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バザウ、君は賢すぎる  作者: 下山 辰季
第六部

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82/115

ゴブリンと黒き豊穣神の言葉

 バザウには神から授かった武器はない。

 オークのように膂力に優れた強靭な体格もなければ、エルフのように精霊術や弓に秀でているわけでもない。

 持っているのは俊敏に動く小柄なゴブリンの体と、これまでに身に着けてきた戦いの技術と判断。


 バザウは荒野を駆けた。

 エメリは動じない。焦ることなくバザウの位置を把握し、攻撃の機会をうかがっている。


(やはり堅実な姿勢は変わらないか。刈り取ることに特化したあの構えを崩さない)


 疾走の本当の目的は攪乱ではない。これは助走だ。

 バザウはエメリからの忠告を無視し大きく跳ねた。


「!!」


 後手に回って避けるのではなく、果敢に攻めるために。

 跳ぶのは悪手だと教えた後で、まさかこんなに大胆に跳躍してくるとは予想していなかったらしい。意表を突かれたエメリの反応が遅れた。

 バザウが着地したのは大鎌を持つエメリの右手。それから肘関節の内側を遠慮なく踏みつけてから、エメリの肩をしっかりとつかむ。

 鉄棒でも回るように、体を伸ばして重みをかけて。


(一度重心を一体化させてから……)


 それを崩す。エメリは後ろに引きずられて尻もちをつく。

 自分より大柄で体重がある相手を動かすのは、筋肉があっても難しい。

 腕力に任せたやり方では、ゴブリンのバザウが長身のエメリを引きずり倒すことはできなかっただろう。

 だからエメリ自身が転ぶように仕向ける。バランスを崩したところに、重力と遠心力のかかった自分の体もろとも落とす。


 技を仕掛けたバザウは先に体勢を立て直して山刀を突きつける余裕があった。




 エメリは呆然としていたが、しばらくして声を震わせてこういった。


「……ま、負け……俺は負けちゃった? 負けですかね、この状況は」


「ククッ……。どうだ? 俺もなかなかやるだろう?」


 エメリは情けない声を出してうずくまった。さながら土の中からほじくり出されたコガネムシの幼虫。


「……あああー……っ、せっかく森への同行者を見つけたのに。ダメだった……。次の相棒を見つけるところから、最初からやり直しかよ……。一回戦だけでやめときゃ良かったのに」


「なっ、次ってどういうことだ? 手合わせの勝負でお前に一勝しただけで、仕事の契約を解除する気か!?」


 バザウは困惑した。

 が、エメリも同じくらい不思議そうに顔を上げる。


「んえっ? ……まさかですが、バザウちゃん的にはまだ俺と組んでくれる気あんの?」


「……こっちはそのつもりだ。組むのをやめるだとかはまったく考えてもいなかったんだが……。どうしてお前はそう思ったんだ?」


「いや……、そりゃだってバザウさん、考えてもみてください。自分より弱い相手と組むメリットがどこにありますでしょうか……?」


 ずいぶんと弱気な声でエメリが尋ねる。

 バザウは武器を収めた。


「模擬戦の結果だけで実力のすべてが測れるわけじゃないだろう。最初の勝負で俺はお前に一撃も与えられずに転がされたしな」


 エメリはか細いため息をついた後で、小さな声でバザウに秘密を打ち明けた。


「ぶっちゃけると……あの神器は生き物を傷つけることはできないのです……。ネメスの大鎌は……植物と無生物しか斬れない。アリさん一匹殺せない、赤ちゃんが頬ずりしても安心な武器なのです……」


「……謎のキャッチコピーを作ったな。ネメスはどういう思いでその鎌をお前に託したんだ……?」


「それは多分……。俺があの方に出会った時、無垢で幼気なエメリ少年がたった一晩でだだっ広い荒れた畑を整えろっていう無理難題をクソコボルトに押し付けられて泣いていたからだね!」


