラスは報告する。
「これまでいなかった異常な……生物のような何かが各地で発見された」
生物という表現を使うことにワタリガラスは若干躊躇した。
連綿と続く進化の系譜を完全に無視してその異常生物は突如発生した。流れ星事件をきっかけに。
「俺が観察した印象では、獣の一種の人間に似ていると感じた」
ただ細部の見た目や体のスケールなどは人間とは異なる、とも付け加えた。ワタリガラスがクチバシを天に向けると、渦巻く風に封じられた小さな塊がふっと現れる。
「異常生物のサンプルを採取した。あなたに分析を依頼したい。精霊と低位の神を使って基本的な安全確認は実施済みだ」
シアは不機嫌そうにブクブクと水を泡立てながら、ワタリガラスからサンプルを受け取った。異常生物の肉片は白いスカスカのスポンジ状で、血らしき体液は一滴も出ていない。それを水球の中に取り込み微細な藻で触れる。
シアの趣味はDNAをいじくってみることだ。生き物は皆、己を形作る設計図を体の中に持っている。設計図に書かれた内容は同じゾウ二匹でもそれぞれ微妙に異なるが、設計図の書式はゾウもゾウガメもゾウリムシも共通だ。
シアが大量に作る酸素はDNAをズタボロにする。長い時間の中でシアは自分が何の気なしに被害を与えてきたものに興味を抱いた。ただ壊すだけでなく細かく調べてあれこれ試してみることを覚える。無自覚な破壊から、意図的な破壊へ。今ではかなりの知識と技術を持つようになった。
「これは哺乳類じゃないよ。既存のどの動物にもあてはまらない。これは……」
流れ星事件の後に突如現れた異常な生物の一団のDNA。
考える頭があり、二本足で歩き、同種族間のコミュニケーションが可能で、見た目は人に少し似ている生き物。
その遺伝情報はごく一般的な菌類に酷似していた。
***
ニジュの体の崩壊は刻々と進行する一方だった。キツネがどんな薬を使っても喰い止めることはできない。治療という名目ではあるが手探り状態でおこなうしかない以上、実質それは実験でしかない。ニジュの体は溶け続け、焼けただれ、欠けてしまった。
「……おいたわしや。できる限りの手は尽くしたのですがな……」
意識が朦朧としてニジュの知覚も意識もろくに働いていない。
自分の体はどうなっているのか。尋ねてみたいがそれすらできない。
ぼんやりとした悪夢の中でキツネが諦めた声が聞こえた。ニジュではない他の誰かに話しかけている。
「ワシは少し席を外す。その間、お前は侵食された部位の片付けを頼む。妖星がらみの未知の症状だ。取り扱いには注意しておくれ。……なんて忠告は、サルに木登りを教えるようなものかね」
キツネが立ち去った後、地中で何かが動き回る振動がした。
***
神々はすでに本来の居場所に戻っている。ニジュから妖星の侵蝕が伝播することを恐れ、ほとんどの神々は忌まわしい事故が起きた島から離れたがっていた。
オオカミの役目は儀式に参加した神々から聴取をすること。手間と時間のかかる仕事だったが、オオカミは配下の神や精霊に的確に作業を割り振り、千柱をこえる神々からの話を速やかにまとめ上げる。
ほとんどの聞き取りでは実のある情報はなかったが、オオカミは手ぶらで島に戻ってきたわけではない。体に複数ある口がかぱりと開いて、麗しくも酷薄な声での報告。
「挙動不審だった者を連れてきております。より仔細な話が聞けるかと」
怒れるシアと三獣神に囲まれて、その小さな神は怯えきっている。人間の神だ。幼児の体にシワだらけの老人の顔を持つ神は震える声で精いっぱい無実を訴える。いたいけな小さな爪は熾火のように赤く光っており、老いた口には石器でできた牙が並んでいた。
「……あなた方はきっと誤解していらっしゃるんだ。私は何も存じませんとも。こんな風に問い詰められるいわれはない。帰してください!」
人間の心の内を暴こうとするかのように、オオカミはその鼻づらを突き付ける。
「お前は何に怯えているのです? 他の神々の中にも平常心でない者はいました。ですがそれは儀式の事故に動揺してのこと。私が話を聞きにきたことそのものにおののいていたのは、お前だけなのですよ」
ワタリガラスはその鋭いクチバシで柔らかな人間神の指先を突く。
「人間はとても器用で好奇心旺盛で……、そしていつも余計なことを仕出かしてくれる」
抜け目のない笑みを浮かべてキツネはひょこひょこやってきた。
「まあまあ。そう怖がることもなかろうに。ワシの鼎にたっぷりと煮え湯を用意しておいたから、お前さんは何も心配せんで良いよ。その身が真に潔白ならば」
***
洞穴に横たえられたニジュは、少し離れた場所から何かの哀れな悲鳴があがるのを聞くともなしに聞いていた。
痛みはだんだん治まってきているようだが、なんだか体がすっかり軽くなった気がする。不安になるほどに。
これまで感じたことのないむずがゆさに、ニジュは衰えた力で体を揺り動かした。
ぼとり。
湿った音。
何かが滑り落ちていく。
体の内部にすうすうする空気があたる。
我が身が崩れ落ちているのだと理解したニジュは錯乱状態に陥った。
「ゥ、ああ……」
こんなにも苦しんでいるというのに。
「……誰か……」
助けてほしい。
「ここにいます」
それは大地からするりと姿を現した。
余計な組織をそぎ落とした質朴な生き物。
(……大蛇……?)
