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ゴブリンとかつての戦争

 葉脈だけになった透け葉を装飾に使った白い衣をまとい、森の中をすべるように歩く人影。ニジュ=ゾール=ミアズマを祀るエルフの巫女ククミラだ。

 プラチナブロンドの長い髪はモヒカン状に整えてある。エルフの伝統的なヘアスタイルだ。

 髪を伸ばして頭頂部を盛り上げるのは精霊と自然の声をよく聞くため。こうしておけば髪を長く伸ばしても弓を扱うのに邪魔にならないという合理的な理由もある。


 ククミラは侵入者の痕跡を調べていた。

 森はいつもと変わらないように見える。木々は赤く粘った涙を流し、地衣類は樹皮の上にシミやイボを形作る。

 ただある一角にだけ、ふかふかとした黒土がコケの上に残されていた。

 ククミラの端正な眉がひくりとひそめられた。これは森の土ではない。異物だ。違いは明らか。


 禁足の森の土壌は異常発生した菌類に養分を吸い尽くされており、粘土質で薄赤色の土だ。基本的には獣に掘り返されることもないのでぎゅっと押し固められている。

 森には存在しないはずの黒土は、肥沃な畑の土。忌まわしきオークは土塊と駄金属のゴミをつめた麻袋を森に大量投棄している。

 ここは森の深部で外界から投げられた麻袋が届く場所ではない。こんな内部にまで入ってこられるのは、あの仮面の男ぐらいしか心当たりがない。


「ああ、ねたし……」


 ククミラは禁足の森に封印されている邪神の動きが活発になりつつあるのを感じ取っていた。

 貪欲好色の痴愚なる邪神はまだ眠りについてはいるが、夢うつつの意識で信徒を呼び寄せようとしている。

 なんとかしなくては。焦燥感にククミラの胸がざわめく。

 ニジュ=ゾール=ミアズマを妖精の守護者と崇め、邪神エヴェトラ=ネメス=フォイゾンの封印を守り、エルフ以外の者が森に入るのを禁じる。それが連綿と受け継がれてきた禁足の森に住まうエルフの伝統。

 長寿のエルフが何代も何代もかけて伝えてきたことだ。ククミラの代でそれを途絶えさせるわけにはいかない。


「仮面の男がきたのだな」


はアルヴァ=オシラ」


 凛と研ぎすまされた瞳は凍てついた海の蒼白。

 長く伸ばした金色の髪の上にヤドリギの冠をいただいている。禁足の森の一員で髪をモヒカンにしていない唯一の存在だ。

 その耳は人のように丸く短い。彼女はエルフではない。妖精族ですらない。今見えているアルヴァ=オシラの姿は幻影にすぎず、その正体は人間族の霊体だ。


 まるでエルフよりも古くからこの森にいたかのように堂々としているが、ククミラとアルヴァ=オシラが出会ったのはそう昔のことではない。

 湿った岩にコケがはりつき、樹木をツタが覆いつくす。コケもツタも後から生じたものなのに自然となじんでしまう。アルヴァもそのような存在だ。朽ち木に生えたキノコを森の異物として排斥しようとするエルフがいないのと同じこと。

 禁足の森のエルフはアルヴァのことを古いヤドリギの精霊だと認識している。


 アルヴァは森のエルフの中でもククミラに目をとめた。

 もっと聡明なエルフ、もっと篤実なエルフ、もっと勇壮なエルフは他にいた。だがククミラが最も古い時代の見識が深かった。

 アルヴァ=オシラは最古のものに価値をおく。

 禁足の森のエルフの風習は、この世界のあらゆる知的な生物が織りなす文化の中で一番古く伝統あるものだった。


「最愛や最強などという陳腐な称号は目まぐるしいもの。他の誰かや何かの台頭でころりと首がすげ変わる。あらゆるものが栄枯盛衰の流れに抗えない中で最古の称号だけはゆるぎない。不変の価値を持つ」