「ああ……。その大鎌は本来武器じゃなくて農具なのか。納得した」


 大盾での突撃時に草原の広範囲を一瞬で切り払うという離れ業をやってのけたが、たしかにあの時エルフは無傷だった。

 いきなり現れたり、刃の大きさ以上の範囲をなぎ払った派手な特性にばかり気をとられて、刈りとられた草むらの中の潜んでいたエルフが無傷だったことをさして疑問には思わなかった。


(エメリが技量を見せつけるために、わざとああやって傷一つつけずに生かしたものかと……)


 おそらくは他のオークたちや、草むらに潜伏していたエルフ当人でさえもそう思っているのだろう。


「足を引っかけて転ばせることぐらいはできるから、絡んできたオークをすっ転ばしまくってたら、なんか……達人が超絶技巧で手加減してるって誤解されて……勝手に、闇の力を秘めたミステリアスなイケメンボイスで推定美形の仮面の大鎌使いっていわれるようになっちゃって……」


「……イケメンボイス?」


 バザウは曇りのない真剣な眼差しでエメリを見た。


「いつも鼻が詰まったみたいにくぐもっていて、本人はまだ若いつもりでいるが実際はそこそこ歳をくっていることがわかる、ひょうきんなダミ声のことを……貪欲の市場の常識ではイケメンボイスというのか?」


「黙ろうね! バザウちゃん!」


 エメリは無言でバザウの口を片手でふさいで、そのまましれっと話し続ける。


「エルフや他のオークにこれがバレると俺は簡単にブッ殺されるだろうから、ご期待どおり実力を隠した哀愁のダークヒーローの大鎌使いとして振る舞ってるよ! 神器仲間のシャルラードは俺の本当の実力をしってるけど」


 そういいながらエメリは、やれやれ……というクールぶった余裕ありげなポーズをしてみせた。

 直後にガクッとうなだれ力なくつぶやく。


「……俺、戦うのってマジで苦手なんだよね。姿を見せずに罠や奇襲でサクッと一方的に倒せるなら良いけど、正々堂々真っ向勝負とか戦う前にストレスで死ぬ自信があるわ」


「他の武器は持っていないのか?」


「神器以外の武器は、錘付きの鎖とナイフ。鎖は便利だよー。転んでる敵の脳天に振り落してトドメさすのに使うこともあるかな。でも素早く動いてる手練れの敵をバシッと鎖だけで仕留めるほどの腕前はございません……。神器とかじゃない普通の大鎌も扱えると思うけど、必要な時だけ自由に出し入れできないからスカウト任務とは相性悪いよー」


 エメリが使っているナイフを見せてもらった。

 良い品で手入れもされている。ただ刃がキレイすぎる。あまり実戦で使われた形跡がない。


「……ふむ」


 エメリはポケットから小ビンを取り出してカラカラと振った。中身は鋭く尖った何かの牙だ。


「お腹周りの肉が裕福なスポンサーさまが命にかかわる非常時の護身用に持たせてくれたものです。これ使い切りの一ビンだけでお家が買えちゃうお値段する」


 手袋をはめた手の中でもてあそばれる小ビンは、カラコロと乾いた悲しい音を立てる。


「ダサい話だけどさ、俺は他のオークみたいに強くはないんだよ。お高い道具を色々駆使してどうにかこうにか……他のまっとうなオークたちの強さの基準にようやく届くか届かないか、ってくらい」


「……禁足の森にいくのは戦いが目的ではないとお前は俺に説明したではないか。戦えるオークは大勢いるが……あの森に入って生きて戻ってこられるのは……エメリ、お前にしかできないことなんだろう? もっと自分に誇りを持て」


