ゴブリンとギルドのみなさん
夢中で疾走していたバザウが急にその足をとめる。
ゴブリンの洞窟の少し手前。灌木の茂みに身を隠す。
人間がいた。
「これで見張りは片づいたか」
ガラの悪い盗賊風の男がツバを吐く。
黄ばんだ粘液と泡立った唾液がべちょりと落ちた。倒れ伏したゴブリンの緑肌の上に。
バザウと手合わせをした武人気質の斧使いのゴブリンは、この侮辱に怒ることもない。ぴくりとも動かない。
「ほとんどはとるにたらないザコでしたね。四匹でやっと一人前。その程度の連中です」
気取った声をした男が、満足そうな手つきで首飾りの石をなでている。
その体には魔法の臭いが染みついていた。
「入口を守っていた邪魔な見張りさえ倒してしまえば、あとは私の術で一網打尽なのです。わざわざ中に入って、生死を確認するまでもないというのに……」
「見張りね。しっかし、あのクソ忌々しいレッドキャップ! あれ一匹でこっちは四人もやられたぞ!」
冒険者らしき姿が四つばかり、力なく地面に転がっていた。
中には弓を手にしている死体もある。ザンクに傷を負わせたのはこの人間の仕業だろう。
そして。
槍で岩壁にとめられた小柄なゴブリンの姿。
赤帽子隊長のぽっこり腹から、折れかけた槍の柄が伸びている。
頭から足先まで鮮烈な赤で彩られている。隊長が流した血と敵の血はごちゃまぜに混ざり合い、もはや判別がつかない。
残虐に穏健な独特の笑みを浮かべたままで、赤帽子隊長はこと切れていた。
その顔はとても嬉しそうで、恍惚の境地にすら達している。
「このクソ強かったチビオヤジが例のゴブリンなのか?」
盗賊の言葉には嫌悪と恐怖がにじんでいる。
レッドキャップゴブリンの異常な凶暴性は、戦いで生き残った者たちにもトラウマを植え付けたらしい。
「いえ。もっと若い個体です。お嬢さまは才能に恵まれた方ですが、コレと遭遇して無事に生きて帰ってこられるとは到底……」
魔術師と盗賊は、冒険者四人の亡骸に目をくれた。
「……だな。でもよぉ、若いのっていわれてもわかんねぇよ。ゴブリン野郎の面なんざ見わけがつかねえっての。オスとメスの区別も難しいぜ」
「標的のゴブリンは、耳にピアス。左右の頬に古傷があります。事前にギルド長から詳しい説明があったはずですが?」
魔術師は不真面目な盗賊男をジロリと睨んだ。
「はいはい。生け捕りに、って指示だったな。でもお前さん、さっき洞窟にえげつない魔法使ったろ? ソイツも中でいっしょに死んでんじゃねえの?」
バザウの心臓が跳ね上がる。
(洞窟に、何をした?)
「その心配は無用です。標的は今、野外にいるはずですから」
不穏なめまいに耐えて人語を聞きとることに集中する。
「……てか、中に入ってったチーム、帰ってくんの遅いな。お前の毒ガスがまだ残ってて、洞窟ん中でぶっ倒れてんじゃねーの?」
盗賊が胡散臭そうに洞窟の奥に視線を向けた。
「いえ。もう安全です。それに厳密には毒ガスとは異なります」
首飾りの石をさすりながら魔術師が得意げに説明する。
「空気の流れを操る術の応用です。一定範囲内の酸素濃度を低下させました。弱い者ほど群れたがる。愚かな習性ですね。見張りからの警告で洞窟内で守りを固めたゴブリンは、何が起きたのかも理解できずに……」
魔術師は長髪をかき上げる。
「窒息死しているはずですよ。全滅です」
情動が吠える。人間どもの息の根、とめてくれる! 今すぐに!!
理性がさとす。今は少しでも、この会話から情報を集めるべきだ、と。
内なる二つの声に翻弄されながら、バザウはきつく目を閉じた。
こめかみの血管がどくどくと強く脈打っている。
(確実に……。目的を確実に達成するには……)
頭のすみにかろうじて残された、冷静なごく一部の領域を頼りに。
バザウは戦う算段を組み立てた。
潜んでいた場所から一気に跳び出す。
左手に抜き身の短剣を握りしめ。
真っ先に反応したのは、やはり盗賊だった。
武器は変わった形状のショートソード。片側が通常の刃で、もう片側にはギザギザの突起が並んでいる。
逆刃にすればソードブレイカーにもなる優れもの、といったところか。
ワンテンポ遅れて魔術師が声を張り上げる。
「殺してはいけませんよ! 生け捕りにするのです!」
「傷一つなく、なんて条件じゃないんだろ?」
バザウは盗賊の目前まで迫る。
突如、毛皮のマントをはずし。
バサッと放り投げる。
視界をふさぐように。
「チッ!」
いきなり目標を見失った盗賊が苦しまぎれに放った斬撃。
空中に広がった毛皮はその複雑な刃を持つ武器を絡めとっていた。
ソードブレイカーの無数の突起が長い毛に引っかかったようだ。
バザウが短剣を抜いたのは、盗賊に武器を使わせるための誘導にすぎない。
バザウは腕を振った。
最短距離で。
的確に。
たったそれだけの動作で、盗賊の命の火は尽きた。
バザウはすぐにもう一人の方を向いた。
目が合う。
魔術師は憎悪と動揺の入り混じった表情で、バザウのことを見ている。
今、バザウは洞窟前の広場にいた。
(この男、たしか……。空気の流れを操作すると……)
魔術師の首飾りが光る。
バザウには魔法の細かな仕組みはわからない。そういう知識を学ぶ機会はなかった。