りとても、くてはわびし」


 ククミラは危惧している。このままオークの狼藉をとめられなければ、禁足の森はどうなっていくかわからない。最古の伝統も途絶えてしまう。

 一番の問題はエヴェトラ=ネメス=フォイゾンの神器だ。

 永年つちかったエルフの知識があろうと数多の精霊の力をもってしても破壊不可能の代物。貴重なミスリル製の矢じりでさえも神器には歯が立たなかった。

 そしてオークたちはこの神器を使ってニジュ=ゾール=ミアズマが作り上げた封印を破ることができる。一方エルフたちにはニジュの神器は託されてはいない。


「状況を楽観視はできないが、打つ手はある」


 アルヴァには一つの見とおしがあった。ヤドリギの冠がさわりとそよぐ。

 ヤドリギは、秩序の神から託されたアルヴァの抱く真理を象徴する植物だ。

 創世樹の根源世界。そこでは宿主の抱くたった一つの真理が他の全ての力を凌駕する。それは神と称され畏怖されるあの者たちとて例外ではない。そこに神器の所有者を誘いこむことができれば。

 神以外には壊せないはずの神器でさえも打ち砕くことができる。崇高なる命の、魂の、心の、意志の力で。


「今はまだ耐え忍べ。いずれ遠くないうちに好機が訪れる。それから私は……」


 意志と秩序の神チリル=チル=テッチェはアルヴァに創世樹だけでなく有意義な警告も与えていた。


「奸佞邪智の緑肌の小鬼を討ち果たす」


緑肌小鬼ゴブリン? はて……。必竟ひっきゃうかひなき痴れ者なり」


 ゴブリンなどしょせん相手をするまでもないバカだ、という意味合いのことをククミラはいっている。

 彼女はチリルから創世樹の駆逐者について何も聞かされていないのだから当然の反応だ。アルヴァがチリルと手を結んでいることさえしらされていない。アルヴァがニジュを信仰していないことも。


「ククミラよ、侮れば足元をすくわれる。あれは正道をいく者をつまずかせる悪意持つ小石だ」




 ***




 ソーセージ専門店にうきうきとむかう途中、バザウはどこかで見たことのあるゴブリンの後ろ姿に足を止める。


(ダークエルフといっしょにいた……)


 名前はたしか。


「ラムシェド」


 ゴブリンが振り返る。今日はダークエルフの歌姫とは別行動らしい。


「……? ああ、あの時の客か! オメーあれから大丈夫だったかよー?」


「さっさと逃げたので実害はなかった。むしろお前たちこそ騒動の渦中にいたんじゃないのか?」


 ラムシェドはキシシッと笑い声を立てた。そして心の底から得意げに胸を張る。


「ダチュラの歌はすげえだろ! いつもは普通の歌を……純粋に音を楽しむだけの歌を客に聴かせてたんだけどよ。オメーのリクエストはアイツの本業の歌を披露する良い機会だったからな」


 このゴブリンはあれが普通の歌ではないことをしっていた。どうなるかわかっていたのに、ダークエルフを制止せず周りに警告も出さなかった。

 無責任で物事を深く考えないゴブリンらしい振る舞いだとバザウは内心毒づいたが、ラムシェドなりの考えはあったらしい。それはよく練られていない浅はかなものだったが。


「流れのゴブリンが貪欲の市場の長に会う方法なんて、オレの頭じゃちっとも思い浮かばなくてよ。ダチュラがシュシュの呪歌で騒ぎを起こすのが、一番手っ取り早く話題になる方法だと思ったんだがなぁ……。でも酒場の亭主にめちゃくちゃ怒られて叩き出されただけで、思い描いてたとおりにゃいかなかった」


 貪欲の市場の中であれだけのトラブルを起こして、怒られるだけで済んだのは幸運だろう。


「……どうしてそこまでしてシャルラードに会おうと……?」


「健康には自信のあるオレだけどよ、さすがにダークエルフの寿命には付き合いきれんからなぁ。オレがくたばっちまうその前に、ダチュラの才能を買って大事に面倒見てくれるとこを探さにゃならん」


「ダチュラはどうしてる? あの騒動でケガでも?」


「無事だよ。買い出しにいくんで宿で留守番させてるだけ。ごちゃごちゃした市場の雑踏はダチュラの負担になるからなぁ。売り物を勝手に食べたらヤバいってことをダチュラにわかってもらうために、オレは一度ボロ雑巾になるまで店主のオークにボコボコにされにゃあならんかった」