 エメリは顔を上げた。

 いきなり震える手を伸ばしてきたかと思えば、苦しみのうめき声をあげる。


「……マジメに励ましたつもりなんだが、お前は何をしてるんだ?」


「哀れな死霊のマネでございます、バザウさま。生ける屍は癒しの術で崩壊しちゃう! すさんだエメリお兄さんのダーティダークハートは、優しい言葉が猛毒になっちゃう!」


 亡者エメリは自分の心臓をかきむしるマネをすると、ギクシャクした動きで指が一本だけ立てた。チッチッチ、とそれを振る。


「一つ訂正しておくと、森から生還できるのは俺だけしか、ってことはない」


「……?」


 バザウは虚を突かれたように瞬きした。


「俺だけじゃなくて、危険な狂気の沙汰にお付き合いいただいた奇特な同行者も無事に戻ってこられまーす! ……約束するよ。俺とネメスの名にかけて」


 金と銀、二連の黒い腕輪をつけた左手でエメリは指をピッと二本に増やしてピースしてみせた。


「ククッ。それは頼もしい」


 いつもの調子を取り戻したエメリと連れ立って、カスラーのいる砕かれた星屑亭へと帰っていく。




「明日はいよいよ禁足の森に遠足にいきまーす。生きて帰ってくるまでが遠足ですよー。エメリ先生とのお約束です」


 危険な禁足の森にあえて潜入するのは情報のためだ。シャルラードが探しているのはネメス復活の手がかり。

 砕かれた星屑亭の一階でバザウはエメリと任務の打ち合わせをする。


「森に生息しているフェアリーやエルフに加担する精霊に気づかれずに……ってのは、ぶっちゃけ無理でーす! 俺らには姿が見えない精霊に、虫並みにうじゃうじいるフェアリーの目。それらを全部かいくぐるのは不可能っ、絶望的っ。なんということでしょうっ、ネメス復活の悲願はここで断たれてしまうのか……!?」


 エメリは大げさに床に倒れ伏した後、ガバッと顔を上げた。


「でーすーがー! 対策はちゃんとあります」


(……この鬱陶しいノリにだんだん慣れてくる自分が嫌だな……)


 エメリは服の内ポケットから黒くくすんだ小ぶりの宝石を取り出して、バザウに手渡す。

 いかめしい金属のパーツで固定されていて、そのありさまは石の拘束台といったところだ。


「羽振りの良いスポンサーさまからのご支援だ。人間の魔法使いの道具を呪詛妖精アンシーリーの技術者連盟がさらに使い勝手良く改造したものだよ」


 呪詛妖精アンシーリー。オーク、トロール、ゴブリン、ダークエルフなど、一般的に人間族に対して有害な妖精族をさす言葉だ。

 もともとは人間側が使う言葉だったが、複数の種族を一度で表現できる便利な呼称としてオークやダークエルフの間でも広まっている。

 人間族に対して善良な妖精は祝福妖精シーリーと呼ばれるが、そんなものは滅多にいない。

 エルフやドワーフは状況によっては人間との共存を許すが、いついかなる時も人に対して友好的かと問われればそうではない。


 魔法使いは精霊を自分の意のままに使役するため、精霊を強制的に宝石に封じこめて杖や指輪や首飾りにして身に着ける。

 精霊は自然の力の化身であり、自然の神秘をたたえた場所に好んで宿る性質がある。たとえばすんだ泉、山の頂、秘密めいた入江、古木のウロ、そして色とりどりの宝石にも。

 魅力的な宝石に精霊が宿った時に、そこから二度と出られないように魔法使いは術をほどこす。

 そうやって捕らえた精霊の力を自分の望むように引き出し制御する技術を学ぶのが、魔法使いの訓練だ。


 魔法使いは精霊を道具化してコントロールし、精霊使いは自由に行動する精霊とコミュニケーションをとる。どちらも誰にでもなれるものではなく、本人の素養と努力が必要となる。

 シャルラードが用意した改良式の道具は、精霊を封じた石と特定の命令を刻んだ金属でできている。

 一つの決まった指示しか出せないものの、これがあれば誰でも簡単に精霊の力を操れる。使用者が考えねばならないことは効果発動のタイミングくらいだ。


「その魔技型マギケに封じられているのは……なんだったかな? 影の精霊か夜の精霊とかそんなだった気がする。効力と使い方ならバッチリ覚えてるから問題ないよ!」


 効果は隠蔽。

 他の精霊に対してはとても効果的で、禁足の森のエルフと親しい風や樹木の精霊に感知されるのを妨害してくれる。

 生き物の場合は使用者への警戒度で効き具合が左右される。使用者に最初から無関心な生き物であれば、視界に入っても使用者の存在を特に気に留めなくなる。


「姿が見えてないわけじゃないんだ。存在に注意を払われなくなるとか、そこにいても気にされなくなるって感じだよ。極端に影の薄くなる状態とでも思っといて。もちろん相手にちょっかい出したら効き目は切れるよ」