しかし頭にはそれらしき目鼻は何もついていない。
その身はつややかでオパールに似た淡い輝きを帯びている。虹の色がちらちらと浮かぶ漆黒。首には金色の環帯。
土の中から出てきたにも関わらず、不思議なことにその体は泥にまみれてはいなかった。
自分も高位の神の一柱でありながら、ニジュはその者を神々しいとさえ思った。
紐のような体をすいっとくねらせ、その神はニジュにこう問いかけた。
「良かった~、意識が戻ったんですね。何か食べます? 腐葉土の汁ならすぐに用意できますよ!」
……話すと同時に、先程までの印象はささーっと消え去った。一応敬語で話してはいるのだが、能天気さや牧歌的な大らかさがどうしても話しぶりから伝わってくる。どうせ三獣神から雑用を任された下級神だろう。あまり価値ある話し相手になりそうにない。
「他の神は……?」
ニジュはおぼつかない思考を巡らせる。
「あ~他の~……、他の神についてですね! お答えしましょう! この島におわすのは、藍藻、キツネ、オオカミ、ワタリガラスの大いなる自然の化身の方々。それ以外の神々は元の居場所に帰ってます。あ~それと、ちょっと前に人間の化身が連れてこられたみたいですね」
「……では、我が目覚めたとシアに告げよ」
漆黒の太縄は困ったようにぐにゃぐにゃしてから、すまなそうに返事をした。
「ごめんなさい。私はここを離れるわけにはいかないんです。上の方にいる風の精霊さんも同様です」
「……もう良い。下がれ」
使えない神だがそれを責めても仕方がない。それよりもニジュは今頃シアがどうしているのか気になった。
(話も上手くできない低俗の者ではなく……)
シアがここにいてくれたのなら良かったのに。
***
「嫌だ、助けてくれ! あんなことになるなんてしらなかったんだ!!」
人間の哀訴に取り合うような者はこの場にはいない。
「何もしてないんだ、本当に! 待って、やめろ、やめっ」
おぞましい苦痛の叫び。
「間違ってる、間違ってる! こんな世界は間違って……!!」
不穏な赤紫に変色していく老人の顔。
「こんなことをして……、こんなことを……」
失敗作の肉料理のような不快な臭い。
「……は……話す……から、……してくださ……」
人間神はついに非を認めた。キツネは責め苦の手を休めた。
あの儀式の最中、ふとこんなことを思ったそうだ。
――過酷なこの現実世界よりも、妖星が作った世界の方がずっと楽しそうだ――
その直後だという。儀式によって封印が順調に進んでいた妖星から、突然地上に向かって流れ星が落ちてきたのは。
「なるほど、なるほど。そんな見るも無残な状態で、よくぞ話してくれたもんだ」
「……ろして」
息も絶え絶えの懇願に、シアは歯の浮くようなキザったらしさで答える。
「いけないね。気軽にそんなことをいうものではないよ。いくらみすぼらしくったって、仮にも神に名を連ねる者なんだろう? 種族の守護神がいなくなったら人間たちが可哀そうじゃあないか」
だから、とシアは偽善あふれる穏やかさで言葉を続けた。
「君は安易な終焉の安らぎを求めるよりも、生きたままずっと償っていくべきだと思うんだ」
三獣神はさりげなくシアと距離をとる。
「僕の怒りとニジュの苦痛に対して」
水の球の中、濃い緑色をした藻の塊から大粒の泡が立ち上る。沸騰しているようにも見えるがそうではない。今シアはエネルギーを大量変換し、生じた不要な酸素を放出しているところだ。
「この島近辺の生物が大量死するような酸素濃度にするのはやめてほしいのだが」
「ああなったら何をいってもムダですよ」
不安そうなワタリガラスにオオカミが耳打ちする。オオカミはシアの性格を把握していた。自分本位。他の神の意見は都合の良い時にしか耳を貸さない。神ではない通常の生き物は、大自然に産み出された個性あふれるカラクリのオモチャにすぎないと思っている。もっともこれらはシア以外の神々にもおおよそ当てはまるのだが。
ワタリガラスは何かいいたげだったがすぐに空気を司る精霊たちを集めて緊急の指示を出した。
水球の外側に緋色の楕円群がボッと出現する。帯状のラインを描きシアを囲んで浮遊している。
チカチカ明滅しながら宙を舞う緋色は、憤怒にかられたスズメバチの軍団よりもはるかに危険なものだった。
「いやぁ、恐ろしや、恐ろしや」
目と口をくしゃりとゆがませ、おどけた口調でキツネはわざとらしく身震いしてみせる。
それが人間が最後に知覚できた情報だった。