 バザウは閉口する。

 ぼんやりとして危なっかしい印象ではあったが、そこまで理性が欠如しているとは思わなかった。ゴブリン以下ではないか。


「でもそれからは売り物をつまみ喰いすることはしなくなったんだ! 一度の失敗でやっちゃいけないことを覚えるなんて、ダチュラは賢いだろ!」


「……う、うん。そうだな……」


 バザウはラムシェドに話しかけた理由を思い出す。

 ルネ=シュシュ=シャンテと関係のある歌の詳細を聞きにきたのだ。

 ダークエルフの間には、他の種族には伝えられていない知識や神話があるのかもしれないと期待している。


「俺はバザウ。ハドリアルの森の産まれ、震撼を呼ぶヘスメの十二番目の息子バザウだ。ルネ=シュシュ=シャンテにまつわる神話を調べている。ダチュラから何か話を聞けると嬉しいんだが……」


「そうかいバザウ。オレはモデアの沼地にてカエル鳴く夏の晩、乱杭歯のシュムーティに産み落とされしラムシェド。ダチュラと話したい、か……。ちょいと内容があやふやでもイライラカリカリせずに聞けるか?」


 ラムシェドは思案げに自分のアゴをなでさする。

 酒場で見た本人の様子とラムシェドの過度の気づかいからバザウも察していたが、ダチュラは理路整然と会話することが難しい状態にあるようだ。


「ああ……。約束しよう」


「わかった。オレ以外のヤツとじっくり話すのはおしゃべりの良い訓練になるだろうよ。……ダチュラは……シュシュの声を聴くために途方もない代価を払っちまった。健全な心と健康な体っちゅーな。はたしてそれだけの価値がある取引だったのか……オレにはわからん!」




 買い出しが済んだ後で、ラムシェドとダチュラが寝泊まりしているサビネコの毛玉亭にお邪魔する。

 カスラーが切り盛りする砕かれた星屑亭は硬派で武骨な雰囲気だが、サビネコの毛玉亭はこじんまりとしていて素朴な宿だ。内装は良くいえばレトロでノスタルジー、率直にいえば廃墟一歩手前。

 色あせた元原色オレンジの小花模様の壁紙はボロボロ。天井近くはクモたちの宿泊地になっていた。やたらと急角度で幅も狭いうえに手すりもない木の階段を上る。

 建付けの悪いドアはなかなか素直に開いてはくれず、ドアノブと格闘するラムシェドにバザウは手を貸した。


 ゴブリン二人がドアを開けるとダチュラが部屋の入口すぐそばの位置で待ち構えていた。

 ダチュラはちょっとだけポカンとした後、不思議そうにバザウを指さす。


「ラムシェド。しらないゴブリンが ついてきてるよ」


「お客さんのバザウだ。ダチュラに聞きたい話があるんだと」


「そうなんだ、はじめましてー」


 ダチュラはバザウに一度会っていることをすっかり忘れているようだ。

 あるいは、ラムシェド以外のゴブリンの顔の見分けがつかないのかもしれない。


「……どうぞ。好物だと聞いた。二人で食べてくれ」


 買い出しの途中で、バザウが謝礼代わりに購入した果物の包みをダチュラに手渡す。大粒のブドウと分厚い皮の柑橘類は甘くみずみずしい芳香を漂わせている。

 それを受け取る両手はふわふわと頼りなく、バザウは包みから手を放すタイミングに戸惑った。


「ありがとー、ねー」


 そう広くはない部屋にゴブリン二人とダークエルフ一人が入ると、空間の密度が上がって窮屈になる。

 ペラペラのダサい柄の布が張られたガタガタの木枠の間仕切りは背が低く、その向こう側にある一つしかないくしゃくしゃのベッドが視界に入る。

 贈り物を渡し、ダチュラに名乗った後で、バザウはしりたいことを尋ねた。


「この前酒場でルネ=シュシュ=シャンテの歌を歌っただろう? 俺はあの神に興味がある」


「シュシュはー、じぶんの しんじゃを うたのちからで あやつったんだよ。みんなで ちまなこ てきたおす。すごい、ねー。ダークエルフは シュシュの ふしぎなうたを じぶんたちのものに したくて、じゅかず……、じかじゅ、じかずちゅち……」