「嫌いな相手と顔を合わせなくてはならない時にぜひほしいな」


「いやー、ダメだったね! 魔技型マギケを発動させて貪欲の市場をお散歩する実験をしてみたけど、俺のこと嫌ってるオークはすぐ気づいたよ」


 もともと使用者に関心を持っている生き物には効果はないか、極めて微弱なものになる。

 森の侵入者を血眼で探しているエルフには効き目はないだろう。


「隠蔽といっても、あくまでも補助的なものだからね。精霊とフェアリーはやり過ごせるけど、エルフに見つかったらアウトです」


「……わかってはいたが危険な仕事だな。あてもなく情報を探すというのも……」


 バザウはひらめいた。


「エルフを生け捕りにすれば、ほしい情報が得られるんじゃないか?」


 エメリはチッチと指を揺らす。


「シャルラードはコボルトの優秀な拷問士を雇ったけど、期待したような成果は上がらなかった」


「……ああ、そうか……なるほど」


 屈託のないキアンコの笑顔が脳裏にパッと浮かんですぐにフェードアウトする。生け捕り案は却下された。

 手袋の上からつけている漆黒の腕輪に丁寧に触れながらエメリはいった。


「あの森に入って生きて戻ってくるだけでも充分意味のあることなんだよ」


 エメリは背を丸くかがめてテーブルに両手で頬杖をついた。

 表情のないはずの仮面が、どこかうっとりと遠い夢を見ている。


「俺は禁足の森にいくのが本当に……、本当に楽しみなんだ。エルフどもは邪魔だけどあの森は好きだよ。俺に神を感じさせてくれる」


「……」


 神について口にする時のエメリはとても遠くにいるように思えてくる。

 今バザウの目の前に座っている肉体はただの入れ物にすぎず、エメリの魂は地の果てにある。そんな錯覚さえ引き起こす。




 翌日、夜明け前にバザウとエメリは貪欲の市場を出発した。

 じつに静かなものだ。大盾に乗って大勢で押しかけた時のお祭り騒ぎとはまったく違う。


「早起きの眠気に容赦なく襲いかかる寒さ。しかし俺たちは二度寝の誘惑に打ち勝った! イエーイ!!」


「朝からムダに元気だな……」


「冷ややかな目をしないでください、バザウさん。こうやって無理やりにでもテンション上げてないと、エメリお兄さんはやっていけないんですわ」




 草原の先に禁足の森が見えてきたところでエメリがいった。


「んじゃ、これから先はお口にチャックで」


 禁足の森の樹木は、幹や枝から赤くぬめった粘液をしたたらせていた。木々が流した血の涙。

 本物の霧が立ち込める合間に、霧藻とも呼ばれるサルオガセが奇怪な垂れ幕を作る。

 大地にぽっかり開いた傷口があると思えば、血肉の色をしたチャワンタケの仲間の群生。

 葉や樹皮はところどころカビに侵食されて病んでいる。赤や青や白や黒が、森を毒々しく彩る。


 森一帯に神の呪いが降りかかったかのようなこのありさまは、菌類、地衣類、粘菌などが異常に大量発生しているためだ。

 この地に封印されている神の一柱、エルフが崇めるニジュ=ゾール=ミアズマは菌類の神であり、伝承によれば妖精族の守護神にして始祖だともいわれている。

 柔らかなキノコは少しの衝撃でも崩れやすいが、前をいくエメリは移動の痕跡を最小限にとどめている。


(新しいエルフの足跡は……ない、な)


