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バザウ、君は賢すぎる  作者: 下山 辰季
第六部

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85/115

ゴブリンとエルフの裁き

ぞ?」


 無数の矢じりがバザウとエメリに狙いをつける中、高貴な女エルフがねっとりと侵入者を品定め。

 禁足の森のエルフの中でも特別な立場にある者のようだ。


くさびらならず。虫妖フェアリーならず。恵流風エルフならず」


 わざとらしく首をかしげて悩んで見せた後、しとやかな所作で納得したように手を叩く。


往昔わうせきあたなり」


「なんだそのムダな小芝居。一目でわかんねえのかバカ」


 自分の素行は棚に上げて毒づいたエメリ。

 鈍い音。よろめく長身。頭がしたたかに打ち据えられた。

 エルフの巫女は柄の長い杖状のものを手にしていた。トネリコの木でできていて細くスラッとしている。柄と先端の間には、丸く茂ったヤドリギが青々と根づいている。

 巫女は仲間たちへと視線をむけた。


「とらえたあた如何いかにする?」


 エルフたちがいっせいに口を開く。


「間伐」

「苗床」

「盆栽」

「切り花」

「接ぎ木」


 すべて禁足の森のエルフ式処刑方法の隠語だろう。

 間伐されたゴブリンや盆栽になったオークがどんなありさまかはご想像にお任せする。


(コイツら……、血生臭い本性はゴブリンやオークと大差ないな)


 侮蔑が表情に出たか。

 エルフの巫女はバザウを見咎めるとトネリコの棒で鋭く殴打した。

 視界がゆれた。耳の奥で鈍い痛みが弾ける。

 禁足の森のエルフたちは見た目の繊細さとは裏腹にだいぶパワフルだ。


緑肌小鬼ゴブリン……。アルヴァはの何を案ずるか」


 よろめいたバザウにエメリはすぐに無言で接近した。

 とりあえず心配して近づいた、といった頼りない動作ではなく、何か明確な意志を持っての行動だ。

 エメリは、バザウを自分の至近距離に位置させておきたいらしい。

 意図まではわからない。だがエメリはこの状況でもまだ諦めてはいない。それはバザウにもわかった。


「ボコボコ殴ってくれちゃって、余裕じゃないすか森のモヤシども」


 そのままエルフを挑発。敵意どころか殺意をどんどん煽っていく。


「囲んだくらいで敏腕スカウトのエメリさんをとらえたつもりでいるとか、超うけるんですけど! 俺のお手々ちゃんはフリーダム!!」


 エメリは右手で素早く何をか取り出そうとした。

 その危険な兆候をエルフの射手は見逃しはしない。

 迷うことなく矢を放った。


「……とっととそうしてりゃ良かったんだよ。手間をかけさせやがって」


 放たれた矢はエメリの右手をえぐることなく空中で制止。

 ありえない軌道を描き、射手の手元に深々と突き刺さる。


 エメリを中心にして微細な霧状の結界球体が形成されていた。

 もちろんただの霧が矢を送り返せるわけもない。

 

(この不可思議な芸当は……魔技型マギケか……)


 溺死者が口をきけばこんな声がするのだろう、という湿ってこもった音が聞こえてきた。


「……ヤァ、メ テ……」


 傷つけられた乙女の姿をした水の精霊がエメリの背後より顕現する。

 右半身は濁った水で形作られた悲壮の美女。左半身は複雑に絡み合った雑多な金属のゴミでできていた。

 透けて見える水の体のいたるところにピンやボルトが打ち込まれている。人であれば脳の深部に達する位置にまで深いピンが差し込まれ、精霊の目がある場所にはトゲだらけの金属で蓋がされていた。