 ラムシェドが助け舟を出す。


呪歌術師じゅかじゅつしな」


「じかじつしは シュシュの きせきを さいげん するんだよー」


 ダチュラは隣に座っているラムシェドの肩にもたれた。

 ダークエルフたちはルネを純粋に信仰しているというより、他者の心を操作する歌の力に目をつけているだけのようだ。

 目の前にいる二人からは、エメリのエヴェトラに対する熱い歓喜を感じない。デンゼンがバザウに示した深い信頼も。


「神自らがそんな大規模な奇跡を起こすなんて、よっぽど追い詰められていたんだろうな……」


「そうだねー、そうかもー」


「……」


「……」


 ダチュラは退屈なのかラムシェドのお腹を揉みはじめた。


「コラ、今はダメだ。遊ぶんじゃない」


「つまらないよー。あのこの おはなし むずかし。わからない」


 バザウはしばらく黙り込んだ後、意を決してハキハキと明るい口調でこういった。


「ダチュラちゃん! ルネ=シュシュ=シャンテは戦いの歌で信者を操ったんだ、大変だね! うーん、でもルネは誰と戦っていたのかなー? ダチュラちゃん、しってる?」


 バザウの豹変に、ラムシェドは大爆笑を必死でこらえている。


(……笑うんじゃない。俺だって恥ずかしい……)


 ダチュラは笑顔で手を挙げた。


「はいはいっ、わかるよ! シュシュは チルと せんそーだよ!」


(なんだ、相手はチリルか……。他にルネと遺恨のある神でもいれば、ヤツを滅ぼすカギになるかとも思ったが……)


「チルとシュシュで こころの しんじる つよさ ためすため。しんじゃの ニンゲンには せんそーさせたけど チルとシュシュの ほんとうの ケンカじゃない。しんじゃを つかった、こころの ふたごしんの ゲームだよ」


「キシシッ! 人間はバカだ。チルのことを善良でまっとうな神だと今でも信じていやがるんだから」


「だけど……チルとシュシュの せんそーゲームのとちゅうで じゃまものが……。チルは プンプンおこった、よー」


 ゆっくり瞬きをして、ダチュラはあぐらをかいたラムシェドの膝の上に頭を乗せた。


「それで、ゲームは おしまい……」


「そうなんだ! えっと、それじゃ次に聞きたいのはね……。ダチュラちゃん? ……ダチュラ?」


「寝ちまった。オレ以外とこんなに長く話すのは久々だったからな。話の途中だけど許してやってくれ」


「ああ。俺の頼みでダチュラには負担をかけてしまったな」


「まったくだ。お前のダチュラちゃん♪ はオレの腹筋にもそうとうな負担をかけたぞ」


「あれはっ、苦肉の策というやつだっ!」


 怒ったバザウに、ラムシェドはしーっと指を突きつけた。


「おっと。静かにな、ダチュラが起きちまう」


 ダークエルフの歌姫は、心を許したゴブリンに身を預けて眠り込んでいる。のんびりした気性のネコが飼い主に甘えているみたいだ。

 二人の関係性はどこか歪で儚げで、それでも少しうらやましい。

 ラムシェドはバザウほど戦いの技術があるわけではなく、考えることだってちょっと抜けている。けれど彼は自分の大事な者を守っている。


(俺の手からは……大切な者の命がこぼれ落ちてしまった……)