 だからといって、少しも油断はできなかったが。




 ある地点でエメリが立ち止まりバザウを振り返る。

 エメリは遠くを見る仕草をした後、その手をバザウに向けた。

 彼らしい口調に訳せば、見張りよろ、といったところだろうか。

 バザウは頷いた。禁足の森でエメリが作業に集中する際の警護。それがバザウの役割だ。


 エメリの手にネメスの大鎌が一瞬のうちに出現する。

 それと同時にバザウの手首にぞっとする違和感。大鎌の出現に反応したのか、市場に入る時につけた腕輪がぶくっと膨張して震えている。

 本能的に振り払いたくなるが不快感に耐えた。


(うあ……っ、腕輪がびちびちしてる……。森の外でエメリが鎌を出した時はこうはならなかったぞ!)


 エメリの持つ大鎌もまた変貌を遂げていた。それはもはや鎌ではなく、細長くのたうつ紐の群体。からまり、ほどけて、キノコの上にぱたっと落下。

 そして黒いオパールの輝きを持つミミズの群れへと、大鎌は少しずつほどけて変わっていく。どのミミズもまばゆい金の首輪をつけている。

 ぬめりを帯びた虫の肌がもつれ合い、生き物の体内を思わせる湿った音が奏でられる。

 こんな状況でもエメリはあくまでも平然としていた。


(……違う。エメリは……)


 仮面でその表情は見えない。

 だが、仕草に息遣いに、思いは表れる。

 エメリは隠しきれない歓喜と興奮を全身から発散していた。


 うごめくミミズのぺたぺたという水音が、人の唇や舌が立てる音に似てきたかと思えば、ぎょっとするほど唐突に、それは言語となってバザウの耳と頭に届いた。


「種子の発芽には水と酸素と温度が重要です」


 るるるるるると虫たちゆれて。


「ジャガイモの芽は人体に有害ですが、サツマイモの芽は食べても平気です。しかし発芽するとイモ部分の風味が落ちてしまいます」


 言葉としては意味がつうじるが、状況は一切無視されている。

 こちらの存在を認識できているのかはわからない。

 神器から変化したこのミミズの群れは、おそらくネメスと極めて近い眷属かあるいは封印を免れた神の一部分だと思われる。


(……これが……こんな壊れかけの言葉で語りかけてくるのがエヴェトラ=ネメス=フォイゾン……。オークの崇める神だというのか……)


 エメリは祈りのために精神を集中している。

 樹上から赤い粘菌がしたたり落ちてきてもエメリは一向に動じない。

 普段は優秀なスカウトが、今は敵地の中でこれほど無防備な姿をさらしている。

 異様な神に少しばかり心をかき乱されたが、バザウは敵襲の見張りを続けた。


「私の右足は秩序の子に。私の左腕は混沌の子に。頭と胴はこの森に。こぼれた血潮と肉片はあまねく深き地に還る」


 黒くうごめく神の言葉は一方的なものであったが、じょじょに市場のオークたちが求める情報に近づいていく。


「長い苦悶の時に終止符を。封印を解いてください。私たちを包んでいるのは白い網。この森にある最も古く、最も巨大で、最も儚く、もっとも……うーん、三番目ぐらいに美味しいもの……。明日の天気は早朝に小雨がぱらつくものの午後にはすっきりとした青空が広がるでしょう。モロヘイヤスープの作り方は……」


 もうこれ以上は有益な情報は出てきそうにない。


(……ポンコツ神)


 その時バザウは、そう遠くないところにエルフの気配を感じ取った。

 女のエルフ二人組だ。手にしているのはカゴ。狩猟採取用の小さな弓と石ナイフを携えてはいるが、おそらく巡回の戦士ではなく非戦闘員だ。森の中で食料を調達していたところなのだろう。

 エルフたちは暴れるフェアリーの翅をむしるのに夢中で、まだこちらに気づいてはいない。


 バザウは陶酔状態のエメリの腕をぐいと引いた。

 祈祷の集中が解けた。彼はすぐに熱心な信者から優秀なスカウトへと転じる。

 うごめいていた無数のミミズの群れは一山の黒土へと変わった。


(どうする? このまま撤収するか? それとも……戦士を呼ばれる前に始末しておいた方が安全か?)