 もとは清らかな泉に宿る精霊だった。魔技研の技師に目をつけられたのが運の尽き。

 魔技型マギケは精霊をとらえて作るものだが、より用途に適した道具を作るために精霊自体を目的に合わせて加工する手段がとられた。

 シャルラードの望みの品は、エルフの弓の猛攻を一時的でも限定的でも良いので無効化できる道具だ。

 オークの技師は精霊の宿る泉にありとあらゆる悪意を投げ入れる。金でも銀でもない斧を。壊れた荷車、曲がった車輪。割れたガラスに錆びた釘。

 泉の精霊はそれらの悪意を投げた者に返した。

 魔技型マギケを完成させるまでに、投げ入れ役のゴブリンが百人ぐらい必要だった。

 オークの技師にとらえられた泉の精霊は左右に分けられ、かくして同じ効果を持つ二つの魔技型マギケが出来上がった。

 この魔技型マギケは、使用者を中心とした一定の範囲内に何かが投射された際、それを放った者に送り返す。

 一つはシャルラードが所有し、もう一つは仮面のスカウトに貸し与えられている。


 金属だらけの痛ましい水精の姿にエルフたちは怒りを燃やす。


「何たる所業か!」


「許すまじ、豚鬼オーク!」


「エルフといえば弓だろうが! 杖でぶん殴ってくるとか予想外だったわ! バザウちゃん大丈夫ー?」


 ひらひら動かすエメリの右手には何もなかった。

 何かを取り出そうとした動きは、射手に弓を使わせるブラフ。


「あんな挑発をして……矢ではなく剣で斬りかかられていたら、どうするつもりだったんだ?」


「そんときゃバザウ先生にお任せしますよー」


 バザウは肩をすくめた。

 あの魔技型マギケは森に入った時から作動させていたのだろう。


(どうりで背中に弓が刺さる不安もなく進めるわけだ)


 エルフの最大の武器である弓矢は対策できたとはいえ、この人数を相手に勝てるとは思えない。

 戦いにおいて数は力。こちらはたった二人きり。地の利も敵の側にある。


(……怖気づいている場合じゃないな。足手まといにはならないと決めたんだ)


 神器の性能である程度おぎなってはいるが、エメリは真っ向勝負を得意としない。

 敵に弱さを見せるバカなマネこそしていないが、調子良く振る舞うエメリが本当はかなりの重圧にさらされているのがバザウにはわかる。


(俺が全力を出さなければ)


 山刀を握り直しエメリの一歩前に出る。

 息を整え、集中する。


(コイツになら任せても良い。俺の命を……。そして俺はコイツの命も背負う)


 精神の層を外部に押し広げる。感覚を触手のように伸ばしていく。四十をこえる強い敵意に直に触れる。

 冷静に考えれば、たった二人でこの数のエルフに勝てるわけがない。


 エルフの意識のゆれ動きを感知する。攻撃に移る前兆。

 ミスリル製の剣で斬りかかってきたエルフを一人片づけた。

 続く三人の戦士も、腹部を斬り上げ、手首を寸断、胸を一突き。

 二本角の帽子に返り血の花が鮮やかに咲く。


 エメリはバザウの後ろで息をのんだ。

 手合わせでバザウがエメリの実力を把握したように、エメリもまたバザウの普段の実力を心得ていた。

 バザウが実力以上の強さを発揮していること。そしてその高度な集中状態を必要とする快進撃はそう長くは持続しないであろうことも。


 表情を変えずに四人ものエルフを続けざまに倒したバザウは、はた目には余裕いっぱいに見えたことだろう。

 だが実際は、精神の集中と肉体の動きで精いっぱい。感知した敵の動きに素早く反応しているだけで、この状態ではとても戦略など練っている余裕はない。

 バザウはこの状況下で生き延びるために、今まで自分が一番の頼りにしてきた武器を手放した。思考という最大の武器を。

 頼みの綱はエメリ。バザウはエメリが活動できる時間を産み出しているにすぎない。

 そうすることがベストの役割分担だとバザウは判断した。


「……なんだアイツ……なんでそんな……。……ボサッとしてる場合か俺っ! 死ねるわ!」


 エメリは我に返るとすぐに自分のなすべきことをした。

 牙の入ったビンを取り出し、中身を地面にぶちまける。


「畑仕事は日々の地道な積み重ね。土は肥やされ、種はまかれた。地産地消! 禁足の森の土で育った竜牙兵の収穫シーズンを迎えました、イエーイ!!」


 武装した異形の骸骨が大地から芽吹くように現れる。竜の牙は大地の精気を得て、荒ぶる兵士となる。

 地上に出る邪魔になるなら、同じ竜牙兵であっても容赦なく引きずり倒し踏みつける。弱い者はどんどん淘汰されていき、残るのは強者の軍勢。完全に土から出た後はもう仲間割れをすることはなくなった。