 命を助けられなかったデンゼンのこと。因縁の巻き添えにしてしまったプロンと洞窟のゴブリンと森狼たちのこと。


 ダチュラの髪をなでながらラムシェドが尋ねる。


「しりたいことはわかったか?」


「少しはな」


 今度シャルラードと会った時に、ダークエルフの呪歌術師の存在を伝えておこうと決める。




 バザウはヒマを見てはちょくちょく市場の外でエメリに戦いの手ほどきをした。

 森の中では可能な限り戦いを避ける方針ではあるが、いざという時に戦う心構えがあるのとないのとでは精神的な余裕が違う。

 バザウが相手となり、エメリは大鎌と鎖を組み合わせた攻防を練習する。


「おお……、筋が良いな……。二種類の武器を使い分けるのは容易なことではないのに、お前は手先が器用だな」


 共闘して動く、というのもバザウにとってワクワクする経験だった。

 エメリの呼吸、動きのクセ、判断の基準などを覚え込み、戦いの中での自分の動きをそれに同調させる。


 区切りの良いところで訓練を切り上げる。

 バザウは革製の水筒でノドをうるおす。息が上がるほどに動いた体に水分が心地良くしみわたる。

 エメリは肩で息をしているが水を口にすることはない。

 この男が仮面をはずしたところをバザウは見たことがない。

 バザウだけでなく、貪欲の市場の誰もエメリの素顔をしらない。


「……俺はむこうの木陰で小休止しているから、出発できるようになったらお前の方から声をかけてくれ」


 しばらくしてバザウの名を呼びながらエメリがダバダバと騒がしく走ってくる。


「ぷはーっ、生き返ったわー」


 疲れて乾ききっていたはずのエメリの声は元気に復活していた。




 二人が砕かれた星屑亭に戻ると、カスラーとキアンコが雑談しているところだった。

 ドアが開く音にカスラーが視線を上げる。


「朝の訓練ご苦労さん。腹が減っていないか? ふかし芋ならいっぱいあるぞ」


「あ、おかりなさーい。訓練とはいえ大鎌のエメリの戦い相手ができるなんて、バザウさんもけっこう強いんですね」


 ネメスの大鎌に殺傷能力がなく、エメリは真っ向勝負が不得意、ということは限られた者だけの秘密だ。


「ああ。エメリの足を引っ張るわけにはいかないからな。色々指導してもらっている」


 バザウは自然な表情でウソをついた。

 周りに誰もいなくなった後で、貪欲の市場最強とささやかれる仮面の男は二本角頭巾のゴブリンにぼそりと話しかけた。


「……あんがと」


「礼はソーセージ盛り合わせをおごるだけで良いぞ」




 午後の時間。砕かれた星屑亭の一階でバザウはぼーっとしていた。

 テーブルの上にあるのは、麦酒のレモネード割りが入っていた木のコップとボールに少しだけ残ったナッツ類、それとあの残念な『チル教典』。

 最初は読み返すつもりで持ってきたのだが、やはり気乗りがせずに表紙を閉じたまま放置している。


 二階にいたはずのエメリがいつの間にか、カウンターのカスラーに話しかけていた。

 エメリは癇に障るぐらいうっとうしい時もあれば、影よりもこっそり動くこともある。

 カスラーへの用件は夕食のリクエストか何かだろう。エメリは食堂を利用しない。二階の自室で食事をとる。人目のある場所で仮面を外すことはない。

 バザウの視線に気づいてエメリが手を振って近づいてきたかと思えば、はた、とその歩みを止める。


「チル神の教典……?」


 まるでゴキブリを見つけて硬直する可憐な乙女のように、エメリは距離をとっている。


「つかぬことをお聞きしますがバザウさんはチル信者でおいでなのでしょうか……?」


「違う。古い神話や伝説を調べているんだ」


「だよねーっ! やだー、勘違いしちゃったじゃーん!」


 エメリは自分の頭をコツンと叩いてみせた。多分、てへぺろっ、的なニュアンスだ。

 ゴキブリ同然の扱いも解除されたらしく、親し気に話しかけてきた。


「そういえばさー、ゴブリン族に信仰ってあるの?」


「俺の故郷では、いるかどうかも定かではないゴブリンの守護神を気分とノリだけで崇めている」


「ええっ!? なんて適当な……ゴブリンらしい……」


 驚いた後でエメリは考えこんだ。


「神話を調べてるのか。そういうことなら信心深いエメリお兄さんは勉強熱心なバザウちゃんの力になれますよ、っと。カモン、カモン! ついてきて!」


 ぐいっと手を引かれて、行き先もわからないままバザウは市場の路地にくり出していく。




「おい。ここは……」


 有無をいわさぬ強引な親切さでエメリが案内してくれたのはシャルラードの邸宅だった。

 何用かと尋ねる召使いの冷ややかな視線も、面の皮どころか革製の仮面をつけたエメリには無効である。