それでも、魔術師の動作や視線、話の内容などから、何をしてくるかを推察することはできる。
バザウは全力で洞窟内に転がり込んだ。
交差させた手で、呼吸器官と頸動脈を守る。
洞窟の外では暴風が猛威を振るった。
自然に吹く風とは明らかに違う。荒れ狂った風。
(……中にはヤツらの仲間がいると話していた。仲間が中にいるのに、洞窟全体の空気を汚染するようなマネは、しない……だろう)
空気汚染の術を使ってこないのなら、閉鎖された空間の方が風の魔法に対処がしやすい。
広々とした場所では身を隠すこともできず、四方八方にくわえて上空にも警戒する必要がある。
バザウは武器の手入れは欠かさないし、戦いの技術の習得にも熱心で、壮健な体を持っている。
だが、バザウはしょせんはゴブリンだ。夢物語に出てくるような天下無双の英雄などではない。
ゴブリンにはゴブリンの勝ち方がある。
洞窟の中で戦う。
バザウはこの洞窟の通路や出入り口を把握している。移動に関しては圧倒的に有利な条件だ。
魔術師を洞窟内部まで誘い込めれば、敵側が合流するよりも先に葬れる自信はあった。
バザウは洞窟の奥へと足を向けた。
一瞬、足が硬直する。
その先にある光景と直面することを拒むかのように。
「……」
バザウは進む。
その先に、何が待ち受けていたとしても。
ゴブリンたちがあちらこちらに転がっていた。森狼の姿もある。
まるで酒に酔って、そのまま眠りこけてしまったかのように。
これが宴会の後の光景なら、ほほ笑ましくもアホらしいゴブリンの集団雑魚寝で済んだのだが。
でも、そうじゃない。
(……ダメだ。死んでいる……)
最初の数人までは、バザウは毎回しゃがみ込んで息があるかを確かめていた。
十をこえた辺りで、顔色や腹部の動きを目視するだけとなり。
三十以降は、遺体を踏みつけないように気を配るだけになった。
「みなさん! 例のゴブリンがそちらに向かいましたよ!」
風の魔法使いの声が洞窟内に反響する。
(みなさん……。ということは、複数か)
奥の方からそれに応えるように物音がした。
死に絶えたゴブリンだらけの洞窟で。
「私も向かいます! 挟み撃ちにしてしまいましょう」
大声での伝達事項はバザウに筒抜けだ。
ウソの情報を流しているのかと疑って、すぐにその可能性を否定した。
(会話の内容は事実だろう。なぜならば……、人間は自分たちの言語を理解しているゴブリンの存在を少しも想定していない)
バザウがこっそりと観察してきたどの人間もそうだった。
人間にとってゴブリンは緑肌の害獣。
言葉を覚えるような知的な生き物ではあってはならない。
そして人間の前でバザウが彼らの言葉を使ったことは一度もない。
出入り口の方で光が輝くのが見えた。
洞窟の奥は薄暗い。ゴブリンの目ならともかく、人間の視力では照明が必要だ。
バザウは黙って片目だけを閉じた。
足音を立てず気配を殺して。
単独行動をしている魔法使いに、バザウはひっそりと近づいていく。
魔術師はビクビクしながら進んでいた。
通路に転がるゴブリンと森狼の死体は、彼の魔法の絶大な成果である。
そんな死体を魔術師は、さも不快そうにまたいだり、足先で蹴るようにどかしたり、ブーツで踏みつけたりした。
バザウは遠目でその姿を確認する。
憤る心を抑えつけて冷静さを保つのは、困難な仕事になった。
魔法使いはカンテラをさげていた。
闇を駆逐する明かりにバザウは顔をしかめる。
開けている方の目は軽く細めて、閉じている方の目は念入りに手で覆った。
片目では位置を視認するのは難しいが、それでも両目を開けたりしない。
足音の反響分も加味してバザウは照明具を狙い石を投げた。
「っ!」
一発目……は、はずした。
が、投げられるような小石は洞窟の床にいくらでもある。
間髪入れずに投げた次の石がカンテラを破壊する。
「しま……っ、明かりが!」
ゴブリンの洞窟に闇が戻ってきた。
急に明暗が変わると、変化に慣れるまで目がチカチカしてよく見えない。
魔術師の男は、今、ちょうどそんな状態のはずだ。
バザウは開けていた方の目を閉じる。
それと入れ替わりに、これまで閉じていた方の目をパチリと開ける。
目蓋を閉じて光から守られていた瞳孔は、すでに暗さに順応した状態だ。
バザウの目には、しっかりと、魔術師の急所が見えている。
ならば話は簡単だ。
バザウの短剣の切れ味は素晴らしい。
何が起きたのかも理解できないままに、魔術師は息絶えることになった。
魔術師の死を確認すると、バザウはさらに洞窟の奥へと向かった。
その途中で見つける。
見つけたくはなかったものを。
数匹の森狼に眠るようにもたれかかった、小さな人影を。
「……プロン」
惨状の中で誰か一人だけが助かるような。
そんな都合の良い奇跡は。
ゴブリンやコボルトには起こらないらしい。
小さな体をそっと抱きしめてみた。
無傷の死体。
まだかすかに彼女の温度と香りが残っている。
彼女の命が最期に残したぬくもりも匂いも、いずれ消えていく。
そういうものだ。
何もできない。
どうすることもできない。
バザウはつんできた青花をプロンの手に握らせる。
洞窟の奥から人間の気配を感じた。
「……」
プロンの遺体を丁寧に寝かせる。
たった一人きりで、バザウは進む。