 竜の牙から生じた人型の骸骨戦士。身の丈は人よりも大きく、頭蓋骨の後頭部が牙のように鋭く長い。禍々しい鎧を着こみ、それぞれ剣や戦斧や槍などをたずさえている。


「ゑいっ、はれっ!」


 弓から剣へと武器を持ち替え、禁足の森を守るエルフの戦士は仮面の死神が率いる軍勢とぶつかり合った。




 エメリは大鎌を派手に振りかざすことはしなかった。

 熟練の農夫が干し草を刈る時のように、力みの抜けた構えで自然に立つ。

 大鎌の刃は地面すれすれの位置で静かにきらめいている。


 大鎌の間合いに入ったエルフは全員、足首を払われて転倒する。

 もちろんエルフとて無防備に突っ立っていたわけではない。鎌の軌道を予測して素早い身のこなしで跳び退く。

 だがそれは訪れる結果をわずかに先延ばしにしたにすぎない。着地地点に鎌が振るわれ、勇猛にして高貴なエルフが次々と無様に転ばされる。

 そこに容赦なく戦斧が振り下ろされる。竜牙兵がひしめく戦場で転ぶということは、死んだものと同じである。


 バザウとエメリは機会を見計らい逃げるつもりであったが、禁足の森のエルフたちはそれを許さない。

 なかなか尻尾を出さないネズミがようやく姿を見せたのだ。どうあってもこの場で仕留める気のようだ。

 特にエヴェトラ=ネメス=フォイゾンの大鎌を持つエメリは執拗に狙われている。


 多数の竜牙兵の出現で、バザウにも考える余裕ができた。


(この状況で俺が前衛で戦う意味は薄い……。それよりも……)


 後方に退避してエルフたちの意識を探ることに専念する。

 ほとんどの意識が戦いにむけられている中で、争いから離れた場所に二つのエルフの意識。


(一ヶ所にとどまって動かない……)


 他者の思考を一言一句精確に読むほどの能力はバザウにはない。何を企んでいるかはわからないが、捨て置くには気にかかる。

 この状況でエルフが無意味に戦いの場から離れるとは思えないのだ。……何をやらかすかわからないゴブリンや臆病で逃げ足の速いコボルトならともかく。

 エメリの持つ矢除けの魔技型マギケの効果範囲から出ることになるが、その危険を冒しても確認すべきだと思った。可能ならば潰しておこうとも。


(激戦地を迂回して、怪しい動きの二体の奇襲に……)


 慎重に戦場から離脱したところで、バザウの中のゴブリンらしい部分がささやく。

 今なら自分一人だけは逃げ切れるのではないか、と。


(……逃げれば良い、そう考える俺もいる。だが……危険だなんてわかりきっているのに、ここで逃げたくはない、と強く思う俺もいるんだ)


 集落での惨劇で、ザンクはまだ冒険者がうろついている洞窟に戻ってきた。

 何も約束はしていないし、逃げ延びたことを責める者もいないのに。

 誇り高き森狼と愛らしく有能な統率者のコボルトに、顔向けができない行動はしたくない。

 迷いは断ち切り、先に進む。




 前方、樹上に二つの影。

 一方はなぜか矢をつがえずに弓だけを持ち、もう一方は小枝の杖を動かしていた。


(エルフの射手ともう片方は精霊使いか)


 精霊使いの背後から黒い霧が不気味に立ち上る。


(……なんだあれは……。影……?)


 影。精霊。

 森に入る際に、エメリは闇だか影だかの精霊を材料にした魔技型マギケを使っていた。

 存在感を希薄にする効果。これがあるからバザウとエメリは、森にいる精霊たちに気づかれずに行動できた。


(そうだ。同じ精霊に対しては特に隠蔽効果が高いと……)


 エメリが矢除けに使っている魔技型マギケにも、精霊が封じられ利用されている。


(……影の精霊ならば、他の精霊の感知能力をかいくぐれるのだとしたら……)


 バザウは森の中を堂々と進むエメリの後ろ姿を思い起こした。

 矢で射抜かれるなんて危険はまったく想定していない無防備な背中。


(まずい……、まずいぞ)