「こーんにーちはー! シャルラードくんのお家の人ですか? 遊びにきました、エメリでーす」


 シャルラードの召使いはこの図々しい来客を嫌々応接室にとおした。

 応接室のふかふかしたソファがバザウには針のむしろに感じられた。

 いつまで居心地の悪い時間をすごしただろうか。シャルラードが姿を見せる。


「やっほー、メガカロリーマシュマロリッチマン!」


「なんだ。やたらと機嫌が良いなエメリ。呼んでもいないのにお前がやってくるなんて珍しい。私はてっきり急な悪い報せでもあるのかと身構えてきたのだが」


「少し頼み事があるのね。その対価として、俺は今からとっておきの芸を披露するから偉大なる市場の長シャルラードさま、どうぞごらんくださいませ」


 両手で一生懸命ゴリラの影絵を作るエメリのことは無視して、シャルラードは怪訝な顔でバザウに問いかけた。


「……バザウ。何かあったのか?」


「いや、それが……」


 エメリはテーブルの上にずろーんと体を投げ出して二人の間に割り込む。

 伸ばした両手は無邪気にパタパタしている。これが幼児の仕草だったら可愛いのだが、残念ながらやっているのはエメリである。可愛い要素はゼロだ。


「ご本を見せてちょ」


「私の蔵書を見たい? ネメスの大鎌の所有者たるお前の頼みならまあ構わないが……。どういう風の吹き回しだ?」


 無礼の限りを尽くすエメリに対してシャルラードはなかなかに気前が良かった。


「本を読むのは俺じゃなくてバザウちゃんでーす。神話のお勉強がしたいんだって」


「……大切に扱うので、閲覧を許可してくれるととても助かる」


「ホホホ。良いぞ。決まりは二つだ」


 たぷっと太った指でシャルラードは二本の指を立てた。パンみたいな指にやたら豪華な指輪が光っている。


「書物を汚損しない、読書室の外に持ち出さない。それさえ守るならどの書架の本も自由に読んで構わない」


「ありがとう」


 素直に礼を述べるバザウとはまったく対照的に、エメリは大げさに驚いてみせる。


「ええっ、そんなこといって良いんですか、シャルラードさん!? 見られて困るエッチな本とかもあるんじゃないですか!? 俺は本棚の裏とかタンスの引き出しの下とか徹底的に物色しますよ!?」


「そんな本は書庫には置いてっ……所有してないな! すまないがバザウよ、書庫を使う決まりをもう一つ追加する。エメリがバカなことをしでかさないか注意しておいてくれ」


「……もちろん気を付けるが、エメリの放埓ぶりは正直俺の手に余るぞ……」


 バザウとシャルラードが不安げに相談する間、エメリはムダに整ったフォームで格好良いポーズを決めていた。

 多忙なシャルラードが席を外す前に、バザウは貪欲の市場で知り合ったあの二人のことを伝えておく。


「シャルラード。ダークエルフの呪歌術師は、禁足の森の攻略の戦力になるか?」


「うん? それはまあ……。しかしダークエルフ、それもシュシュの奇跡を歌い継ぐ呪歌術師ともなれば、金を積むだけでおいそれと仲間に引き込めるような相手ではあるまい」


「貪欲の市場に滞在しているぞ。良い雇い主を探していた」


「えっ、マジ? 超ラッキー! ……バザウよ、それは真か。私の助けとなる有意義な情報だな」


 シャルラードは大いに興味を示した。

 バザウは、ダチュラとラムシェドのことと二人が逗留している宿の名前と場所をシャルラードに教える。




 書庫まではシャルラードの召使いに案内される。

 廊下を進む間の重苦しい沈黙は、礼節よりも不服を示していた。


(ゴブリンの俺が貴重な本にイタズラするんじゃないかと疑って警戒している……というのも多少はありそうだが……)


 バザウは後ろをチラッと振り返る。

 スローモーション風のスキップで歩いているエメリの姿がそこにあった。

 何もいわず、バザウは視線を前に戻す。


(他のオークの態度が冷淡なのは、エメリへの反感が主な要因な気がする)


 むしろバザウのことは付属物程度にしか見られていない。

 シャルラードも、初対面ではバザウをエメリの下僕か何かだと誤解していたくらいだ。

 案内役のオークはドアの前で歩みをとめた。


「ほら、ここだ。私には他にも仕事がある。呼ばれもしないのにやってきた図々しい不審者の見張りにつけないのは気がかりだがな」


「あっそ。ご苦労さん。もうあっちいって良いよ」


「……チッ!」


 召使いが去り際にエメリに向けた眼差しに、バザウは根深い嫌悪感を見て取った。




 シャルラードの蔵書室は入口近くに広いスペースがある。どぎつい色の絨毯が敷かれ、獣の毛皮がかかった特大ソファと輪切りメノウの低いテーブルが置かれている。この辺りは悪趣味ゾーンだ。