 視線と仕草でそう尋ねる。

 エメリは一秒足らずで状況を飲みこんで判断を下した。

 手袋をしたエメリの手がパパッと小気味良い速さで動く。退却。ハンドサインはそう示していた。




 息を殺して慎重に歩みを進めた。


「……はーっ」


 完全に森を抜けて安全地帯まで生還すると、バザウは安堵のため息をつく。

 体の中にたまった諸々の恐怖や不安を息といっしょに吐き出す。


「おつーん」


 エメリは特に疲れは見せずに、屈伸しながら両手でカニさんダブルピースをしている。


「……危険を冒して禁足の森に入るのは、あれが目的だったんだな」


「まーね、そーね。……あの森で俺は奇跡を見られる」


 禁足の森の中では神器を介して古代の豊穣神が声を届ける。

 エヴェトラの意識は極めて朦朧とした状態で、交信するには極度の精神集中が必要だ。


「今日は声をよく聞けた。バザウちゃんが見張りについてくれたおかげだわ。あんがとね」


 満ち足りた声でエメリがつぶやいた。

 彼が全身でひたっている信仰の喜びは、バザウには理解の及ばないものだった。

 ルネは娯楽で人の生き死にをもてあそび、チリルは勝手なこだわりですべての心を改竄しようとしている。

 シアは強い力を振りかざす傲慢で暴君的な面があり、エヴェトラは……現状ではまともに話も成立させられないポンコツだ。

 ニジュがどんな神かまだわからないが、他の神々を見る限りこれもロクでもない者に違いない。


「一つ聞きたことがあるんだが……禁足の森の封印を解くことで、どんなことが起きるんだ?」


「……シャルラードは、ゾールを討ち滅ぼしネメスを解放することで領土をさらに豊かにできるって、牧場暮らしのオークたちにはそう説明しているみたいだね」


「そう……。お前自身の考えは?」


「何が起きるかには俺はそもそも興味がない」


「なんだと?」


 予期せぬ返答に思わず聞き返した。


「利益は何も求めていない。ネメスが封印を解くことを望んでいるから、俺はそれに協力する。落とし穴から助けてって声が聞こえてきた時に、ソイツを穴から出したらどんなことが起こるか、なんていちいち考えたりしないじゃん?」


「それはわかるが……」


 その穴の中にいるのはドジなゴブリンでもオークの子供でもなく、底しれぬ力を秘めた神なのだ。




 森から帰ったバザウは装備を入念に確認した。

 砕かれた星屑亭の大部屋で武装を解いて着替える。


「……意外だ」


 革のベルトなど、装備には動物由来のパーツも使われている。そういった素材がカビや菌糸で劣化した兆候は一切見つからない。エメリの仮面も革製だがこちらも特に異常はないようだった。

 一回森に入るごとに買い替えるか修理に出すことになるかと覚悟していたバザウだが、この装備はまだ充分にもちそうだ。


「あの森に入った生き物は半日で死ぬというのに、すでに死んだものはボロボロになったりしないんだな」


 体や衣服に付着した胞子が森の外で猛威を振るうこともない。

 まるで森へ生きた者が足を踏み入れることだけを徹底的に排除しているかのように。

 それから、エメリの大鎌から出現したエヴェトラ=ネメス=フォイゾンの言葉を思い返す。


(右足は秩序の子に、左腕は混沌の子に……か)


 いったいあの一本のにょろっとした体のどこに手足があるのだというツッコミは置いておくとして、やはり引っかかるのは秩序と混沌の子だ。


(チリルとルネ……のことだよな……。アイツらはエヴェトラとも因縁があるのか……?)


 謎は降り積もる。疑問は尽きない。

 禁足の森の方角から強い風が吹いて、ガラスの代わりに羊皮紙と板がはられた宿屋の貧相な窓をゆすっていった。

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