 精霊術師は黒霧の中から一本の矢を取り出した。影そのものでできた黒い矢だ。

 射手は短くコクリと頷くと、影の精霊の力が宿ったその矢を弓につがえ……。


 バザウは左右の手甲に仕こんだ鋭利な金属棒を引き抜く。

 右手で放った分は射手の手元に当たり、左手で投げた方は樹木の幹に深々と突き刺さった。

 金属を打ちこまれた樹木の精の絶叫。


小鬼ゴブリンっ!」


 エルフがそう叫ぶ間に、バザウは木を駆け上がる。

 幹に刺した金属の棒を足場に跳ぶ。

 精霊使いは隣の木の枝に慌てて逃げ、射手は怯まず分厚く頑丈な造りのナイフを抜き放つ。

 振るったバザウの山刀はエルフのナイフで受け流された。


 奇襲の初撃をいなされたバザウの眉間に、苦い焦りがシワとなって表れる。

 樹上での攻防戦はエルフの方が圧倒的に長けており、小振りのナイフは山刀よりもはるかに取り回しが良い。

 鋭いナイフの突きがバザウから武器を奪う。手から山刀の頼もしい重みが抜けていき、残されたのは空虚な手応えと死の予感だけ。


 死を恐れた肉体は無意識に口を開ける。

 バザウの脳は、傷ついた体でなおも戦うザンクの姿を想起していた。

 森狼の鋭い牙に強靭な顎。ザンクの口ほど大きくはないがゴブリンにだって牙はあるのだ。


挿絵(By みてみん)


 エルフに喰らい付く。

 喉笛を狙ったが、とっさに腕で防がれてしまい噛んだのはエルフの手。

 弓を扱う掌の厚みとその内側にある骨の固さを感じる。

 バザウを引き剥がそうとするエルフともみ合ったまま落ちていった。

 墜落。衝撃。

 バザウの体の下でキノコが崩れた。ぐちゃりと潰れて足が滑る。隙を見せず、転がりながら立ち上がる。

 口の中からぷっと小さな肉片を吐き捨てた。美味なるソーセージに比べて、味も香りも舌触りも最低だ。


 バザウは落ちた山刀の位置を横目で確認すると、素早くそれに手を伸ばす。


「!?」


 その手に先に触れたのは、硬質な武器の柄ではなく、しなやかで柔らかな植物のツルだった。

 するりと巻きつかれ、信じられない力でとらえられる。


(精霊使い……っ!)


 バザウの体はツルに持ち上げられて地面から離れる。

 四肢に、胴に、首に。次々とツルがまとわりつく。

 小枝を持った大人しそうな精霊使いが、下賤で野蛮な獣でも見るような目でバザウを樹上から蔑んでいた。




 闇の精霊に案内され、五人ほどのエルフがやってくる。


「ククミラさま」


 利き手を抑えた射手は痛みにさいなまれながら巫女の名を呼ぶ。

 巫女は負傷した同胞を気遣う表情をした後、柳眉を逆立て吊り下げられたバザウをめつけた。彼女の激しい怒りは風を伴い森の木々をゆらす。


ともがらを四人殺め、一人の戦士の身を損なひたり。そのとがわきまふべし」


 これからおこなわれるのはエルフの報復だ。

 バザウはもがく。植物のツルはしなやかで強靭だった。力をこめてもがこうとも一向にちぎれない。


(刃物なら……!)


 ヒイラギの葉ほどのサイズと形のノコギリをどうにか服の中の隠し場所から取り出す。

 拘束された体勢で無理して伸ばした指の筋がこわばってぎちぎちと痛んだ。

 今にも引きつりそうな人差し指と中指で鉄のヒイラギを挟みこみ、気づかれぬよう密かにツルに刃をあてがう。

 拘束がゆるむプツリと嬉しい手応え。それと同時に植物の精霊が金切声をあげた。


 バザウの脳がゆれた。

 ククミラに杖で打ち据えられたのだ。


徒然つれづれ生賢なまさかしき小鬼ゴブリンめよ」


 ククミラは従者のエルフに指示を出した。従者エルフの手には石の刃が握られている。

 逆さ吊りにされたバザウの腹に刃がぐっと押し当てられる。自分の命を奪える武器が体に突き付けられている状況は楽しいとはいえないが、どうすることもできない。

 執行者の腕が躊躇なく引かれる。

 血がじわりとにじんで、バザウの服が赤く染まっていく。

 内臓がこぼれ落ちるまで腹を引き裂かれるものと覚悟していたが、意外にごく浅い傷を作っただけでエルフは石刃を収めた。

 従者は下がっていったので、浅い傷をたくさんつけて少しずつ体を削いでいって……という処刑でもなさそうだ。

 

 そしてククミラが杖の石突を地面に打ち付け、高く掲げ、構える。

 