 読書や筆記に適したかっちりとした質素な机と椅子もあるにはあるが、片隅に追いやられている。複数あるので多分シャルラードの召使いたちが調べものをする時に使うのだろう。

 部屋の奥には背の高い書架が並べられ、静まり返った時の中で無数の英知が眠っていた。

 本棚にかけられたハシゴがあるが、シャルラード自身が足をかけようものなら確実に壊れる。


(あのハシゴが神器でもない限りは)


 背表紙の文字はオークのものが七割ほどで人間語が二割、残りはバザウのしらない言語。遠い異国やみしらぬ種族、古い時代に書かれた本だ。

 一番手前の本棚には、地図やオークとエルフの戦いの記録がぎっしりと詰まっている。シャルラードがよく利用しているのだろう。


 書架の探検をもうちょっとだけ進めると、有用な植物とその採取および栽培法、薬の調合、保存食の作り方といった実用書に出会う。

 ……そこにはソーセージ作りについて詳細に書かれた本もあったのだが、オーク語が読めないバザウはその存在に気づくことはなかった。


 さらに本棚の奥地へと向かう。

 オーク族に語り継がれている英雄譚を集めた本、精霊名鑑、神名事典。

 バザウが求める本はこの辺りにありそうだ。

 もっと本を探そうと、バザウは本棚のハシゴに足をかける。小鳥が小枝にとまるように軽やかに。


(さて……俺に読めそうな本はあるかな)


 引っかき傷と押しつけ跡を組み合わせた記号がオークの文字だ。

 バザウはゴブリン語と近いオーク語の話言葉は聞き取れても、学んだことがないオーク文字を読むことはできない。


(人間の言葉で書かれている本から、いくつかピックアップして……)


「読んだげよっか?」


 エメリはヒマそうだ。ソファで足をぷらぷらさせている。


「そこまでしてもらうのは悪い」


「バザウちゃんが勉強したいように、俺は布教がしたいのよ」


 そういうとソファからはずみをつけて立ち上がり、本棚からエメリ一押しの一冊を選ぶ。

 もののついで、といった調子でアバウトな紹介も。


「そうそう。あの壁にかかってる飾りね。なんか本とかの護符。あれも神さま関係」


「護符……。絵文字のような図が書かれているな。蛇に鳥……、なんだかよくわからない図形もある」


 オークの文字とも人間族の大陸共通語でもない。絵文字のようではあるが、その絵文字は感覚的に読み解けなかった。

 砕かれた星屑亭の貼り紙なら見ただけでだいたいの意味がわかったというのに。


(絵のように見えるが、あれもれっきとした文字なんだな)


「俺もなんて書いてあるか読めないけど、あれリド神の護符だよ。こういう本をいっぱい保管する場所にお守りでペタッとはっとくの。書物の守護者で神々の記録者なんだとさ」


 リド神の護符は紙ではないようだ。羊皮紙でもない。バザウが見たところ、何かの植物の繊維を薄く伸ばして乾燥させたもののようだ。


(神々の記録者だというなら、ルネの弱点でも書き残してくれていると良いんだがな。死ぬほどネズミが嫌いだとか、スギの木の花粉でくしゃみがとまらなくなるとか、夜中によく足がつるとか……)


 エメリはソファにもたれかかるのではなく、あえて硬い椅子をひいて座った。

 近くの椅子にバザウが腰かけたのを確認すると、エメリは短い祈りをささげてから本を開く。

 バザウはシャルラードとの約束を思い出していた。奇行をはじめる素振りがあれば、すぐにやめさせようと身構える。

 エメリはバザウの真剣な態度を違う風に解釈したようだ。


「ネメスへの祈りは特に決まった作法もない。気持ちがこもっていればそれで良いんだよ」


 祈りの方法について、親切丁寧に教えてくれた。


(いつもは突拍子もない言動ばかりだが、こういう時は状況に適切に振る舞えるんだな……)


 そう思って気づいた。エメリの普段の振る舞いはようするに、わざとらしいほど過度に不適切なのだ。




 オーク語の書物にはこう記されていた。

 エヴェトラ=ネメス=フォイゾンは豊穣と繁栄を司る。大地を浄化する力を持ち、生命の循環にたずさわっている。

 その性質は極めて柔和で寛容。救済を求める命の声を聞きつけて慈悲を与える。

 飢える者の口にパンと水を運び、迷子の羊を送り届け、坂道を転げ落ちるリンゴの実を拾い上げる。


(……善良すぎてまるで都合の良い存在だな。神というのはもっと……)


 尊大で気まぐれで理不尽。これまでのバザウの実感ではそうだった。


「多くの神々は独自の価値観で命を裁き、気分次第で罰を与える。ネメスは何も裁かず罰さない」


 そんな神がいることがバザウには納得できなかった。

 だがエヴェトラについて語るエメリが本当に穏やかでいるので、疑問や反論を口に出すのはやめにしておいた。その代わりにこう尋ねる。


「この前、森で……、聞いた言葉があったな。右足は秩序、左腕は混沌……だとか」


「ああ、それは……。ネメスがゾールに封印される前のことだね。激怒した秩序のチルがネメスの右足を切断して奪い取り、それに便乗して混沌のシュシュがネメスの左腕をもぎ取った」


 どうしてそんなことが起きたのか神話に記録が残っている。


「チルとシュシュの戦争が起きている時に、ネメスが敬虔なチルの信者をちょーっとくらいたぶらかしたっていうだけでこの仕打ちだ。チルは本当に心の狭いひどい神だよねっ」


「……信者をたぶらかし……」


 バザウは、エヴェトラ=ネメス=フォイゾンが非常に好色な神であることを思い出していた。




 シャルラードの屋敷にはエヴェトラに関する資料は豊富だったが、その他の神について書かれた本は不足している。

 バザウが一番ほしいのはルネやチリルに関係する知識だ。


「ブローン、邪魔をする」


「おう。きたかバザウ」


 明かりが灯された店内。

 カウンター近くの壁には、エメリがいったようにリド神の護符がぺたりとはられている。いったいいつからそこにあるのか。略奪古書店の護符はすっかり年月の流れでくたびれていた。


「お前さんがほしがってたジャンルの本なら調達できとるよ。オーガの仕入れ屋が良い仕事をしてくれた」


 数冊の本が本棚には並べられずに箱にしまっておいてあった。

 バザウは古書の重厚さを感じながらページを開いていく。興味のある本に囲まれていると気分が高揚する。

 その本は多くの人々にその知識を分け与えてきたのだろう。丁寧に監理されてはいるものの、全体的に多少くたびれているのは否めない。

 高級感のある頑丈な革の装丁に、ものものしさのある厳重な鎖が取り付けられている。鎖は何か非常に乱暴な手段で引きちぎられたようだ。

 貴重な本の紛失や窃盗を防ぐための鎖だったのだろうが、残念ながらオーガに奪われオークに買い取られ、今はこうしてゴブリンのバザウの手の中にある。


(これは……チリルに焦点を当てた神話録か)


 一定の間隔できちっと整列している黒インクの文字は、貴婦人の衣装を飾るレースの細密さにも引けを取らない。

 コンスタントの乱雑なくせ字とは似ても似つかない。どちらも人の手で書かれた同一の言語の文字なのに。


(……堅苦しく真面目に連なった文字には……一種の威圧感があるな)


 そこに書かれてあることこそが疑いようのないこの世の事実であると主張してくる。きっちりとした文字にはそんな威圧感がある。


 バザウは神話録を読み進めた。

 今は滅びた都市で、チリルとルネが人々の心に働きかける様子が書かれている。

 双子神は途中まではお互いにバランスをとって協力していたが、心のあり方への理想の違いはじょじょに二柱を対立させる。

 チリルは人々の努力や忍耐を肯定し、ルネは堕落と快楽を蔓延させた。

 どちらが正しいかを決するために、都市の人々を二分しての戦争が起きた。どちらが勝利したのか、それは書物には記されていない。


(……自分たちだけで戦えよ。昔から周りに迷惑をかけるヤツらだな、本当に……) 


 ある文章で、バザウの視線がとまる。


 ――人間の魂と尊厳をおとしめる愚神にチルは立ち向かい、その深い罪に対する正当な罰を与えた。

 ――その神は人の意志の崇高さを追求するにあたり、あの悪しきシュシュよりも有害である。

 ――無知蒙昧の唾棄すべき愚神の名は、エヴェトラ=ネメス=フォイゾン。

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