 バザウは気づいた。とても恐ろしいことに。

 エルフのククミラが手にしているものは杖ではない。上から下まで木でできてはいるが、あの鋭利な先端は飾りなどではなく……肉体を突き刺すことができる槍の穂先だと。


 瞳にかすかに浮かんだ恐怖の色をエルフの巫女に見抜かれてしまう。

 風を切る音を立て、エルフの槍が鋭く突き出された。


「っ……!」


 バザウは固く目を閉じ、歯を食いしばる。

 ……数秒たっても、全身を貫くような痛みはいっこうに訪れない。

 困惑しながらゆっくりと目を開けた途端、顎にぐいと穂先が当てられ無理に首をそらされる。


黒鉄くろがねならず、ただの木ぞ。何かぢ恐れる」


 巫女は怒りと憎しみを燃やしながらも、この処刑を楽しんでいる。

 圧倒的に有利な立場で、卑小な命をなぶっている。

 ネコがとらえたネズミをいたぶり殺すように。


 穂先は少しずつ上へ上へと進んでいく。逆さになったバザウの顎から首筋。鎖骨のくぼみ、軽鎧で守られた心臓。引き締まった腹筋、そして赤い血をとくとく流した傷口へ。

 開いたばかりのバザウの傷口に木の穂先が触れる。木の素朴な質感をこれほどおぞましく感じたことはなかった。

 これから自分の身にどんな災禍がふりかかるのか、バザウにはありありと想像できた。

 恐怖は消えない。内臓はこの体を見捨てて口から飛び出したいとばかりに暴れているし、脳は助かる方法を探しては絶望に突き当たって憔悴している。きっと顔色は青ざめて、額には脂汗が浮かんでいるのだろう。


 それでもバザウはエルフに命乞いする屈辱だけは断固拒否した。ククミラに視線をぶつけて、不敵に笑ってみせる。

 追い詰められたゴブリンの脆い虚勢を打ち砕くのに、エルフの巫女はヤドリギで飾られたトネリコの木槍を持つ手に少しばかり力をこめるだけで充分だった。


「ぅ、ぶ……っ」


 はたして今口から出たものが、自分の声なのか、血反吐の塊なのか、内臓の一欠片なのか、バザウにはよく区別がつかなかった。

 痛覚がオーバーフローする。

 思考が仕事を放棄する。

 腕は己に突き刺さった槍の柄を必死で握りしめ、足は正反対の場所にある大地を蹴ろうと無意味にもがく。 


 絶命するまで続くだろうと覚悟した苦痛は、不可解なことにだんだんと少しずつ消えていった。


(なんだこれは……)


 出血はとまり、傷口もふさがりかけている。

 槍にえぐられたままで。

 淡い象牙色をした丸く可愛らしいヤドリギの実が潰れて、そこから白い糸が伸びている。

 白く細長い寄生虫を思わせるそれは寄生根だ。自然界では他の樹木につくもので、生き物に根をはったりはしない。

 だがバザウの肉体を侵食しているヤドリギは普通のものではないようだ。開いた傷口にしっとりとした繊細な根が寄り添い、流れた血を丹念に吸い上げている。

 痛みを消して傷を癒すと同時に、その白くて華奢な侵略者はバザウにゆっくりと入りこんでくる。


(クソッ……!)


 ロクに身動きができず、皮膚に付着した実を振り払うこともできない。

 植物に縛られているという理由だけでなく、バザウの体から暴れる力が失われつつあった。


(……俺はどうなるんだ……)


 痛みが引いていく、ということが逆に恐怖と不安と焦燥をかき立てる。

 それは感覚の消失を意味する。


(……嫌だ、怖い……。俺が俺でなくなる……)


 肉を裂かれ内臓を押し分けられる感覚もじょじょに曖昧で不明瞭なものになっていく。

 もはや感情も鈍麻していて、バザウの脳は甘く熟した果肉で包まれたかのように停滞していた。

 自身の変化に対して感じた恐怖や絶望も、時間が経過するにつれて他人事のように思えてくる。


 バザウはククミラが木槍を引き抜いたことにも気づかなかった。

 肉をうがった傷跡には、血肉の緋色ではなく植物の緑が色づいていた。

 傷口付近の皮膚はゴブリンの緑肌よりも深い緑に染まり、その質感も固くしまった新芽や若い茎に近い。


(……体の感覚がない……、眠い……)


 感覚がないわけではない。これまでの身体感覚からはあまりにもかけ離れたものだったので、なくなったと錯覚したのだ。

 動物として産まれついた者にはそうすぐに理解できるものではない。

 樹木の感覚というのは。


 肉体は運動を放棄した。みずみずしかった皮膚も動物的な柔らかさを失った。視力が消えていく。肺が膨らまない。心臓は鼓動を放棄した。

 でも苦しくはない。


(エメリは……無事に逃げおおせていると良いんだが……)


 すっかり鈍くなった頭でそんなことをぼんやりと思ってから、バザウの意識はものいわぬ森の木々に飲まれ溶けこみ混ざっていった。

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